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第10部:オプス・デイの思想とその方向(上)    (2006年6月)

[『ダ・ヴィンチ・コード』とオプス・デイ] 

 2006年5月に映画化された『ダ・ヴンチ・コード』によって、それまで日本でほとんど知る人のいなかったオプス・デイがいっぺんに有名になってしまったようだ。この作品の中で教団の実名が使用され、血みどろの修行を信者に課す薄気味の悪い超保守的な秘密教団、キリストの秘密を守るために暗殺をも平然とやってのける陰謀組織、というイメージが強く打ち出された。中にはこの教団が猛烈な抗議と反論はもとより訴訟すら辞さないのではないか、と考えた人もいただろう。しかし実際にはオプス・デイによる積極的な動きは全くといって良いほど無かった。

 彼らは「大人の対応」に終始した。ソニー映画に対する「フィクションを明確にするテロップ」の申し入れと機関紙の「反対声明」で不快感の表明は行ったが、他のキリスト教団のようなボイコット運動や街頭活動による激しい抗議や批判は一切行わなかった。奇妙なほどに冷静な対応ぶりである。

 それどころか教団の広報担当者はローマ教会の雑誌Zenitを通して「我々はイエス・キリストについて話す絶好の機会を与えられている」と語り、逆にこの映画を大いに活用すべし、という考えを明らかにした。そして「時の寵児」となっている教団の立場を次のように語った。(オプス・デイ日本語HP『聖性の誉れ』より引用。)

 《ここ数ヶ月というもの、アメリカ合衆国だけで、100万人以上の人が私たちのホームページ(http://www.opusdei.org )にアクセスしましたが、その多くは「ダ・ヴィンチ・コード」のおかげでしょう。つまり、間接的に私たちの宣伝をする結果になっているのです。》

 もちろんカトリック世界に君臨する実力をすでに身に付けているという余裕があるだろう。オプス・デイは何よりも中〜上流の支配的な階層に所属する者達から成り立っており、下々の一部があの物語の通りのイメージを持ったとしても痛くも痒くもなかろう。そう思う人間には勝手に誤解させておけばよいのである。

 例えばスパイ映画でCIAの活動が脚色されて描かれているからといってCIAが抗議したなどということはない。「どうせフィクションだから」と涼しい顔をしておいた方が本当に秘密にしたい部分に触れられずに済む。実際にあの作品では、確かに教団の名前だけは「Opus Dei」だが他のことにほとんど事実はない。あの小説と映画で、オプス・デイを「米国で生まれてニューヨークに本部がある教団」「復古主義的で原理主義的な超保守教団」などと思い込んだ人も多いだろうが、ほんの少しでも調べてみるとこれらが単なる作り話であることが明白となる。

 今後は、誰かがスペインや中南米でのオプス・デイの悪業を聞いたとしても、「あの映画と同じくフィクションだ」と言えば済む。その意味でもあの作品はむしろオプス・デイにとっては実にありがたかったのではないか。

 それでは、キリストは十字架では死なずにマグダラのマリアと結婚して子供までもうけたというこの小説(映画)の内容についてはどうなのだろうか。

 本来のキリスト教の教義にとって「キリストの十字架上の死」は譲ることの出来ない中心点である。その意味を理解するには、その前提として、人間の救い難さ、つまり「原罪」についての認識が必要となる。例えば新約聖書「ローマ人への手紙」で聖パウロは絶望的なまでに高められた罪の意識を告白する。

 《わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪の下にあることを私たちはすでに指摘した。(ローマ人への手紙、3-9〜12)》

 《わたしの内に、すなわち、わたしの肉の中には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意思は、自分にはあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。(同書、7-18,19) 》

 「原罪」というと旧約聖書のアダムとイブの話が思い浮かぶが、しかしこの聖パウロの言葉はそのような伝説上の話ではなく、いま現在生きている自分の身に染み込んで拭い去ることのできない「原罪」についてである。そこには自分自身に対する仮借の無い凝視がある。『欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている』という「罪人としての自分」に対する絶望にまで行き着いた者が求めうる唯一の救いが、イエス・キリストの「十字架上の死による罪のあがない」であった。

 本来のキリスト教は決して「愛の宗教」ではない。自らを絶望の淵に追い込みその絶望にすら見放された末にたどり着いた仏陀の悟りにも通じるところがあるかもしれない。聖パウロの「イエスの十字架上の死」に対する絶対的な信頼は、この「自らの内なる罪」への徹底したこだわり無しには到達し得ないものなのだろう。本来のキリスト教とは「罪の宗教」なのだ。

 したがってキリストの「十字架上の死による罪のあがない」はキリスト教諸派にとっては絶対的ドグマ、これを否定されたなら「救済そのもの」が否定されるという、一歩たりとも譲ることのできない大原則であるはずだ。「十字架上の死」の否定を描いた「ダ・ヴンチ・コード」に対するキリスト教各宗派による激しい抗議活動やボイコット運動は当然といえる。この小説と映画が、2006年1月から2月にかけて世界を震撼させた「モハメッド冒涜マンガ」に続く、シオニスト・ハリウッドによる「文明間の戦争」の仕掛け、キリスト教への冒涜であったことは明白である。

 それにしても、キリスト教の「本山」を自認するローマ教会の中核を担うオプス・デイが、この冒涜に対して、どうしてあそこまで「冷静な対応」ができたのだろうか。

[「人は仕事のために生まれた」]

 同じ系統の一神教でも、たとえばイスラム教であれば「救世主」を想定しない。イエス・キリストはイスラム教にとっては「大預言者」の一人である。しかし「預言者」が結婚して子供をもうけることは、イスラム教では当たり前だ。ユダヤ教にしても「メシヤ」は想定するがイエスがそれではない。またユダヤ教の「預言者」が家庭を作ることに何の不自然さも無い。しかしながらもちろん、敬虔なイスラム教徒やユダヤ教徒がこの「ダ・ヴィンチ・コード」のような宗教冒涜に接するならば、キリスト教徒の激しい怒りまではいかなくても、やはり相応の不快感を表明することだろう。

 私の目から見るとオプス・デイの姿勢はイスラム教徒やユダヤ教徒のそれ以上とは感じられない。この教団の「キリスト教」が他のキリスト教諸宗派とは異なった基盤を持っているのだろうか。そうであればあの対応の仕方にも納得がいく。

 もちろんオプス・デイでも一応キリスト教である以上「原罪」「イエスの十字架上の死」について語ってはいる。しかし圧倒的に強いイントネーションが置かれているものは「労働(仕事)の聖化」「良心と信教の自由」である。第2バチカン公会議以前のカトリックで偏執狂的なまでに強調された「原罪」「十字架」は、ほとんど意識されないほど遠くに追いやられているようだ。オプス・デイ会員の活動は等しく「使徒職」と呼ばれ、教団のHPによるとその目的は『教会の福音宣教の使命に貢献するため、生活の日々の状況、特に仕事の聖化を通じて、信仰に百パーセント合致する生き方をするよう、あらゆるキリスト者を励ますこと』とされる。

 創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーは旧約聖書の一節を「人間は仕事のため創造された」と解釈した。前回(第9部 )でも申し上げたように、彼がユダヤ系スペイン人であったことに間違いはあるまい。マラノとしての蔑視を受けざるを得なかったうえに家族の生活苦を身に染みて感じていた彼が、伝統的なキリスト教の持つ、病的なまでに「罪」を追及しその唯一の救済として「十字架」を掲げるという絶対的ドグマに対して、強い違和感と不信感を覚えていたとしても何の不思議も無い。この世での人間の活動に最大の意義を見出すことは彼にとっては決して不自然なことではなかったはずである。彼は次のように語る。

 《われわれの超自然的生活は、労働に背を向けることによって確立できると考えている人は、真の召し出しを理解していないものである。われわれにとっては、労働は聖性追求の特別の手段であり、われわれの内的生活―――社会の中における観想生活―――は、われわれ各人の外的な労働の生活のなかに、その源泉と推進力がある。》

 2代目の教団代表者アルバロ・デ・ポルティーリョも次のように語る。

 《エスクリバー・デ・バラゲル師は、人間の仕事とは聖化される現実、聖化すべき現実、聖化する力をもった現実であると、常に繰り返してきました。「オプス・デイ創立当初から絶えず教えてきたことですが、キリスト者は知的労働であれ肉体労働であれ、すべてのまっとうな仕事をできるだけ完全にやり遂げなければなりません。・・・・。こうして仕事は恩寵のレベルに高められ、聖化され、神のみわざ、神の御働きとなるのです」。》

 カトリック教会の中でもドミニコ会のように聖性追及の中で働くことを重視した教団もあったし、他の教団が「働くこと」を無視しているわけではなかろう。しかしオプス・デイはこれを『聖性追求の特別の手段』『聖化される現実、聖化すべき現実、聖化する力をもった現実』とまで断じる。まるで十字架上のイエスの代りに「仕事」がやって来たような雰囲気である。

 もちろんこのような労働観を軽々しくマックス・ウェーバー流に解釈してはなるまいが、必然的に次のような事態となろう。米国マイアミで発行されるヌエボ・ヘラルド紙の2002年11月11日の記事で、ヘラルド・レイェスは次のように報告する。

 《コロンビアのオプス・デイ会員であるセサル・マウリシオ・ベラスケスは、世界中にオプス・デイが急速に広まったことに関して「実を言うとオプス・デイは今の時代にあっているのです」と説明した。「なぜかというと現代の人間は実際に大きな虚しさを感じており、[オプス・デイを通して]自分の存在感を与えられることによりそれが癒されるのです。」ボゴタにあるサバナ大学新聞学部長であるベラスケスはこう主張した。エスクリバーの哲学によると、人間は日常生活のすべての活動に聖化の道を求めなければならない。 「ある人はウォール・ストリートでの仕事を聖なるものにすることができます。」ベラスケスはこのように付け加えた。》

 オプス・デイの会員の多くが欧州と南北米大陸の中〜上流階級の有能な人士に集中している理由もうなずける。彼らは神による祝福を身いっぱいに浴びながら、ウォール・ストリートでラテン・アメリカやアフリカの経済を破壊する仕事でも、大規模国際企業の重役室で中南米の貧乏人からなけなしの富を絞り上げて大富豪をますます肥え太らす画策をしていても、テレビ局でプロパガンダを撒き散らしてクーデターを後押ししても、それを完璧に行うことによって、『自らを聖なるものとして完成させている』のだ!

 「自分は神聖なことを行っている」という確信は人間のエネルギーを数倍にさせるものだろう。この「宗産複合体」は、南北アメリカでネオ・リベラル経済を推し進め中南米経済を次々と破綻に追いやった勢力の重要な一端を担っている。この教団が「聖なるマフィア」と呼ばれるゆえんである。

[「良心と信教の自由」]

 「仕事の聖化」の他に、オプス・デイの非常に大きな特徴として「多様性の受容」、特に「他宗派、他宗教の受容」が挙げられるであろう。第2バチカン公会議よりもはるかに以前から、エスクリバー・デ・バラゲーは他の宗派や宗教との融合を目指していたのである。彼は次のように語った。

 《私はヨハネ23世聖下のまことに優しく父のような魅力に触れてこのように申し上げました。「教皇様、オプス・デイではカトリックであろうがなかろうが、常にすべての人のために場所があります。私は教皇様からエキュメニズムを学んだのではありません」。教皇様は感動して微笑んでおいででした。すでに1950年に聖座はオプス・デイがカトリックでない人やキリスト者でない人々を協力者として受け入れることを認めたのをご存じだったからです。》

 ヨハネス23世は、カトリックにフランス革命の理想を移植するシヨン運動に心酔し、同時にシオニズムとイスラエル建国を積極的に支援した人物である。この二人にとって、「十字架のドグマ」に固執し他の宗派や宗教を頑として受け入れようとしない「伝統的カトリック」こそが『共通の敵』だったのである。

 教団のHPによると、2006年現在、オプス・デイには世界80カ国におよそ8万4千人の会員がおり男女はおよそ同数である。会員の中に階級は存在しないがいくつかの集団に分かれている。会員の70%が「スーパー・ヌメラリー」と呼ばれる信徒で、仕事と家庭を持ち通常の社会生活を送る。また仕事を持ってはいるが独身生活を守る「アソシエイト」、そして教団維持と運営の専門の作業を行う「ヌメラリー」という人々がいる。その「アソシエイト」と「ヌメラリー」の一部が僧職(司祭)を務め、現在およそ1800名と言われている。この教団は基本的に世俗集団である。

 そしてこの教団の大きな特徴として「協力者」と呼ばれる人々がいる。『オプス・デイには属していないけれどもその活動に賛同し、属人区の信者と共に教育や福祉、文化的社会的事業を実現するために援助の手を差し伸べる人々』とされ、カトリック以外の宗派、非キリスト教徒、中には無宗教の人もいる、ということである。このようにこの教団は非常に柔軟な広がりを持っているのだが、こういった性格上、「協力者」の人数や構成員は厳密には突き止めようがない。

 たとえばスペイン前首相のアスナール夫妻は「正式な会員ではないが熱心なシンパ」つまりこの「協力者」に属している。フランスのベルナデット・シラク大統領夫人も同様であるとされ、イタリアのベルルスコーニ前首相も「極めて親しい筋」と言われる。シェリー・ブレアー英国首相夫人にもこの教団に「近い筋」という評判が高い。ただどこまでが「協力者」なのかは、外部からは判断が非常に困難である。教団の思想や方針に対して実際にとる言動、会員と判明している人々との人的・経済的・政治的なつながりなどによって見分けるしかない。

 それはともかく、オプス・デイの活動が他の宗派から他宗教の信者、無宗教者、無神論者までをも柔軟な形で巻き込むものである点は非常に重要だ。それは、「原罪と十字架のドグマ」をほとんど感じないほどに水で薄め「仕事を通しての聖性追及」という特に仕事に生きがいを感じる現代の中産階級に幅広く受け入れられやすい指針を打ち出したことのほかに、もう一つの大きな教義上の柱によって可能となる。それが「良心と信教の自由」である。

 これが第2バチカン公会議における最大のテーマの一つであったことは言うまでもないが、単に「社会の実情にあわせたカトリックの修正」という以上に、「宗教そのものの新たな枠組み」を目指すものであったはずだ。

 伝統的なカトリックでは「神の前の平等」は要するに「等しく原罪を背負っている」ということであり、「十字架上のキリスト」の意味を認めない「良心」などは存在しなかったのである。ここから離れた「良心」を認めるとすれば、必然的に「原罪と十字架のドグマ」を目に見えない場所に追いやる以外に無い。そしてこの点は、唯物論的感覚と現世主義、自由と平等を自明の理として受け入れている現代の西側世界の人間にとっては、非常に受け入れやすいことであるに違いない。

 ここに第2バチカン公会議とオプス・デイの「革命性」があるのだろう。私が映画「ダ・ヴィンチ・コード」を『基本的にこの教団の思想を傷つけるものではなかった』と考えるのは以上に述べたことからである。今さら「十字架上の死」を否定されても、この教団にとってほとんど何の意味も無いのだ。

 逆に、オプス・デイ自身が言うように、今までこの教団に関心を持たなかった人々が彼らのHPを訪れて「カトリックにこんな斬新な教団があったのか」と驚く人が増えるならば、彼らとしてはまさに笑いが止まるまい。

[この道はどこにたどり着くのか?:第9部のまとめと次回予告]

 オプス・デイを、その政治的な人脈や性道徳などでの「保守性」をもとにして『保守的カトリック』と呼ぶとすれば、それは根本的な誤りである。彼らは保守的どころか本質的な意味で「革命的」なのだ。それ以前のカトリックから見るともはやキリスト教と呼べるものですらあるまい。事実、伝統固執派のカトリック信徒はこの教団をそのように見ているようである。

 だとすれば、オプス・デイは何に向かって進んでいるのだろうか。その会員にとって聖書と並び、あるいはそれ以上に読まれているのがエスクリバーの「道(スペイン語原題El Camino)」である。この道はどこにたどり着くというのか。

 このシリーズでは、今までずっとこの教団の過去から現在までの姿を追ってきた。次回はその未来の姿を予想してみたい。それが世界全体の未来と危機的に深く関わっていると考えるからである。
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第11部:オプス・デイの思想とその方向(中)    (2006年10月)

[危機に瀕するイスラエルと米国]

 9・11事変以後、米国とイスラエルはほとんど「自滅的」とすら思える稚拙な軍事行動を繰り返している。奇妙なのはシオニスト=ユダヤ勢力に牛耳られるマス・メディアの動きである。この両国に対してイスラム教徒のみならず世界中の非難を呼び起こすに十分な映像や情報を、実に適切なタイミングで世界に向かって披露しているのだ。イラク戦争の開戦理由のデタラメぶり、グアンタナモやアブグライブの収容所での拷問と虐待、イラクやパレスチナ住民に対する残虐行為と無差別殺戮、等々。

 現在その矛先は次第にイスラエルの存在に向けて照準を合わせつつあるように思える。2006年6月、極めて疑惑の多い「兵士誘拐事件」をきっかけに突然開始されたガザおよびレバノンへの野蛮極まりない攻撃は世界に多くの「反イスラエル」の潮流を作り出しつつある。化学兵器やクラスター爆弾、劣化ウラン弾の使用以外にも、人体を内側から破壊する新兵器が注目を浴び、白燐弾の使用をイスラエル自らが認めるに至って世界中の憤激を引き起こしている。その上にイスラエルはレバノン沖のドイツ軍艦船を不明確な理由で砲撃したと伝えられる。
《2006年夏のレバノンへの残虐な攻撃についてはこちらの記事を参照のこと。》

 これらのイスラエルの行動により、以前ならこの「ホロコースト被害者」に遠慮して発言を控えてきた論者や報道機関、左翼関係者までもが、イスラエルとシオニストに対する告発や疑問を表明するようになっている。

 2005年秋のアーマディネジャッド・イラン大統領による「イスラエル抹消」「ホロコースト否定」発言に始まり、2006年3月には米国保守派の論客ジョン・ミアシャイマーとスティーファン・ウォルトは米国「イスラエル・ロビー」に対する異例の告発を行った。一方で9・11事変の裏側にネオコン=シオニスト勢力の影を見て取る人々の数は世界中に着実に増えている。

 国内でも、レバノン侵攻の失敗を巡る政府への不信に加えカッアブ大統領のセックス・スキャンダル、オルメルト首相夫人の住宅売却スキャンダルが重なって政治中枢部が大揺れとなり、ついには大手新聞ハアレツ紙が『存在の危機に瀕する国家』(2006年9月3日記事)とまで書き立てるに至る。ハアレツは欧州の新聞が「イスラエルの消滅」を合理的な「作業仮説」としていることを紹介しながら、現在の危機的な状況に対して警告を発しているのだ。

 またイラン大統領の他に、チャベス・ベネズエラ大統領はイスラエル人の入国を事実上禁止する処置を取った。今後もしこの国が新たな戦争を起こし今まで以上の虐殺と残忍な攻撃を繰り返すようなら、もはや「ホロコースト」を用いての脅迫が次第に通用しなくなる可能性が高いと言えるだろう。

 一方の米国では、9・11後に作られた『愛国法』に加えて今年10月には「大統領の判断次第で、容疑者が憲法による保護を一切受けることなく不法敵性戦闘員とされ、軍に無期限拘束されることを許す」軍事法廷設置法(MCA : the Military Commissions Act)が効力を発することとなった。これによってこの国はいつでも好きなときに軍と諜報当局によるファシズム国家としてのスタートを切ることができる法的な体制を整えてしまったのだ。「自由と民主主義の米国」は断末魔の悲鳴を上げつつある。

 米国といいイスラエルといい、早々と国家としての衰退期を迎えたようだ。いわば「生きながら死臭を漂わせている」状態である。

[ローマとユダヤに支配される米国]

 ここで注目すべきは米国最高裁判事の面々であろう。どのような法案に対する違憲審査もこの最高裁判事の手に委ねられているのだから。実は9名の判事のうち5名がオプス・デイの会員あるいは近い筋の「保守的カトリック」と見なされているのだ。以下にその氏名を挙げ指名した大統領を( )内に記しておく。

 アントニン・G.スカリア(レーガン)、アンソニー・M.ケネディ(レーガン)、クラーレンス・トーマス(G.H.W.ブッシュ)、ジョン・G.ロバーツ(G.W.ブッシュ)、サミュエル・A.アリート(G.W.ブッシュ)。

 「案の定!」といったところだが、オプス・デイが1980年代からいかに米国の権力中枢に浸透していたのか一目瞭然である。国家制度の根源たる『法的判断』をその手に握られた米国はもはや彼らの思うとおりに動かされる以外にはあるまい。

 ついでに他の4名の判事を言うと、ステファン・G.ブレイヤー(クリントン)とルース・B.ギンスバーグ(クリントン)の2名はユダヤ人、デイヴィッド・H.ソウター(G.H.W.ブッシュ)が英国国教会、そしてジョン・P.スティーヴンス(フォード)だけがプロテスタントである。

 しかもこのスティーヴンスは85才を超える高齢でありじきに次の判事に入れ替わるだろう。もしそれがブッシュ政権下ならオプス・デイ系列の人材、民主党の大統領施政下であればシオニスト系ユダヤ人である可能性が高いと思える。

 確かにカトリック信徒は米国では総人口のおよそ30%、キリスト教徒のなかで39%を占める大勢力ではあるが、オプス・デイ関係者ともなるとはるかに小さな割合であろう。ましてユダヤ人は人口の2%に過ぎない。そして国の政治・法曹・経済の中枢はこのどちらかの勢力に握られているのだ。

 相も変わらず米国を「プロテスタントの国」などと考えている人々の思い違いのはなはだしさは明らかであろう。この国はローマ(オプス・デイ)とユダヤによって運営されているのである。

[バチカンはシオニストと心中する気か?]

 一方で、教皇ベネディクト16世のバチカンは見苦しいまでにイスラエルとシオニストへの擦り寄りを見せる。2005年の就任直後から「イスラム・テロ」への敵対心を顕にし、2006年1月にはイスラエルの「生存権」を主張、同年4月にオプス・デイの運営する雑誌がモハメッド風刺漫画を掲載、5月にはベネディクト16世がアウシュヴィッツを訪問し「(ユダヤ人に)許しを請う」声明を出した。

 そして9月に入り教皇は、イスラム教を暴力容認の邪悪な宗教と認識しているとも受け取れる発言をして、イスラム教徒を派手に挑発した。問題が世界中に拡大するのを見て彼は慌てて「謝罪した」のだが、事の顛末はまことに奇妙である。この発言はイスラエルがレバノンとガザへの攻撃で世界中の非難を浴びた直後だったのだ。そしてこのスッタモンダをすぐさま世界のマス・メディアが大々的に報道した。

 イスラエルや米欧のネオコン=シオニスト勢力とともにローマ教会が、イスラエルの言う「第3次世界大戦」の主役の一つとして躍り出たのである。前任者のヨハネ・パウロ2世がイスラム教徒との敵対を避けイラク戦争への反対を表明したこととは随分の違いだが、これではカトリック信徒の中でさえ「ローマ離れ」を引き起こしかねまい。

 その騒動に紛れて教皇の愛弟子で陰の実力者であるクリストフ・シェーンボルンが「知的計画による生物進化」をバチカン内で審議した。この枢機卿は2005年4月に「キリスト教徒のイスラエル支持はホロコーストの罪悪に基づくものではない」「キリスト教徒はシオニズムをユダヤ人に対する聖書の命令として承認しなければならない。」と発言している。その数ヶ月後にイラン大統領が「ホロコーストの結果をどうしてパレスチナ人が背負わねばならないのか」という正論を世界に叩きつけたのだが、バチカンのイスラエル支持はもはや「神がかり」の粋に達している。

 これでバチカンの位置付けが明らかになったわけだが、しかし米国とイスラエルが次第に腐臭を放って崩れ落ちていくとしたら、やはりバチカンもそれらと運命を共にするのだろうか。特にイスラエルの問題はバチカンにとって命取りにすらなりかねない。今後あの国が米国と共に従来以上に毒々しい憎まれ役、いわば「完成版ナチス」として悪魔の所業を世界に見せ付ける可能性が高いからである。その結果イスラエルは滅亡し米国は世界に対する相対的な支配力を失って「引きこもり」の専制国家として衰退していくだろうし、すでにそうなっても良い演出が徐々に為されつつある。そしてローマ教会もその2千年近い歴史を閉じることになるのだろうか。

[「バチカン=イスラエル以後」に備えるオプス・デイ?]

 しかしひるがえって考えてみるならば、そのようなローマ・カトリックの運命は第2バチカン公会議ですでに決定していたのかもしれない。いずれローマはエルサレムに取って代わられるのだろう。あのシヨン運動を前にしてシャルル・モラスが予言したようにである。そして前世紀の初期にピオ10世が発した次の警告がよみがえってくる。(聖ピオ10世司祭兄弟会の翻訳による)

 《そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が成り立っていけるならば)合法化された狡知と力の支配ならびに弱者および労苦するものらへの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。》

 この『世界統一宗教』の総本山がローマにある必要などどこにも無い。私は第9部 で次のように書いた。

 《2006年になってイスラエルのアシュケナジ・チーフ・ラビであるヨナ・メツガーはチベット仏教のダライ・ラマに対して、世界の宗教家の代表による「宗教の国連」をエルサレムに設立することを提案した。ダライ・ラマは即座に歓迎の意を表したのだが、この場にはイスラム聖職者、およびローマ教会と非常に親しい米国ユダヤ人協会のラビ・デイヴィッド・ロウゼンも同席していたのである。》

 ただその実現のためには巨大な障害を乗り越えなければならない。それが、実を言うとシオニズムとイスラエルなのだ。人種主義に凝り固まるシオニストとイスラエル当局がエルサレムを「世界に開放された宗教の中心」にするのに同意することは到底考えられない。2003年7月にイスラエルの元首相シモン・ペレスは、エルサレムを『世界政府の首都』とし国連事務総長を『市長』とするように提案した。しかしイスラエルは一貫してローマが加わる「国際化」に抵抗を続けているのである。

 現首相のエフッド・オルメルトは元々が排外主義的色彩の特別に強いリクード党の幹部でなのだ。そして現在の混乱の中で再びその存在感を強めつつあるベンジャミン・ネタニヤフはその最右翼として知られている。彼らがイスラエルを運営する以上そのような計画の実現を許すとも思えない。ましてホロコースト・プロパガンディストでユダヤ至上主義者のエリー・ヴィーゼルが新大統領になったら、イスラエルはエルサレムを開放するどころか、本当にアル・アクサ・モスクを破壊してソロモン神殿の再建までもやりかねないだろう。

 ここで一つの恐ろしい予感が沸き起こる。もしイスラエルが戦乱の中で崩れ落ち、中東一体が死体と瓦礫以外は見えない焼け野が原となり、その後に廃墟と化したエルサレムを再建するという名目で「新エルサレム」を建設するのであれば、そこを「世界の宗教の中心」とすることは可能だろう。そしてそれは同時に、すでに米国とイスラエルの影響から脱した国連が形作る『世界政府』の首都となる・・・。

 単なる幻覚にしては余りにも生々しい。シオニスト・ユダヤ勢力の手の内にあるはずのジャーナリズムで公然と「イスラエルの滅亡」が語られ、また「ユダヤのタブー」が様々な箇所で打ち破られつつある。その中でイスラエル自身が米国とともに悪魔的な「世界の暴力装置」としてその牙を剥こうとしている。今後この2国の暴走で地中海東岸からペルシャ湾岸にかけては壮絶な戦いと殺戮の場になっていくのかもしれない。そうなると世界中でシオニスト・ユダヤ勢力とそれに抵抗する勢力との様々な側面での戦いが繰り広げられ、次第にシオニストは追い詰められていくだろう。

 もちろんだが、米国やイスラエルといった虚構と暴力で世界を支配しようとする無法国家はやがてその化けの皮をはがされ惨めに打ち捨てられなければならない。人間は欲や無知や怯堕とともに理性とも共存している。いつまでも嘘の中で生きるわけにはいかないのだ。しかしそれが新たな虚構の始まりにつながるものかもしれないことは同時に見抜いておかねばならない。

 バチカンが『世界統一宗教』の単なる「ローマ支部」となるときが来るのなら、それは第2公会議の必然的な帰結であろう。あの会議を推進した勢力の最終目標はそこにあったはずである。そしてオプス・デイはその勢力の中心部にいたのである。とすれば彼らがすでにその準備を十分に整えていないわけはあるまい。

[「道」の行方、そして第10部のまとめと次回予告]

 前回までに申し上げたように、バチカンはナチスとシオニストの両方に手を差し伸べ、ナチス残党を南米に送り込むと同時にユダヤ=シオニストの利益に沿って第2公会議を開催した。私はオプス・デイを、バチカン中枢部がその「世俗部隊」として手塩にかけて育てた組織ではないかと疑っている。イエズス会のような僧侶中心の集団では実現不可能なことをこの教団によって実行させるためである。

 それは世界の全面支配を、つまり政治面、経済面、法曹面、宗教・思想面、軍事面、情報面における文字通りの全面支配を実現させることに他ならない。オプス・デイにはそのすべての面がそろっている。彼らは単なる宗教集団ではないのだ。バチカン中枢部にとっては、歴史の中の奇形的な一側面でしかない近代社会の政教分離の原則など、何の意味もないであろう。

 彼らにとってローマという「カトリックの牙城」はもはや手狭となった「古巣」以外の何物でもあるまい。ちょうどサナギを破って出てくる蝶のように、おそらくモスラのような怪物だが、新しい世界の新しい完璧な支配者としてその姿を現わそうとしているのではないか。バチカンはローマ帝国の延長なのだ。

 エスクリバー・デ・バラゲーの『道』はどのような世界に我々を連れて行こうとしているのか。次回はこの「聖なるマフィア」シリーズの最終回として、『世界統一宗教』の姿とその本性を探ることとしよう。
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第12部:オプス・デイの思想とその方向(下):《地上天国》への「道」      (2006年12月)

[宇宙の支配原理たるキリスト]

 大多数の日本人が持つキリスト教観はおそらく「愛の宗教」「救いの宗教」だと思う。しかしこれは外国のものを何でも善意で受け入れるおおらかな民族性による脚色であろう。あるいは教会のプロパガンダをそのままにイメージしているに過ぎまい。

 私はこのシリーズの第10部 で次のように書いた。

 《本来のキリスト教は決して「愛の宗教」ではない。自らを絶望の淵に追い込みその絶望にすら見放された末にたどり着いた仏陀の悟りにも通じるところがあるかもしれない。聖パウロの「イエスの十字架上の死」に対する絶対的な信頼は、この「自らの内なる罪」への徹底したこだわり無しには到達し得ないものなのだろう。本来のキリスト教とは「罪の宗教」なのだ。》

 しかしこれとても、真摯にその意味を突き詰めより深い信仰の世界に入ろうとする人々にとっての教義であり、社会的、政治的、経済的に実体を持つ組織宗教としての本質的な姿とは言いがたい。ローマ法王庁が信仰者に「罪の宗教」を教えながら自らその教義を遵守してきたとは到底思えない。

 南欧カタルーニャの首都バルセロナに中世キリスト教美術が集められたカタルーニャ美術館がある。その最高傑作が、国連世界遺産にも指定されるピレネー山中ブイー渓谷にある簡素なロマネスク様式の教会サン・クリメン・ダ・タウイュ(Sant Climent de Taüll)の祭壇(アプス)の内壁を飾っていたキリスト像(12世紀前半)だろう(右の写真)。バルセロナに展示されているのが本物で、現在この教会のアプスの壁には模写が飾られている。

 大勢の聖人に囲まれ「神の言葉」を捧げ持って中央に鎮座するキリストの姿は到底「愛のキリスト」でも「救いのキリスト」でもありえない。その聖座は宇宙の中心であり、威厳に満ちたその視線は祈る人々に注がれるのではなく、キッと見開いた目が虚空の彼方を激しくそして冷然と見据えている。

 これは《全宇宙の支配者》としてのキリストの姿に他ならない。これほど見事にこの宗教の本質を表現した作品は他に無いだろう。それは「愛」でも「原罪と救い」でもなく『宇宙の支配原理』だったのである。

 この点はチンケな「万世一系のスメラミコト」の貧弱な哲学しか持たぬ我が日本民族には想像すら及ばぬ点であろうと思われる。権力が唯一絶対神と手を結んだ場合、それは必然的に「この世の全てを支配する」方向を持たざるを得ない。ここに「信仰者にとっての」ではなく「支配者にとってのキリスト教」という重大な側面を見落としてはなるまい。サン・クリメン・ダ・タウイュ教会が作られたのは、ローマ法王庁に神の権威を授かったキリスト教徒の王達と貴族達によるイベリア半島のレコンキスタ(再征服)が最も激しかった時代だったのだ。

 もう一つのことを強調しておかねばならない。イベリア半島で支配権を獲得しつつあるキリスト教国の王達の側には必ずと言ってよいほどユダヤ人の集団があった。ルネサンス以後のいわゆる「宮廷ユダヤ人」が登場する以前の話だが、より完璧な支配を目指す王達にとってキリスト教とユダヤ教は常に表裏一体、いわば「シャム双生児の姉妹」だったのである。前者からは聖なる教会を通して土地と人民の支配権を、後者からは商業と交易を通して富の支配権を受け取っていた。しかしイベリア半島再征服以後にユダヤ人を切り捨てることによってスペインは没落の運命を決定付けられ、諸王に唯一神の権威を授けてきたローマ法王庁は宗教改革に苦しむ時代に突入する。

 そして資本を操る者達が支配権を握る時代に再びローマはユダヤと「シャム双生児の姉妹」となった。「唯一絶対神」はキリスト教だけでもユダヤ教だけでも『宇宙の全面支配』を果すことはできない。支配原理を前にして、彼女らは一体のものとしてふるまわざるを得ないのだ。

[政治そのものである「左右の宗教」]

 現在、世界政府と統一宗教による『世界帝国』が我々の目の前で徐々にその姿を現しつつあるようだ。新約聖書に含まれる謎の書簡「ヨハネ黙示録」および「小黙示録」とも言われる福音書の一節(マタイ24章)は、その世界全面改造の『手引き書』の役を果しているのかもしれない。だからこそそれは予言ではなく「預言」と言われるのだろう。米国国務長官コンドリーサ・ライスが、2006年6月〜8月のイスラエルによるレバノン・ガザ攻撃に関してさりげなく口に出した「産みの苦しみ」は、実はこの「小黙示録」の一節なのだ。あの軍事目的とは無関係な無差別住民虐殺の果てに、一体何が「産まれる」と言いたいのか。

 ネオコンの「教祖」とされるレオ・シュトラウスに言われるまでも無く、またマルクスの言葉を借りるまでも無く、宗教は民衆支配に必要とされる阿片であろうし、同時に支配の方法論でもある。ここで宗教は大きく二つの異なる顔を見せることになる。いつの時代でも政治とはまさしく「まつりごと」でありどのような形であれ常に信仰・崇拝・神話・儀式と一体化しているのだ。

 私は第6部 で次のように申し上げた。

 《9・11「テロ」事件の少し後のことだが、ペンシルバニア選出の米国上院議員(共和党)でオプス・デイとも縁の深いリック・サントラムは、米国の雑誌「ナショナル・カトリック・レポーター」に次の奇妙な見解を語った。「私はジョージ・W.ブッシュ氏を『米国で始めてのカトリック大統領』だと見なしている。」

 もちろん実際には米国初のカトリック信徒の大統領はJ.F,ケネディなのだが、サントラムは、ケネディが個人的な信仰と政治的な責任との間に区別をつけたことを非難する。ケネディは、もしも大統領に選ばれたらカトリック教会の命令には従わない、と宣言したのだが、サントラムに言わせるとこれが『米国に非常な害悪をもたらした』のである。彼の頭の中には政教分離という用語は存在しない。政治的理念と宗教的信条が一致した「神権政治」がこの上院議員の理想であるようだ。》

 リック・サントラムはこの教団の「親しい友人」であり、2006年1月にシオニスト団体やプロテスタント原理主義団体の代表者と共に、オプス・デイ会員と疑われるサミュエル・A.アリートを最高裁判事として承認するようにG.W.ブッシュに迫った。その結果、現在、米国の司法権の最高機関がオプス・デイ周辺の勢力によって抑えられていることは前回お伝えしたとおりである。

 もちろんユダヤ・シオニズムは宗教ではないが常に擬似宗教的な姿をとる。「選民ユダヤ」と「ホロコースト」の強烈な神話に支えられ無条件に信奉する姿はむしろ宗教により近いものであろう。米国にはすでにカトリック、プロテスタントとシオニズムという異なる宗教・思想を串刺しにする『磁針』が置かれている、と見るべきである。

 同時にまた、次の点を注意深く認識しておかねばならない。現在の米国共和党政権がたとえ民主党に代わっても、その『磁針』はより巧みに幅広い階層を貫くべく強化されたものとなるだろう。

 2006年11月の米国中間選挙で両院の過半数を獲得した民主党だが、その実質的なリーダー格であり下院議長となったナンシー・ペロシは米国とイスラエルを結ぶ最も太いパイプの一つであると同時にイタリア系のローマ・カトリック信徒である。マイクロソフトやアマゾン、AT&Tに出資する大富豪である夫も同様であり、そしてその家系は複数のユダヤ系富豪と親族の縁を結んでいるのだ。

 また彼女は米国議会の諜報部会の幹部でもある。この諜報部会の副委員長は長年デイヴィッド・ロックフェラーの甥で上院議員のジェイ・ロックフェラー(民主党)が勤めている。当然のことながらこの男はペロシと共にブッシュを支えて米国をイラクとの戦争に突入させた極悪人どもの一人である。彼らの「イラクからの撤退」は選挙用の宣伝文句、単なる目くらまし以上のものではない。

 この民主党を選挙民レベルで支えているのはこれも《信仰》という面では宗教と大差の無いリベラル・左翼主義であり、同時に左派シオニズムである。冷戦中にあの悪名高いイエズス会が「解放の神学」派を作り左派としてオプス・デイを中心とする右派と戦った茶番劇があったが、すべては同じ文脈の上に乗っている。
《注記:イエズス会と「解放の神学」派についてはこちらの記事を参照のこと》

 南北アメリカ大陸で「オプス・デイはカトリック右派である」「保守派である」「復古主義者である」などといった迷妄を振りまいているのが主として左派・進歩派の人々であることに注目しなければならない。またその右派は、米国民主党とその支持者について「極左(?!)」「もし左翼が跳梁すれば我々の知っているアメリカはその存在をやめてしまう」などとおだて上げる。要するに右と左は共同して煙幕を張り巡らせているだけなのだ。当事者達が真剣なだけに滑稽さすら覚える。

 ユダヤ右派の巣窟AIPACとイスラエルの右派がリベラルのペロシなどと緊密に結び付いており、左翼知識人の代表格であるノーム・チョムスキーがイスラエル・ロビーの弁護に狂奔し、ウエッブ上で左翼オールタナティヴが911とイスラエルとの関係を頑固に否定し、右も左も神話として機能する「ホロコースト」を堅持しているのを見れば、その仕組みが手に取るように分かる。

 また米国大統領ブッシュを「悪魔」とまで罵倒するウゴ・チャベスのベネズエラだが、その社会主義政権の背後にはベネズエラの石油輸出業務で巨万の富を稼ぎ「ボリバル主義のブルジョアジー」と呼ばれるイタリア系の大資本家ウィルマー・ルパーティがおり、ベネズエラが運営する国際衛星放送テレ・スルにはイエズス会人脈が見て取れる。ウォール・ストリートがそれと対立しているのは、《対立》が必要だからであろう。

 さらに現在、プーチンによってロシアから追い出されたシオニスト・ユダヤ人大資本家たちによってどうやら「第2の冷戦」が画策されているようだ。その中では「911ロシア陰謀説」まで飛び出している。対立と紛争こそが多くの価値の創造主なのだ。彼らはこの点を知り抜いて謀略を巡らせる。

 そしてそれらの対立や野合には地球上の全人類をその標的とする支配への意思が貫かれているのである。

[「神権政治」の正体]

 既存の文脈に囚われない頭脳とデータ収集と注意深い観察が、『雲の上』から伸びてくる《左右の手》の動きを垣間見ることを可能にさせる。しかしこの『雲の上』に関しては多くの混乱がある。世の中にはフリーメーソンだのイルミナティだのイエズス会だのをそこに据える人たちがいる。中には「爬虫類人」や「異星人」まで登場させる素晴らしい空想力の持ち主もいるようだ。しかし私はこれらには与しない。実際はもっと単純なのではないか。要するに「王様は裸」なのだ。それに様々な《服装》をかぶせようとする人たちはきっと裸の姿を隠そうとする王様の側に立っているのだろう。

 オプス・デイの教義内容および宗教上の主張をレオ・シュトラウスの弟子どもの唱える哲学や政治思想と比較してみると、非常に興味深い共通点が発見できる。両者ともに、一つの同じ事柄に対して触れないように、細心の注意を払っているのだ。

 彼らは「教」を語りまた「政」を語る。しかし「財」に関しては常に真っ白な穴が開いているのだ。しかしその両者とも巨大な財源をバックにして活動していることは世界中の誰もが確認できよう。レオ・シュトラウスの弟子どもによると未来には「哲学者」が世界を治めることになるそうだが彼らに給料を払うのは一体誰か? オプス・デイの唱える「聖化される仕事」によって生み出されるものは何か?

 この点は統一教会など巨額の資金を動かす宗教団体に共通する。彼らの教義に唯一登場しないものが共通して『カネの出所と行く先』なのだ。シオニズムにしても同じことが言える。いやそれ以前に、公式の歴史家たちはナチス・ドイツに投資した《世界中の》資本家のリストを作ろうとしない。スターリン・ソ連にしても同様である。どうやらそれらに触れると困る事情でもあるようだ。そして、まるで「哲学やイデオロギー」「個人の意思と情熱」だけで国家が支えられ世界が動かされるかのような幻覚が、右から左までのあらゆる論調の中に蔓延している。

 もっと身近な点に触れよう。世界中の学校で使われている歴史教科書で、数々の戦争のために消費された費用と物資について書かれたものはあっても、そのカネを『出資して膨らませて受け取った者』について述べている教科書を誰か見たことがあるだろうか? 世界の国々で教科書の記述内容に関する議論は多いが、面白いことにこの点についてだけは誰一人として疑問の声を挙げようとしない。

 もう明らかだろう。非常に単純な話である。世界には何一つ「秘密」も無ければ「陰謀」も無いのだ。歴史と現代世界の記述には巨大な《空白》が丸見えである。そこに「神がいる」からなのだ。「神の名」は語ってはならず、「神の姿」は見てはならない。単にそれだけの話である。

 しかりしこうして、世界はもう随分と以前から立派に一つの宗教によって動かされているようだ。その神を『マモン(財神:もちろん超自然的な存在ではない)』と呼ぶ。まさに《神権政治》であろう。

 それは対立と紛争を要求し対立する双方に資本を注ぎ双方から利子付きで回収する。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ」。なるほど。そのカイザルたちが「神の使用人」であれば全てに筋道が通る。対立する者達はまさに「天に宝を積んでいる」のである。そしてこの『神』の下に、表と裏の種々の利権団体と謀略組織を通してありとあらゆる人間の悪徳が発揮されるのだ。

 この『神』は、伝統的カトリックが説く「父と子と聖霊の三位一体神」ならぬ『金力・暴力・情報力の三位一体神』 なのだ。その姿は20世紀の歴史の中から明確に見て取ることができよう。

 自由経済でカネとモノを作って動かし消費させて回収する、そしてそれを保証する権力構造が「公的」および「民間の」暴力装置によって維持され必要に応じて改変されるのだが、その大原則は『アメとムチ(利益誘導と脅迫)』『分割しそして支配せよ(謀略とコントロール)』である。

 しかしそのためには何よりも、その支配民に対してメディアや様々な宗教・文化機関、学者・知識人による情報操作と観念操作が極めて大規模にしかも効率よく行われる必要がある。その大原則は『知らしむるべからず、寄らしめよ(情報の隠蔽・捏造と神話化)』であり、これが彼らをして「雲の上」の存在たらしめるのである。その意味で、この機能こそがあの『聖なる三位一体』の中核を成すものだろう。

 現在この『財神』を奉じる少数派の者達が、全世界を恒久的に支配できるシステム作りとそのための世界改造の仕上げ段階にかかろうとしている。彼らの中には、古くから『財神』の神官であるユダヤ系巨大金融資本家群だけではなく、彼らとの縁も深く現在は資本家の一群と化している欧州の王族や貴族、各国の産業資本家とそれぞれの番頭役たち、血族化した政治家集団および軍エリート、法律と経済のテクノクラート、科学者と技術者の集団、巨大マフィア集団、巨大メディア産業と御用知識人たちがおり、そしてその上に、それらの全てに通じ最も効率の良い観念・心理操作マシンであると同時に無条件な集金マシンの役を受け持つ巨大宗教組織が加わる。

 その中でもバチカンは、「米国化」と「ユダヤ化」を経て、もう十分に『マモン崇拝システム』の中心として機能できるだけの変化を遂げてきた。その中枢に食い込んでいるのが「聖なるマフィア」オプス・デイである。それは基本的に在家集団でありその支持者は先ほど述べた全てのカテゴリーに偏在している。というより、最初から各支配者集団間のフィクサーとして作られ育てられてきた。創始者エスクリバー・デ・バラゲーの「道(El Camino)」は全てに通じる道である。このシリーズの第3部 でも申し上げたが、この組織はCIA、MI6、シン・ベトと対等に付き合えるバチカンの諜報機関でもあるのだ。ひょっとするとこの教団周辺に世界改造の「知的デザイナー」がいるのかもしれない。

[世界政府と世界統一宗教]

 2006年12月1日付のGlobal Research誌は、バチカンが政治アドバイザーとしてヘンリー・キッシンジャーを招いたことを報じた。もしキッシンジャーがこの招聘を受け入れるとすると、それは世界政府と世界統一宗教の建設が本格的に始まったことを意味するのかもしれない。
《注記:幸いにしてこの情報は杞憂に終わったが。》

 言うまでも無くキッシンジャーは1973年のチリ軍事クーデターを画策した中心人物である。そして誕生したピノチェット政権をオプス・デイの創始者エスクリバー・デ・バラゲーが直々に祝福した。さらに当時のCIA長官はカトリック教徒でオプス・デイとの関係を示唆されるウイリアム・コルビーだった。その後任がブッシュ(父)なのだが、彼の時代にそのチリで初めてのネオ・リベラル経済の実験が行われた。その後のレーガン=ブッシュ(父)政権時に、後にネオコンと言われるユダヤ人を中心とした勢力と共に、このバチカン勢力が米国を直接に操る力となっていった。それは「属人区オプス・デイ」を公認したユダヤ人教皇ヨハネ・パウロ2世の時代でもあった。

 キッシンジャーの背後に控えているのは言わずと知れたロックフェラー家であり、同じ脈絡をたどっていけばバチカン・ラットラインでナチ残党を米大陸に向かえその後に冷戦構造を固めたダレス兄弟に行き着く。逆に先の方にたどっていけば当然のことながらネオコンの姿が浮び上がるだろう。その中には06年12月に死去したジーン・カーパトリックのようにオプス・デイともつながりの深い人物の姿も見える。そして先ほどのGlobal Research誌記事の標題は『ネオコンがバチカンに?』である。

 巷には「ネオコンは姿を消した」などといった愚論がはびこるが、彼らの米国での役割が一段落しただけであり、各自それぞれの新しい持ち場に付いているだけだ。フランスではネオコンの一派と目されるニコラス・サルコジの政権誕生の色が濃く、ネオコン「建築家」の最も重要な一人であるマイケル・レディーンが着々と準備を進めてきたイランへの攻撃準備が様々なカモフラージュの下で進みつつある。IMFとともに第3世界の破壊とその米欧ユダヤ資本による経済支配の道具に他ならない世界銀行には、その最大の智将ポール・ウォルフォヴィッツがいる。彼らにはより広い舞台が与えられている。
《注記:その後、力の衰えた米国に代わってサルコジのフランス帝国が北アフリカ・中東での戦争策謀の中心になり、その作業は「左翼」のオランデに引き継がれている。またイラン攻撃の可能性は常に扉を開かれている。ただしウォルフォヴィッツは「スキャンダル」を起こされて失脚し別のネオコン・シオニストに取って代わられたが。》

 このドロドロの舞台装置がやがてクライマックスに向けて次第に整理されていくのだろう。しかし長い動乱の果てに現在の国連を母胎にした世界政府が実現したとしても、その治世は「永遠に安定した秩序」などとは程遠いものであるに違いない。そのようなものが決して安定して維持できないことくらい彼らは十分に知っている。2006年現在イラクで行われている「コントロールされるカオス」の実験は将来の世界の雛形であろう。常に発生する矛盾と対立が計画的に適切に制御されるときに、それが逆に全体の安定と形態維持にとって必要不可欠の要素へと変わるのだ。

 そしてだからこそ、マス・メディアによる情報操作と同時に、「人類共通の神話」たる世界統一宗教が必要とされるのである。しかしそれは「高い次元でお互いに同調しあうそれぞれの宗教」の形をとり、決して教義や作法を統一させた「一枚板」の宗教ではないだろう。ここを思い違いしてはなるまい。カトリックはその「ローマ支部」、仏教はその「アジア支部」、イスラム教はその「イスラム支部」、等々、となるのみであり、おそらく全体の安定と形態維持のために対立や矛盾の派生とそのコントロールに対して柔軟に対処できるものとなることだろう。

 『宇宙の支配原理』は決してスターリンやヒトラーのそれのように豪腕で全てを統一するような形で貫かれるのではあるまい。それは少数の支配集団を頂点とした《有機的なある種の生態学》であり、《絶えざるカオス的な変化をコントロールする独占的な技術体系》である。それが全地球規模で確立されるときに、恒久的に安定した「彼らのための地上天国」が誕生する。これが「新しい世界秩序」なのだ。永遠の天国とその下に横たわる永遠の地獄、これがヨハネ黙示録の結論であるし、同時に世界支配の「知的デザイン」の結論でもあるだろう。

[事実を見つめる人間の目]


 『マモン神』についてさきほど『金力・暴力・情報力の三位一体神』 と申し上げた。これを人間の心理的なあり方に置き換えるならば、仏教で教えるところの貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の『三毒』に他ならないが、その中で第3の愚痴とはつまり迷妄と虚構に従って行動し無明をさ迷う人間の姿である。これこそがあの『支配原理』を可能にする最大の要因である。

 それはいわゆる知能指数の数字とは無関係である。本来ならば何一つ難しいものは無いし誰でも目の前の事実を見ているのだが、それを無理やりに歪め忘れてでも虚構にすがりつく。人間がいかに事実をありのままに見ないものかは、911事件に対する世界の人々の態度で明白であろう。

 支配者となる者達はその点を十分に心得ている。だからこそ第三の『情報力』が『聖なる三位一体』の中心となるのだ。カモがいるからこそ詐欺師がいるのであり、決してその逆ではない。そして牧羊犬の一つの声で一斉に誘導される羊の群れのように、人々は欲や恐怖や幻想に駆り立てられて一つの方向に動き始める。そこでは幻覚が事実の代役を果す。したがって、逆に言えば、この幻覚の正体を明らかにすることこそが『支配原理』に対抗する唯一の手段であろう。

 このシリーズの第2部 で申し上げたことだが、私はスペインの現代史を調べながらある奇怪さに出くわした。フランコ独裁から社会主義者の政権への移行期に起こった諸事実である。これが「聖なるマフィア」を追及し始めたきっかけなのだが、素直に考えたら「おかしいではないか」と思えるいくつもの事実が歴史学者の手にかかると「何もおかしな点は無い」となるのである。いや、「おかしな」点は、「ともかくそれは起こったことなのだからそのまま疑問を挟む必要の無い事実なのだ」という論理に摩り替えられる。そして全く同様の論理が「ホロコースト」「9・11同時多発テロ」で使用される。これはもう詐欺以外の何物でもない。

 私は別にオプス・デイというカトリック教団に対して恩も恨みもあるわけではない。ただこの教団の足取りを追いかけることを通して、我々が「これが現代だ」と思い込まされてきたことに対する再検討を行ってみたいという希望があるのみである。支配者どものたくらみを封じるものがあるとすれば、それは、我々自身が幻覚を追い払い事実をありのままに知り賢く対処できるようになること以外にはあるまい。

 このシリーズはひとまずここで終了とするが、しかし、現代という時代に対する追及は様々な形で引き続き行っていくつもりだ。最後に、私のような無学・無力な者に『真相の深層』誌面という貴重な発言の場を提供していただいた木村愛二氏および関係各氏に深く感謝を捧げたい。(了)

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