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第1部:「もう一つの現代史」を彩るカトリック集団   (2004年4月)

 オプス・デイは、ヨーロッパや南北アメリカでは「聖なるマフィア」「バチカンのCIA」とも言われるカトリック系集団である。このシリーズでは12回に分けてこの集団の素顔と歴史、その背景を追っていく予定にしている。しかし日本ではオプス・デイの存在すらほとんど知られていないし、ご存知の方でもわずかの情報しか持っておられない場合が多いだろう。詳しい説明は次回以降に行うこととして、まず最初に、世界の数多くの書籍、新聞、インターネット情報などで広く知られている彼らの経歴と特徴を、おおざっぱにでも知っておいていただきたい。
《注記:オプス・デイは映画「ダビンチコード」に出てくる同名の架空集団とは全く異なるのでご注意を!》

 オプス・デイ(ラテン語で「神の御技」の意味)はローマ・カトリックに所属する一団体で、正式には「属人区聖十字オプス・デイ」である。ローマに本部を置き、世界中で数々のNGOや慈善団体活動、学校経営などを行っており、書籍やインターネットなどを通じた宣伝活動も積極的に行っている。しかしその開かれた姿の反面、内部での秘密主義は強くその内容の多くが謎に包まれている。

 結成は1928年、マドリッドにおいて、創始者はスペイン人ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲー(1902〜1975)である。その後スペイン内戦を経て誕生したフランコ軍事独裁政府の中でその宗教・教育界におけるファシズム賛美者として成長した。そして1950年代以降はそこから多数の政治・経済のテクノクラートを輩出したが、彼らは欧米の大資本と結びついて60年代の「スペインの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を実現し、スペインの政・官・財・軍の各界を支えた。その一方でスペイン国民に対しては保守的カトリックを強制して秩序の維持に努めるなど、1975年まで続くフランコ独裁体制の文字通り大黒柱であった。またイラク戦争で英米を最も熱心に支持したスペインのアスナール政権の閣僚には大勢のオプス・デイ関係者がいた。
《注記:オプス・デイの創始者の姓はエスクリバー・デ・バラゲルと書かれることが多いが、この「バラゲル」はカタルーニャにある地名バラゲーから来ており、私はここでは「エスクリバー・デ・バラゲー」と書くようにする。》

 オプス・デイは1950年前後から南北アメリカに進出し始め、中南米の政財界人、軍人、教会関係者の間に浸透し、70年台以降は中南米各国で米国CIAと手を携えて反米左翼政権を崩壊に追いやる主要な力の一つとなった。例えばチリでは1973年のピノシェットのクーデターを支援してその軍事独裁政権を支えた。また80年代のニカラグアやエルサルバドルなどでも親米軍事政権の誕生に寄与し、左派に協力する「解放の神学」カトリック僧の弾圧・殺害にも関与した。そして半独裁と言っても過言ではないペルーのフジモリ政権(1990〜2001)、アルゼンチンのメネム政権(1989〜1999)の誕生・維持にもこの集団が深く関わった。さらに2002年のベネズエラのクーデター未遂の実行者の一つでもあり、現在(2004年4月)再びCIAと呼吸を合わせて、ベネズエラだけではなくキューバのカストロ政権転覆のチャンスを虎視眈々とうかがっている。

 一方、バチカンには第二次大戦後すぐに浸透し始め、60年代の第二公会議以後に急速に勢力を伸ばし、教皇ヨハネ・パウロ2世の後ろ盾となってその膨大な資金と情報を動かす地位に就いた。もちろん1982年のいわゆる「P2−アンブロシアーノ銀行疑獄とバチカン銀行危機」にも深くからむ。そして2002年には創始者のエスクリバーを、カトリック内部のかなりの反対を押し切って、その死後わずか27年という異例の早さで聖人に仕立て上げるほどに、バチカン中枢部を牛耳っている。

 現在この集団は、ヨーロッパと中南米の政財界・言論界を陰から動かす巨大な力の一つとして認知されている。自身の発表によれば現在世界におよそ8万4千名の会員がいるが、大多数が世俗会員で、千数百名ほどの僧侶の他に集団生活を行う独身者集団がある。また世俗会員のほとんどが政治家や実業家など社会的地位の高いインテリ・富裕階層に属する。他に、思想・信条・宗教を問わない協力者あるいはシンパと呼ばれる者たちが、世界各国の王族、大富豪、企業家、マスコミ、政治家、軍人、諜報機関などに幅広く存在すると言われ、実質的にこの集団の活動に加わりそれを支えている。したがって、人数的にはさほど大きくは見えない集団だが、その社会的影響力は想像以上に大きい。

 日本との関係で言えば、2001年以来日本に隠れ住んでいるペルーのフジモリはオプス・デイの重要な関係者の一人で、また彼をかくまっている曽野綾子日本財団会長にしてもカトリック教徒でありこの団体と無縁とはいえまい。オプス・デイはCIAやマフィア組織とも浅からぬ関係を噂されており、フィリピンはその重要な活動拠点の一つであるし、東京にその経済的な拠点の一つが存在すると言われる。日本財団とのリンクがあるとすれば日本の政界とも無関係ではありえない。

 ついでにもう一つ、近頃その残酷シーンやユダヤ人との関係でさまざまに物議をかもし話題になっているメル・ギブソンの映画「キリストのパッション」の製作には、初めからオプス・デイ関係者が深くからんでいる。

 外観はざっとこんなところであろう。「こんなとんでもない集団が本当にあるのか」といぶかしく思われる方もおありだろうし、その名前をご存知の方でも「これほど多くの面を持っているのか」と驚かれるだろう。あるいは「何だ、また例の陰謀論か」と顔をしかめられる向きもあるかもしれない。何せ日本では今までまともに調査・研究の対象にならず、日本語の資料もほとんど無い状態である。しかし、ぜひ一度、Google等のインターネット検索で「Opus Dei」を調べていただきたい。外国語で書かれた収拾のつかないくらい多くの情報を前に、きっと仰天されることだろう。

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 その批判者からは、前述のような経歴から必然的に「超保守的カトリック」「カトリック極右翼」「教皇の右腕」「危険なカルト集団」などなどの非難の言葉が浴びせられるのだが、しかしこの集団は、決してそのような紋切り型の批判でとらえられる生易しい存在ではない。実は先ほど述べたようなことは彼らが関与してきた現代史の表向きの一面に過ぎないのだ。その誕生と成長過程の周辺にはいまだ明らかにされていない「もう一つの現代史」ともいうべき世界が存在している。

 現在、戦争とテロの恐怖で世界を震撼させるプロテスタント系原理主義者やユダヤ教シオニスト、およびそれに呼応するかのようなイスラム原理主義者たちの派手な活動ばかりが世間の耳目を集めがちだが、その陰で、ゆっくりとしかし着実に、もう一つの勢力、カトリック系集団が、闇の中にその顔を伏せたまま体を持ち上げつつあるのだ。

 ただその姿を見極めるためにはいくつかの点に留意しておく必要があるだろう。「すでに見えているもの」を根本的に疑い、その整合性の破れている個所や繕った跡を鋭く見抜いていく作業の中からのみ、ひょっとしてそこにある「いまだ見えていないもの」の姿が浮かび上がってくるだろうからである。

 まず、左翼主義的・進歩主義的な視点は排除されなければならない、と考える。

 オプス・デイに批判的な人々には「左翼的」あるいは「進歩的」な立場の人々が多い。これは、彼らがスペインや中南米で行ってきたことや現在欧米で中絶・避妊を頑固に否定していることなどからして当然と言える。必然的に非難の言葉として「極右」「反動」「超保守」などの修飾語が登場してくる。しかしこのような立場からの見方はこの集団の姿を見誤らせることになるだろう。例えば、1970年代のバチカン第二公会議でそれまでの独善的・閉鎖的・超俗的だったカトリックを近代化する大改革が行われたのだが、オプス・デイは自らをその「改革の先駆者」と位置付けており、カトリック守旧派から憎まれているのだ。

 また、1975年のフランコ死後のスペインは、共産党を含めた左翼政党や労働組合活動が合法化され、独裁時代の保守派政治家たちは力を奪われ、民主国家として生まれ変わったわけだが、しかしこの「新生スペイン」を誕生させたのは、実はフランコ政権を支えてきたオプス・デイ自身である。ただし、このことはスペインではタブーになっており、「右」も「左」も決して触れようとはせず、必然的に日本の「スペイン研究者」たちも取り上げないわけだが。この点は第2部で詳しくご説明するとしよう。

 このカルト集団は右・左や進歩・保守を超越した底知れなさを持っている。そもそも「左翼こそが正しい」「進歩こそが正しい」といった視点そのものが、現代の世界に関する誤った結論に導くのではないか。彼らにとっては「右」も「左」もその手の内にあるのだ。

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 次に、ナショナリズムに気を取られてオプス・デイのような超国家的な集団の姿を見誤ってはならないと思う。

 そもそも、ヨーロッパ史と近代世界史はいくつかの「超国家的な集団」によって作られてきた側面を持っている。例えば近代以前に西ヨーロッパを支配したのはローマ教会と王族である。ローマ教会は言わずとしれた超国家的集団であり、内部抗争も激しくまた16世紀以降は反抗者たちに勢力を削がれはしたが、その代わり世界中に信仰と利権の網を張り巡らせた。王族にしても、教科書歴史的には個別の国を支配し抗争を繰り返したわけだが、一方で政略結婚の連続によってヨーロッパ全土にわたる「血のネットワーク=高貴な遺伝子プール」を形作っていた。例えばスペインは、「独立した植民帝国」としての歴史と同時に、ハブスブルグやブルボンといった欧州中央の王家集団の「欧州内植民地=他世界侵略の手先」としての、二つの面を持っていたわけだが、国境線に囚われるナショナリズムの観点からではこの二面性は見えてこない。

 また、後のフリーメーソンの原型となる建築家集団、後の科学者集団の原型となる錬金術師集団、芸術家集団などは、やはりヨーロッパ全体を生きる場として国境を越えて移動し連絡を取り合っていたし、さらに近代社会を切り開いた科学者や哲学者たちはラテン語という共通言語で結ばれた超国家的な集団と言ってもいいだろう。

 近代以降はローマ教会と王族の支配は一定程度まで後退するが、ロスチャイルドやロックフェラーに代表される巨大資本のネットがそれらをも包んで世界中にしっかりとかぶさり、同様に国境を持たない共産主義(現在は消えているが)と共に歴史の主役になった。他にマフィアなどの犯罪集団もあるし、近年ではCIAなどの諜報機関も超国家的になってきたようだ。現在、こういった複数の超国家的な集団が水面下で複雑に絡み合いながら現代史を推し進めつつあるように思える。

 同時にまたナショナリズムの立場から「ある超国家的な集団が我が国を転覆しようと狙っておりその中心がユダヤ人である」と解く、いわゆる「陰謀論」の筋書きは、このような欧州の歴史の中から必然的に出てきたといえる。もちろん近代以降では、始めから国を持たないユダヤ人の存在は重要ではあるが、しかしそれは、超国家的な集団に注目し言及する者を「陰謀論者=ネオナチ」として排斥し現代史の重要部分を隠蔽するために、ある種の煙幕として利用されている面が強いのではないか。

 私はナショナリズムとは無縁であり、そのような「被害妄想的陰謀史観」の立場は取らない。しかしオプス・デイが20世紀前半という新しい時期に創立され、わずか60年足らずのうちにローマ教会内と欧州・南北米で大きな力を持つ超国家的集団にまで成長した陰には、何らかの巨大な勢力の、未だ明らかにされていない関与があったことは間違いあるまい。したがってオプス・デイの調査・研究は、同時にその奥にある現代史の隠された部分に迫っていくことにつながる重要な作業だと思う。

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 最後に、人間の内面から出てくる力と方向性が、現実を動かし支配する側面を持つことを、無視してはならない、と思う。

 左翼的、進歩主義的なものの見方からすると、宗教は「体制補完物」、被支配者に擬似的な救済を与えて支配体制を補完する「麻薬」に過ぎない。確かにこの観点からでは、常に宗教は「保守的」「反動的」「右翼的」であり、また早晩滅びるべき迷妄に過ぎない。

 ところがオプス・デイは始めから社会的エリート・知識人・支配階層の集団なのだ。彼らが政治的な変化に絡む場合は決まって「上からのクーデター」の様相を呈する。この点はそういった宗教観からでは全く相手にできない性質のものである。

 また現実主義的な観点からは人間の持つ「内面の働き」などはほとんど無視されるだろう。人間の内面は、外面、つまり現実的な物事の量や動きなどの一種の関数とみなされ、世界を調べ分析する際には実数値として評価可能な変数のみが取り上げられる。したがって容易に明確な形をとらず非論理的な性格の強い人間の内面は、現在の言論界ではほぼ相手にされないだろう。宗教など、この観点からはせいぜい組織形態や資金の流れなどの合理的に把握しやすいものだけが問題とされ、人間の内面にあるものが外を動かしていくメカニズムなどは関心の対象にはなりにくい。そればかりか、人間の意志的な面を強調する見方は「陰謀論」として退けられる傾向すらあるようだ。

 しかし世の中は良くも悪くも人間が作るものである。現実が人間を理想へと導くと同時に理想が現実を動かし、現実が人間を狂気へと駆り立てるのと同時に狂気が現実を推し進めていく、という面もまた正当に取り扱われるべきだ、と私は思う。人間が利害関係だけで動く、つまり人間の内面が外部にあるものの単なる関数である、とする考え方こそが、近代の支配的な超国家的集団がばら撒いた迷妄、現代の人間のために用意された「知的なワナ」の一面を持っている、と思う。

 私は幸か不幸か社会的エリートになったことがないので想像する他はないが、この世の支配的な階層こそ、圧倒的な現実の圧力に拮抗しさらにそれを作り変えていくほどの内面の力を維持するために、宗教(あるいはそれに類する精神的支柱)を必要とするのではないか。その中心が神であろうが、悪魔であろうが、鰯の頭であろうが…。研ぎ澄まされた観察力、冷徹な計算や一貫した合理精神と同時に、自らの行動を「神聖なるもの」とする狂信的なまでの目的意識が無ければ、決して自らを維持できないだろう。

 人間の内面から出て来る力と方向性を軽く見た場合、オプス・デイのような宗教集団のあり方と機能を見誤るばかりか、それに対抗する手段を見出すことも不可能になるだろうと思う。この点もまた、現代史を考える際に見過ごされてきた重要な側面ではなかったのだろうか。

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 上記の三つの視点にしたがってオプス・デイの素顔を暴いていく作業は、同時に、我々が「これが現代史だ」と思っている世界の姿の裏にある「もう一つの現代史」を明らかにし、「なぜ我々が今ここにいるのか」という根源的な問いに対する解答を探ることにつながる作業だ、と私は確信する。

 次回は「スペイン現代史の不整合面」と題して、主にスペインを舞台にして、1928年のオプス・デイ結成からフランコ独裁政権内部での働き、バチカンと中南米への進出、フランコ時代の終焉・新生スペインの誕生などの1970年代までの動きの中に、思いがけず口を開いている現代世界史の深淵についてご説明しよう。
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第2部:スペイン現代史の不整合面   (2004年7月)

[自ら姿を消した「支配者」のミステリー]

 フランシスコ・フランコによる過酷な独裁政治が1939年から36年間も続いたスペインでは、それを根底から覆す激しい自由化と民主化が、1975年の独裁者の死からわずか3年のうちに法と制度の改革だけによってさしたる混乱も無く実現された。同様にサラザール独裁政権に苦しんだ隣国ポルトガルで、1974年のクーデターの後、長年にわたる政治的・経済的混乱が続いたのとは好対照である。

 スペインのこの大変化は多くの謎を投げかける。フランコの事実上の後継者カレロ・ブランコがETAの爆弾テロによって殺害された影響が大きいにせよ、独裁政権を支えてきた保守派たちがいとも簡単に力を失い、また彼らと繋がってきた軍がこの変化に対して完全な中立を守ったのはなぜか。また、長年地下活動を続けて共和制樹立を目指してきた社会労働者党(以後、社労党)と共産党があっさり立憲王制を認めてしまったのはなぜか。誰の力でどのようにしてこのような大変化が起こりえたのか。

 様々なことが言われる。60年代後半からの労働者や学生と民族主義者の反独裁運動、国王フアン・カルロス1世とその腹心のアドルフォ・スアレスの政治手腕、保守派内部の分裂と混乱、十分に近代化を果たした経済システム、共産党や社会労働者党に代表される左翼政党の中道化の傾向、経済的にゆとりを持てるようになっていた国民の冷静さ、などなど。しかしそのどれを、あるいはすべてを考慮に入れても、ちょうど「大日本帝国」が戦争や混乱を経ずに「日本国」に、しかも内部からわずかの期間で変化する、それに匹敵するような出来事を説明し切るのだろうか。

 最も奇妙なのはオプス・デイである。1950年代後半からフランコの死の75年までスペインの財界と官僚機構、言論界、教育界、軍部を掌握、カレロ・ブランコを先頭にして多数の閣僚を配置し、一方で保守的カトリックを国民に強制して、事実上の「支配者」として独裁国家を運営してきたこのカトリック集団が、その大変化とともに国家経営の表舞台から忽然と姿を消したことである。ソ連圏崩壊後の共産主義勢力のように存在基盤を失ったためではない。独裁時代に彼らが築き上げた経済システムは多少の修正を経ながらも基本的にそのまま生き残り、今日まで財界、官僚、軍部、マスコミの中で、その力は増大しこそすれ決して衰えていない。しかし70年代後半の大変化の際には何の後腐れも無くあたかも自ら進んで表舞台から退場したような印象さえ受ける。

 内外の歴史研究者は、すでに「歴史」になってしまったフランコ時代についてはともかく、この大変化以後の現代史で「オプス・デイ」の名に触れることはない。またこのカトリック集団を批判する文章は無数にあるが、その多くが、この教団の「極右・超保守的」体質、フランコ時代の思想弾圧、および70年代から80年代に中南米諸国でCIAと手を組んで行なった政治謀略に集中しており、せいぜい2000年に誕生した第2次アスナール政権に言及するのみである。

 しかし私は、この1970年代後半のスペインの大変化は、現代ヨーロッパ史最大のミステリーの一つではないか、と思っている。そしてこの大変化の中にこそ、バチカンを支配し中南米で政変を演出し、今後の世界支配を企む強力なカトリック集団オプス・デイの本質が見えているような気がしてならないのだ。

[通説スペイン現代史:フアン・カルロスとアドルフォ・スアレス]

 1931年のスペイン革命により第2共和制が発足、国王アルフォンソ13世は退位・亡命した。彼とヴィクトリア英国女王の孫でバッテンベルグ公ハインリッヒの娘のユージェニーとの間の息子が、フアン・カルロス1世の父親、バルセロナ伯ドン・フアン・デ・ボルボンである。ドン・フアンは英国海軍に入隊後、ローマで仏ナポリ家の両シシリア王女マリア・デ・ラス・メルセデスと結婚、スペイン内戦中の1938年(フランコ政権誕生の1年前)に生まれたのがフアン・カルロスである。

 ドン・フアンは、スペイン国内の王党派残党との連絡を保ちつつも同時にフランスに亡命中の社会主義者たちとも接触し、フランコ政権打倒・立憲君主制樹立の道を探った。ドン・フアンはフランコを毛嫌いしていたし、フランコも王室を遠ざけ無視しており、両者の間で和解の余地は無いように思えた。しかし複雑な経緯の後、1948年に、王子フアン・カルロスをマドリッドで養育させフランコ亡き後に国家の首長にするという約束の元に、フランコと妥協することになった。

 さて、1928年に誕生したカトリック系集団オプス・デイ(神の御技:創始者はホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲー)はフランコ政権とともに成長し、その活動の初期から多くの分野の優秀な学生の間に浸透した。50年代に入ると、エスクリバーの盟友で政権内の実力者カレロ・ブランコの引きもあり、政府機構内に強力なテクノクラート層を形成し始めた。そして冷戦中に米国・西欧資本の流入が本格的に始まると、ロペス・ロドを中心にしたオプス・デイのテクノクラートたちはまさに「水を得た魚」であった。60年代の「スペインの奇跡」と呼ばれる日本のそれに匹敵する経済成長は、貧困にあえいでいた国民に精神的な余裕を与えた。さらに他の欧米諸国からの観光客とその文化に直接触れ合うにつれて、反独裁の動きが国のあちこちで始まった。

 唯一の合法政党でファシズム運動のファランヘ党は「国民運動」と改名したが政権内で次第に勢力を弱めていった。フランコの老齢と肉体的衰弱が明らかになった60年代に、体制内権力闘争を経て事実上の指導者となったのはオプス・デイのカレロ・ブランコであった。彼自身は頑固な保守主義者だったが、彼が信頼する脱イデオロギー化したテクノクラートたちによって成し遂げられる経済成長は必然的に様々な制度改革を必要とせざるを得なくなっていた。一方、1969年に王子フアン・カルロスは国会で正式にフランコの後継者・次期国家元首として承認された。

 この時期にはエレロ・テヘドル、ラファエル・カルボ・セレルなどの体制内の改革派も登場した。特にカルボ・セレルは新聞などの言論機関を通して、保守派から「裏切り」と目されながら体制の改革による自由化を目指した。一方でキリスト教左派、地下活動中の社会主義者や共産主義者、またバスクやカタルーニャの民族主義者の動きも活発になり、フランコ体制は急激にその求心力を失っていった。そして73年にカレロ・ブランコがETAに暗殺されると、事実上独裁政権を支える実力者は不在となった。

 1975年11月のフランコの病死の後、国王として正式な国家元首となったフアン・カルロス1世は、ほとんど無名だった法務テクノクラート出身の若きアドルフォ・スアレスを首相に指名した。以後、国王とスアレスのコンビは凄まじい勢いで独裁体制の一掃と民主政治の確立を果たしていく。

 就任直後のスアレスは、地下活動中の社労党の書記長で後に首相となるフェリペ・ゴンサレスと秘密会談を持ち、またパリに亡命中の共産党書記長サンチアゴ・カリリョと話し合うために使者を派遣した。一方で国王フアン・カルロスは腹心フェルナンデス・ミランダらを使って右派の有力者に徹底的な根回しをして反対派を押さえ込み軍部の中立を確保した。こうしてスアレスは1976年暮れに政治改革法案を議会で通し、国民投票で圧倒的多数の賛成を得た。

 続いて公安裁判所の廃止、社労党の合法化、国民運動の解散、すべての労働組合活動の承認、そして共産党の合法化と、瞬く間に自由化・民主化が進められた。続く77年6月の第1回総選挙では、スアレスの民主中道連合が過半数には満たないが第一党、社労党が第二党となった。翌年の78年12月6日に新憲法が発布され、フアン・カルロス1世は「象徴」となって政治の舞台から退いた。

 このようなフランコ体制内部から表れてきた急激な改革に、過去との決裂=共和制樹立を目指していた左翼政党は完全に虚を突かれ、右派は自由化と民主化を、左派は立憲王制を、それぞれ認めざるを得ない流れを作られてしまったのだ。

 さらに注目すべき事件がある。1981年1月にスアレスは突然辞任しソテロが首相になったが、その直後の2月23日、軍の一部である国家防衛隊(グアルディア・シビル)のアントニオ・テヘロ中佐が200名ほどの部下を率いて国会を占拠し、それに呼応してバレンシアの軍司令官によって非常事態宣言が出される、という事件が起こった。国王フアン・カルロス1世は即座にテレビで国民に平静を呼びかけ軍に忠誠を誓わせて、次の日にテヘロは投降しアルマダ将軍ら数名が首謀者として逮捕された。

 この「クーデター未遂事件」が国民に与えたショックの大きさは言うまでも無い。そして次の年の総選挙には獄中からテヘロが立候補し、独裁政権の亡霊に危機感を募らせた国民はこの82年総選挙で社労党に圧倒的な支持を与え、その後14年間続くゴンサレスの社労党政権が始まった。こうしてフランコ時代の名残は見事に消えてなくなりスペインの民主化は完成されて、安定した立憲君主制が続くこととなったのだ。

 以上が一般的に伝えられるスペイン現代史のあらましである。

[オプス・デイによる「現代史」の演出]

 スペイン現代史を紹介する資料のほとんどが、「独裁政治に対する民主主義の勝利」としてこの変化を紹介する。しかし何かが不自然だ。独裁時代に国中に張り巡らされた支配構造が、まるで優秀なデザイナーによってあらかじめ計られていたかのように、スムーズに新しい体制に置き換えられていくのだ。また81年のクーデター未遂事件は、あたかも社労党政権確立のために準備されていたかのように見える。そもそも、政治の表舞台に突然現れ巨大で決定的な働きをした上で、わずか3年間で彗星のように政治面から去っていった国王フアン・カルロス1世とは一体どんな人物なのか?

 ここで、以上の「歴史」と同時進行した別のラインを追っていこう。

 第2次大戦の最中の1943年10月、フランコ権誕生のわずか4年後、スイスにいたドン・フアンを訪ねてきた男がいる。これが先ほど60年代の「体制内改革派」として紹介したカルボ・セレルなのだ。彼はオプス・デイの初期からの会員で、創始者エスクリバーの最も信任の厚い人物の一人である。この会談の内容まで知る由も無いが、フランコの信頼を勝ち得たこの教団は一方で王政復古を画策していたのだ。

 また1946年にエスクリバーは、スペインを盟友カレロ・ブランコやロド、セレルなどの主要会員に任せ、バチカンに潜入すべく本拠地をローマに移す。

 48年にフアン・カルロスがフランコの「後継者」と約束された後、10歳を過ぎたばかりの王子の養育係を任せられたのはオプス・デイの僧侶フェデリコ・スアレス(後に王室付きの主任司祭となる)、またソフィア王妃(ギリシャ王パブロ1世の娘)の秘書となったのはやはりオプス・デイ会員のラウラ・ウルタド・デ・メンドサである。

 一方でオプス・デイはカレロ・ブランコを中心にして、反対派のファランヘ党(国民運動)などを徐々に追い落としていく。またセレルとともに体制内改革派として活躍したテヘドルもオプス・デイのメンバーである。さらに驚くべきことに、フランコ死後にフアン・カルロス1世と協力して急進改革を成し遂げたあのスアレスやミランダさえもオプス・デイであり、おまけに81年のクーデター未遂事件の首謀者として逮捕されたアルマダ将軍までがオプス・デイのメンバーだったのである。特にアルマダは国王と極めて近い筋にあった。

 これでもうすべて明らかだろう。

 改革の功労者スアレスとオプス・デイを結びつけることは、どうやらスペインでは「右」にとっても「左」にとってもタブーらしい。しかし彼の息子アドルフォ・スアレスJr.はオプス・デイ系の学校の出身者で(オプス・デイの世俗会員には子供を教団の学校に入れる義務がある)、現在、同窓生で前首相アスナールの娘婿アレハンドロ・アガッグ(オプス・デイ)と並んで、国民党の若手のホープである。また2004年3月に死亡したスアレスの娘が2度の乳がんの大手術を受けたのはナバラ大学(オプス・デイ経営)医学部だ。スアレスがオプス・デイ会員であることは「公然の秘密」なのだ。

 スペイン現代史はみごとに演出されていた。独裁政権を支え強化し、経済界、官僚層、保守派政治家、軍部に圧倒的な支配力を誇っていたこのカトリック集団こそが、独裁政治を崩しその名残をも一掃した激変の本当の主人公だったのだ。言ってみればある種の「上からのクーデター」に他ならなかったのである。

 一方では同時期に中南米でCIAと手を組んで反共軍事独裁政権を次々と作っていくわけだからずいぶんと奇妙な話ではあるが、紛れも無い事実である。彼らは、「右・左」「保守・進歩」といった対立概念を超えている。それらは総て彼らの「手の内」にあるのだ。そして、このフアン・カルロス1世とその周辺が発する政治力の恐ろしさを知っていたからこそ、ゴンサレス社労党政権は諜報機関CESID(後のCNI:国家中央情報局)を使って国王の身辺を常に見張っていたのだ。

 ここまで来ると、1973年のETAによるカレロ・ブランコの暗殺も、ひょっとすると彼らがETAと警察を操って実行したのではないか、とすら思えてくる。奇妙な事件だった。ブランコは教会のミサに決まった時間に決まった道を使っていたのだが、その道に面したアパートの地階を借りたETAメンバーがそこから道路の下に穴を掘って爆弾を仕掛け、車もろともブランコを吹き飛ばしたのだ。警察は「管から漏れた都市ガスの爆発」という見解を出して捜査を遅らせ、彼らが逃げおおせる時間的余裕を作った。漏れたガスが道路の下から爆発するだろうか? しかし、ともかくもブランコ暗殺によって「改革」の幕が切って落とされたわけである。古くからのオプス・デイ関係者であり創始者エスクリバーの盟友は、この教団のために命を捧げたのであろうか。
《注記:2004年に機密解除されたフランコ政権の諜報資料によれば、ETAを使ってブランコを暗殺させたのは米国CIAである。当然だが、この当時ラテンアメリカでCIAと手を組んでいたオプス・デイがそのことを知らなかったはずもあるまい。CIAの意図は様々に推測されているが、自由化とNATO加入を拒み旧体制を死守しようとしていたブランコは、西側世界にとって危険な存在だったのではないか。》

 なお、国王フアン・カルロス1世はローマ・カトリックの上級秘密組織、マルタ騎士団の騎士だ、という説もある。オプス・デイの上層部とマルタ騎士団とはかなり重なっているようであり、欧州の王家のネットワークから見てもオプス・デイの背後にはもう一段大きな権力構造があってもおかしくないが、しかしここではそこまで話を広げる余裕は無い。いずれにせよヨーロッパは奥が深い。「雲の上」の世界を下界から窺い知ることは非常に困難である。しかし感覚と理性と観察眼を研ぎ澄ませば、雲の切れ間を通してその上にいる「チェスのさし手」の指が図らずも見えてくる場合があるのだ。

 また、カレロ・ブランコ暗殺から82年の社労党政権誕生までの経過には、2004年3月11日のマドリッド列車爆破事件から14日の総選挙での社労党勝利までの事態を髣髴とさせる部分もある。この事件の裏にもやはり「神の御業」があったのだろうか。真相は闇の中、いや「雲の中」である。

[第2部まとめ]

 バチカンの支配者オプス・デイは、恐らく今後の欧州、中南米そして中近東、ひいては全世界の情勢に大きな影響を与え得る集団である。それだけに彼らの本当の姿を見極めておく必要がある。独裁政治のイデオローグ、超保守的カトリック、バチカンの金権支配、中南米での極右的活動といったイメージだけでは対応不可能であろう。彼らはそのような「舞台の上の俳優」というよりはむしろ「舞台裏の演出家」なのだ。

 次回は『ネズミの後を追って』と題して、第2次大戦直後のバチカンを通したナチス残党の南米逃避行とCIAの誕生の秘密、そしてそれとオプス・デイの疑わしい関わりについて突っ込んだ探求を行なう予定である。
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第3部:ネズミの後を追って   (2004年10月)

[バチカン・ラットライン]

 ドイツの敗北がすでに避けられぬものとなった1945年3月、スイスで米国OSSのアレン・ウエルシュ・ダレスとナチSSのカール・ウォルフが、敗戦後のドイツの処理について秘密交渉を行った。このダレスは後にCIA長官(1953〜61)となる人物だが、30年代から40年代にかけてヒトラー政権と盛大な取引を行っていたニュージャージー・スタンダード・オイル(後のエクソン)の役員であり、また兄弟のジョン・フォスター・ダレス(ロックフェラー家の一員、後の米国国務長官)と共に法律家としてロスチェイルド系シュローダー銀行(ドイツ:ナチスを支えた金融機関の一つ)の法律顧問を勤め、同様にナチスとつながるITTとも深い関係を持っていた。なおCIAは1947年にOSSを母体に創出されたが、ダレスは最初からその中心人物だった。
《注記:ダレス兄弟とナチスの関係については『イスラエル暗黒の源流 ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム』にある「第7部:ナチス・ドイツを育てた米国人たち」を参照のこと。》

 この交渉の中で一つの重大な決定がなされた。大量のナチス幹部を、バチカンを通して中南米、米国、カナダ、オーストラリア、中東などの土地に逃がす、というものである。この「バチカン経由の逃げ道」を俗に「ラットライン」と呼ぶ。一応その語感から「ネズミの通路」とでも訳しておこう。そしてその「通路」を通って3万人とも5万人とも言われるネズミどもが逃亡した、といわれる。その中には、後にイスラエルに連行されて処刑されるアドルフ・アイヒマン、「リヨンの屠殺屋」クラウス・バルビー、またヨゼフ・メンゲレなども含まれる。

 これは一面では米ソによる「人材引き抜き競争」の一環であろう。ヒトラー政権は「世界支配・改造計画」とも言えるアイデア実現のために必要な人材とノウハウを集積していた。例えば、ベルリン陥落後にソ連がロケット開発の優秀な技術者を多数連行したことは有名である。一方米国はフォン・ブラウンなどのロケット研究者の他に、ソ連と中東に対する諜報活動の人材とそのノウハウを確保した。それが後のゲーレン機関やCIAのスパイ網につながることはよく知られている。いってみれば「第3帝国」は米国とソ連に引き継がれたのだ。

 移送されたのは人間だけではなかったようだ。ナチス・ドイツ所有の大量の金塊が運び出され、そのうち400トンはスペインに運ばれた、といわれる。それ以上に重要だと思われるものがモルヒネである。現在の南米からのコカイン流通ルートの元は、CIA保護下のマフィアとナチ残党によるモルヒネ取引の経路である可能性が高いからだ。その他、精巧な「偽英国ポンド札」もあったようだが、これが「本物のポンド印刷機」を入手してのものなら、当然そこにはロスチャイルド家と英国諜報機関が絡むだろう。そういえば現代でも、北朝鮮の極めて精巧な「偽ドル札」は本物のドル印刷機を使用して作られたのでは、と疑う向きもある。これが事実でなくても、どうやらドイツ製の印刷機を使用してのものらしいから、これもまた面白い取り合わせだ。

 それにしてもここでなぜバチカンなのか。一般的にはソ連圏との対決を見込んで反共の方針で一致した米国−バチカンの共同作戦、ということになっているが、ただそれだけでは説明し切れない不可解な面が多く残る。当時の教皇ピウス12世はドイツで教育を受けた人物で、ナチスとの関係には並々ならぬものがある。またこの「ネズミの通路」には、ナチスやファシストと米国諜報機関のほかに、スペインのフランコやアルゼンチンのペロンといったカトリック諸国の軍事独裁者、マフィア組織、80年代にP2事件で華々しく登場する裏組織の人物たちまでが複雑怪奇に絡んでいるのだ。

 もちろん資料として表に出るような事ではないが、IOR(宗教活動協会:俗に言うバチカン銀行)はマフィアやCIAなどの資金洗浄の場であるとささやかれる。バチカンがスイスと並ぶ「金融大国」になったきっかけは、ムッソリーニとの間で1929年に締結されたラテラン条約である。教皇庁はバチカンとして独立し、イタリア政府から教皇領喪失の補償として毎年多額の資金提供を受け(これは1984年まで続いた)、イタリア国内にあるそのバチカン所有の施設は(後にはその投資をも)非課税となる権利を手に入れた。ムッソリーニ時代のイタリア国内から流入した資金だけでも当時の金額で10億ドルに上ると言われ、やがてはナチス・ドイツが国民から徴収した「教会税」の一部もバチカンの懐に入ることになる

 1942年にはIORが創設され、以来バチカンは戦中から戦後にかけて、イタリアだけでなくドイツ、スペイン、スイス、米国等の大企業・金融機関、そしてCIA、マフィアといった組織と深いつながりを持つようになった。「ラットライン」は彼らすべての利益にも合致していたのだ。

 当然のことだが、こういった事柄に関連する正式な公文書としての資料が公開される可能性は極めて小さいだろう。しかし「人の口に戸は立てられぬ」である。様々な方面で語られた「事実」が、その後に起こった多くの明らかな出来事と重要な整合性を持つ場合、一つの有力な仮説として採用すべきだろう。

[マドリッドからローマへ]

 話は飛ぶが、1928年にスペインの首都マドリッドで奇妙なカトリック系宗教団体が産まれていた。その名はオプス・デイ、創始者はホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲー(1902〜1975:以下、エスクリバーと表記)である。カトリックの修道士であり同時に法律を学ぶ学生でもあったエスクリバーは、通常のカトリック僧が行う貧者救済のような事業にはさして興味を持たず、ひたすら中・上流家庭出身の優秀な学生をつかまえては自分の信念を説いた。その中心は、『人間は自分の職業活動で完璧な成功を収めることで神の恩寵を受け、俗世の生活を捨てることなく聖なるものとされる』という、従来のカトリック思想とはおよそかけ離れたものである。(オプス・デイの思想についてはいずれ号を改めて《注記:第10部第11部第12部で》 ご紹介したい。)

 1932年に起こったスペイン革命と第2共和制の誕生、36〜39年のスペイン内戦は、エスクリバーを反共の闘士に鍛えていった。内戦中は主にフランコ軍参謀本部の置かれたブルゴスで過ごす。後にフランコ独裁政権の最高幹部になるカレロ・ブランコとの出会いはこの過程においてである。またそこでエスクリバーのカルト集団はフランコとその側近たちの信頼を得、軍事独裁政権誕生後に宗教・思想界のみならず教育、マスコミそして産業界にその網の目を広げていくことになる。

 エスクリバーは大戦後の1946年にローマに移り住み、オプス・デイの本部もそこに新たに作ることになる。その3年前の1942年(IOR創設の年!)に側近のホセ・オルランディスとサルバドル・カナルスが、また43年には最大級の幹部アルバロ・デ・ポルティーリョがローマに行ってその下準備をした。本部のローマ移転以後、オプス・デイはバチカン内および世界の多くの国々で強大な勢力を誇る集団に成長していくわけだが・・・、しかし何か奇妙だ。

 いくらスペインの独裁者に取り入ったとはいえ、一体どれほどの金脈と人脈を持っていたというのか。創立間もないころのオプス・デイは常に資金不足にあえいでいた。初期の会員の身内が宝くじで大金を当てたとたんにエスクリバーから入信の勧誘が来た、という逸話まである。また彼は教団の資金が底を付くたびにブルゴスのカレロ・ブランコに会って無心を繰り返していたのだ。学生の会員たちが卒業し社会的地位を得るにつれて教団の資金繰りにも余裕が出てきたが、その程度でローマに乗り込むなど気違い沙汰だろう。古株の陰謀組織のような種々の集団がうごめき伏魔殿とまでいわれるバチカンに、没落・荒廃した貧乏国からやってきた新参者がいきなり挨拶しても、おそらく鼻も引っ掛けられまい。しかしオプス・デイに関しては異なっていた。

 そればかりではない。すでに1943年には、幹部のカルボ・セレルが亡命中のスペイン王位継承者ドン・フアンとスイスで(またしてもスイス!)秘密会談を持ち、将来のスペインの体制変革について語り合うほどに政治的にも実力を持っていたのだ。欧州の王家連合をバックにし教皇庁にも顔の効くこのブルボン家当主はフランコを根っから嫌っていたのだが、そのフランコに認められた程度の得体の知れぬ集団の一員に会って、こともあろうに自分の息子とスペイン王家の将来を託す、そんなことがありうるだろうか。何かが変だ。何かが隠されている。エスクリバーがオプス・デイの本拠地をローマに移す1946年までに一体何が起こっていたのか。

[ヨーロッパの闇に潜む男]

 話を第2次大戦中のイタリアに移そう。1943年7月に連合軍はシシリー島に上陸するのだが、それは米国軍が、ムッソリーニから圧迫を受けてファシスト党に恨みを持っていたシシリーのマフィア組織に、米国マフィアのドンであるラッキー・ルシアーノを通して十分な根回しをした結果だといわれる。米国諜報機関はやがて麻薬取引を通してマフィアと緊密な関係になるが、そのきっかけはこの辺にありそうだ。

 以後、ムッソリーニは追い詰められていくわけだが、その側近にリチオ・ジェッリという男がいた。彼は1936年のスペイン内乱勃発時には黒シャツ隊としてスペインに派遣され、フランコ独裁政権樹立に多大の貢献をした。そして大戦中はSSヘルマン・ゲーリング部隊の常駐員となり、終戦直後には米軍諜報部隊と協力して、クロアチア人カトリック僧ドラゴノビッチと共に「バチカン・ラットライン」の作業に当たった。そして冷戦中にはCIA長官アレン・ダレス(ラットラインを計画した人物!)によって提案された反共ネットワーク「ステイ・ビハインド」の中でのキーパーソンの一人となる。またフランコだけでなくアルゼンチンのペロンとも親しく、一説ではペロンの方がジェッリを崇拝していたそうだ。当然のことだがペロンはラットラインで南米に逃れたナチ党員を全面的に受け入れている。

 この男は後にイタリアのフリーメーソン組織P2の頭目であることが発覚し、バチカン銀行(IOR)を危機に追い込むアンブロシアーノ銀行倒産疑惑(1982年にはP2メンバーで頭取のロベルト・カルビがロンドンで謎の「自殺」をとげた)および多くの殺人に関連して、1998年に逮捕された。

 このヨーロッパの、いや世界の闇に下半身をどっぷり漬けた男は、実はオプス・デイとは切っても切れない縁を持つ。P2事件では、死んだカルビや、その投資者の一人でマフィアとの関係も深いミケレ・シンドーナとともに、ジェッリがイタリア社会の裏表でオプス・デイと密接につながっていたことが公になっている。またジェッリの親友ペロンはオプス・デイが支援した独裁者の一人であり、1973年に彼が大統領に復帰する際にマドリッドに保管されていたナチスの金塊がアルゼンチンに移送された裏にオプス・デイがいたのは明白だ。同じ年にチリではピノシェットの軍事独裁が始まる。

 またその一方でジェッリは、ソ連のKGBとの強いつながりをも持っていたともいわれる。KGBといえば、2001年3月に十数年間にわたってKGBのスパイを努めた容疑で逮捕された米国FBI職員ロバート・フィリップ・ハンセンはオプス・デイのメンバーであり、その上司で同年6月に辞任したFBI長官ルイス・フリーもオプス・デイ関係者であることが極めて濃厚だ。逆にオプス・デイの操り人形である教皇ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)はソ連と共産圏の解体を演出した最重要人物の一人であり、1989年12月にゴルバチョフとブッシュ(父)がマルタ島で開いた冷戦終結の会談の仲介役がバチカンだった。オプス・デイがソ連内にも隠密のコネクションを持っていたことは確実であり、恐らくその橋渡しをしたのはジェッリではないか。

 何よりもジェッリはスペイン内戦時にフランコと共にいたのだ。何一つ資料は残されていない(少なくとも私は現在までに出会っていない)が、その際にオプス・デイ創始者のエスクリバーやその幹部たちと出会わなかった、と考える方が不自然だろう。もちろん彼以外の黒シャツ隊メンバーの中にも、バチカンに通じる者や種々の資金ルートに精通する人間がいたであろうし、ひょっとするとナチスから派遣された人員がこの教団と接触した可能性すらある。

 実際にエスクリバーはヒトラーとムッソリーニを熱烈に賛美していた。また彼らの方がこの教団の持つ一風変わった思想に興味を持ち共感を覚えたのかもしれない。もちろんこれらは私の想像でしかないが、オプス・デイ本部のローマ移転とそれ以後の爆発的な発展の謎は、まずその出発点を疑うことでしか解けないだろう。またそのような仮定をすることで初めて、後のCIA、中南米の政財界や軍部、マフィア集団やP2などの裏社会とオプス・デイとの緊密な関係も説明可能になる。

 さらに、ローマにはカトリック系上級秘密組織であるマルタ騎士団の本部もある。慈善団体を装うこの謎の集団は、欧州の王室や旧ナチ関係者、欧米の政治家や資本家、CIA関係者などの中に幅広くメンバーを持っているといわれる。ただこの手の話はどこまで信用してよいものか困るのだが、各方面に相当に圧力の効く団体であることだけは間違いなさそうだ。もしも、オプス・デイが1942年にローマに先遣隊を送った際に、ジェッリなどの手引きでそのようなヨーロッパの深奥にまで侵入していたと仮定すれば、王家連合の重要メンバーでありスペイン王室・ブルボン家継承者のドン・フアンとサシで話ができたことにも不思議はなくなるだろう。

[ネズミの後を追って]

 オプス・デイは第2次大戦直後からスペイン以外の国々に急速に進出していった。1945年にはポルトガルに、46年にはイタリアとイングランド、47年にフランスとアイルランド、49年にメキシコ、50年には米国、チリとアルゼンチン、51年にコロンビアとベネズエラ、52年にドイツ、53年にペルーとグアテマラ、56年にウルグアイとスイス、57年にブラジル、オーストリアとカナダ、58年にエルサルバドル、ケニアと日本、59年にコスタリカ、60年にオランダ、62年にパラグアイ、63年にオーストラリア、64年にフィリピン、65年にベルギー、69年にプエルトリコに、といった具合である。

 カトリックと対立するはずのイングランドに、ローマへの本部移転と同年に進出していることはなかなか興味深い。ひょっとするとロスチャイルド家か英国諜報部あたりとの関係も考えられなくはない。また非キリスト教国である日本にも意外と早く入っている。しかしこのオプス・デイ拡大について何よりも注目すべきことは、本部に近いヨーロッパ諸国はともかく、あたかも「バチカン・ラットライン」で逃げたネズミどもの後を追うように、南北アメリカ大陸に侵入した様子がよく分かることだ。

 東西冷戦という絶好の環境の中で、すでにこのネズミの通路はさまざまな裏組織と謀略機関の往復する街道になっており、そこをこのオプス・デイという新参の妖怪が悠々と通っていった・・・、大西洋の地図を眺めながらそのような想像をめぐらしてみる。

 ひょっとするとオプス・デイの急成長の秘密自体は永久に証明されることが無いかもしれない。しかしそれを探る努力の中から、闇に埋もれた「もう一つの現代史」の姿が少しずつ浮び上がってくるのではないか。

 1930年代から40年代にかけてのナチス・ドイツ進展の裏には、英・米資本と多くの米国企業が関与していることはすでに周知の事実である。ナチスを育て、「バチカン・ラットライン」を使ってその「遺産」を引き取り、その世界征服の野望をも受け継いで発展させてきた現在のアメリカ合衆国こそ、まさに「ナチ第4帝国」の名にふさわしい。ナチを育てた一人であるプレスコット・ブッシュ の子と孫がその頭目になっていることがそれを象徴している。

 ただ、今回使用した「ラットライン」関係の資料の作成者には恐らく左翼系のユダヤ人、あるいはそのシンパが多いと見えて、悪魔の双生児であるナチスとシオニストの関係が全くといってよいほど描かれていない。おそらくこれは高等な(つまり悪質な)情報操作の一つだろう。ナチスと米国との関係をどれほど正確に暴いても、そこにシオニストとの関係が書かれていない場合には、現代史の分析として片手落ちなばかりか、結局は英米イスラエル支配層を擁護するだけの大嘘につながるからである。

 私はオプス・デイとユダヤ・シオニストとの間にも重大な関連があるのではないか、と疑っている。イタリア・ファシストの系列である現イタリア保守政権は親シオニストであり、そこに深く食い込んでいるのがこの教団だからだ。この追究は恐らく困難を極めるだろうが、真実を知りたいという衝動は私の本能なのだ。腰をすえて調べていきたい。ここまで迫りきれば「現代史の闇」の全面開示となることだろう。
《注記:オプス・デイとシオニズムとの関係については第7部第8部第9部を参照のこと》

[第3部まとめと次回予告]

 2002年2月から3月にかけて、エルサレム近郊のベツレヘム生誕教会に多数のパレスチナ武装勢力が立てこもり、イスラエル軍とにらみ合いが続いたことは記憶に新しい。このときに事態を打開するために、関係のある(?)4つの国の諜報機関が集まって会議を持った。米国からCIA、英国からMI6、イスラエルからシン・ベト、そしてバチカンから来たのがオプス・デイである。

 いってみれば旧知の仲、お互いに腹の底まで分かっている間柄なのだろう。彼らは、中南米での反共政権樹立や東欧共産圏解体の策動で、また北アフリカ・中近東の動乱を作っては収める作業の中で、時には協力し時には対峙しながらも、「現代史を作るのは俺たちだ」という誇りを胸に秘めて活動してきたのかもしれない。

 次回は『中南米政変を操る影』と題して、中南米の数多くの動乱の陰に潜むこの教団の姿に迫ってみたいと思う。
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第4部:中南米政変を操る影    (2005年1月)

[ドルのカトリック化]

 「オプス・デイは、言ってみれば『ドルのカトリック化』だ。」アルゼンチンの元独裁者フアン・ペロンは生前このカトリック集団をこう形容した。

 20世紀後半のアルゼンチンには民政と軍事独裁が、政治的混乱と経済的行き詰まりをきっかけにして交互に訪れた。しかし政治体制に関わらず、一握りの富裕層だけが政治・司法の腐敗を通してますます肥え太っていく社会の基本構造だけは一貫している。さらにそこにカトリック勢力と米国の中南米政策が大きな影を投げかける。

 1945年から10年間にわたってこの国を支配したペロンはヒトラーとムッソリーニに心酔し、労働組合などの大衆運動を基盤にした国家社会主義の建設を目指した。そして英米資本を接収して鉄道やガスなどを国営企業とし、ドイツの技術を導入して国産のジェット戦闘機を開発、OASから脱退して冷戦に中立の姿勢を持つなど、米英にとっては厄介な存在だった。さらに教育法や離婚法などでカトリック教会の逆鱗に触れ53年にバチカンから破門される。政権後半に激増した反ペロンの動きには恐らくこの両者が深く関わるだろう。そして55年の軍事クーデターによりペロン政権は崩壊。(これには、バチカン・ラットラインとその後の秘密を知りすぎたペロンへの「口封じ」の意味もあったかもしれない。)

 その後、軍政と民政が複雑に入れ替わり、1963年に誕生したイリア政権は富裕層優遇、左翼弾圧の姿勢を貫きながらも米国系石油企業を接収するなど民族主義的な政策を進めた。そのイリアは66年のオンガニアによる軍事クーデターで追放されるが、この裏に米国が潜んでいることは容易に想像がつく。同時にオンガニアはオプス・デイの熱心な信奉者であった。1950年にアルゼンチンに進出していたこの教団はすでに資本家やカトリック教会、軍部の中で無視できないほどの勢力になっていたのだ。1970年にオンガニアが失脚し、73年には亡命先のスペインから帰国したペロンが大統領として復活するが1年で病死。

 ペロン復帰の1973年に隣国チリでピノチェット軍事政権が誕生し、75年にその首都サンチアゴでアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ、ボリビア、チリの軍情報部のトップによる密議が行われ、「コンドル作戦」の異名を持つ情報調整・安全保障システム創設が行われた。ブエノスアイレスにはその情報センターと秘密収容所が置かれ、以後多くの左翼と愛国主義者たちの誘拐と移送、殺害が実行された。

 翌年76年にはビデラがクーデターを起こしアルゼンチンを再び軍政に変えた。彼の「汚い戦争」と呼ばれる徹底した左派弾圧で、2千3百名の暗殺、1万人の投獄、そして約3万人の「行方不明者」が出たと言われる。これらの一連の動きが米国の承認と指導の下で実施されたことは明白だろうし、カトリック教会や法制改革委員会を通してビデラ政権を支えたのは、もちろんオプス・デイである。

 国家テロによる左派弾圧と同時に、ビデラ政権はペソ切り下げ・緊縮財政を行い国内資産の多くが外国へと流れ、米国系国際企業の進出が進んだ。同政権の経済相マルチネスは同時にチェース・マンハッタン銀行の幹部でもあったのだ。76年から83年までの不況とインフレの中で、中産階級の30%が貧困階層へと転落したのである。

 その後1989年に誕生したメネム政権が推し進めたネオリベラル経済政策は、当初はアルフォンシン前政権の4千%を越えたともいわれる超インフレを抑えるのに役立った。しかしIMF・世界銀行による「構造調整」の結果、国営企業はことごとく米欧企業に売り渡され、ドルをベースにした固定相場制の中で米欧投資家が音頭を取る「キャッシュフロー信仰」に踊った結果、2001年の未曾有の経済危機によって破綻する。1976年に75億ドルだった対外債務が2001年には1423億ドルへと膨らみ、借金で利子を支払う自転車操業の中で、資金は国内の生産基盤の整備と最低生活の保障には回されず、この経済の実態が国民に明示されることはなかった。

 その中でハイレベルの汚職、大統領府の多額の使途不明金、政府職員と国会議員への超高額の給与支払い、資本家の恒常的な脱税、法システムの腐敗などなど、ありとあらゆる悪徳と不正が10年間にわたってこの国を支配したのだ。さらにメネムは軍政時代の人権蹂躪で逮捕されていたビデラ等の元独裁政権幹部に特赦を与えて釈放した。「自動的多数派」と呼ばれたメネム政権与党は、その党名「正義党」とは裏腹の「貧乏人から奪って金持ちに配る逆ロビン・フッド」でしかなかったのである。

 2001年の経済破綻の際に国内外の大資本は一方的に資金を逃避させ、25万ドル以上の高額預金者は自分の預金の47.4%まで引き出すことができたが、1万ドル未満の預金者は9%の引き出ししか許されなかった。11月だけでも約50億ドルが国内の銀行から消え、その後年末までに2百億ドルもの資産が「行方不明」となった。一方でアルゼンチン国民の、特に大多数を占める下層大衆の資産は破産寸前の国家によって差し押さえられ、その後のペソ切り下げによって掠め取られたのだ。

 オプス・デイが、内相ベリスや司法長官ボッジアノを尖兵としてこのメネム政権の内務・法務官僚、内閣官房、通信システムの中に浸透し、またネオ・リベラル経済の危険性を告発するカトリック内部の勢力を押さえつけて積極的にその政策を支えたと同時に、自ら国民の資産略奪に狂奔したことは言うまでもあるまい。一例として1997年のクレディト・プロビンシアル銀行破産事件を取り上げよう。銀行運営にあたるオプス・デイ関係者たちがこの銀行から2億ドルを持ち出していたのだ。その行く先は未だ不明だが、バチカンに流れたという噂もある。そしてこの事件で逮捕された者たちはいずれもろくに罪を問われていない。

 そして当のメネムは2001年にマフィア組織による武器密輸に関与した容疑で逮捕され、現在裁判中であるが、せいぜい微罪で即釈放だろう。

 オプス・デイは宗教と資本が結びついた「宗産複合体」とも言える集団である。そして米国の中南米政策には陰に陽にこの教団の姿が付きまとっているのだ。ドルのカトリック化…、ペロンの目は正しかった。

[ネオリベラル経済につきまとう「聖なるマフィア」]

 中南米諸国で最も早くこの新自由主義経済を受け入れたのはチリのピノチェットであった。1973年の彼のクーデターが米国の差し金であったことは今や衆知の事実であろう。すでに1970年のアジェンデ政権誕生の際に米国大統領ニクソンは、キッシンジャー国務長官、ヘルムズCIA長官らに対し、アジェンデ就任阻止のためあらゆる可能な行動をとるよう指示していたのだ。

 それ以前にも米国はチリの左派勢力の伸張を極端に警戒し、CIAを使って反共勢力育成のために様々な手段を講じていた。アルゼンチンと同年の1950年にチリに進出したオプス・デイは、このころには米国にとって最良のパートナーの一つに育っていたのだ。すでに62年には米国の保守的な資金源からの資金がオプス・デイに流れていたと言われ、フレイ政権(64〜70)による穏健な自由主義政策、農地開放政策にすら反対して地主たちを組織化し国家農業協会の設立に力を尽くした。この組織が、同じく彼らが関与する右翼組織「愛国と自由」と共に、アジェンデ政権を揺さぶる勢力となる。

 70年代初期にはオプス・デイ関係の僧侶がCIAからの5百万ドルをチリの反共組織に渡していたという情報もあるし、もちろんピノチェット政権の閣僚に複数のオプス・デイ関係者がいた。彼らはアルゼンチン同様に、資本家、政治家、軍部の中に十分浸透していたのだ。そしてクーデターの翌年1974年に、オプス・デイの創始者エスクリバー・デ・バラゲー自身がサンチアゴに出向いて、『魂の息子たち』であるピノチェット政権幹部を祝福したのである。

 もちろん米国は単に反共政策のためだけにこのような謀略を練ったわけではない。ニクソンは1971年に自ら金本位制を廃止してブレトンウッズ体制を終了させ、キッシンジャーを旗頭にして、中南米により効率の良い経済支配・収奪構造を築き上げる作業に着手していたのだ。

 ピノチェットはアルゼンチンのビデラと共に国家テロによる恐怖政治で有名だが、同時に、1977年には『民営化』と称して国営の鉱山を米国資本に売り渡し、為替を自由化してチリをIMF8条国に移行させた。その後四年間に年平均8%の経済成長を達成して「チリの奇跡」と自画自賛するにいたったが、それを導いたのは「新自由主義経済」論の急先鋒の一人であったシカゴ大学のアーノルド・ハーバーガーの理論であり、それを強力に推し進めたのはオプス・デイが組織する資本家集団であった。当然だがそれは、生産基盤の充実と国民生活の向上を目指すものではなかった。

 これがその後のチリ経済の破綻と腐敗の極端な進行につながったのは当然である。ピノチェットは国家元首引退後、1998年にスペインのガルソン判事によって独裁政権時のスペイン人殺害の罪で起訴され、また2004年には米国ブッシュ政権によってその不正蓄財を暴露され、さらにチリでは現在コンドル作戦での殺人の裁判が進行中である。無論これはこの経済政策の恥部を覆い隠すための儀式的な「トカゲの尻尾切り」に過ぎず、オプス・デイと米国支配層による演出は明白だろう。

 中南米諸国でオプス・デイと新自由主義経済に食い荒らされたのは以上の2国だけではない。1990年から10年間に渡ってペルーを治めたフジモリは、軍部の支持と同時に、教会内のオプス・デイと彼らが主導する企業、銀行、政治家の連合に支えられたと言われ、国営企業やマスコミ等の「民営化」を行うなどネオリベラル経済を推し進めた。国民の支持は高かったが、議会を停止し閣僚を頻繁に入れ替える独裁的手法、政権延命のために憲法を無視する強引な手段、反政府ゲリラであるトゥパック・アマル(MRTA)やセンデルルミノソへの過剰な弾圧のうえに、モンテシノスに代表される政治腐敗が命取りになり、日本への亡命を余儀なくされた。

 次に米国の後押しで大統領に選出されたトレドは、スタンフォード大で博士号を得て世界銀行などで働いた米国のエリートであり、あのハーバーガーの弟子でもある。したがってその政策は前政権以上にネオリベラルだが、日本の援助と好景気に沸く米国のおこぼれを頂戴できたフジモリとは異なり、国内生産基盤の疲弊は目を覆うような状態で、国民の支持率は10%を下回りその政治生命は風前の灯である。

 さて、この教団はフジモリ時代に重要な進展を見せた。ペルーのカトリック教会内部では伝統的にイエズス会の力が強かったのだが、オプス・デイはフジモリを抱きこんだ後に勢力地図逆転に成功したのである。その象徴的な出来事が1996年12月に発生したMRTAによる日本大使館占拠事件なのだ。

 この事件は、地下に掘ったトンネルから特殊部隊が大使館内に侵入し、ゲリラ戦士たちを全員射殺して解決したのだが、そのための時間を稼ぎまた大使館内部のMRTAをスパイするために派遣されたのがオプス・デイのシプリアニ司教であった。フジモリは、ペルー教会の筆頭でイエズス会の枢機卿であるサモラを差し置いて、田舎司教区の坊主をこの大役に指名したのだ。その後バチカンはシプリアニをリマの大司教、そして次の教皇の候補となりうる枢機卿に任命した。これがこの国に対するバチカンの返答である。「使い捨て」にされたフジモリの時代に、オプス・デイを通してどれほどの資金がローマに流れたかは分からないが、この事実がその規模を物語っているかもしれない。

[中南米の政変に漂うこのカトリック集団の影]

 2002年に起こったベネズエラ政変のシナリオを描いたのが米国ブッシュ政権、直接にはCIAであることは明白だが、当然の事ながら国内の富裕階層、カトリック教会(主にオプス・デイ)、ちょっとした金で簡単に動く左右のならず者たち、そして欧米の大マスコミが加わり、その総力をあげて実行したものである。

 この国もまたカルデラ(69〜74、94〜98)およびペレス(75〜77、89〜93)政権の間にネオリベラル経済を導入し、極端な不正・腐敗体質の元で国内資本家と欧米資本が下層大衆の資産を好き放題に食い散らした。なおこの元大統領カルデラはオプス・デイの重要な関係者である。

 貧困層の救済を掲げてチャベスが44歳で大統領に当選したのは1998年だったが、選挙前に資本家とカトリック教会保守層は彼を「ファシスト」と中傷し、また「私有財産が没収される」などのデマを流して、銀行預金が引き出される、食料がスーパーから消える、富裕層がフロリダへと資産を移転させる、ならず者たちを使って暴力事件を多発させるなどの社会不安を煽った。
《注記:そっくりそのままの事態が、2013年以後、故チャベスの後継者マドゥーロの政権を悩ましている。》

 また米国クリントン政権もチャベス当選直後からNED(民主主義のための国家基金)を通して、総額で約2百万ドルの資金を反チャベスの牙城の一つであるベネズエラ石油労組などに送り、最初からチャベスつぶしを狙っていた。そしてブッシュ政権の元、CIA長官テネットが2001年に作成した「世界攻撃マトリックス」の一部としてクーデターが実行された。この点はキッシンジャーがCIAを使ってアジェンデ政権つぶしに奔走した70年代の動きの、ほとんどそのままの繰り返しである。

 さらにベネズエラのマスコミの多くが「反チャベス側」に買収された。明らかに「反チャベス側(恐らくCIAに支援された)」からのデモ隊への発砲を「チャベス側」からのものであると偽って報道し、世界の主要な主要マスコミも一斉にこれに同調してチャベスを「極悪非道の独裁者」に仕立て上げたのだ。

 臨時大統領となったカルモナはオプス・デイの支持者で、前大統領カルデラとは家族ぐるみの付き合いであり、またそのスタッフにはスペイン前首相アスナールの友人イトゥルベを筆頭としてこの教団の関係者が多く顔を見せている。さらに彼らを積極的に支援したカトリック教会はオプス・デイの影響を極めて強く受けている。

 クーデターは下層大衆の迅速な反応と「新政権」内部の不一致によって、数日であえなく失敗に終わったが、彼らは引き続き政権転覆の陰謀をめぐらせているだろう。2004年11月に起こったアンデルソン判事暗殺はその前兆かもしれない。この暗殺の計画が練られたのは、オプス・デイ、FBI、CIAやマフィア組織などの溜まり場で、ブッシュ弟が政権を握るフロリダだったのだ。

 オプス・デイは1980年代にも米国レーガン政権(副大統領は元CIA長官のブッシュ父)と手を組み、ニカラグアやエルサルバドルなどの中米諸国で数々の政治謀略に携わっていた。彼らは各地域の反共戦士たちの組織化に寄与し、下層大衆の救済を掲げるカトリック教会内の「解放の神学」勢力を圧殺していったのである。

 中南米の社会では、日本人には想像もつかないほど教会の影響力が大きい。その教会が反米姿勢を強めると大変なことなのだ。カトリック教会の支持はいずれの勢力にとっても「錦の御旗」であり、民衆は理屈抜きでそれに従う。それも自分たち下層民に有利なことであれば、もはや歯止めが利かなくなるだろう。

 オプス・デイの強い影響下にあるヨハネ・パウロ2世は1982年にニカラグアを訪問したのだが、民衆の前で「解放の神学」を悪罵し、「無神論者」である反米左派勢力のサンジニスタを打倒することが教会の使命であると強調した。中南米各国で頻発した「解放の神学」を唱えるイエズス会神父たちの殺害事件は、オプス・デイに組織された地方軍人、つまり地域のならず者たちによる。その最も悲劇的な例が1989年にエルサルバドルで起こったカトリック大学襲撃、学長エジャクリアなどの殺害事件だろう。

 そして現在、サリナスの新自由主義経済政策が破綻した後にメキシコ大統領となった保守系政治家フォックスは、メキシコ革命以来の伝統であった「政教分離」を放棄し、カトリック教会と連携しこれを擁護する政策を推し進めている。この教会保守派の中心がオプス・デイとその姉妹教団キリストの軍団、およびそれらのシンパであることに説明の要はあるまい。

[ネオリベラル経済に挑戦する米国の異端児]

 ネオリベラル経済は、一言で言えば「金で縛りつけて国を乗っ取り、永久に国際資本の餌食であり続けるように作り変える」政策と言えるだろう。ブレトゥンウッヅ体制が崩壊して本来ならお役御免のIMFが、世界銀行と共に「構造調整プログラム」を強制する道具として利用され、金融自由化、公共事業の民営化(実際には米欧資本への売却)、高金利政策、緊縮財政などを押し付けて発展途上国の国民経済を破滅させ、恒久的に米欧資本に隷属させる、究極的な帝国主義支配体制である。

 その進行に歯止めがかからなくなったのはもちろん冷戦終結後の80年代末期から90年代にかけてなのだが、70年代から80年代に頻発した中南米の政変は、親ソ勢力の「ドミノ」を食い止めるという政治的側面を持っていたと同時に、米国によるこの新自由主義経済政策の実験的導入でもあっただろう。そしてその完成形とも言えるものが2005年にその活動を本格的にさせるFTAA(米州自由貿易地域)なのだ。このFTAAの現在の議長役は、長年キッシンジャーとともに新自由主義政策の実施にあたってきたL.R.エイナウディである。

 ところで米国という国は広い。元マルクス主義者、元トロツキスト、8回も大統領選候補として出馬して1度も選ばれず、逮捕・実刑の経歴を持ち、経済学者を自称する政治活動家、そしてこの新自由主義経済政策に敢然と立ち向かい続けてきた、という変わり者がいる。リンドン・ラルーシュJr.という男である。

 彼の思想を詳しく紹介する余裕は無いが、手短に言えば、英国資本とウォール街を「諸悪の根源」とみなし、各国家の主権と独立性そして国民経済の確保を根本的に重視して、そのうえで国際的な協調を図る機関を置く、というものである。「キッシンジャーの天敵」と呼ばれることもあり、80歳を超す現在も妻のヘルガと共に精力的に活動している。自ら経営する学校を欧州と南米各国に持ち、彼の支持者は「ラルーシュ運動」と呼ばれる動きにまとまり、米国主流派の経済政策と対抗する別の流れを形作ろうとしているようである。実際彼は事あるごとにキッシンジャー、エイナウディなどを非難し、IMFと世界銀行の役割に警戒を呼びかけ、中南米やアジアの各国がそのワナにはまらないように忠告を繰り返している。

 その「反ユダヤ的傾向」によりユダヤ人団体などからは忌み嫌われているが、彼に対する攻撃は少々常軌を逸している。ファシスト呼ばわりはもちろん、86年のスゥエーデン元首相パルメ暗殺犯のキャンペーンを張られたり(これは後に無関係が明らかになる)、詐欺などで告発されて有罪判決を受け(ラルーシュはでっち上げを主張)、70歳間近になって5年間の刑務所暮らしを送る羽目になった。

 特にパルメ暗殺犯のデマを広めたのは悪名高きADLである。この謎に満ちた暗殺は、イラン・コントラ事件の秘密をパルメに明らかにされることを恐れた米国とイスラエル、ソ連と東ドイツの協力による謀略である疑いがある。そしてADLがラルーシュに濡れ衣を着せようとたくらんだ裏に、日ごろからその経済政策を非難されて彼に憎悪を抱いていたキッシンジャーなどの米国ユダヤ勢力がいたことは容易に想像がつく。彼らはラルーシュがレーガン政権内部に入り込んで影響力を及ぼそうとするのを、全力をあげて妨害していたのである。

 それにしてもここまでのデタラメな手を使ってその口を封じようとするところを見ると、逆に、ラルーシュが彼らの政策が持つ本質的な危険性をよほど鋭く見抜き、しかもその運動が見過ごすことのできない社会勢力になりつつあったことが窺える。いつの世でも悪いやつほど真実を恐れるものだ。

 ところで、この四半世紀に経済破綻を繰り返させられた中南米の国々では、近年さすがにこのネオリベラル経済に対する警戒感が強まったためか、チャベスのベネズエラはもちろん、ブラジル、チリ、ウルグアイなどで、米国と一歩距離を置く政権が誕生してきている。経済の首根っこを米欧国際資本に抑えられた状態は変わらないにしても、以前のような好き放題な動きは困難になりつつあるだろう。この傾向と中南米におけるラルーシュ運動との関係は明確ではないが、彼の提唱と同様の、各国の経済的自立と国家の主権を回復しようと志す層が着実に増えていることは事実だといえよう。

 ところが中南米の左翼の間ではラルーシュの評判はすこぶる悪い。彼に対する非難に共通するのは「ファシスト」「アンチセミティスト」といった米国内で右派ユダヤ勢力が使う表現である。それに加えて「ムーニィズ(統一教会)と結託する極右主義者」、果ては「ローマ教皇暗殺をたくらんだベネズエラの危険なカルト集団に関与する極右テロリスト」など、先ほどの「パルメ暗殺犯キャンペーン」を髣髴とさせるレベルのデマが、中南米の左派系の情報誌に踊っている。

 これは恐らく、米国内でその「右手」を使ってラルーシュ運動つぶしを行ってきた勢力が、中南米ではその「左手」を動員して彼の思想の浸透を食い止めようとしているものと思われる。ラルーシュは、麻薬を資金源とする統一教会が米国のクリスチャン・シオニストの先導役になっていることを、正しく指摘・警告しているのだ。

 ただこのラルーシュに関してどうしても解らないことがある。それは彼が南北アメリカ大陸でのオプス・デイの存在を全く考慮していない点だ。彼は、バチカン・ラットラインとそれ以降に拡大された欧州・米国・中南米を結ぶ「国際ファシズム連合(彼はSynarchist -controlled networksと呼んでいる)」の危険性を指摘し、2003年には、ある意味で3・11の予言ともいえる「もう一つの9・11」を警告しているのだが、不思議なことに彼の認識の中にオプス・デイは存在しないかのように見える。全く関心を持たず知識も無いのか、重要性を感じずに言及しても無意味として無視しているだけか、それとも知って意図的に伏せているのか。この点については今のところ私には全く理解できない。

[再び『ドルのカトリック化』:第3部まとめと次回予告]

 最後に、「オプス・デイは『ドルのカトリック化』だ」というペロンの言葉がやはり気になる。単に新自由主義経済に踊ってゼニ集めに狂奔するだけなら『カトリックのドル化』と言うべきだろう。これは単なる言葉の遊びかもしれないが、しかしこの米欧国際資本の気違いじみた略奪経済システムを利用して、着実にバチカン、欧州、南北アメリカ大陸での地位を固めてきたこのカルト集団の目的が、単なるゼニもうけだけとは思えないのだ。そのイデオローグたちは、オプス・デイの目的は「カトリック十字軍の再興」を通した「世界的な規模でのカトリックの再生」にある、と言う。

 この言葉だけなら単なる狂信者の夢想でしかないが、しかし、例えばEC(欧州共同体)構想に初めから彼らが関わっていた、となると、笑ってはいられないだろう。次回は「欧米社会の新たな神聖同盟」と題して、欧州各国と米国の中枢部に食らい込み闇のネットワークを広げるオプス・デイの姿をご紹介していきたい。
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