イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム 目次に戻る    (アーカイブ目次に戻る)
第7部 ナチス・ドイツを育てた米国人たち   (2007年6月)
     

 前回までに私は、イスラエル国家建設に対して、スターリンのソヴィエト連邦、米国やカナダなどにいるシオニスト勢力と英国国家、そしてヒトラーのナチス・ドイツを取り上げた。特にナチス・ドイツの役割は決定的と言って過言ではない。前回申し上げたように、イスラエル国家はナチス・ドイツを「砂型」として鋳造されたのである。そこで問題となるのはこのナチス・ドイツそのものであろう。したがって今回と次回の2回にわたって、ドイツと他の欧州各国および米国に目を移してみたい。そこからイスラエル建国の真相に迫って見たいと思う。

 第1次世界大戦でボロボロにされたドイツの中にどうしてあのような怪物が誕生し成長したのか。教科書的な理解でなら、ドイツ国民に鬱積するヴェルサイユ条約のドイツに対する扱いへの不満がヒトラーの過激な人種主義と軍国主義の主張に吸収されたから、ということになるだろう。私はどうもこのような観念的な議論が苦手だ。このような歴史観は、どうやら歴史というものを人間の意志と哲学だけが作り上げたかのように、人々に印象付けたがっているような気がしてならない。そこにポッカリと空白が、いや底なしのブラックホールが開いているのである。

 どれほどヒトラーがゲルマン種族の優越の観念に凝り固まっていようが、どれほど彼の意思が強かろうが、どれほどドイツ国民の不満が大きかろうが、現実にカネとモノが動かなければ国家など1分たりとも運営できない。

 今回は、少々長くなるのだが、英文で書かれたある文章の翻訳をご覧いただきたい。これはサミュエル、プレスコット、ジョージ・W.H.そしてジョージ・W.と続くブッシュ・ファミリーがいかにナチス・ドイツを作り育て、それを通して米国内での地位を作り上げていったのかを中心にまとめあげた『年表』である。

 原文:Timeline of Treason: The Bush Family Connections to the Nazis
 原文Url:(元々のサイトとはすでに接続不可能となっている。コピーと思われる文書は以下の通り。ただし、これもいずれ接続不能にされるかもしれない。)
       http://www.indymedia.org.uk/en/2003/08/275635.html
       http://www.indybay.org/newsitems/2003/08/12/16345041.php
 (また次の、公開された米国公文書を元にした資料記事も参考にしていただきたい。)
       http://www.asyura2.com/0311/war41/msg/400.html

 この『年表』に書かれてあるブッシュ家とナチスとの関係は、2003年になって暴露された米国国立公文書館と議会図書館の資料によっても明らかに確認できる事実である。さらにこの『年表』には、ロックフェラー、ハリマン家、ダレス兄弟など米国支配層のドイツ利権を巡る大活躍が実にわかりやすくまとめられており、20世紀の米国と欧州の関係を知るためには非常に便利な資料となるであろう。

 ただいくつか注意しておかなければならない点がある。この年表ではユダヤ資本およびシオニストとナチス・ドイツとの関係が完全に抜け落ちているのだ。1933年8月に作られたハアヴァラ協定 に伴ってナチス・ドイツが行ったイスラエル建国支援の財源がどこから来たものなのか明白なのだが、この「年表」ではそれが全く問題にされていない。また、ブラウン・ブラザーズやシュレーダー(Schröder、Schroeder:英米ではシュローダーSchroder)といったロンドン・シティの重要メンバーがドイツ利権あさりとナチス・ドイツへの投資に中心的な役割を果しているのに、それとイスラエル建国のスポンサーであったロスチャイルド家の関わりが全然なかったとはまことに考えにくいのだが、この点も無視されている。

 もちろんこういった『年表』をまとめあげる際に「反ユダヤ主義」「陰謀論」といったレッテルを貼られることを避けた事情は理解できないでもないが、少々偏った編集と言わざるを得ない。

 しかし逆に言うと、2001年以来、イスラエルに忠誠を誓うネオコン、つまりジャボチンスキーの後輩達に担がれて「対テロ戦争」の立役者になっているG.W.ブッシュを考えるなら、逆にこの点だけが真っ白に開いているほうが「あぶり出し」が明白であり解りやすいかもしれない。この『年表』は、作成者の狙いはさておいても、「何年に何があったのか」という事実関係を冷徹に調べていくための参考資料として極めて有益であろうと思われる。そのうえでこの『年表』にある空白(と言うよりはブラックホール)を探り当てていく作業が重要になるだろう。

 人物名は( )の中に原文にあった綴りを添えた。人名の強調は私からである。企業名は原則として英語の原文のまま記載した。また【 】内は私からの注釈である。

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裏切りの年表:ブッシュ家とナチスのコネクション

1833: イェール大学にスカル・アンド・ボーンズ結社が作られる
1897: Union Pacific Railroad(UPR)倒産
1898: Union Pacific Railroad、エドワード・ヘンリー・ハリマン(Edward Henry Harriman)とその同僚の判事ロバート・スコット・ロヴェット(Robert Scott Lovett)に売られる。この取引はクーン・ローブ(Kuhn Loeb)の仲介業に取り仕切られたが、フェリックス・ワーバーグ (Felix Warburg)がそのパートナーだった。
1902: ポール(Paul)とフェリックス・ワーバーグ が合衆国に移住。
1904: ドイツ人アルフレッド・プレーツ(Alfred Ploetz)が、人種および社会生物学資料に出資。これはドイツ優生学つまり人種優越主義運動の主要な雑誌となる。エルンスト・ヘッケル (Ernst Haeckel)がドイツでの優生学を一般化する。
 ジョン・D.ロックフェラー (John D. Rockefeller)が"Occasional Letter No.1"を書き著し、「人間の本性を完成させるために」、人々を型にはめて国民の知性を最低の共通分母にまで低め、親の影響と伝統と習慣を破壊して、科学と実学を限定する計画の詳細を述べる。
 ロング・アイランドのコールド・スプリングズ・ハーバーに優生学研究所がチャールズ・B.ダヴェンポート(Charles B. Davenport)によって作られる。コールド・スプリングズ・ハーバーは同時にダレス兄弟所有の土地でもあった。ハリマン家ロックフェラー家 によってコールド・スプリングズ施設に1千百万ドルを超える資金が投入される。
1907: サミュエル・ブッシュ(Samuel Bush)がオハイオ州コロンバスにあるBuckeye Steel Castings会社の社長に選出される。その経歴を通して、サミュエル・ブッシュはウォール・ストリートの鉄道株に餌を撒き続けた。ブッシュフーバー大統領の親密な補佐官となり、全国工業会(NAM)の初代会長となった。NAMはファシズムを支えた歴史を持ち、1950年代後期に、NAMのメンバーたちはロバート・ウエルチ (Robert Welch)に率いられてジョン・バーチ協会を形成した。
 インディアナ州が最初の優生学法を通過させる。
1909: ロックフェラー基金が創設された。ロックフェラー家 は優生学の運動を推進させたが、その中にはドイツのカイザー・ウイリアム研究所も含まれる。
1911: ジョン・フォスター・ダレス (John Foster Dulles)が法律事務所Sullivan and Cromwellに加わる。
1913: 連邦準備銀行(Federal Reserve Bank)の創設。ポール・ワーバーグが第1次世界大戦の間、総裁を務める。同時に、彼の兄弟マックス (Max)はドイツのシークレット・サービスの責任者であった。
1914: 戦争が間近に迫り、パーシー(Percy)・ロックフェラーは兵器会社Remington Armsを支配下に置き、CEOとしてサミュエル・F.プライアー (Samuel F. Pryor)を指名した。
1915: ダレス兄弟の伯父、ロバート・ランシング(Robert Lansing)が国務長官に指名された。ランシングは彼の甥を企業の仕事という名目でニカラグア、コスタリカ、パナマに派遣したが、実際には米国の戦争政策補助のためにラテン・アメリカを探る目的であった。コスタリカは激しい独裁者フェデリコ・ティノコ(Federico Tinoco)が支配していた。ダレスはワシントンにこの独裁者を支援するように忠告した。彼が反ドイツだったからである。ダレスはまたニカラグアの独裁者エミリアーノ・チャモロ(Emiliano Chamorro:大統領1917-20, 1926)をそそのかしてドイツとの外交関係停止を宣言させた。パナマでダレス は、パナマがドイツに宣戦布告を行う限りにおいて年間の運河通行料金に対する課税を放棄することができると提案した。
1917: プレスコット・ブッシュ(Prescott Bush)がスカル・アンド・ボーンズに加わる。彼の息子と孫であるジョージとジョージ・Wも同様にこのメンバーである。1930年代のBrown Brothers & Harriman【参照1931年】には極めて数多くの会員がいた。
1918: ロバート・スコット・ロヴェットがユニオン・パシフィック鉄道の会長に。サミュエル・ブッシュは米国戦争産業委員会の施設部門に指名されるが、この委員会の議長はバーナード・バルック(Bernard Baruch)でありクラーレンス・ディロン (Clarence Dillon)がそれを補佐した。
1919: ジョージ・ハーバート・ウォーカー(George Herbert Walker)はW.A.ハリマン株式会社(W.A. Harriman & Co)を設立。ウォーカーがその会長でありCEOである。エドワード・ハリマンの息子アヴェレル(Averell)・ハリマンが議長。アヴェレルは後に駐ソ連米国大使(1943-1946)、そして米国商務長官(1946-1948)を務めることになる。 ダレス兄弟 は戦後の条約交渉に加わる。
1920: アヴェレル・ハリマンジョージ・ウォーカーはGerman Hamburg-Amerika Lineの支配権を手に入れる。その交渉はGerman Hamburg-Amerikaの最高幹部であるウイリアム・クーノ(William Cuno)、およびその郵船会社の銀行 M.M. Warburgのマックス・ワーバーグによって設定された。社名はAmerican Ship & Commerce Corpと変更された。Remington Armsのサミュエル・F.プライアーがこの取引に加わっており、新たな会社の役員となった。クーノ は後にナチ党の創設で重要な貢献者となった。
1922: アヴェレル・ハリマンはW.A. Harrimanのベルリン支社を開いた。1942年の日付のあるAlien Property Custodianのオフィスでの幹部会に対する米国政府覚書は、1924年に先立つある時期にハリマンが欧州におりティッセン(Thyssen)と会合したことを示唆する。彼らはニューヨークにティッセンのための銀行を設立することに合意した。加えてこの覚書は、ティッセンの代理人、H. J. コウエンホウヴェン (Kouwenhoven)について述べている。彼はこの件に関連して1924年以前にユーヨークを訪れた。
 優生学的断種モデル法(The Model Eugenic Sterilization Law)がハリー・ラーフリン (Harry Laughlin)によって作られた。この法は2万人以上の米国の断種につながり、ナチスに採用されたニュルンベルグ法の基本となった。
1923: フリンツ・ティッセン (Fritz Thyssen)がナチ党に支援を始める。
1924: W.A. Harriman & Coは、オランダにあるティッセン所有の銀行Bank voor Handel en Scheepvart【船舶貿易銀行?】と共同経営するユニオン・バンキング会社(Union Banking Corp)の設立に40万ドルを投資。プレスコット・ブッシュはUnion Bankを運営するためにこの会社に入る。プレスコットジョージ・ウォーカーの義理の息子でありサミュエル・ブッシュの息子である。Union Bankは今やティッセン のUnited Steelの資金を動かす立場に立った。
 ドーズ計画と共に、これはこの項目詳しく述べることにするが、ジョン・フォスター・ダレスクルップ(Krupp)のために巨額のローンを組んだ。このローンのためにダレスは、ある土曜日にこのニュースの報道を弱めるために、国務次官であるレランド・ハリソン(Leland Harrison)を呼んだ。ハリソンは激怒した。米国の資金が外国に向かう前に海外向けのローンを国務省が審査すると回覧していたからであった。しかしダレスは、ハリソンがローンを止める権限を持っていないことを知っていた。ダレスは、ドイツの会社が軍用の機器を製造しているかどうかと調べる国務省の詮索を避けたかったのである。ダレスのSullivan and Cromwellが、あらゆる軍事用の機器を破壊したとのクルップ の言明を保証することを受け入れたのである。
 Standard Oil とGeneral Motorsの共同によってEthyl Corporationが作られた。
1925: この年までにI.G.Farbenが共和党政権の中に強力な同盟を作り出した。当時商務長官だったハーバート・フーバー(Herbert Hoover)は彼の化学工業諮問委員会に9名のメンバーを指名した。委員会の椅子に座った者には、ウォルター・ティーグル(Walter Teagle:Standard Oil of New Jersey)、ラモー・デュ・ポン(Lammot du Pont)、フランク・ブレアー(Frank Blair:Sterlingの会長)そしてヘンリー・ハワード (Henry Howard:Grasselli副会長)がいた。この4名が持っていたI.G.との強いつながりにも関わらず、その委員会の役割は米国の化学工業がI.G.に打ち勝たつのを支援することだった。
1926: プレスコット・ブッシュはW. A. Harriman & Coの副会長に抜擢される。投資銀行Dillon Readのクラーレンス・ディロンは、ティッセンおよびその仲間フレドリック・フリック(Fredrick Flick)と共にGerman Steel Trustを設立した。その趣旨によるとDillon Readは、2名のDillon Readの代表をGerman Steel Trustの役員に据えることと引き換えにトラストの関連銀行に投資することになっていた。アルバート・ヴェーグラー(Albert Voegler)がドイツ鉄鋼トラストの代表役員であった。このヴェーグラーヒトラーを権力の座に着かせた企業家の一人であった。彼はまた、ティッセン所有のオランダの銀行とthe Hamburg-Amerika Lineの指揮にもあたっていた。Union Bankはフリックの企業Silesian Holding Coとは協力関係にはなかった。ウォーカー・ブッシュハリマンフリック の持ち株会社の3分の1を所有し、彼らの持分をConsolidated Silesian Steel Corpと呼んだ。
 米国I.G.が、米国でのI.G. Farbenの資産を支配する持ち株会社として作られた。重役メンバーにはエドセル・フォード(Edsel Ford)、チャールズ・ミッチェル(Charles Mitchell:ロックフェラーのニューヨークNational City Bank会長)、ウォルト・ティーグル(Standard Oil会長)、ポール・ワーバーグ(Federal Reserve会長であり、ナチ戦争準備への出資者で米国I.G.社長であるマックス・ワーバーグの兄弟)、ハーマン・メッツ(Herman Metz:マンハッタン銀行頭取でワーバーグ兄弟 に支配されている)などがいた。米国I.G.運営委員会の他の3名は裁判にかけられドイツ戦争の犯罪人として有罪となった。
 アレン・ダレス(Allen Dulles)がSullivan and Cromwellに入社。
1927: ジョン・フォスター・ダレス がGAF Company(米国I.G.)社長に(〜1934)
1929: Standard OilとI.G. Farben がカルテルの交渉を開始
 ハリマンの銀行はStandard Oilと他の会社を結び付ける石油パイプライン供給元のDresser Industriesを買収。プレスコット・ブッシュがその社長であり資金供給の帝王となり、彼のイェールの同級生であるニール・マロン (Neil Mallon)を議長にする。
1930: ダレスはチェコの富豪ペチェック(Petschek)家に対して、そのSilesian Coalの利権をジョージ・マーネイン(George Mernane)に売却するように取り計らう。マーネインは単にペチェック家の利権を【この部分意味不明】ためだけに利用された。ダレスはそれからその株を、ナチの経済相である友人のシャハト(Schacht)に売った。売却後、ダレスはConsolidated Silesian Steel Companyの社長となった。その唯一の資産はUpper Silesian Coal and Steel Companyの利益の3分の1であった。その株の残りはフレデリック・フリック が支配した。
1931: W.A Harrimanは英国の銀行Brown Brothersと合併。サッチャー・ブラウン(Thatcher Brown)、プレスコット・ブッシュ、そして二人のハリマン兄弟は新しい会社Brown Brothers and Harrimanの重役となった。ロバート・スコット・ロヴェットの息子であるロバート・ロヴェット(Robert Lovett)とその親友であるプレスコット・ブッシュが新会社でパートナーとなった。ロヴェットは後に戦時空軍補佐官、1947-1949に国務省付補佐官、1950-1951に国防次官、そして1951-1953には国防長官となった。プレスコット・ブッシュはニューヨーク・オフィスを経営し、一方でこの新会社のロンドン・オフィスはサッチャー・ブラウンによって運営された。プレスコット・ブッシュの親友でありイングランド銀行総裁であるモンタギュー・コレット・ノーマン(Montagu Collet Norman)はニューヨークを訪問する際にブッシュ家 の世話になっていたのだが、彼はBrown Brothersの共同経営者の一人でもあった。彼は同時に有名なナチのシンパであった。彼の祖父は南北戦争の際にBrown Brothersのボスだったのだが、Brown Brothersが南部の綿花の75%を英国に輸送した直接の責任者だった。
 プレスコット・ブッシュジョージ・ウォーカー は、第3回優生学国際大会の主催者を務めた。このイベントの目的は1千4百万人の米国人の断種を呼びかけることだった。
 国際決済銀行が設立された。
1933: 1月4日に、ヒトラーが企業家グループによってシュレーダー銀行(Schroeder Bank)に招待された。企業家達はヒトラーに資金を与えて経済的な困難を克服させ、その代わりに労働組合の破壊を約束させた。この会議の出席者の中に2名の米国人がいた。ジョン・フォスター・ダレスアレン・ダレス である。
 ヒトラー が権力を握る。
 マックス・ワーバーグプレスコット・ブッシュによってHamburg- Amerika Lineの重役会のAmerican Ship & Commerce Line公式代表に選ばれた。ワーバーグは長期間,ナチの経済長官でありthe Reichsbankの重役だったヒャルマル・シャハト(Hjalmar Schacht)の顧問だった。ワーバーグはまたモンタギュー・コレット・ノーマン の親友でもあった。
 米独間のすべての貿易を調整する合意が、ヒトラーの経済相ヒャルマル・シャハトジョン・フォスター・ダレスとの間での交渉の後に、ベルリンで結ばれた。その結果、アヴェレルの従兄弟であるオリバー・ハリマン (Oliver Harriman)が、ドイツ・米国間のあらゆる取り引きを進めるために150社のシンジケートを作り上げた。
 North German Lloyd Co.がハンブルグでHamburg-Amerika Lineと合併した。長期間ハリマンの重役を務めたクリスチャン・ベック(Christian Beck)がこの新しく合併した会社のために北米で「普通貨物輸送任務」の責任者として据えられた。熱心なナチであるエミル・ヘルフェリッヒ (Emil Helfferich)がこのHapag-Lloydと呼ばれた新会社の会長となった。ナチの保安要員が今やこの会社のあらゆる船に乗り込んだ。
 ウイリアム・S.ファリッシュ(William S. Farish)がジョン・D.ロックフェラーによってStandard Oilの会長に指名された。ファリッシュはI.G. Farbenの会長ヘルマン・シュミッツ(Hermann Schmitz)の親友である。ファリッシュは、親I.G. Farbenと親ナチ・プロパガンダを書いて米国の新聞に載せるためにアイヴィ・リー(Ivy Lee)を雇った。彼はナチス・ドイツの船員をStandard Oilのタンカーに雇った。加えて、彼はthe Hamburg-Amerika Lineの会長エミル・ヘルフェリッヒを同時にStandard Oilのドイツ支社長として雇った。Hamburg-Amerikaの役員であるカール・リンデマン(Karl Lindemann)も同様にFarish-Standardのドイツ側最高役員となった。ファリシュプレスコット・ブッシュのつながりがある小さなヒトラー支持グループの中で作られた。エミル・ヘルフェリッヒカール・リンデマンの両者は、Standard Oilの特別取引会計について、ナチSSの長官ハインリッヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)に手形を切る権限を与えられた。この取引は、ドイツ・英国・米国をまたぐ銀行家カート・フォン・シュレーダー(Kurt von Schroeder, Schröder)によって運営された。作家アンソニー・サットン(Anthony Sutton)が調査した米国の諜報記録文書によると、ヘルフェリッヒ は、SSがStandard-I.G. Farben、つまりアウシュヴィッツやその他の強制収容所での大量虐殺を監視していた1944年に入っても、SSに対する支払いを続けていた。
 戦後にヘルフリッヒ は連合軍に対して、これらは彼の私的な仕事ではなくStandard Oil資金に対する作業であったことを語った。
1934: 米国上院Nye委員会の公聴会は、Remington Armsの会長でUBCおよびthe American Ship & Commerce Corpの創始者サミュエル・プライヤー がI.G. Farben とのカルテルの合意に参加していたことを明らかにした。同委員会はまたナチスが大部分米国製の武器で武装していることを暴露した。
  Ethyl Corporation の社長E. W. ウエッブ (Webb)は、ワシントンが「ドイツの中で四エチル鉛【ガソリンの燃焼効率を高める物質】を製造するためにI.G.と共にドイツの会社を作る」意図について知らされているという忠告を受けた。戦争省(The War Department)はこの技術移転に対して相当の批判があることを示唆した。そしてEthyl Company陸軍航空部隊から「貴殿またはEthyl Gasoline Corporationの重役会は四エチル鉛の製造に関連するあらゆる機密あるいは"ノウハウ"をドイツに対して無条件で明らかにすべきだ」と忠告を受けた。
 ヒトラーによる厳しいドイツの統制の中で、Thyssen-Flick連合からの利益は1億【ドル?】にまで膨らんだ。Union BankおよびBank voor Handel en Scheepvaartはともに資金に満ち溢れていた。プレスコット・ブッシュ はUnion Bankの経営責任者となり日々ドイツとの取引に明け暮れた。
 ジョン・フォスター・ダレスはおおっぴらにナチの哲学を支持していた。1935年に彼はthe Atlantic Monthly誌に「平和への道」と題される長文の記事を書いた。彼はドイツが秘密裏に進める再武装を自由の回復として弁護した。彼がInco【不明:企業活動のことか】とドイツの兵器産業に関連して何を行ったのかは知られており、ダレスはドイツとイタリアと日本の平和への意思を確信するようにミスリードしていたのである。1930年代の末期にダレスは親ナチ・グループAmerican Firstの組織化に力を尽した。パール・ハーバーの1ヶ月前に彼は5百ドルをグループに寄付した。後に彼はこのグループとは無関係であると主張した。ダレスはドイツがポーランドに進攻するときに至ってもナチを支持し続けた。ダレス はポーランドへの侵略をポーランドの方にその責任があるかのように弁解した。
1935: Ethyl CorporationはドイツでI.G. Farben と共同でEthyl G.m.b.H.を設立することに合意し、ファシスト・イタリアではMontecatiniと四エチル鉛の共同製造について合意した。この技術移転の時期にいたEthyl Gasoline Corporationの幹部達は、社長で責任者のE.W. ウェッブ(Webb)、C.F. ケターリング(Kettering)、R.P.ラッセル(Russell)、Standard Oil of New Jersey社員でロウズベルトのGeorgia Warm Springs Foundationの管財人である W.C. ティーグル(Teagle)、 F. A. ハワード(Howard)、Standard Oil of New Jersey社員E. M. クラーク(Clark)、A. P. スロアン・ジュニア(Sloan, Jr.)、D. ブラウン(Brown)、J. T. スミス(Smith)、そしてStandard Oil of New Jersey社員W.S. パリッシュ (Parish)である。
 ジョン・フォスター・ダレスは、ミズーリのUnion Electric Company事件で寸でのところで起訴を免れた。この会社は投資会社North America Companyの支店である。証券取引委員会(SEC)は議員を買収する資金を捜査していた。この会社はその法律家と保険会社からキックバックを受け取っていた。そしてミズーリ州全体の議員を買収していたのだ。証券取引委員会の委員長トラヴィス・レイン(Travis Lane)は、最高裁がダレス を有罪としなかったことを、それが彼の魅力なのだ、と皮肉っぽく語った。
 ドイツでニュルンベルグ法が可決されホロコーストへの道が開けた。
1936: Schroeder Bank in New York【シュレーダー(Schroeder、Schröder)は英国や米国では通常シュローダー(Schroder)と呼ばれる】はロックフェラーと合体し、Schroeder, Rockefeller & Company, Inc.が創設された。Schroeder BankのCarlton P. Fullerが社長となりアヴェリィ・ロックフェラー が副社長となった。
1937: この年の1月末までに、ダレスは自分の活動を一つの取引業務に集中させた。Brown Brothers Harriman-Schroeder Rockでの活動である。Schroederはもちろんナチの銀行であり、ダレスはその役員だった。この'Rock'というのはロックフェラーのStandard Oilである。そこはすでにナチとの取引を熱心に進めていた。プレスコット・ブッシュの要求でダレスブッシュハリマン のナチスとの取引に関与していた。
1939: ヒトラー がポーランドに侵入して欧州での戦争が開始。
 ファシストの娘マルタ(Martha)がアヴェレル・ハリマンの甥であるエドワード・ハリマン・ゲリー (Edward Harriman Gerry)と結婚。
 Consolidated Silesian Steel Corporation【参照1926年】はポーランドの町Oswiecimの近くにあった。ソヴィエトの囚人を労働力として使う計画が失敗したときに、ナチスはユダヤ人、共産主義者、ジプシーやその他の少数民族をナチが作った収用所に運んだ。これがアウシュヴィッツの始まりである。アウシュヴィッツがこの場所に作られた理由はそこに石炭の供給が豊富でありそれから航空機燃料を製造できたためだが、I.G. Farben【参照1933年】は石炭の埋蔵地が近いだけでなくアウシュヴィッツでの奴隷労働力の供給があることを利用してすぐにアウシュヴィッツの近くに工場を作った。ドイツの諜報員によると、プレスコット・ブッシュ はポーランドでの奴隷労働の一部を運営したのである。
1940: アレン・ダレスがSchroeder Bankの役員となる。ジョン・フォスター・ダレス はSchroeder Bankの法律顧問として務めた。Schroeder Bankはナチスの資金面での武器として活動した。
1941: パール・ハーバーが爆撃され宣戦布告がなされる。
1942: 米国合同資産管理局(US Alien Property Custodian)のレオ・クローリー(Leo Crowley)は、8月にHapag-Lloyd【参照1933年】の全財産を差し押さえる命令を出した。10月にはニューヨークのUnion Banking Corpの株が差し押さえられたのだが、その株主は、会長のE.ローランド・ハリマン、社長のコーネリス・リーヴェンス(Cornelis Lievense:ナチスの銀行資産管理人)、会計担当者ハロルド・D.ペニントン(Harold D. Pennington:Brown Brothers Harrimanに所属)、役員レイ・モリス(Ray Morris:Brown Brothers Harrimanに所属)、役員プレスコット・S.ブッシュ、役員H.J.コウエンホウヴェン(H.J. Kouwenhoven:German Steel Trustの海外資金担当主任)【参照1926年】、役員ヨハン・G.グレニンガー (Johann G. Groeninger:ナチ・ドイツで産業担当の高官)。
 同月、米国政府はさらに他の2社を差し押さえた。Union Bankによって運営されるSeamless Steel Equipment Corp.およびHolland-American Trading Corpである。
 11月には、Silesian-American Corpのナチ資産が差し押さえられたが、米国人のパートナーの分は仕事を続けるために残された。会社全体を差し押さえることが戦争遂行にとって有害だったのかもしれない。
 この年の5月25日に、米国司法次官サーマン・アーノルド(Thurman Arnold)は、ウイリアム・スタンプス・ファリッシュ【参照1933年】がナチスとの犯罪的陰謀の容疑に対して「返答できない」と抗弁したことを告げた。ファリッシュ はStandard OilとI.G. Farbenとの間のカルテル合意で筆頭運営者だった。このカルテルはアウシュヴィッツでの奴隷労働を利用して石炭からガソリンや合成ゴムを作る工場を建設したのである。
 Standard Oilのドイツ支部であるDeutsche-Amerikanische Petroleum A.G. (DAPAG)は、Standard Oil of New Jerseyが94%を所有していた。DAPAGの社長でありヒムラーの友愛会のメンバーであるカール・リンデマン【参照1933年】がナチズム・サークル内でStandard Oil of New Jerseyの代表を務めたのである。さらに重役で元々ケプラー・サークル(Keppler Circle)のメンバーであるエミル・ヘルフリッヒ(Emil Helfrich)もその代表格であった。カール・リンデマン のコネクションは数多くの銀行の役員として国際的な銀行業務に広がった。その中には、Dresdner Bank、Deutsche Reichsbank、そしてナチが作った民間銀行C. Melchior & Companyがある。
1945: 財務省は議会に対して、United Steelが【参照1922年】ナチスの軍需物資の中で次のパーセンテージを製造したことを明らかにした。銑鉄50.8%、パイプおよびチューブ45.5%、汎用鋼板41.4%、メッキ板38.5%、厚板36%、爆弾35%、ワイヤー22.1%。ここはプレスコット・ブッシュが銀行家として関与していた会社である。事実上、プレスコットヒトラー の米国人銀行家であった。
 アレン・ダレスは、押収された一部のナチ文書の管理を任された若い海軍士官を探し出した。もしその文書が表ざたになっていたのなら、それはダレスが国賊であることを明らかにしていたかもしれない。文書を葬るために、ダレスはその若者が政界に一歩を踏み入れる資金を提供する約束をした。これがリチャード・ニクソン (Richard Nixon)の政治経歴の始まりである。
 ペーパークリップ作戦によって、ナチ党員が米国に運ばれ始めた。
1946: ニクソンは、ニューヨークに本部のある複数の銀行からの豊富な資金のおかげで、議会選挙でジェリー・ヴーフリス (Jerry Voohris)をやぶった。
1947: 戦争の後、オランダ王室の宝石のありかを付き止めていた当局者が、Bank voor Handel en Scheepvaart【参照1924年、1934年】の小切手の中からSilesian American Corporation【参照1942年】の取引を示す文書を発見した。その銀行の社長であるH.J.コウンホウヴェン(Kounhoven)は集中的な捜査を受けてその発見にショックを受けた。すぐにコウンホウヴェンはニューヨークを訪れそれをプレスコット・ブッシュ に告げた。2週間後、いたって健康であったにも関わらず、そのオランダ人は心臓発作で死んだ。
1950: プレスコット・ブッシュ は、米国優生学運動と結び付いた背景のために選挙に敗れた。
1951: Union Bankが倒産。ブッシュ家はUnion Bankの利益の中から150万ドルを受け取った。1952:プレスコット・ブッシュ が上院議員に選出。
 プレスコット・ブッシュニクソン を副大統領候補として選挙に担ぎ出す。
1953: ジョン・フォスター・ダレス が国務長官に指名される。
 アレン・ダレス がCIA長官に指名される。
 Brown Brothers and Harrimanの資金を使って、ジョージ・ブッシュ がCIAのフロント会社であるZapataを作り上げる。
1954: アレン・ダレス指揮下のCIAは、United Fruitを助けるためにガテマラのハコボ・アルベンスに対するクーデター計画を援助。シュレーダー銀行はバナナ・ビジネスでUnited Fruitの共同経営者であった。アレン・ダレスはシュレーダー銀行の終身重役だった。ジョン・フォスター・ダレスアレン・ダレスはUnited Fruitに複数の会社から巨額の資金を投資していたのだ。それに加えて、米国国連大使がUnited Fruitの株主であり、さらにアイゼンハワー大統領の個人秘書はUnited Fruitの公共担当者の妻であった。ダレス兄弟アイゼンハワーに、アルベンス は米国の安全保障にとって脅威であると説得してこのガテマラ大統領を取り除く計画を進めることを承認させた。
1961: C.ディロン 【参照1918年、1926年】が財務長官に指名される。
 ピッグス湾での大失敗【キューバへの介入】。2隻の船はヒューストンとバーバラと呼ばれた。ピッグス湾のCIAのコード・ネームはサパタ(Zapata)作戦であり、ジョージ・ブッシュがその作戦に関わっていた。ついでに言えば、ジョージ・ブッシュ が副大統領に選ばれる前年の1981年に、1960年から66年までのZapataに関する証券取引委員会の記録がすべて失われた。
 ジョン・F.ケネディはピッグス湾事件の後、アレン・ダレス を更迭した。
1963: ジョン・ケネディ が暗殺される。
1964: ジョージ・ブッシュ は選挙運動で市民権法に反対するキャンペーンをする。彼は落選した。
1966: ジョージ・ブッシュ が議員となる。
1968: ニクソン が大統領に選ばれる。
1969: ZapataはUnited FruitをCIAと強くつながった他の会社に売却しようとする。そして改革を試みようとする中米の国々の政権転覆に関わる。
1971: ジョージ・ブッシュ が国連大使に指名される。
1972: ウォーターゲート事件がニクソン 再選キャンペーンの期間中に起こる。
 ジョージ・ブッシュが共和党の議長に指名される。ブッシュは党のethnic heritage groupsの設立を促進する。要するに、これらのグループは東欧から移住したナチにとっての天国以外のものではなかった。共和党のヘリテッジ・グループ委員会には、元ハンガリーArrow Crossのメンバーであるラズロ・パスツォール(Lazlo Paszor)、ブルガリアのファシストのラディ・スラヴォフ(Radi Slavoff)、コサック支部で元SS士官だったニコラス・ナザレンコ(Nicolas Nazarenko)、ルーマニアのIron Guardメンバーだったフロリアン・ガッドゥ(Florian Gaddu)、スロバキアのファシストのメトド・バルコ(Method Balco)がいた。アレン・ダレス とニクソンはこれらの移住者達が選挙のために役に立つと信じていた。
1975: コルビー(Colby)はCIAの秘密国内作戦に関する情報を漏らす。それはMokingbirdと Mk-Ultraである。チェイニー(Cheney)はコルビー を取り除こうとする。
1976: ジョージ・ブッシュジェラルド・フォード大統領によってCIA長官に指名される。フォード は親ナチ・グループのAmerican Firstのメンバーであった。
 ジョージ・ブッシュはチリのピノチェット・ファシスト政権に反体制活動家オルランド・レテリエル(Orlando Letelier)を処刑させる。ブッシュ は反体制派を処刑するチリのコンドル作戦計画について十分に情報を得ていた。コンドル作戦はチリに率いられる数多くの南米諸国で、南米のファシスト軍事政権に対する反対派を世界規模で暗殺する大規模な作戦であった。
1984: ジョージ・W.ブッシュによって設立されたArbusto Energy Incが、失敗を明らかにした後で売却される。1988:Silverado Banking Savings & Loan社が規制官によって閉鎖させられたが、副大統領で次期大統領候補の息子であるニール・ブッシュ (Neil Bush)がこの会社の社長をしていた。この閉鎖と捜査は選挙後まで延ばされたものだった。
 有名なナチ協力者フレッド・マレク(Fred Malek)がブッシュの大統領選挙戦で役を果した。マレクは1992年の再選選挙でも再びブッシュに仕えることになる。数多くのブッシュ選挙活動スタッフが、元ナチの戦争犯罪人であることが判明した後で辞任を余儀なくされる。その中にはラズロ・パスツォールヤロスラフ・ステツコ (Yaroslav Stetsko)がいた。
 ウィリアム・ドレイパー(William Draper)がブッシュ の選挙資金集めの責任者だったが、彼の祖父は優生学を促進させるPioneer Fundの創始者だった。
1989: ジョージ・ブッシュは大統領の宣誓を行う。彼の資産はウイリアム・ファリッシュ(William Farish)の管理に盲目的に一任されるが、彼はヒトラーにガスを供給したウイリアム・ファリッシュ 【参照1933年、1942年】の孫であった。
1990: 湾岸戦争の後で、バーレーンはHarken Oilに沿岸の石油採掘権を与えたが、この会社は大統領の息子であるジョージ・W.ブッシュと深いつながりがあった。ジョージ・W. は自分のHarken Oilの持分を売り、その1週間後そこの株価は暴落した。
1992: ジョージ・ブッシュ はイラン・コントラ事件での主要な人物達を赦免する。
1996: ジョージ・ブッシュは麻薬密売人の文鮮明 (Sun Myung Moon)をブエノスアイレスで祝福。文の組織は元ナチに溢れており、同様に元ナチに満ちていた世界勝共連合と密接につながっていた。
2000: ジョージ・W.ブッシュ が最高裁の5対4の採決で大統領に。
2001: 愛国法(Patriotic Act)が通過し、ジョージ・W.ブッシュ の要請で我々に憲法に保障された自由が制限される。 ****************************************************************************

 よくぞここまでしつこくブッシュ家を追いかけたものだと感心するが、しかしこの年表で大きく欠落している点は、最初に述べたナチスとシオニストやユダヤ系資本家との関係だけではなく、レーガン政権(実質的にブッシュ父政権)の時から築き上げられていった後に「ネオコン」と呼ばれるようになる集団とその人脈の存在である。彼らはまさに戦争利権屋集団でありカネと力と偽情報で世界を支配しようとする、ナチス・ドイツ(一部にイタリア・ファシズム)直系の権力集団に他ならない。特に驚くべきことでもあるまい。前回も申し上げたとおり、ナチス・ドイツは米国とイスラエルに引き継がれたのだ。

 次回は再びこの『年表』を元にして、その行間に見え隠れする「ブラックホール」を追及してその空隙を埋めていく作業を行ってみたいと思っている。  
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第8部 米国とイスラエル   (2007年12月)
     

小見出し  ["絶対者"イスラエル]  [米国、ナチス・ドイツ、そしてイスラエル]  [普遍的ファシズム]
         [レオ・シュトラウスの素顔とユダヤ・ファシズム]  [ファシズム国家へと変身する米国]


["絶対者"イスラエル] 

 2007年10月2日号のシカゴ・トリビューン紙は、この年に40周年を迎えたイスラエルによる米軍艦USSリバティー襲撃事件に関する特集記事(和訳はこちら) を掲載した。この文章は今から書くことの理解にとって必要不可欠な資料である。

 イスラエルという国が現代世界はもちろん歴史上例を見ない極めてユニークな存在であることをこの「USSリバティー号事件」が見事に象徴している。イスラエルは単なる「米合衆国の同盟国」などではない。もちろんだが米国(あるいは欧州)の植民地国家とも異なる。意外に思えるかもしれないが、このイスラエルという国こそ、米合衆国にとって(あるいは欧州各国にとって)"絶対者"なのだ。拙訳にも添え書きをしておいたのだが、イスラエルは、その空軍の戦闘指揮官ですら、米国を同盟国としてはおろか独立国家としてすら認めていないのである。

 この1976年の事件でイスラエル空軍と海軍がリバティーを撃沈し乗船している米軍関係者を皆殺しにしようとした理由は様々に推測される。当時の米国や英国がとっていたイスラエル防衛計画とアラブ石油生産のバランスを図る政策に対する攻撃だったと言う人もいる。また、イスラエルは無線通信を傍受してその通信内容を変え受信先に送るという高度な技術を使ってわずか6日間でアラブ合同軍を撃破したのだが、同船がそのようなイスラエル軍の戦術に関する情報を収集していたため、その秘密を隠すためにリバティーを襲った、と語る人もいる。そこまで具体的でなくても単に戦術に関する軍事情報を傍受されることに怒ったためだという説もある。

 しかしいずれにしても、「育ての親」とも言える国の軍用艦船を自己都合のみに基づく明らかな『意図』をもって襲撃したことには違いない。大きなポイントは次だ。

 一介の戦闘指揮官までが「軍の艦船を撃沈されても米国は決して報復しない(できない!)」と知っていた点である。イスラエルは米国と国際社会に対する"絶対者"であり、アラブ人どもを除いては誰一人逆らうことのできる者はいない、という万全の自信なのだ。イスラエル「建国」からわずかに18年後の1967年の話である。これは一体どういうことだろうか?

 我々は米国という国が「人間的な発想」などで動く国ではないことを十分に知っている。いくらイスラエルが「ホロコーストの結果として出来た国」であり「ホロコースト被害者」に対する遠慮が存在するとしても、そんな甘ったるい「人間的な発想」であの帝国の運営は不可能である。何が米国をしてまるで卑屈な召使か奴隷ででもあるかのように振舞わせたのだろうか?

 もちろん「リバティー号事件」ばかりではない。我々は、米国がこの国の建国以来そこに自国民の税金を使って膨大な額の有償・無償の援助を行い、イスラエルの防衛と発展のためにあらゆる犠牲を払ってきたことを知っている。日本の外務省が発表している建前だけの金額ですら1948年から1998年までにすでに800億ドル弱に達し、特に1981年(レーガン=ブッシュ父政権誕生)以降は全額が無償援助となっている。また近年では特にその援助はより「軍事化」している。しかしこのような数字に表れない私的企業や銀行の活動を通しての資金の移動、個人的な「献金」、ほとんど利益の上がらないイスラエル国債の買い取りなどを通して流入する資金がどれほどにのぼるのか、誰も知ることはできない。実質的にはおそらく先ほどの数字を大幅に書き直さねばなるまい。イスラエルは米国からの「無条件の貢ぎ」が無ければ1年たりとも存在できない国家なのだ。

 そのうえで我々は、米国内にイスラエルのスパイが好き放題に出入りし、わずかの例外を除いてほとんど咎められることもないどころか、国家機密をイスラエルに渡し続けた者たちが堂々と国家の指導的地位に就くことを知っている。あの国が国際社会を無視して行った核開発に対して米国に一切文句を言わせなかった事実も知っている。さらに、いわゆるユダヤ・ロビーや各種ユダヤ人団体による議員への買収と恫喝、イスラエル系シンクタンクによる米国の政策立案、ユダヤ人経営・運営の各種メディアと出版による世論操作、果てには「クリスチャン・シオニスト」の全面協力による精神的支配、等々、米国社会のあらゆる側面がイスラエルに対する貢献度でその地位と存在を確保している状態である。これもまた周知の事実だ。

 米国にとってイスラエルはまさに"絶対君主"である。決して米国が中東に作った「植民地国家」などではありえない。まして、かつて日本がでっち上げた満州という植民地国家などと同列に置くことは断じて不可能である。この米国とイスラエルという世にも珍しいコンビについて、我々はもう少し突っ込んで見ていく必要があるだろう。このサンチョ・パンサとドン・キホーテの旅は一体何であり、同じ地球に住む我々をどこに連れて行こうとしているのか?
《米国とイスラエルの奇妙な関係については、イズラエル・シャミール著「あるユダヤ国家」を参照していただきたい。》

【以上、参照資料】 
http://www.chicagotribune.com/news/nationworld/chi-liberty_tuesoct02,0,66005.story?page=1&coll=chi_tab01_layout
http://www.biblestudysite.com/markis.htm 
http://www.samizdat.com/rinkreview20.html 
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/israel/data.html 
http://www2.pf-x.net/~informant/israel/israelenjo.pdf 


[米国、ナチス・ドイツ、そしてイスラエル]

 今までの連載で、私はナチス・ドイツこそがイスラエル創設のための「雌型」、このユダヤ人国家誕生の最大の秘密を握る場であったことを明らかにした。そしてそのナチス・ドイツを準備し創り上げた決定的な要素として、ハリマン、ブッシュ、ウォーカー、ダレス兄弟、ロックフェラーといった米国経済・政治の中枢部にいる人物達やワーバーグ家などユダヤ系の大資本家達が存在したことも知った。さらにシュレーダー(シュローダー)やブラウン・ブラザーズなどのロンドン・シティを支える金融機関(当然だがロスチャイルド家とも提携している)がこれと密接につながり、それらがティッセンやクルップといったドイツの大財閥と提携してナチスを産み育て、そしてヒトラーを政権に就かせて戦争準備と非シオニスト・ユダヤ人への大弾圧を行わせたのだ。第2次世界大戦が勃発する直前まで米国は最大の親独国家だったのである。

 ヒトラーが政権を握るのが1933年1月であり、その半年と少したって結ばれたのが、ユダヤ人国家建設最大の鍵となった「ハアヴァラ協定 」だった。私は、このようなヒトラーの政策がパトロンの許可(あるいは命令)無しにできると考えるほど御人好ではないし、またこのような対内政策とも密接に関連する外交政策がわずかの期間で準備できると信じるほど非常識でもない。分かりきったことだが、このハアヴァラ(パレスチナへのユダヤ人の移送計画)の資金を支えたのは米国や英国から回ってきたカネである。そのお膳立てをしたのが以前からパレスチナの地に「聖なるシオン」を建設する動きを開始していたロスチャイルド家であることは想像に難くない。

 ナチスと同様にこのシオニスト国家は米欧大資本家が総力を挙げて築き上げ、その後に用が無くなった「雌型」としてのナチス・ドイツは米国軍とソ連軍によって取り壊された。そして「迫害を受ける民」として神聖化されたユダヤ人が「約束の地」に創出した国家として、イスラエルが誕生したわけである。

 米国を支配する権力亡者と拝金教徒どもが欧州の同類と共に全力でこの国を作りだしたのだ。米国大統領など単なる彼らの小間使いか代弁者に過ぎない。彼らに逆らえばケネディやリンカーンのように消されるしかないのである。この者達が単なるロマンや人間主義で動くなどと考えるのは歴史に対する冒涜だろう。彼ら欧米にまたがる権力亡者と拝金教徒どもにとって、イスラエルは世界完全支配の鍵を握る「特別な国」であり、英国や米国といった普通の国家とは全く異なった意味を持っているのである。

 単純にその領土と国民を持ち法体系と社会機構を備えた通常の国家など、この者達にとっては動かし利用しいずれは取り払いすげ替えるべき「コマ」にすぎない。イスラエルだけは別である。地政学的にも哲学的にも、そこは彼らの完全なる世界支配に向けた「扇の要」なのだ。その前には米合衆国などという一介の連邦国家の権利など簡単に消し去られてしまう。「USSリバティー号事件」が示すとおりである。

 その誕生に決定的な役割を果したナチス・ドイツとスターリン・ソ連という恐怖政治・独裁国家は共に消滅し、それらのノウハウを一身に受けたこのシオニスト国家が将来の普遍的ファシズムによる世界全面支配の中心として君臨しているのである。 


[普遍的ファシズム]

 異色のネオコン・イデオローグ、マイケル・レディーンは1972年に「普遍的ファシズム(Universal Fascism)」を著した。彼はその中でヒトラーとムッソリーニによって不完全・不徹底に終わらざるを得なかった過去のファシズム運動を批判し、それを乗り越え革命的ファシズムを完結させる道を指し示した。

 彼は1982年にアレクサンダー・ヘイグ国務長官の補佐としてレーガン政権入りし、CSIS(戦略国際研究センター)でヘイグとヘンリー・キッシンジャーの下で働き始めた。以来、彼は「ファシズム」を「自由と民主主義」に置き換えた。レディーンが大きな影響を与えるG.W.ブッシュの言う「自由と民主主義」が「革命的ファシズム」の言い換えであることは、現在までにその政権が自国と世界で実行している事実を見れば明らかであろう。またブッシュの上級顧問で選挙参謀、戦争政策の屋台骨を支えたカール・ローブの最も信頼する相談相手がこのユダヤ・ファシストであった。

 レディーンは、元トロツキストやレオ・シュトラウスの弟子である他のネオコンとはやや異なり、ウイスコンシン大学でユダヤ人のドイツ・ナチズム研究家であるジョージ・モシェに、またローマ大学ではイタリア・ファシズムの研究家レンツォ・ジ・フェリーチェに学んだ。

 彼は同時にイタリアP2メーソン・ロッジのメンバーであり、モサドの重要なエージェントと見なされる。また80年代後半に米国を震撼させたイラン・コントラ事件の主犯格の一人であり、最近明らかにされたところでは、ブッシュ米国政権のイラク侵略を正当化した「ニジェール・ウラン文書」捏造を指揮したのがこのレディーンである。

 しかしこの現代のメフィストフェレスを捕らえ罰することの出来る者はいない。この普遍的ファシストは米国の真の支配者集団に連なっている。そして他のユダヤ人ネオコン・メンバーが活躍できる土壌を整えていった重要な力の一つが、アメリカン・エンタープライズ研究所を取り仕切り国家安全保障ユダヤ人協会(JINSA)の発起人・相談役であるこのファシズム革命家マイケル・レディーンなのである。

 対テロ戦争を標榜する米国と英国の最近の動きは、彼の言葉に倣って言うならば「普遍的テロリズムとの戦い」ともいうべき様相を帯びている。一人一人の顔写真まで公表してアルカイダを名指しした9・11とは異なり、マドリッド3・11、ロンドン7・7と「テロ」が進行するに連れて、次第にアルカイダの影の輪郭がぼやけて溶けて流れ出し、イスラム教社会のみならず欧米一般市民社会の中に深く広がり染み込みつつある、そのような演出が為されている。

 つまり彼らの言う「テロリズム」は世界のあらゆる場所に「見出すことが可能な」ものであり、「テロとの戦い」を否が応でも社会の隅々に、一つの国家から個人の家庭に至るまで、浸透させることが可能なのだ。子供のジュースからコンタクトレンズ洗浄液まで取り上げて捨ててしまう空港国際線を見るがよい。このブレアー政権の発明による空港の状態が、街や学校や職場の中に、果てはアパートと家庭の中にまで徹底させられるとき、普遍的ファシズムは完成する のである。

 普遍的ファシズムは、近年のレディーンが盛んに口にする転倒した用語「イスラモファシスト」「テロの首領たち(the Terror Masters)」との「普遍的な」戦いを通して実現される手はずなのであろう。

【以上、参照資料】 
http://pen.dailykos.com/story/2005/7/22/7563/12283 
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Ledeen
http://www.larouchepub.com/other/2003/3027ledeen_iran.html
http://www.nationalreview.com/ledeen/ledeen200601310805.asp


[レオ・シュトラウスの素顔とユダヤ・ファシズム]

 合衆国憲法を「忌まわしい紙切れ」と罵るG.W.ブッシュは、ワイマール憲法を憎悪したヒトラーの姿にもつながる。シカゴ大学でポール・ウォルフォヴィッツやウイリアム・クリストルなど後の有力なネオコン・メンバーの師となったレオ・シュトラウスは、リベラルな民主主義を実現させたワイマール体制こそがナチス勃興の主たる原因である、と説いた。まさにその通り! リベラルな民主主義を掲げてきた米国社会は、現在彼の弟子たちが実現させつつある普遍的ファシズムの培養基となったのである。

 ドイツ生まれのユダヤ人レオ・シュトラウス(1899-1973)は周知の通りニーチェ、ハイデッガーの影響を強く受けたと言われるが、彼のシオニストとしての態度は2転3転したようである。しかし1920年代に、彼がユダヤ・ファシストの元祖ウラジミール・ジャボチンスキーによって組織されたシオニスト・リヴィジョニストの活動に所属し、ジャボチンスキー自身とも接触を持ったことが明らかになっている。

 このユダヤ・ファシスト集団の一員としては当然のことだが、彼はナチズムに深い共感を覚えていた。彼は、ナチの法哲学者でドイツ国会議事堂放火事件後のヒトラー政権を支え続けたカール・シュミットとは特別に深い関係にあった。シュトラウスはそのシュミットの尽力によってロックフェラー基金奨学金を受け1932年から英国とフランスに留学する。そしてシカゴ大学の研究員に応募して1937年に米国に移住した。ドイツ敗北後もシュトラウスは、戦犯としての刑を逃れたシュミットと1973年に彼が死亡するまで深い交際を続けた。この哲学詐欺師は言葉巧みにその正体を隠しながら、米国社会で主にユダヤ青年を対象としてファシズム革命家を育てていたのである。

 マイケル・レディーンが師事したジョージ・モシェにしても同様であり、ヨーゼフ・ゲッベルスやヘルマン・ゲーリングといったナチ幹部と親交を暖めていたのである。モシェは、ドイツとイタリアで「反ユダヤ主義に悪用された」点を批判しつつも、生き生きとした人間精神の復活としてファシズムとナチズムを評価しレディーンにその「科学的研究」を推奨したと言われる。

 彼らの「ファシズム研究」にとって、一般に「ナチスの犠牲者」と固く信じられているユダヤ人としての立場が、どれほど有効なカモフラージュとなったかは容易に想像がつくだろう。1999年にシャディア・B.ドゥルーリィの著作「レオ・シュトラウスと米国右翼(Leo Strauss and the American Right)」によってシュトラウス主義の危険な本質が一般に伝えられ、ネオコンに率いられるブッシュ政権の暴虐性が広く認められるようになった今日になってさえ、イスラム教徒を除く世界の大多数の人にとって《ユダヤ人》と《ファシズム》を結び付けることは至難の業である。ドゥルーリィですらシュトラウスが「ナチに追われた哀れな亡命者である」という視点から逃れることが出来ない。ファシストどもにとって《ユダヤ人であること》以上に好都合な隠れ蓑は存在しないのだ。

 明確にしておかねばならない。レオ・シュトラウスやジョージ・モシェなどの人物はファシズムの「師」として米国に招かれたのである。まさしくシュトラウスの見抜いたとおりなのだ。ワイマール憲法下のドイツと合衆国憲法下の米国の類似点は、そのリベラルさがファシズムにとって最良の温床となる、という点であった。経済的にも軍事面でも人材面でも米国ほどその条件に恵まれていた国はあるまい。

 シュトラウスの愛弟子であるポール・ウォルフォヴィッツは、シカゴ大学在学中にネオコンのシンクタンクであるCommittee to Maintain a Prudent Defense Policyにリチャード・パールと共に参加している。その後イェール大学で教鞭を執り(彼の学生の一人がルイス・"スクーター"・リビィ)、1972年にニクソン政権の下で国防総省に勤務し始めた。そしてCIA長官であったジョージ・H.W.ブッシュの承認によって組織されリチャード・パイプス(ネオコンの中東研究家ダニエル・パイプスの父親)に指揮される、俗に「チームB」と呼ばれた反共主義の組織に加わっている。

 ナチの再来を防ぐために米国の社会改革が必要であるとの詭弁を弄した哲学詐欺師シュトラウスの弟子たちは他のユダヤ・ファシストの系譜に合流しながら、1980年代レーガン=ブッシュ父政権のあたりからネオ・リベラル経済の本格化と共に彼らの社会改造、ファシズム革命に着手し始めたと思われる。(愚かにも彼らに合流した日系のフランシス・フクヤマは2006年にユダヤ系ネオコンを「レーニン主義者」と呼んで決別した。)

 そしてこれらの「革命家」たちの活動母体となっているのがウラジミール・ジャボチンスキーのユダヤ・ファシズムの後継者たち、すなわち米・欧・イスラエルのシオニスト集団であることは論を待たない。ジャボチンスキー自身が今日の状況を予想していたとは思わないが、一つの強力な「意思の流れ」が20世紀初頭から今日まで貫かれているのである。ジャボチンスキーの愛弟子メナヘム・ベギンの率いるリクードがスターリン・ソ連の流れを汲む労働党政権を倒してイスラエルの実権を握ったのが1977年(ベギンは1983年まで首相)であり、それ以降の米国ではレーガンの狂信的な反共主義の中で例のファシスト集団が順調に育っていくことになる。この点もまた、リベラルなワイマール憲法の中で反共を唱えてすくすくと成長したナチスに相似しているだろう。

 一方で彼らが攻撃目標とした「左翼」「リベラル」はどうだろうか? 今日の目から見るとまさしく茶番劇のお手本だろう。米国リベラルと左翼がシオニストの「左手」に過ぎないことは、イスラエル・ロビーの使い走りでしかない米国民主党、シオニストの「左のガードマン」を勤めるチョムスキーなどの米国左翼知識人の無様な姿から、もはや誰の目にも明らかである。「スターリンとヒトラーの掛け合い漫才」が舞台と趣向を変えつつ延々と繰り返される。

【以上、参照資料】
http://www.swans.com/library/art11/mdolin10.html
http://www.rense.com/general69/paper.htm
http://asyura2.com/0510/war76/msg/948.html
http://www.inthesetimes.com/site/main/article/1114/
http://www.leftcurve.org/LC27WebPages/IsraelLobby.html
http://news.scotsman.com/international.cfm?id=266122006< /A>
http://www.voltairenet.org/article142429.html


[ファシズム国家へと変身する米国]

 米国とイスラエルの関係が次第にはっきりと浮かび上がってくる。欧米にまたがる権力亡者と拝金教徒どもにとって、米合衆国は、彼らの世界完全支配体制の実現である普遍的ファシズムの不可欠な温床であると同時に、"絶対者"たるイスラエルによって支配・誘導されるべき道具に他ならないのだ。その比類なき軍事力と技術力、ブルドーザーで他のあらゆる要素を踏み潰すような文化支配力は、全地球を治めるべき普遍的ファシズム現実化のための必須条件である。

 9・11事件後の米国で、あるいは7・7事件後の英国で起こっている事態について、過去のイタリア・ファシズムやドイツ・ナチズム、日本的ファシズムを批判的に研究してきた(主に左翼系の)研究者と知識人達が見せる、精々が「市民的自由擁護」しか言えない無様な逃げ腰は、彼らを支配してきた《ニュルンベルグ=トーキョー史観》の正体を明らかにするものだろう。

 米国ファシズムは、2001年の「愛国者法」から始まって徴兵制復活への動き、そして2007年に議会を通過した「思想犯罪防止法案」に至るまでのことごとくが、ナチスのたどった道をはるかに凌駕した形で歩んでいるのだ。しかし、このような9・11事件演出以後の「対テロ戦争」を口実にした法制度・社会制度の変化を深く追求して批判すると、左翼知識人によって『陰謀論者=ネオナチ』にすらされかねない。

 過去のファシズムは現在建設中の普遍的ファシズムの雛形、実験に過ぎず、ニュルンベルグ=トーキョー裁判によって巧みにその正体を覆い隠されてきただけなのだ。既定の理論に沿って過去ばかりを穿り回し現代の事実を見ようとしないこの種の知識人たちは、真のファシストの姿を隠す煙幕であり、若い知性を誤誘導させる役目を果すことでその存在を保証されている「第5列」「別働隊」に他ならない。

 本物のネオナチはワシントンとロンドンとテルアビブをつなぐ空間にいる。彼らに国境や国籍は無意味である。この権力亡者と拝金教徒どもの、ユダヤ・シオニストを実行部隊にした普遍的ファシズム世界の建設は、優に百年単位のサイクルをもつものだ。(「ユダヤ長老の議定書」なる怪しげな書物はその作業をユダヤ人一般とフリーメーソンの仕業にすり替えているが、私は、この書物の作者はロンドンあたりの豪邸に住む人種ではないかとにらんでいる。)どんなに胡散臭い作業でも、ユダヤ人を表に立てて進めるならば実に都合よく現実化できる。シオニスト・ユダヤ人たちも十分にそれを理解しながら積極的にその中心を担っているのだ。

 前回に特集した米国資本家のナチスに対する肩入れは、やがて訪れるであろう普遍的ファシズムの実験場としてのナチ国家建設、および、地理的にも精神的にもその特別な中心地となるべき「聖なるシオン」の実現に向けた、壮大な計画の一部分をなすものであった。だからこそ彼らの誰一人として事実上罰せられることなく米国経済を支え続けまた政府高官となってその後の道を整える役を果し、さらにはその子と孫が米国大統領として普遍的ファシズム実現の具体的作業に取り組むこととなったのである。

 次回からは時間をさかのぼってシオニズムの源泉を探ってみることにしたい。シオニズムとイスラエルがここまで巨大な基盤を持つものである以上、近代シオニズムが単に19世紀末に一部のユダヤ人によって細々とした運動として作られたとは到底考えられない。そしてその中で再びウラジミール・“ゼエブ”・ジャボチンスキーの正体に迫っていくことにする。
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【以上、参照資料】
http://www.roguegovernment.com/news.php?id=4682
http://globalresearch.ca/index.php?context=viewArticle&code=20060530&articleId=2535
http://infowars.net/articles/april2006/170406watching.htm 
http://www.iht.com/articles/2006/02/10/news/edpfaff.php 
http://www.arcticbeacon.com/3-Jan-2006.html

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