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イスラエルによる 米軍艦USSリバティー襲撃

 2007年に「USSリバティー爆撃事件」40周年を迎えた米国で、シオニスト支配下にある大手企業メディアが沈黙を続ける中、シカゴ・トリビューン紙がこの歴史的事件に対して唯一独自の調査を行い、8月2日号で極めて興味深い記事を公表した。
 著者はJohn Crewdson、見出しは
 New revelations in attack on American spy ship
 Veterans, documents suggest U.S., Israel didn't tell full story of deadly '67 incident
http://www.chicagotribune.com/news/nationworld/chi-liberty_tuesoct02,0,66005.story?page=1&coll= chi_tab01_layout

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アメリカの情報収集船に対する攻撃の新たな暴露

退役軍人と公式文書が、米国とイスラエルは1967年の殺傷事件の全貌を語らなかったと語る
ジョン・クリュードソン筆 シカゴ・トリビューン    2007年10月2日


 元海軍二等軍曹でロシア語のエキスパート、英雄的行為によるシルバー・スターの受賞者でありバプチスト教会の正式の牧師であるブライス・ロックウッドは電話口で叫んだ。

 「私は怒っている。怒り狂っているんだ! この40年間というもの、私は怒りに打ち震えているんだ!」

 ロックウッドは、西地中海に停泊する超機密スパイ船USSリバティーに乗船していた。そのとき、4機のイスラエル軍戦闘機が午後の太陽の陰から視界に現れ、事実上無防備だったこの船に向かって機銃掃射し、そして爆撃した。1967年6月8日、6日戦争として知られるようになった戦争の4日目のことである。

 ロックウッドや他の生存者達にとって、怒りは不信の念と混ざっている。イスラエルがその重要な同盟者を攻撃するなどと。そしてその後でこの攻撃を誤認事故であると認識するなどと。この米国海軍のものと明らかに分かる船を、エジプトの騎馬兵を運ぶ半分の大きさも無く似ても似つかぬ外形を持った船と、イスラエルのパイロットが混同したなどと。また彼らは自分たち自身の政府不信の念に満ちている。政府は完全な調査を求める彼らの呼びかけを長年にわたって拒否してきたのだ。

 「ヤツラはいつもそこから逃げるのだ!」ロックウッドは叫んだ。「私は1分たりともそんなことは信じない! 確認もせずに、標的を確かめもせずに海上の船を撃つなどできるわけが無いだろ!」

 40年たち、本紙は居場所が分かった24名を越えるリバティー生存者にインタビューしたのだが、その多くが、叫ぶこと無しにあるいは泣くこと無しには、この襲撃について語ることができないのだ。

 彼らの怒りを掻き立てるのは、政府資料が公開されないことと、軍の元要員の記憶である。その中の何人かはこの記事の中で始めて声を発したのだが、彼らは米国国土安全保障委員会への疑いを強調する。それが、攻撃するイスラエルのパイロットたちの通信を全く傍受しなかったと言っているからである。その通信記録を見た覚えがある者たちによれば、イスラエル人たちは自分達が米国海軍の船を攻撃していると知っていたのである。

 公文書によれば、イスラエルの反発に遠慮しその米国との同盟維持に気を使う米国政府は、その事件の調査を止めてしまった。その決定に加わった者達の一部には、現在になってそれをあまりにも性急で極めて欠陥の多い調査だったと語る者もいる。

 この襲撃の40周年に当たる今年の6月8日に公開された最新で最も大量の資料の中で、この国で最大の電子情報収集と暗号解読を行う組織であるNSAは、この襲撃が「相当な論争と議論の中心となっていた」ことを認めた。NSAが語るには「どんなワンセットの結論でも、それを証明したり反証したりすることは諜報部の意図ではなかった。それらの多くはこの資料を完全に見直すことによって導かれうるものである」。これは次のサイトwww.nsa.gov/liberty で見ることができる。

 イスラエル外務省の広報官、マーク・レゲフは、このリバティーに対する攻撃を「悲劇的で恐ろしい事故、確認ミスによるものであり、それに対してイスラエルは公式に謝罪している」と語った。イスラエルは同時に、この攻撃で負傷した生存者と死亡した者の家族に670万ドルの補償金を支払い、リバティー自体の被害に対して600万ドルを追加した。

 しかし息子や夫を失った者にとって、イスラエルの謝罪も時間の経過も、その悲しみを軽減させることは無い。

 その一人、パット・ブルーは、ワシントンのファラグット広場公園で昼食をとっていたときのことをいまだに覚えている。「あれは6月の美しい午後でした」。そのとき彼女は22才、弁護士事務所の秘書をしていた。

 ブルーは誰かのポータブル・ラジオが、米国海軍の船が東地中海で魚雷攻撃を受けたと言うのを聞いた。数週間前、NSAでアラブ語のエキスパートで2年前に結婚したブルーの夫が大急ぎで海外に向かっていたのだ。

 彼女がそのニュースに耳を傾けたときに「全てがいっぺんにやってきました」。すぐ後でNSAはアラン・ブルーが行方不明者の一人であることを明言したのだ。
「私はもう二度と自分の若さを感じなくなってしまいました」と彼女は語った。


水平線上の飛行機

 6月8日の夜明け前からイスラエル軍の飛行機が水平線上に姿を現し続け、そしてリバティーの周りを旋回した。

 イスラエル空軍は戦争の初日にエジプト空軍の地上施設を破壊してすでに制空権を握っていた。米国はイスラエルの同盟国であり、イスラエルは米国人がそこにいることを知っていた。その船の目的は、イスラエルにとっての敵アラブ諸国とそのソ連人の軍事顧問達による通信を傍受することであり、イスラエルの通信の傍受ではなかった。誰も皆リバティーは安全だと思っていた。

 そのとき、昼休みで日光浴をするためにデッキでくつろいでいた士官と兵士達に向かってジェット機が機銃掃射を始めたのだ。操舵員のセオドア・アーフステンは、ユダヤ人の将校がその飛行機の機体にある青いダビデの星を見たときに悲鳴を上げたのを目撃した。最初、デッキの下にいた乗組員達は自分達の船をどこの飛行機が撃っているのか全く分からなかった。

 その日に34名が死亡したが、その中にブルーが混じっていたのだ。唯一の民間人死亡者だった。加えて171名が、イスラエルによる空と海からの攻撃によって負傷した。それは、エジプト、シリア、ヨルダン、その他多くのアラブ諸国の合同軍に対する完全勝利目前の出来事だった。

 しかしこの襲撃を生き延びた大部分の者にとって、この6日戦争は彼らの人生を全く変えるものだったのである。

 一部はその任務が終わるとすぐに海軍を除隊した。その他は定年まで長く勤め続けた。多くの者が良い仕事に就けた。一人は諜報機関員となり、ボルチモアの警官になった者もいた。

 数多くの者がいまだに病院の治療と薬で手当てを受けているが、それは事件以来ずっと心的外傷後ストレス障害と認知されているためである。ある者は30回以上の大きな手術を受けた。他の一人はいまだに脳に残っている砲弾の破片のために起こる発作に苦しんでいる。

 ブライス・ロックウッドが海軍を去った後、彼は建設業界で働き、次に保健会社に勤めた。「私は仕事を手に入れてはクビにされたよ。」と彼は言った。「私は足が地面に触れるたびに地獄の苦しみを味わうんだ。」

 その語学力をもってすれば、ロックウッドはNSAかCIAかFBIで職を手に入れたのかもしれない。しかし彼は米国政府に対する激しい怒りのために国のために働くなどできなかったのだ。「政府のことは言わないでくれ!」と彼は叫んだ。


米国海軍のジェット機は呼び返された

 事件後、あるイスラエル軍事査問会議は、同国の海軍首脳部が攻撃の少なくとも3時間前に、シナイ半島沖13マイルに停泊中のあらゆる種類の電波通信を受信可能な40本以上のアンテナが突き出した奇妙な形の船が「米海軍の電磁波音声探知船」、浮かぶ電気掃除機であることを知っていたと認めたのである。

 このイスラエルの査問会議はその後で、その情報は単純に見失われ、空襲を指令する地上の管制官の所にも、空軍の去った後を片付ける3隻の魚雷艇の乗組員までも、全く届かなかった、と結論付けた。そして彼らはリバティーのデッキを機銃掃射し魚雷を発射してその右舷に39フィートもの穴を開けたのだ。

 シカゴ・トリビューン紙がインタビューした生存者の全員が、このイスラエルの説明を跳ねつけた。

 生存者達にとって全く理解できないもう一つのことは、リバティーの40マイル西を巡航中だった航空母艦アメリカとサラトガを含む米海軍第6艦隊が、少なくとも2編隊の海軍戦闘機と爆撃機を発進させたのに、どうしてすぐにそれを呼び戻したのか、ということである。そうでなければ魚雷攻撃を防ぐのに間に合って、そして26名の米国人の生命を救えたかもしれない。

 J.Q.“トニー”・ハートは、その当時ワシントンと第6艦隊の間の通信を取り扱うモロッコの米海軍中継基地に配属されていた下士官だったのだが、ワシントンにいる国防長官のロバート・マクナマラが、米国空母艦隊の司令官であるローレンス・ゲイズ少将にジェット機を呼び戻すように命令するのを聞いたことを覚えている。

 ゲイズが、リバティーが攻撃を受けており救援を求めていると抗議したときに、マクナマラは「(リンドン・)ジョンソン大統領が数名の水兵を巡って戦争をしたり米国の同盟国を困らせたりするつもりは無いのだ」と切り返した。

 マクナマラは、現在91才なのだが、トリビューン紙に対して次のように語った。「私があの日に何をしたのか全くもって覚えていない」、ただし「あのときに何が起こっていたのか分からなかったという記憶」を除いては。

 ジョンソン政権は、あの攻撃が単なる悲惨なミステイク以上の何ものでもないというイスラエルの主張に対して、公式の反論を行わなかった。しかしリンドン・B.ジョンソン大統領ライブラリで見つかるホワイトハウスの内部記録文書は、ミステイクがどのように起こったのかというイスラエルの説明が信用されていなかったことを示している。

 マクナマラを除き、国務長官ディーン・ラスクを始めとするほとんどの政府高官たちは、ジョンソンの情報顧問クラーク・クリッフォードが国家安全保障委員会の幹部会議の席で行った、あの攻撃が確認間違いで起こった事件であるとは「全く考えられない」という発言に、個人的には同意していたのだ。

 あの攻撃は「意図的であった以外の何ものでもない」と、NSA長官のマーシャル・カーター大尉は後に議会で語った。

 「あれが事故だったなどと信じているNSAの人間にあなたが大勢出会うとは思えないね」元NSA副長官であるベンソン・ブッフハムはあるインタビューで語った。

 「私は、イスラエルのパイロットは自分達が何をしているのか知っていたと、ずっとそればかりを考えた」。当時の国土安全保障委員会スタッフで後に近東と南アフリカ問題と担当する国務省次官となるハロルド・サウンダーズは言った。

 「私に言わせれば本当の問題は、一体誰がその命令を下したのか、それはなぜか、ということだ。それが本当に重大なことだ。」

 その答は、もしその人物がいるとしても、決して明らかにはならないだろう。当時あの国の国防長官だったモシェ・ダヤン将軍、イスラエル首相のレヴィ・エシュコル、そしてその後継者ゴルダ・メイアは、全員がすでに死亡している。

 リバティーが意図的に襲撃されたと信じる者の多くは、イスラエルがその通信を傍受され戦争を拡大しようとする計画が明らかにされることを恐れたのだと考えている。米国はその計画に反対していた。しかしその見方を根拠付ける明白な証拠を見つけることは誰もできていない。そしてイスラエルはそれを否定している。NSAの副長官であったルイス・トーデラは、最近になって機密解除された覚書の中で、あの攻撃が「シナイ半島にいたある上級の司令官がリバティーは自分の行動を探っていると誤って疑って命令を下した可能性がある」と推測していた。


米国の旗が見えなかったのか?

 社会の中でリバティー襲撃の記憶が薄れてきているのだが、歴史家でありエルサレムのシャレム・センターの上級研究員であるマイケル・オレンは「あのリバティー襲撃の事件は決して終わっていない」と認める。

 終わっていないどころか、「イスラエルに対する非難のレベルは時と共に激しく上がっている」とオレンは言う。彼はあるインタビューで、米国による公式の調査は、40年後の今になっても、それが最終的にイスラエルの責任ではないことを確実にする理由でありさえすれば良い、そのための役に立つようなものだと信じていることを語った。

 リバティーに何が起こったのかについての疑問はいまだに生き続けているのだ。それを支えているのは、生存者達のグループとそのウエッブサイト、6冊の本、雑誌の記事に加えて、テレビ・ドキュメンタリー、学術誌で公表される学術研究であり、さらにはインターネット・チャット・グループでアマチュア探求者たちが写真の解釈や魚雷が突っ込んだ深さなどの秘密の点について議論をする。

 その一方で、リバティーの生存者と、著名な優れた海軍大将や将軍達を含むその支援者たちは、議会に対して十全な公式調査を求め続けてきたのである。
「我々には真実を知る当然の権利があります」パット・ブルーは言った。

 そのあらゆる複雑な様相にも関わらず、リバティーへの攻撃はたった一つの疑問に集約されうる。その船は襲撃を受けたときに米国旗を掲げていたのか?そしてそれは空から見えるものだったのか?

 トリビューン紙のインタビューを受けた生存者達は、口をそろえて、リバティーが星条旗を掲げていたことを語る。それは攻撃の前も最中も同様であり、例外は旗の一つが撃ち落されて新しいより大きなものに付け替えられている最中だったのだが、新しい旗は「祭日用」の13フィートもあるものだったのだ。

 機密解除されたNSAの資料の一つは次のように結論付ける。「数多くのリバティー乗組員に対する公式の聞き取り調査も実際にリバティーが米国旗を掲げていた間違いようの無い証拠を提供した。そしてさらに、当時の天候は、観察と確認が容易にできる理想的なものであった。」

 この襲撃を調べてイスラエル軍の犯罪的な行為を否定したイスラエルの裁判での調査はこれとは正反対の結論に行き着いた。

 それはこう述べた。「接触の間中、米国あるいはいかなる国の旗も船の上には見えなかった。」

 この判決によれば、その攻撃は、一隻の船がシナイ半島でイスラエルが占領中の場所を砲撃しているという、後に誤りであることが明らかになった報告によって引き起こされたものであった。リバティーは海岸を砲撃するだけの能力のある大砲を持っていなかったのだが、この判決の結論によれば、リバティーが砲撃を行っていると誤って見なされてしまったのである。

 この船を最初に攻撃したイスラエル軍のパイロット、イフター・スペクターは、2003年にエルサレム・ポスト紙に次のように語った。彼が最初にリバティーに狙いを定めたときのことである。「私はその船の周囲を2度旋回したがそれは私には全く撃ってこなかった。私は、それが私に向けて一気に砲撃するかもしれないと思ったのだ。私は速度を落としそしてそこに旗が無いのをはっきりと見た。」

 しかしトリビューンにインタビューを受けたリバティーの乗組員は、イスラエルのジェット機は姿を現すや否や砲撃を開始したと語った。彼らはまた、リバティーが敵船の乗員を追い払うための口径0.5インチ機関銃4つしか持っていなかったために飛行機に向けて砲撃しなかったと言った。

 2004年にエルサレム・ポストが発表したイスラエルの空対地通信記録の筆写によると、スペクターは「私はそれが何か確認できないが、いずれにせよ軍艦だ」と地上基地に無線連絡した。

 イスラエル空軍の声を聞くことを許された同紙のレポーターによって作られた筆写は、攻撃中のパイロットからの通信を記録したテープからのものだが、そこには「米国の」あるいは「米国人」を示す表現は2つしかなかった。一つは始まりのときでもう一つは攻撃終了時だった。

 最初のものは現地時間で午後1時54分、イスラエル気が最初の機銃掃射を始める2分前である。

 エルサレム・ポスト紙の筆写によれば、地上にいた兵器システム将校が急に話し出した。「それは何だ?米国人たちか?」

 航空管制官の一人が応えた。「米国人たちはどこにいるのだ?」

 その質問には応答が無く、また二度と同じ質問は無かった。

 20分後、リバティーがイスラエル軍のフランス製ミラージュとミステル戦闘爆撃機から機銃、30ミリ砲、そしてナパームによって繰り返し攻撃を受けた後で、その攻撃を指揮した指令官はテルアビブにいる上官に自分達が攻撃した船がどこの国のものなのかを尋ねた。

 上官である主任は答えた。「米国に決まっている。」

 14分後、リバティーはイスラエルの船から発射された魚雷によって右舷を襲われ、それによって、船の喫水線より下の部屋にいた100名前後のNSA技術者とロシア語、アラブ語のスペシャリストのうち26名が死亡した。


分析官は言う:イスラエルは沈めたかったのだ

 このエルサレム・ポストで公表された筆写は、1977年にオマハにあるオフット空軍基地の機密ドアの背後でテレタイプ機を動かした通信情報との類似性が極めて乏しいものである。その基地でスティーブ・フォースランドが第544空軍偵察技術部隊の情報分析官として働いていた。

 「地上の管制基地は、標的は米国人であると確言し空軍機に対してそれを確認させたのです」。このようにフォースランドは回想する。「軍用機は標的が米国人であることを間違いなく確認しました。米国国旗でです。

 地上の管制基地は軍用機に標的への攻撃と撃沈を命じ、生存者がいないようにせよと命じました。」

 フォースランドははっきりとした記憶を語った。「パイロット達が標的をすぐに完璧に沈めることができないことにその指令官は明らかに苛立っていました。」

 「彼は、彼らの任務が標的を撃沈することであると繰り返し、沈めることのできないパイロット達の動きに腹を立てていたのです。」
部隊の中でその筆写を読んだのは自分一人ではないとフォースランドは言った。「全員がそれを読んだのです」。26年の軍勤務の後で今は退役しているフォースランドは語る。

 フォースランドの記憶は他の2名の空軍諜報スペシャリストによっても裏付けられる。それぞれ遠く離れた場所で勤務していたのだが、彼らもまた同様にその攻撃中のイスラエル・パイロットによる通信の筆写記録を目にしたのだった。

 一人は現在カリフォルニアで弁護士をしているジェイムズ・ゴッチャーだが、彼は当時、空軍治安部隊第6924治安隊に勤務していた。ベトナムのソン・トラでNSAの補助的任務を行っていたのである。

 「イスラエル軍用機がUSSリバティーに真っ直ぐに向かっていたのは明らかでした」。ゴッチャーはあるeメールの中でこう回想する。「後に、リバティーが危機を脱したあたりの時点で、その司令官はパニックに陥っている様子で軍用機に『任務を完遂せよ』と怒鳴りつけ、そしてそこから出て行ったのです。」

 オマハから6千マイル離れた地中海のクレタ島で空軍のリチャード・ブロック隊長は、中東地域での通信傍受の任にあたる100名以上の分析官と速記官を持つ諜報部隊を率いていた。

 ブロックが覚えている筆写は「最高機密をも超えるようなテレタイプでした。パイロットの一部は攻撃を嫌がったのです」。ブロックは語る。「パイロット達は言いました。『これは米国の船です。それでも攻撃せよとおっしゃるのですか?』と。」

 「そして地上の管制基地は繰り返して言いました。『命令に従え!』と。」

 ゴッチャーとフォースランドはブロックと共に、エルサレム・ポストの筆写は彼らが内容を覚えているものとは似ても似つかぬものである、という点で一致している。

 「(エルサレム・ポストの筆写は)私が見たものと同じだなどと、到底言えたものではありません」とゴッチャーは言った。「もっと重要なこととしては、空から地上への通信手順に慣れた者なら全員、それが単にパイロットと管制基地の間だけの通信ではないことを知っています。」

 現在フロリダで児童保護のケースワーカーをしているブロックは次のように見る。「イスラエル軍パイロットがその船を米国のものであると明らかに確認したうえで地上の管制基地からのさらなる指示を求めたという事実が、エルサレム・ポストの記事では全く抜け落ちています。」

 エルサレム・ポストの記者でこの新聞に筆写を掲載したアリエー・オサリバンは、自分が聞いたイスラエル空軍のテープに複数の空白の部分があったと語った。彼は、これらの空白についてイスラエル軍パイロットが機銃掃射を行っている最中のもので通信の必要が無い時間のものだと推定していると語った。


「で、でも上官、あれは米国の船です!」

 イスラエル人たちが米国海軍を意図的に沈めようとしていることを一点の疑いも残さずに告げる筆写を読んだ者は、決してフォースランド、ゴッチャー、そしてブロックだけではないのだ。

 6日戦争の間にシナイ半島の内外で行われている戦闘に多くの耳がその周波数に同調させていた。その中には戦争の結果に敏感な利害関係を持つその他のアラブ諸国も含まれていた。

 「あの日にそれに耳を傾けていたリビアの海軍司令官と会ったことがあります」と一人の元CIA局員が語った。彼は自分の名を明かさない条件でその内密の情報について語った。

 「彼は歴史の流れが変わるかもしれないと考えました」と、そのCIA局員は回想した。「イスラエルが米国を攻撃しているのです。彼はイスラエルと米国の通信を聞き、これは意図的だと確信したのです。」

 6日戦争の際にレバノンの米国大使であった故ドゥワイト・ポーターは、友人と家族に、イスラエルのパイロットが管制基地と行った会話の英訳筆写記録を見せられたことがあると語った。

 元アラビア横断パイプライン社社長だった親友のウイリアム・チャンドラーによると、ポーターはパイロットの一人が次のように抗議していたと語ったのである。「で、でも上官、あれは米国の船です。国旗が見えます!」それに対して地上の管制基地はこう応えた。「かまわん、撃て!」

 ポーターは、彼が生きている間はこの回想を公表しないように求めた。それが機密情報に属していたからである。また彼は2000年にワシントンでのコスモス・クラブ昼食会の席で、退職したもう一人の米国外交官で元駐カタール米国大使アンドリュー・キルゴアと、その筆写記録について議論したのである。

 キルゴアはポーターが次のように言ったことを覚えている。彼はポーターが次のように語っていたと言った。「テレックスを見てそしてそれを読んで」それを彼に持ってきた大使館員に「そのまま付き返した」のである。その筆写記録には「イスラエルが攻撃していたのだが、彼らはそれが米国の船であると知っている」と書かれてあった。

 6日戦争の期間にベイルート駐在の若いCIA局員であったヘイヴィランド・スミスは、その筆写記録を彼自身は見なかったのだが、「その筆写記録について、あなたがいま私に言ってくれたのとまさに同じ話を、何度も何度も聞いたことがあります」と言う。

 スミスの記憶によると、後になって、「結局その筆写記録はすべて闇にふされました。私は、政府がイスラエルをわずらわせたくなかったのでそれらが闇にふされたと聞かされました」。

 そのような筆写記録が存在したことを示すおそらく最も有力な証言はイスラエル人自身から出てくるものである。ワシントンのイスラエル大使、アヴラハム・ハーマンからテルアビブのアッバ・エバン外相に宛てた2通の外交用の電報だ。

 リバティー襲撃の5日後、ハーマンはエバンに電報を打ち、米国人たちは「ある段階以降、パイロットはその船が何であるのかを知っており、それでなお攻撃を続行した、ということの明らかな証拠」をつかんでいると、「ハムレット」というコード・ネームのイスラエル人情報源が報告していることを連絡した。

 ハーマンはその3日後にもエバンに警告を繰り返し、ホワイトハウスは「非常に怒って」いるのだが「その理由はおそらく米国人たちが、我国の空軍兵士がその船を米国のものだと本当に知っていたことを示す記録を持っているからだ」と忠告した。このエバンはすでに死亡している。

 当時CIA長官だったリチャード・ヘルムスの回顧録によると、ジョンソン大統領の個人的な怒りは、このリバティーの話が翌日のニューヨーク・タイムズで第1面ではなく奥の方に書かれてあるのを見たときにあらわになった。ジョンソンは「なぜこれが第1面に載らなかったのだ!」と怒鳴りたてたのである。

 イスラエルの歴史家トム・セゲヴは、最近の著作「1967」でこの電報について書いたのだが、他の電報によればハーマンの第2の電報での情報源は当時米国国連大使であったアーサー・ゴールドバーグだった、と語る。

 それらの電報は、今はイスラエル当局によって機密解除されているのだが、イスラエル国家公文書資料に含まれるものであり、トリビューン紙によってヘブライ語から翻訳されたものである。

 リバティーが攻撃を受けた当時のNSA作戦責任者であったオリバー・カービィはNSA筆写記録の存在を断言した。

 そのような筆写を自分で見たことがあるかどうかと問われて、カービィは「もちろんですよ。間違いなく見ました」と答えた。

 カービィは回想した。「彼らは『我々はゼロの中にそれをとらえている』と言ったのですが、それが一体何の意味なのか・・・、多分、視界か何かのことだと思います。そして次に一人が言いました。『旗が見えるか?』と。彼らは言いました、『はい、それは米国、米国のものです』。彼らは繰り返しそう言ったのです。だから、誰が考えても彼らがそうと知っていたことに何の疑いようもなかったのです。」

 カービィは、現在は退職してテキサスにいるのだが、その筆写は「私を生涯悩ませ続けているものです。私は聖書に手を置き誓って、彼らはそうと分かっていたと我々が知ったことを、喜んで証言しましょう」と語る。

 筆写記録の一そろいが米軍諜報学校の資料として残っていたことは明らかである。それはその当時メリーランド州のホラバードにあった。

 W.パトリック・ラングは元空軍大佐で国防諜報機関の中東諜報責任者として8年間務めた。彼は、その筆写記録が上級諜報士官の授業で、声による通信の秘密傍受に関する「教材」として使われていたことを語った。

 「飛行隊長は地上の基地に、その船が視野に入ったこと、それは説明を受けていた船に間違いないこと、そしてそれが明らかに米国国旗の印をつけていたことを知らせたのです」。ラングは一通のeメールでこう述べた。

 「飛行隊長は嫌がっていました」。ラングは続くインタビューでこう答えた。「それは明らかでした。彼はそれをやりたくなかったのです。彼は2度、次のように尋ねました。『あなた方は本当に私にそうしろとおっしゃるのですか?』私はこれをずっと覚えています。それはショックでした。私は何十年間ずっとこの記憶を保ち続けているのです。」


鍵を握るNSAのテープが行方不明に

 NSAが本当にリバティーを襲撃していたイスラエル軍パイロットの通信を傍受したのかどうか尋ねられた元NSA上級士官カービィは、「間違いなく傍受しました」と答えた。

 NSAはそのウエッブサイトに1967年6月8日のイスラエルの通信記録を3つ掲載している。しかしそのどれも攻撃自体の記録ではない。

 何と、機密解除された文書に「実際の攻撃」の記録を物語るものは何一つとして存在しないのだ。フォースランド、ゴッチャー、ブロック、ポーター、ラング、カービィが記憶する筆写記録に関する疑問が広がる。

 NSAが「事後」として語る内容を反映する3つの記録は、海に飛び込んだかもしれない生存者を救出するために派遣された2つのヘリコプターとのイスラエルによる通信記録である。

 この記録のうち2つはヘブライ語の専門家マイケル・プロスティナックによって作成されたのだが、彼は、電子情報を主要に集める装備を整えて飛ぶプロペラ機、米国海軍EC-121に乗っていた。

 しかしプロスティナックは、あの日には間違いなくその3つより多くの記録が作られたと言った。

 「言えることは、インターネットにあるたった3つの記録よりも、もっと多くのテープがあったことです」と彼は言う。「私にとって何の疑念もありません。3つより多くのテープがあったのです。」

 プロスティナックは、失われたテープの少なくとも一つがイスラエルの通信を捕らえたものだと語った。そして言う。「その中で彼らは、冷静だとか通常の任務に気を配っているなどと言える状態ではありませんでした。我々には何かが攻撃されていることが分かりました。我々が耳にした誰の声も興奮していました。知っての通りそれは本物の攻撃でした。そして米国国旗について語られたのはその攻撃の間のことだったのです。」

 プロスティナックは、自分のヘブライ語能力が語られている全ての単語を理解できるほどには優れていないことを認めたが、しかし米国国旗についての会話の後で「攻撃は続行されまし。我々はそれを、任務の範囲を完全に超えるほどになるまでコピー(記録)しました。大変な量でした。」

 その飛行機の航空士であったチャールズ・ティファニィは、機内の通話機でプロスティナックが叫んでいた声を覚えている。「UHFでクレイジーなことが起こった」と。UHFはイスラエル空軍が使う周波数帯である。

 「その日のことは決して忘れないでしょう」と、今はすでにフロリダで弁護士を退職したティファニィは語った。彼はまた彼の飛行機のパイロットがNSAの言語専門家に「全てをテープに収めろ」と命令しているのも聞いたのである。

 プロスティナックによると、その飛行機に搭乗する彼と他の者達は1万5千フィート下にあるリバティーの存在に気が付いていなかったが、しかしイスラエルの標的が米国船であるに違いないと結論付けた。「我々は何かが攻撃を受けていることを知っていました」とプロスティナックは言った。

 NSAから公表されている3つの記録を聞いた後で、プロスティナックは、ナンバーを打たれた一連のテープにあったはずの少なくとも2つが存在しないと語った。
A1104/A-02と書かれる一つのテープは現地時間午後2時20分に始まったが、それはリバティーが魚雷にやられた直後だった。プロスティナックはその以前にA1104/A-01というテープがあると言った。

 それにはおそらく襲撃の多くが記録されていたようである。攻撃は午後1時56分の空襲で始まったのである。午後3時7分に始まるテープの前にあった、同乗していた他の言語官によって作られた別のテープもまた、同様に見当たらないとプロスティナックは述べた。

 EC-121機がアテネの基地に着陸するとすぐにアテネ空港にあるNSAの施設に全てのテープが大急ぎで運び込まれたとプロスティナックは言う。そこにはヘブライ語の翻訳官が待機していたのだ。

 「我々は彼らに自分たちの作成したものについて告げ、そして彼らはすぐさまテープを取って作業にかかりました」とプロスティナックは回想する。彼は海軍を去った後、警察の署長を務め、次にノースカロライナのレイク・ワッカモー村で町役場の職員となった。

 EC-121に乗っていたもう一人の言語官が名前を出さない条件で話してくれたのだが、リバティーの攻撃とその事後を記録するテープが「5つか6つ」ほどはあったと確信すると言った。

 NSAのメディア上級顧問であるアンドレア・マルティーノは、イスラエルの攻撃の記録は無いとするNSAの主張と、当記事でインタビューを受けた者達の記憶の間にある明らかな矛盾についての質問に、応じようとしなかったのである。


方々からの批判を受けた米国の調査

 海軍は、どのようにそしてなぜ米国海軍の船が同盟国から襲撃を受けたのかを調査するというよりも、できる限り少ない質問をして限られた時間内に答えさせることに気を配っているようにみえた。

 リバティーがマルタ島のドッグに向けてノロノロと進んでいる間であるにも関わらず、海軍は正式な査問委員会を開いた。欧州での米海軍司令官であり上院議員ジョン・マッケイン(共和党、アリゾナ)の父親であるジョン・マッケインJr.海軍大将は、その委員長としてアイザック・キッドJr.を選んだ。

 この委員会の責任範囲は狭かった。あの襲撃の結果である負傷者と死者に対して尽したリバティー乗組員の一部に手抜かりがあったかどうか判定する、というものだったのだ。マッケインはキッドの調査官が作業を完了させるための時間としてわずかに1週間を与えたのだ。

 「あれはショックでした」。その委員会の査問官を務めた海軍の元隊長ワード・ボストンは回想した。彼とキッドが全部の尋問に6ヶ月はかかるだろうと推定したと彼は語った。

 当時、ロンドンでマッケインの部下の一人であったパトリック・マーチ将軍は「それがそんなに急いで、十分な議論も無しに処理されることに、誰もがある種呆然とした気分でした」と語った。

 ボストンが言うには、主要にその時間の短さのために、査問官たちが多くの生存者に質問をすることもできず、あるいはイスラエルに行ってこの攻撃に加わったイスラエル人に聞き取り調査を行うことも全くできなかった。

 海軍少将マーリン・スターリングは元海軍法務委員長だったのだが、調査報告がワシントンに送られる前に査定するように求められた。しかし、スターリングがその報告書のいくつかの点に対して質問を始めたときに、それは彼から取り上げられてしまったという。彼は今その報告書について「軽率で表面的、不完全で全く不適切な調査」と表現する。

 スターリングはリバティーの生存者のために議会による十分な調査を要求している者達の一人だが、その調査報告が証人や証拠による裏づけの無い数多くの「事実の判定」を含んでいると見極めた。

 そういった判定はどれ一つとっても、米国国旗が攻撃中に掲げられていたという数多くの証言者の証言を無視し、「採用できる証拠は、6月8日のリバティーに対する攻撃が実際に確認の誤りによるものだったことを総じて指し示すものである」と主張するものであった。

 この調査報告書には明らかな削除もまた存在する。例えば若い大尉ロイド・ペインターの証言が盛り込まれていない。彼はその攻撃が始まったときデッキで上官のそばにいたのだ。ペインターは、イスラエルの魚雷艇が「我々の救命ボートの一つに計画的に機銃を浴びせた」と証言したことを語った。そのボートは船から逃げる準備のために船員が船の横に下ろしたものだったのである。

 ペインターは海軍を去った後でシークレット・サービス員として32年間を過ごしたが、救命ボートに関する彼の証言が意図的に削除されたと訴える。

  ワード・ボストンは回想した。マッケインの出した1週間の期限が終わってしまった後に、キッドが査問によって埋められた記録を持って「ワシントンに飛行機で向かい、私はナポリに戻りました」。そこには第6艦隊の本部があった。

 「2週間後に、彼はナポリに戻り自分のオフィスから私に電話をかけてきたのです」と、インタビューに答えるボストンは回述を続ける。「声を潜めて彼は言いました。『ワード、彼らは事実などに関心を持っていない。これは政治的な事項で、我々はこれを終りにさせなければならない。我々は口を閉ざすように命令されているのだ』と。」

 ボストンは言い放った。「真実が現れなければなりません。あまりにも多くの隠蔽があります」。彼は今84才である。

 「いつの日か、その真実が姿を現すでしょう」と言うのはリバティーに乗船していたNSAの技術者デニス・アイクルベリーである。「いつの日か。そのときが来るでしょうが、そのときには我々はもういないのでしょう。」

 ジェイムズ・イーンズは今74才だが、あの攻撃が始まる直前にデッキの係官をしており、その後の2ヶ月間を全身ギプスの中で過ごした。彼は最も声を上げる生存者の一人である。他の者達と同様にイーンズは待ちくたびれている。

 彼は言った。「我々は、どちらの側も嘘を付くのをやめてもらいたいのです。」

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(翻訳後記)

 米国は果たして「独立国」なのか、という疑問を感じる。

 もし独立国なら、それも世界に冠たる大帝国を自認する独立国なら、外国から自国の軍事用艦船に対して攻撃を受けた場合にいかなる態度に出るはずなのか、自国の機密文書が堂々と持ち出され外国の政府に手渡されたとしたらどのような処置を取るはずなのか、明白である。

 1898年に起こった「メイン号事件」はスペインとの戦争の引き金を引き、1941年の「パールハーバー奇襲」により日本との戦争に突入し、1964年の「トンキン湾」事件はベトナムへの本格的軍事介入を導いた。

 唯一の例外が1967年に起こった「USSリバティー爆撃事件」である。相手はイスラエル。このとき米国はイスラエルとの戦争に突入するどころか、資料を抹殺しロクな調査も行わず、イスラエル空軍による「誤認による爆撃」として厳重抗議すら行わずに口をぬぐってしまった。

 イスラエルとの関係で言えば、1990年代以後に相次ぐ「スパイ事件」で捕まっていまだに刑務所にいるのはジョナサン・ポランドのみである。ポール・ウォルフォヴィッツ、リチャード・パール、ダグラス・ファイスといった、後に「ネオ・コン」の大立て者となる者達は大手を振って米国最高権力を渡り歩いた。

 米国は果して本当に独立国なのか?

 イラク戦争が行き詰まりを見せイランに対する核攻撃も2009年2月段階では引き延ばされており、一方でパレスチナ民衆に対する攻撃、イスラエル高官自らが「ホロコースト」と呼ぶ大虐殺が敢行され、米国内でのユダヤ・ロビーとシオニストの横暴が一般の米国人のみならずユダヤ系米国人たちからも鼻つまみ物にされつつある。このシカゴ・トリビューン紙による調査とその公表は「独立を求める米国人」の声を代表するものとして注目に値する。

 書き換えられている歴史は正さねばらない。沈黙させられている声は発せられねばならない。

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