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第5部:欧米社会の新たな神聖同盟(上)   (2005年4月)

[聖人製造工場]

 「おい、冗談だろう?」3・11マドリッド列車爆破事件の少し前の2004年3月初旬、欧州の各界で驚きの声が上がった。バチカンが「シューマン」を福者の候補として挙げたからだ。カトリックの教義で、福者は人間に与えられる地位の中で聖人に次ぐものであり、聖人はこの福者の中から選ばれる。聞いた人の中には音楽家のシューマンを想像して妙に納得した人もいたようだが、これは「EUの父」「EUの守護聖人」とも呼ばれるロベール・シューマンのことだったのである。

 そもそもある人物が福者に推薦されるには、死後5年以上たつこととその人物が行った「神による奇跡」が少なくとも一つは認められなければならない。バチカンの専門会議で本物の奇跡であるかどうかが厳しく審査され、伝統的には認められることが非常に難しいはずのものである。

 ところが故教皇ヨハネ・パウロ二世は2004年末までの26年の在任中、何と1337名の福者、482名もの聖人を作った。もちろん一人の教皇としては空前絶後で、彼以前の17名の教皇が作った聖人・福者の数の合計よりも多い。人は彼のバチカンを「聖人製造工場」と呼んだ。しかしそれにしてもロベール・シューマンが何の奇跡を行ったというのだろうか。もし彼が福者となったのならそれこそ「神による奇跡」に違いなかったであろう。

 第二次大戦後にフランスの首相も勤めたロベール・シューマン(1886〜1963)は、外相であった1950年に、それまで米英の主導で進められていた欧州統合路線を一気に覆し、仏独を軸にした統一欧州構想であるシューマン・プランを発表した。そしてその計画に沿って翌年にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足したのだが、彼は、このプランに協力したイタリアのアルチデ・デ・ガスペリ、西ドイツのコンラート・アデナウアーと共に、熱心カトリック信徒であった。そしてシューマンとガスペリは、実はオプス・デイに所属していたのだ。

 オプス・デイの傀儡と言われた故ヨハネ・パウロ2世がシューマンを福者にしたがった特別な理由はちゃんと存在した。何せ2002年には死後27年という異例の早さでこの教団の創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーを聖人に仕立て上げた教皇である。この「EUの父」を福者にする目論見は、EU憲法の中に「キリスト教」の一言を記入させ、ローマ教会つまりオプス・デイのペースでEUを動かすためのデモンストレーションでもあった。しかしさすがにこの横車は押し通すことが出来なかったと見えて、2004年のシューマン列福は立ち消えになりEU憲法もバチカンの思惑から外れた。

[統一欧州とオプス・デイ]

 シューマン・プランが発表された1950年といえば、創始者のエスクリバーがローマに本拠地を移転してからわずかに4年目のことである。シューマンとガスペリだけではなく、欧州統一を目指して1946年に作られた経済協力欧州連盟(LECE)の会長で後のフランス大統領の父親であるエドゥモン・ジスカール・デスタンも、またオプス・デイに属していたといわれる。

 教団創設から間もないこの時期に、すでにこれほどの欧州政界の大物をかかえ、その会員の名を冠したプランがその後の欧州の運命を決めてしまったのである。このECSCの成立は、米国と組んでアングロサクソンのペースで欧州をまとめようとした英国の思惑を打ちのめし、現在のフランスとドイツを軸にしたユーロ圏とEUの登場に道を開いたものであった。オプス・デイはその初期からすでに欧州の「雲の上」にその身を届かせていたのだ。この教団は最初から支配者となるべく育成されていた。第3部 でも述べたが、その誕生と成長の過程には実に多くの秘密が横たわる。

 そもそも欧州統一の流れは、理念としては17世紀のアンリ4世の時代にまでさかのぼるのかもしれないが、実質的には第一次大戦終了後の1922年にリヒャルト・デ・クーデンホフ-カレルギ伯爵が主導した「汎ヨーロッパ主義運動」がその出発点であった。オーストリア帝国外交官と日本人の母ミツコとの間に生まれたこのオーストリア・ハンガリーの貴族は、フランス・ドイツ国境の石炭と鉄鉱の資源争奪が戦争の原因と考え、国境線の廃止と超国家的権威による資源の管理が新たな戦争を食い止める唯一の道であると唱えた。彼の「統一欧州」は米国、ソ連、大英連邦と拮抗する勢力をなるべきものであり、分裂し疲弊して米国とソ連に挟撃される欧州をよみがえらせようとする熱意の産物であった、といえる。彼の理想はアポリネール、トマス・マン、アインシュタイン、フロイト、ピカソなどの欧州文化人(不思議とユダヤ人が目立つ)から高い評価を受けたが、大不況と第二次大戦がその夢を打ち砕いた。

 そしてクーデンホフ-カレルギと共に欧州統一構想に力を尽くした人物がイタリア人の大富豪でフィアットの創業者ジョヴァンニ・アニエッリであるが、彼はベルサイユ条約と国際連盟に反対してムッソリーニ政権最大の庇護者となりヒトラーを支持した。ジョバンニは一九四五年に他界したが、その後もアニエッリ家は、オプス・デイと関係の深いイタリア保守政界(例えばガスペリの他にジウリオ・アンドレオッティもそのメンバーと言われる)を中心的に支え続け、欧米支配層の中で遺憾なく実力を発揮した。おそらくこの教団の創成期に深い関わりを持っているものと思われる。

 第二次大戦後はソ連圏に対する集団的防衛の意味合いを帯びた形でこの統一欧州構想が改めて取り上げられることとなった。それは米国に亡命していたクーデンホフ-カレルギの声にCFRが耳を傾けたものであったのだが、米国と英国のプランは彼の構想とは似ても似つかぬ、アングロサクソン主導による大陸欧州の属領化ともいえるものであった。しかしこれは1952年までに担当者内部の不一致とド・ゴールなどの抵抗で頓挫し、クーデンホフ-カレルギの当初のアイデアを生かしたシューマン・プランに沿ったECSCが本格的に始動することとなったのだ。

 米国はNATOを先に(1949年)発足させ対共産圏の軍事政策を利用して欧州に枷をはめていた。しかし欧州事情に詳しく後にCIAの長官となるアレン・ダレス(CFR委員)はペンタゴンの思惑とは別にシューマン・プランの実現に向けて協力を惜しまなかった。ダレスといえば、米欧ユダヤ支配階層に最も信頼される人物の一人であり、オプス・デイと縁の深いリチオ・ジェッリと共にバチカン・ラットライン を画策・実行した人物でもある。ここに米国の持つ「もう一つの顔」が見え隠れする。

 ECSCの成立はアングロサクソンを狼狽させたが、しかしやがてNATOとの妥協点から、欧米を支配する者たちによる一つの「ソサエティー」が誕生することとなる。これが1954年に発足するかの有名なビルダーバーグ会議であるが、ここではこの集まり自体については触れない。

 ECSCは1951年にフランス、西ドイツ、イタリアおよびベネルクス3国の6カ国で成立し、1957年には同じ6カ国による欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(Euratom)が発足した。これが英国をも巻き込んで後のECに、そしてユーロ圏を形成し、東欧・バルト海諸国を含む今日の25カ国のEUへと発展したのである。将来はトルコやひょっとしたらイスラエル、果てには地中海沿岸全域を含む、巨大な地域ブロックを形作る可能性すらある。

 そしてオプス・デイの姿は、その発起人ともいうべきシューマンやガスペリはもとより、推進者のアニエッリ家と歴代イタリア保守政界、フランス保守政界にちらつくし、また現在の欧州議会と欧州委員会の中でも非常に強い影響力を持つ。さらにハブスブルグ家、ブルボン家、リヒテンシュタイン家、ポニアトウスキ家、ワルドブルグ-ゼイル家などのEU内での有力な家系の者はオプス・デイに関係ありと見たほうがよい。オランダ王家も無縁ではなさそうだ。彼らは王家・貴族の家柄だけでなく大資本家であり、欧州の政治・経済を影で(というより「雲の上」から)取り仕切る者たちである。当然のことながらバチカンとスペイン王家は完全に彼らの勢力範囲だ。

[共産圏解体の陰に]

 ここにロベール・シューマン研究所という組織がある。これは正式には「中央および東ヨーロッパにおける民主主義発展のためのロベール・シューマン研究会連合」という名称である。1995年に発足したもので、各国の保守的(つまりキリスト教的)政党や団体によって構成され、その主体はルクセンブルグ・ロベール・シューマン基金、キリスト教民主党連合、欧州国民党(EU議会内の保守党会派)、欧州研究基金である。その目的は名称の通り旧共産圏の国々に西欧型民主主義を根付かせる、というものだが、このソ連圏の解体に果たしたバチカンとオプス・デイの役割は限りなく大きい。

 ポーランド出身のカロル・ヴォイティーワが教皇の座に着いたのは冷戦継続中の1978年のことであった。彼の前任者ヨハネ・パウロ1世は在位わずか1ヶ月で謎の死を遂げたが、オプス・デイあるいはフリーメーソン組織P2による暗殺ではないか、との噂もある。さらにその少し前のニクソン政権の時代から、それまで公式には関係を絶っていた米国が、バチカンに積極的な接触を開始していた。

 関係を絶っていたとはいえ、第4部でも書いたように、米国政府とCIAは中南米での数々の反米政権転覆謀略の中でオプス・デイと密接な協力関係を保ち続けていた。そしてそのオプス・デイがヴォイティーワを強力に推し、誰もが予想しなかったポーランド人教皇の誕生となったのだ。この筋金入りの反共主義者であるヨハネ・パウロ2世誕生の背後にはただならぬ気配が漂う。
《注記:ヨハネパウロ2世と米国、そしてオプス・デイの関係についてはこちらの記事も参照のこと。》

 米国はレーガン時代の1984年にバチカンと正式に国交を結びCIA局員が大手を振って教皇庁に出入りできるようになったのだが、もちろんそれ以前から米国政府−CIA−オプス・デイ−教皇庁のつながりはしっかり出来ていた。その前年に教皇は反米サンジニスタを壊滅させるべくニカラグアを訪れているのだ。

 また教皇庁、つまりオプス・デイはリチオ・ジェッリを通してソ連・東欧の情報機関との接触を持っていたと思われる。この教団のメンバーであるFBI局員ロバート・フィリップ・ハンセンが十数年間のKGBスパイ容疑で2001年に逮捕され、同じく会員である疑いが強いその上司のルイス・フリーフFBI長官がその後に辞任したことが何よりの証拠だ。要するに口封じである。「冷戦」体制から「対テロ戦争」体制に移る際に、以前の対立構造の秘密を消し去っておかねばならなかったのだろう。

 そして1989年にレーガンの跡を継いだ元CIA長官のジョージ・ブッシュ父は、ヨハネ・パウロ二世の仲介でソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談を実現させ、冷戦に終止符を打った。これが長年にわたるCIAとオプス・デイによる地道な諜報活動と根回しによる結果であったことは説明の要もあるまい。ヴォイティーワは共産圏を解体し冷戦構造を終了させるべく選ばれた男だった。それを知っていたからこそブレジネフは彼に刺客を放ったのだ。

 しかし何よりも彼らの熱意を感じさせる場所は、やはり教皇の祖国ポーランドであろう。ポーランド「民主化」のシンボルはあの労働組合「連帯」委員長で後に大統領となるレフ・ワレサなのだが、このワレサがオプス・デイのメンバーである可能性は高い。2002年に教団創始者エスクリバーが聖人に列せられた式典で、ワレサの姿が大勢の信徒や支持者たちに混じって目撃されたのだ。またP2とオプス・デイ、バチカン銀行が絡むアンブロシアーニ銀行倒産事件を招いた13億ドルと言われる使途不明金は、中米とポーランドでの反共政治活動資金につぎ込まれた、と噂されている。

 80年代に入って急激に高揚した「連帯」の動きの裏には、教皇庁、オプス・デイとCIAの連帯もまた存在していたのである。こうして1989年6月に行われた議会選挙で「連帯」は大勝利をおさめ9月には東欧初の非共産主義政権が誕生した。これがいわゆる「東欧革命」の口火を切ったのである。現在この国はEUに加盟しながらも強く親米路線をとっている。これは伝統的な反独感情もあるが、何と言っても80年代以来のオプス・デイとCIAの工作による世論形成が引き継がれているのであろう。先ほどのロベール・シューマン研究所の設立は東欧各国のEU加入を準備したものであり、そしてポーランドには東欧で最初にロベール・シューマン基金が開設された。

 もちろんEUの動向はオプス・デイだけによるものではない。EU内には、宗教派と世俗主義派、カトリック派と反カトリック派、そしてカトリック内部にも「保守派(オプス・デイを主体にした)」と「進歩派」の大きな対立がある。しかし「第2部:スペイン現代史の不整合面 」でも述べたとおり、この教団は「対立概念」を超越しているのだ。「雲の上の住人」は対立を巧みに操作しながら現実を作り変えていく。見かけの姿にとらわれると世界は見えてこない。

[アングロサクソンがターゲット]

 2004年12月、英国に衝撃が走った。トニー・ブレアー首相が教育大臣としてオプス・デイ会員の女性ルース・ケリーを指名したからだ。伝統的に英国聖公会が圧倒的に強い英国政界で、カトリック信徒、それも「得体の知れぬ秘密組織」との風評が絶えず「超保守派」として名高いこの教団のメンバーが入閣するとは! 早速、人工中絶や避妊の認知を進める女性団体やバチカンの策謀を警戒する宗教界は各方面の学者を動員してその「危険性」を訴えたが、ブレアーは今のところ全く動じる様子は無い。

 英国労働党政府周辺に入り込んでいるオプス・デイ関係者が彼女一人とは到底思えない。さらにガーディアンやタイムズなどの英国の新聞は、ブレアーの妻シェリーがオプス・デイに近い筋のカトリック信徒であり、ケリーの入閣には彼女の強い働きかけがあった、というもっぱらの噂を報道する。しかし問題は妻のシェリーだけではない。当のトニー・ブレアー自身が知る人そ知る「隠れカトリック」なのである。報道によると、彼はあるカトリック僧に将来の改宗を示唆した、という。妻を通してオプス・デイに操られているのではないか、あるいはすでにそのメンバーとなっている、という声すらある。彼がユーロ導入に熱心なわけだ。

 英国にとって、カトリックが国の指導部に入り込む、ということは、ヘンリー8世、エリザベス1世の時代以来の大問題なのだ。それも事実上バチカンを取り仕切って保守的カトリックを固守し、大陸欧州政財界で底知れぬ実力を持ち、そのうえに何やら秘密結社めいたイメージを拭い去れない教団であればなおさらだろう。

 しかしオプス・デイに関しては不思議な点がある。創始者のエスクリバーがその本部をローマに移転した同年、欧州統一構想が再び盛り上がりつつあった1946年にイングランド支部が開設された。なぜパリやウイーンより先にロンドンなのか。さらにその後、教団最大の論客で最重要幹部の一人、スペイン王政復古と民主化に尽くしたラファエル・カルボ・セレルが、ロンドンのスペイン研究所所長になっている。しかしそこは聖公会と英国王室の本拠地、世界を股にかける諜報機関の中心地、そしてユダヤ金融センターではなかったのか。

 つまりこういうことになる。英国とアングロサクソン世界を支配する「彼ら」にとってこのカトリック集団は危険ではなく、むしろ「当然の仲間」として迎え入れるべきものであった、ということだ。ここにも表面ばかり見ていたのでは到底理解できない世界が存在する。そういえばP2事件の中心であるアンブロシアーニ銀行の頭取ロベルト・カルビが謎の死を遂げたのもまたロンドンだった。この世界の魔都が自ら進んでこの新参の悪魔を招いたとしか思えない。

 オプス・デイは一般大衆に対する布教には熱心ではなく、中産階級以上の優秀な人材を「一本釣り」をするのが特徴である。また有力な会員の周辺には、思想信条を問わない「協力者」という名目の関係者からなる非常に幅広い裾野を持つ。これは主に政治的・経済的利益で結び付いているものだが、こうして中〜上流の階層から発して一つの社会を動かしていくのがこの教団のやり方である。この点は「解放の神学派」を除く旧来のイエズス会とも似通った面を持つ。

 したがって英国の一般民衆の大部分が聖公会信徒のままでもこの教団は意に介しないであろう。現在アングロサクソンが彼らの最大のターゲットになっている、といえる。しかしそのためには何よりもシティを牛耳るユダヤ資本、および米国支配層との「共存共栄」が不可欠であろうが、その辺は心得ているように思える。

「ダヴィンチ・コード」に惑わされるな:第4部まとめと次回予告

 近年日本でも評判になっている「ダヴィンチ・コード」だが、この小説に登場する中世的雰囲気を漂わせるおどろおどろしいカルトのイメージでこの教団を考えていると、とんでもない見誤りをしてしまう。彼らの本体は「雲の上」にあり「右」も「左」も使いこなす演出家の一群なのだ。オプス・デイが冷徹に計算された統一欧州構想に最初から中心的に関わってきたことは紛れも無い事実である。そして同時に、「冷戦構造」の構築とその解消を演出した米国支配集団とも密接につながっている。

 注意が必要なのは、欧州にしろ米国にしろ、彼ら支配集団が決して一枚板ではないことだ。彼らはあくまでも「チェスの指し手」の集団であって「雲の上」で手を結ぶことも反目しあうこともありうる。次回は今回に引き続き「欧米社会の新たな神聖同盟(下)」と題して、米国社会の中で暗躍するオプス・デイと、彼らが思い描いているであろう未来世界の構図「新たな神聖同盟」の姿について探っていくことにしたい。
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第6部:欧米社会の新たな神聖同盟(下)   (2005年7月)


[3代の米国大統領が出席した葬儀]

 それは奇妙な光景だった。2005年4月初頭、場所はバチカン市国。故ヨハネ・パウロ2世の遺体の前に、ブッシュ父、クリントン、ブッシュ息子夫妻、コンドリーサ・ライスと、米国3代の大統領と現国務長官がかしこまってひざまずいていた。何となく居心地悪そうに周囲を見回すライスはともかく、3人の現・元大統領たちは実に神妙な顔つきでカトリック風の祈りを捧げていた。しかもローラ・ブッシュ夫人とライス国務長官はカトリックの黒いベールを頭にかけていた。しかし彼らのうちの誰一人としてカトリック信徒はいないのである。

 奇妙な光景はバチカンばかりではなかった。大統領命令により公立・民間を問わず米国中の国旗掲揚ポールに半旗が掲げられ、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストをはじめとして大新聞は連日第一面のほぼすべてを教皇への追悼に捧げ、TV各局も一日の大半を使って追悼番組を流し続けた。

 カトリックはいつ「米国の国教」になったのだろうか? まぎれもないカトリック文化の国であるスペインですら、ここまで大げさな反応はしなかった。確かに国家元首の葬儀には違いなく礼を尽くすのは当然だとしても、少々やりすぎではないか。一般の国民はどちらかというと白けムードに包まれていたようだが、どうして米国首脳部はここまでしてヨハネ・パウロ2世の死に面しなければならなかったのか。

 確かにブッシュ父にしてみれば故教皇と二人三脚で冷戦時代を過ごしてきた仲であり、息子にしても米国のカトリック票をまとめて自分を大統領に押し上げてくれた恩人である。頭が上がるまい。ここにクリントンを入れたのは「超党派」の格好をつけて「ブッシュ・ファミリー」の色を薄める目的があったと考えられるが、それにしてもこれでは「バチカンは米国の主人か」とすら思えてくるほどだ。この世界最強の政治体制と世界最大の宗教との間にどのような関係があるというのだろうか。

[バチカンの米国化=第2公会議とオプス・デイ]

 ローマ・カトリックを時代に合わせてリフォームするための会議、第2バチカン公会議は1962年から65年にかけて行われた。このカトリック改革には最も重要な二つの働きかけがあった。一つはアメリカ、もう一つがユダヤである。

 様々な改革点の中で目を引くのが「カトリック教義の米国憲法化」である。これは具体的には米国出身のジョン・コートニー・マレー神父の力によるものである。マレーはバチカンの幹部でもなく公会議に投票権を持つ司教でもない。しかし条文作成の技術に長けた専門家であるマレーの「改正案」は、このような作業に慣れていない数多くの司教たちを苦も無く屈服させてしまった。
《この点に関しては、こちらの記事を参照のこと》

 それは「信教の自由」を中心にした種々の「自由」に関する規定であり、従来の「カトリック教会にのみ救いがある」とする独善的な体質を変えて、エキュメニズム(各キリスト教会一致主義運動)や他の宗教との対話へと進める重要な改革点となった。公会議後マレーは誇らしげに語った。「この宣言と米国合衆国憲法に明記されている信教の自由に関する権利の目的もしくは内容は、同一である」。

 このマレーを専門家としてバチカンに招聘したのが、マフィアやKKK、CIA、フリーメーソン、ブナイブリスなどとのつながりから「ブラック・ポープ」として恐れられ、米国大統領も一目置くイエズス会の重鎮フランシス・スペルマン枢機卿だったのである。彼はオプス・デイの重要な関係者でもあった。

 オプス・デイの創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーは元々から「人々の良心の自由(思想・信仰の自由)」とエキュメニズムを主張し、この公会議での改革派とは深くつながっていた。実際にこの教団は、「キリスト教の理想を世界で実現させる活動(「使徒職活動」と呼ばれる)は、社会的地位、人種、宗教、イデオロギーに関係なく、すべての男性・女性に開放される」ことを方針とする唯一のカトリック集団である。そしてその後のオプス・デイの急成長を見るときに、この第2バチカン公会議での「バチカンの米国化」の恩恵を最も多く受けたのが彼らであることは明らかだろう。

 もちろん今までにも述べてきたように、オプス・デイはその誕生間もない頃から米国の諜報組織とは深くつながっていた。そして1960年代には南米ですでに大きな勢力を持つに至り、CIAやFBIの上層部にも浸透して冷戦時代に大きく発展することになる。彼らはその歴史の初めから米国権力機構の中枢部に触手を及ばしていたのだ。これには当然スペルマンの尽力が大きいと思われるが、その詳細は今の私にはまだ明らかではない。

 なお、第2バチカン公会議のもう一つの重要ポイントであるユダヤに関しては今回は取り上げない。回を改めよう。

[「バチカン・クーデター」の裏舞台]

 オプス・デイがニクソン政権時代にチリのピノチェットによるクーデターと軍事独裁政権誕生に大きな役目を果たしたことは第4部 に書いたとおりだが、その後の1978年に、バチカンで大変な騒動が巻き起こっていた。第2バチカン公会議決定事項の熱心な推進者パウロ6世が死去したあと、教皇に就任したヨハネ・パウロ1世はわずか1ヶ月で暗殺と思われる謎の死を遂げる。そしてその跡を継いだのが、バチカンの周辺がほとんど誰一人予想しなかったポーランド人カロル・ヴォイティーワ(ヨハネ・パウロ2世)だったのだ。

 この教皇がオプス・デイの操り人形だったことは今まで何度も強調してきたが、ヨハネ・パウロ2世誕生の裏にはその他に、教皇の個人秘書としてバチカンで絶大な権力を誇ったスタニスラフ・ジーヴィッツ、フィラデルフィアの枢機卿で米国政界に影響力の大きいジョン・クロール、そしてカーター政権の安全保障担当補佐官ズビグニュー・ブレジンスキーという、3人のポーランド出身者の連携があったのである。特に世界を「チェス板」として眺めるユダヤ人ブレジンスキーの関与は重大な意味を持つ。

 私は、このヨハネ・パウロ1世の死(暗殺)とヨハネ・パウロ2世長期政権の発足は、やはりユダヤ人のヘンリー・キッシンジャーが画策したチリの軍事政権誕生と同様、計画的なクーデターに他ならない、と考える。

 そしてこのときのコンクラーベでヴォイティーワを強力に推薦したのが「キング・メーカ」の異名をとるウイーンの枢機卿フランツ・ケーニッヒである。彼はエスクリバーの盟友の一人であり、また社会主義者でユダヤ人のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーと密接な関係にあった。

 この枢機卿は欧州の社会主義を反共勢力の中に組み込むことに成功したと同時に、カトリックとユダヤ人(イスラエル)との関係確立に最も力を尽くした一人だった。このケーニッヒ周辺の人物にヨーゼフ・ラツィンガー(現教皇ベネディクト16世)がおり、さらにそのラツィンガーの愛弟子の一人が現在イスラエルから最も信頼を寄せられるカトリック・シオニストのクリストフ・シェンボルン枢機卿である。

 ヨハネ・パウロ2世誕生にまつわるこれらのすばらしい人物関係を見ていると、米欧ユダヤ(シオニスト)支配層の命を受けたオプス・デイとCIAによる実に臭い演出が透けて表れるのだ。その後の中南米とポーランドなどの東欧における勝共運動と「冷戦」の終結については第4部第5部 で書いたとおりであり、繰り返すことはしない。

 故カロル・ヴォイティーワ教皇こそ「ミスター冷戦」の名にふさわしい。そして彼をこの時代の主人公の一人に仕立て上げたのがオプス・デイ、特にバチカン広報室長のホアキン・ナバロ・バジェスであり、この教団に極めて親しい教皇の個人秘書スタニスラフ・ジーヴィッツである。彼らが「冷戦構造」を盛り立てたうえで平和裏に解体した陰の立役者であろう。

[ブッシュ親子と米国のバチカン化]

 ブッシュ(父)がレーガン政権と自分の政権を通して、どれほどにバチカンとオプス・デイの力を仰いだのか、改めて言うまでもあるまい。

 そしてブッシュ(子)に対するバチカンの力添えはもっと直接的である。2000年の大統領選で最後までもめたフロリダ州は、亡命キューバ人に支えられ中南米利権で懐を潤す弟のジェブ・ブッシュが支配する地域であり、カトリック右派の票が結局あのダブヤ(G.W.ブッシュのあだ名)を大統領に仕立て上げた、といっても過言ではなかろう。フロリダのカトリック票(亡命キューバ人が多いが)のうちこの選挙では54%がブッシュ支持だった。(米国のカトリックは伝統的には民主党支持のリベラル派が多数派である。)

 2004年にケリーと争ったときには、当時バチカン教理省長官だったラツィンガーが米国のカトリック信徒をほぼ脅迫的な手段でブッシュ支持に向かわせた。さらにTV、ラジオ、インターネットなどでの、パット・ブキャナン、ディール・ハドソン、ロバート・ノヴァックといった保守派カトリックの評論家による精力的な活動も重要だった。そして4年前には全国のカトリック票の47%であったブッシュ支持がこの年には52%に上昇した。不正選挙の可能性が高いにしろ、ギリギリの票差の中でこのカトリック票の重みは計り知れないだろう。

 このようにブッシュ(父)もその息子たち、ジョージ・ワシントンとジェブにしても、バチカンには頭が上がらないわけである。さらにもう一人の弟ニールまでが、現教皇のラツィンガーと共に役員を務めるスイスの幽霊財団を通して、「イラク復興ビジネス」で甘い汁を吸わせてもらっていると言われる。故教皇の葬儀に親子女房連れ、カトリック様式で出席しなければ、それこそ神罰が当たるというものだろう。

 しかしそのような「バチカンの影響力を政治的にあるいは個人の利益追求に利用している」というだけで、最初に述べたような「国家総動員体制」でローマ教皇の葬儀に臨むだろうか。そこには米国という国家自体の質的な変化が感じられる。第2公会議でバチカンの「米国化」が行われたように、ブッシュ父子が米国の実権を握っている間に、米国の「バチカン化」が進行してきたのではないか。

 こんなことを言うと「バカをいうな。アメリカはプロテスタントの国だ」「ブッシュは熱心な再洗礼派の福音主義者ではないか」と言われそうだ。では、あの9・11以後の「対テロ世界戦争」を仕掛けるにあたって、どうして『十字軍』というカトリック的なスローガンをかかげたのか。

 ここが肝心だ。カトリックとプロテスタントの長年にわたる対立を止揚するシンボルとして、つまりカトリック教会が第2バチカン公会議以来強力に推し進めているエキュメニカル運動を一つの政治的な形として表現したものが、この「対テロ十字軍」のもう一つの意味だったのである。

 9・11「テロ」事件の少し後のことだが、ペンシルバニア選出の米国上院議員(共和党)でオプス・デイとも縁の深いリック・サントラムは、米国の雑誌「ナショナル・カトリック・レポーター」に次の奇妙な見解を語った。「私はジョージ・W.ブッシュ氏を『米国で始めてのカトリック大統領』だと見なしている。」

 もちろん実際には米国初のカトリック信徒の大統領はJ.F,ケネディなのだが、サントラムは、ケネディが個人的な信仰と政治的な責任との間に区別をつけたことを非難する。ケネディは、もしも大統領に選ばれたらカトリック教会の命令には従わない、と宣言したのだが、サントラムに言わせるとこれが『米国に非常な害悪をもたらした』のである。彼の頭の中には政教分離という用語は存在しない。政治的理念と宗教的信条が一致した「神権政治」がこの上院議員の理想であるようだ。

 実際に、9・11事変以降ブッシュ政権の元で、米国全体が軍産宗一体となった「神権政治」を目指して突っ走っているように見える。サントラムの言う『カトリック大統領』がその推進者を指していることは明白だ。そしてプロテスタントとカトリックに加えてユダヤ教徒(それぞれの「右派」)がこの流れを強力に形作り、そしてバチカンがそのリーダーシップをとりつつあるのではないか。ヨハネ・パウロ2世の葬儀とその間に米国中を覆った異様な光景がそのことを鋭く象徴している。米国の宗教界を単に「票田」という眼で見ている人は、おそらく現在進行中の重大な変化を見過ごすことになろう。

 なお、プロテスタント右派をまとめてブッシュ支持に向かわせているのが文鮮明の統一教会であり、大マスコミを操って9・11とイラク開戦の大嘘の暴露から懸命にブッシュを守っているのがユダヤ(シオニスト)右派だが、ここではそれらとバチカンとの関わりにまで触れる余裕は無い。ただこれらにイスラムの「穏健派」まで加えて、将来の『統一一神教』とでも言えそうな巨大カルト集団とそれによる神権政治の形成に向けて、米国社会がじわじわと動いて行きつつあるように、そしてそれが現代バチカン基本方針であるように、私の目には映る。


[「草の根」からユダヤ人社会へ]

 2002年にエンロンと共に不正経理やインサイダー取引などで騒がれた会社の一つにタイコ・インターナショナルがあるのだが、その最高顧問弁護士がマーク・ベルニックである。彼は富豪であり非常に熱心なユダヤ教徒でいくつかのユダヤ人団体で中心的な働きをする活動家でもあった。ところが2000年に突然カトリックに鞍替えし、米国のユダヤ人社会に大きな衝撃を走らせた。

 その他、ウォールストリートの著名なエコノミストであるラリー・クドゥロウ、投資家のルイス・レールマン、以前は堕胎推進活動家として勇名をはせたバーナード・ナサンソン、テレビや新聞で辛口の論評で人気のある保守系政治評論家ロバート・ノヴァック、大手出版社社主アルフレッド・レグネリィ、カンザスの共和党上院議員サム・ブラウンバックなども、カトリックに改宗した米国ユダヤ系の有名人たちである。

 彼らには一つの共通点がある。それはあるオプス・デイのカトリック僧から洗礼を受けてこの教団のメンバーとなっている、という点だ。その神父の名はジョン・マックロウスキィ。この男もやはりポーランドあたりのユダヤ系ではないかと思われるが、まだ50歳前後と若く奇妙に神秘的な魅力のある人物らしい。ユダヤ人だけではなく元ルター派の女性牧師ジェニファー・フェラーラは彼に会ってからカトリック(オプス・デイ)に改宗した。かつてウォーターゲート事件を担当した最高裁判事ロバート・ボークも同様である。また先ほど申し上げた上院議員リック・サントラムは極めてユダヤ人(右派)と親しい。

 このように近年米国で、ユダヤ人社会を中心とした中以上の階層の中でオプス・デイの勢力拡大が目立っている。これは彼らが単に政治的・経済的な影響力を持っているばかりではない。むしろこの教団が持つ基本理念自体がユダヤ人にとって極めて親和性の強いものだからであろう。その上にジョン・マックロウスキィのような彼らの琴線に触れる卓越した対話能力を持つ宣教師がいるようだ。このような社会的に影響力を持つ「改宗」ユダヤ人たちは米国内の世論に対してばかりでなくユダヤ人社会とバチカンを結びつける重要なファクターとなるはずだ。バチカン上層部だけではなく、このようなユダヤ中産市民の「草の根」からの浸透ぶりにも注目しなければならない。

[21世紀の神聖同盟:第5部のまとめと次回予告]

 「オプス・デイはドルのカトリック化だ」と言ったフアン・ペロンの言葉が妙に気にかかる。大量のナチ逃亡者を引き受け歴史の裏面を知り抜いていたこのアルゼンチンの独裁者は、この教団がやがて米国社会の変貌を担う力の重要な一つになることを予告したのだろうか。

 18世紀の神聖同盟はフランス革命後の社会変革を推し止めようとして崩れ去った。しかし今日、「冷戦」を演出した後、新たに「対テロ戦争」体制を作りつつある欧米各国の軍と産、そして宗教の間の新たな「神聖同盟」は、逆に従来の秩序を推し崩しながらより強大な世界支配構造の構築を模索しているように見える。

 そしてその21世紀の神聖同盟の中でもう一つ忘れてはならない要素がある。ユダヤである。ただし私は「ユダヤ・プロトコール」を基本テキストにしてユダヤ人による世界支配の陰謀を語るような立場はとらない。事実として起こっている事を元にして、彼らを含めた主要な勢力同士の絡み合いを分析していくのみである。

 次回は「十字架とダビデの星」と題して、将来の実質的融合を目指すと思われるバチカン=オプス・デイとユダヤとの係わり合いについて検討してみよう。
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第7部:十字架とダビデの星(上)    (2005年10月)
《注記:以下で単に「ユダヤ」と書いているものは英語でいえばJewryであり、ユダヤ人一般を指すものではない。これについてはイズラエル・シャミールによるこちらの文章を参照のこと。》

[ローマ教会の変質とオプス・デイ]

 前回で私は、米国社会でブッシュ・ネオコン政府を支えるユダヤ系中産階級をオプス・デイが盛んに取り込んでいる様子をお伝えした。しかし彼らにとって改宗は一大事ではないのか。いくら説教師ジョン・マックロウスキィの話術が巧みだとしてもそう簡単なことではないはずだ。確かにオプス・デイはバチカンを操り米国政府内への影響力も強いのだが、それならシオニスト勢力も同様でわざわざ宗旨替えまでする必要は無く、この教団の外で「協力者」の形で留まることも可能なのである。「ユダヤ人への迫害」があった過去とは違い改宗への圧力は無い。なぜ彼らは簡単に自分の今までの信仰を捨ててこの教団に加わるのだろうか。

 本人も周囲も改宗にはさほど大きな抵抗は持っていないようである。これはひょっとすると、オプス・デイのあり方がユダヤ教とあまり離れておらず、ユダヤ人社会が「近縁の集団」という感覚をもってそれを見ているからではないだろうか。

 ここでオプス・デイ自体から少し離れて、第2バチカン公会議(1963〜65)を中心にカトリック近代史全般を見直してみる必要があるだろう。20世紀中盤にローマ・カトリックが変身する過程で頭角を現したのがオプス・デイなのである。同時にここにはユダヤ人とその巨大な思想潮流であるシオニズムが深く関与しているのだ。


[ロスチャイルドとノガーラ]

 バチカンとユダヤ資本の雄ロスチャイルド家との取引は19世紀初期にはすでに始まっていた。ナポレオン戦争によって財政的な困難を抱えたローマ教会は、グレゴリオ16世の時期にロンドンのカルマン・ロスチャイルドから5百万ポンドもの融資を受けていたのである。また1830年にはそれまで「金貸しは破門」とされていたラテラノ公会議の既定が改められ、「高利貸しでない限り許される」こととなった。これによって改宗ユダヤ人たちの金融活動も表立って可能となる。

 1870年のイタリア統一の完成によって全ての教皇領を奪われたローマ教会は領地からの収入を絶たれ深刻な財政難に陥った。このときに資金援助を行ったのがパリのロスチャイルド家である。その後1929年にムッソリーニ政権とピオ11世との間でラテラノ条約が結ばれた。これによってバチカンは、当時のレートで8500万ドル、現在の約1500億円にあたる収入を得た上に、毎年イタリア政府からの資金提供を受けることとなった。さらにイタリア国内にあるバチカン所有の施設に(後にバチカンが行う投資にも)対しては非課税とされた。そして同じ1929年に教皇ピオ11世はバチカン内に「財産管理局」を作り、その運営を改宗ユダヤ人の一般信徒であるベルナルディーノ・ノガーラに一任した。当然だがこのことはノガーラがパリやロンドンのロスチャイルド家の信任を得ていたことを示している。

 このようにローマは、ユダヤ人に「キリスト殺し」の汚名を着せる方針とは裏腹に、ユダヤ資本と表裏一体で活動してきた、といえる。逆に言えばカトリックの「反ユダヤ主義」はこの関係を覆い隠す煙幕としても機能したのだろう。ちなみにラテラノ条約締結の前年1928年にマドリッドでオプス・デイが誕生している。また財政管理局は1942年に「宗教活動協会(IOR)」俗に言うバチカン銀行と改名された。

 欧州が戦争に向かうことに気付いたノガーラはイタリアの軍需産業の多くに、事実上企業を買い取るまでに投資した。こうしてムッソリーニ政権によるアビシニア侵攻とそれに続く第2次世界大戦の間に、ヒトラーからの「教会税」収入、イタリアおよび各国の軍需関連産業からの収益などで、バチカンは巨万の富を稼ぐことになる。米国の「黒い法王」フランシス・スペルマン枢機卿はノガーラの偉大さを「イエス・キリストに次ぐ」と表現した。本音は「キリストよりも」だったろうが。

 もっとも、教皇ピオ12世とその一族であるパセッリ家、後にバチカン銀行総裁となるP2マフィアの統領ミケーレ・シンドーナや「シカゴのゴッドファーザー」ポール・マーチンクスらが作り上げた、麻薬や武器取引等の闇資金洗浄による「上がり」を含む収益は、ノガーラのそれよりもはるかに大きいと言われている。しかしその先鞭をつけたのはこの男である。

 バチカンとユダヤとの関係は財政面にとどまるはずがなかった。ローマ教会がローマ帝国の延長であり、欧州、ひいては世界の政治的支配を目指す方向性を内包している以上、バチカンとユダヤの関係は次の局面に向かわざるを得ないのだ。

 なお、バチカン銀行の資産運用は長年アンブロシアーノ銀行が行っていたが、例のP2がらみのスキャンダルで1982年に同銀行が倒産して以来、主にロスチャイルド銀行とクレディ・スイス銀行が行っている。

[シヨン運動と第2バチカン公会議]

 1910年、時のローマ教皇ピオ10世は特別の回勅によって、あるカトリック内の団体を厳しく非難しその活動停止と解散を命じた。その団体とはフランス人マルク・サンニエが率いるシヨン(Sillon)運動である。

 サンニエはカトリックに「自由、平等、友愛」のフランス革命の理想を導入し、社会主義的な改革運動を起こして1894年に機関紙ル・シヨンを創刊した。教皇庁は、当初は貧しい労働者や農民たちに対する救済活動、カトリック精神に基づいた慈善として評価したが、やがてそれが良心への信頼と信教の自由、聖職者と平信徒の平等など、教会の根本を揺るがしかねない側面が強調されるに及んで、これを厳しく取り締まった。教皇は、この運動が持つ、カトリックを滅ぼし「世界統一宗教」を形作るフリーメーソン的な方向性を見抜いたのである。
《注記:この点については、ひょっとすると、「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第10部 近代欧州史の深奥 」にある「[偽預言者の系譜]」の中にある内容と関係があるのかもしれない。》

 サンニエはピオ10世の命令に素直に従いシヨン運動を自ら解散させたが、彼自身はその後、国会議員を何期も務めユースホステルの普及に尽力するなど、キリスト教民主主義左派の政治家として活躍し、1950年に他界した。

 このシヨン運動の持つ様々な面が後の第2バチカン公会議での決定事項と余りにも多くの共通点を持っていることには驚かされる。

 第2バチカン公会議における数多くの改革の中で最重要ポイントは次の三つであろう。【1】信教の自由と人間の良心への信頼(Dignitatis Humanae)、【2】非キリスト教との対話と協調(Nostra Aetate)、【3】教会と一般世俗社会との密接で積極的な関係作り(Gaudium et Spes およびApostolicam Actuositatem)。

 これらはすべてサンニエの運動によって提唱・実行されたものであり、またオプス・デイおよびイエズス会「解放の神学」派によって強力に実現されている。ただしその前者はより資本主義的、強権的であり、後者はより社会主義的、リベラルであって、冷戦の時代にはそれぞれ「右派」「左派」として厳しく対立することとなった。

 ピオ10世によって断ち切られたはずのシヨン運動は、実はそれ以降のローマ教会の中に深く浸透しいつの間にか主流派を形作っていたのである。教皇がシヨン関係者を全員破門しなかったことは彼にとって最大の失敗だっただろう。

 ここで二人の人物に注目したい。一人はベルギーのジョゼフ・カルディジン(第2公会議の際には枢機卿)、そしてもう一人がイタリアのアンジェロ・ロンカッリ(後の教皇ヨハネス23世)である。

 まずカルディジン(1882〜1967)だが、彼は1925年(一説には1912年)に作られたベルギーのカトリック団体「キリスト教青年労働者運動」の初代の主任司祭である。この団体はシヨン運動の理念をそのまま引き継いだといえる青年組織であり、現在でも存在する。

 彼は同時に第2バチカン公会議の主役の一人であり、先ほどの改革の中で、【1】「信教の自由と人間の良心への信頼」と「【3】教会と一般世俗社会との密接で積極的な関係作り」の原稿作成には、彼とその仲間であるピエトロ・パヴァン神父が中心的に関わった。彼らはその他多くの案文作成に参加したが、信教の自由に関する部分は米国のイエズス会士でスペルマンの愛弟子ジョン・コートニー・マレー神父が仕上げた。

 次のロンカッリ(1881〜1963)だが、1950年にマルク・サンニエが死亡した直後にその未亡人に手紙を出し、シヨン運動とサンニエを絶賛している。要するにバチカン中枢部にあって「隠れシヨン」の筆頭だったのだ。彼が教皇に選出された不審な経過については後述するが、1958年に教皇位について直ちに公会議召集を発表し、死亡するまでのわずか5年間の任期をこの公会議のために捧げ尽くした。まさにそのためだけに教皇になったような男だったのだが、同時に彼はシオニスト・ユダヤ組織との深い関係を指摘されている。

 彼は先ほどの「【2】非キリスト教(特にユダヤ教)との対話と協調」に力を注いだが、これによって同時に、キリスト教内他宗派との一致運動であるエキュメニズムも大々的に進められることとなった。オプス・デイの創始者ホセ・マリア・エスクリバーは、「すでに1950年に聖座はオプス・デイがカトリックでない人やキリスト者でない人々を協力者として受け入れることを認めた」と豪語した。彼はヨハネス23世に「私は教皇様からエキュメニズムを学んだのではありません」とまで語っている。

 オプス・デイは「シヨン運動」について直接に言及はしていないが、教団支持者でバチカン国務長官のアンジェロ・ソダノが、シヨンの延長である「キリスト教青年労働者運動」を絶賛した。またオプス・デイの操り人形ヨハネ・パウロ2世はシヨンの基本精神であったフランス革命の理念をシラク大統領の前で褒め称えたのである。「自由、平等、友愛」というフリーメーソンの合言葉は、本来のカトリックから最も忌み嫌われたものであったのだ。オプス・デイの思想と理念に関してはいずれ稿を改めて詳しくご説明することにしたいが、シヨンとの類似性は明らかである。

 ところでこのシヨン運動つまりシヨニズムは、フランス語の発音ではシオニズムと似ておりしばしば間違えられたという。また第1回シオニスト会議がスイスのバーゼルで開かれたのが1897年であり両者はほぼ同時期に活動を始めている。しかしそれ以外にこの二つは実質的な接触点をも持っている。ここでやはりヨハネス23世に注目しなければならない。このイタリア人がシヨンとシオンを結びつける鍵を握っているのだ。

[1958年のバチカン・クーデター]

 ヒトラーとファシズムを支持しマモン(貨幣の悪魔)の教皇であったピオ12世が死亡して、シヨン運動の賛美者アンジェロ・ロンカッリがヨハネス23世となったのが1958年のコンクラーベ(教皇選出の選挙)だったのだが、この選出には現在までも重大な疑惑が叫ばれている。

 システィナ礼拝堂に集まった枢機卿たちによる3回目の投票の後、礼拝堂から「新教皇誕生」を告げる白い煙が上がった。FBIによるとこのときジュセッペ・シリ枢機卿(1906〜89)が選出されたそうである。彼には「グレゴリオ17世」の名前が用意された。しかし理由は分からないが、じきにその「白い煙」は取り消され、再度投票が行われて選出されたのがロンカッリである。

 コンクラーベには秘密主義が貫かれており、そのときの様子を書き残す文書は公表されない。しかし人の口に戸を立てることは不可能だ。現在でも一部のカトリック信徒はこのコンクラーベでシリが選出されたことを固く信じている。

 シリはピオ10世の流れを汲む伝統主義的カトリックであり、この「グレゴリオ17世」が即位していたならば公会議が召集されることは絶対に無かっただろう。噂によるとシリは、彼が教皇になれば「東欧でカトリック教徒のボグロム(集団虐殺)が起こる」という情報を聞いて辞退を決意したという。東欧は宗教を禁圧する共産主義に支配されていた。彼は亡くなるまで沈黙を守ったが、1986年のインタビューで「私は秘密に縛られている。この秘密は恐ろしい。・・・。非常に深刻なことが起きている。しかし私は何も言う事ができない。」と答えているのだ。

 シリに「ボグロム」の情報を伝えたのはイエズス会神父で改宗ユダヤ人一族のマラキ・マーチンであると伝えられる。マーチンはルーヴァン・カトリック大学やオックスフォード大学、ヘブライ大学で学び、このコンクラーベの直前に僧職に就いて、やはり改宗ユダヤ人と言われるアウグスティン・ベア枢機卿の私設秘書となった。そして第2公会議ではベアと共に公会議の要点の「【2】非キリスト教との対話と協調」の原案作成に力を尽くした。そしてそのメドが付いた64年にバチカンの僧侶を辞め、以後作家として活躍して1999年に死亡した。

 6年の間バチカンに入り込んだこの男の目的は、ヨハネス23世を誕生させて公会議を準備し、カトリックとユダヤを結びつけることであったのだろう。その背後には世界ユダヤ人会議やフリーメーソンのユダヤ・ロッジであるブナイ・ブリスがいたといわれ、保守的カトリック信徒の中には彼を「シオニストのスパイ」と非難する人もいる。

 幻の「グレゴリオ17世」の話が事実ならまさにクーデターに他なるまい。バチカン・クーデターはその後に起こったヨハネ・パウロ1世の怪死の際にもささやかれた。そしてそのどちらにも国際的なユダヤ勢力の影がちらつく。

[そして公会議:第6部のまとめと次回予告]

 ヨハネス23世(アンジェロ・ロンカッリ)は教皇に就任するが早いか公会議の召集を検討し始めた。準備期間を経て1962年10月に公会議は始まり、途中の63年6月にはヨハネス23世死去のため中断したが、跡を継いだパウロ6世(その選出にも多くの疑惑がささやかれている)の尽力によって、1965年12月にこのカトリック大改造は完成した。そしてこの、ちょうどサナギから成虫の姿を現すような変身の中から、オプス・デイが大きく姿を現してくるのである。

 しかしそれにしても、この「クーデター」の可能性すらある疑惑のコンクラーベで選ばれ、第2公会議のためだけに教皇位を全うしたヨハネス23世とはどんな人物だったのか。彼とユダヤ・シオニスト勢力、およびオプス・デイとの関係は何なのか。この公会議で何がどのように変わったのか。次回『第7部:十字架とダビデの星(中)』では、現代世界史の最も重要な鍵の一つを握るこの教皇とその背後関係、そして第2バチカン公会議の中身を中心に述べていくことにしたい。
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第8部:十字架とダビデの星(中)   (2005年12月)
《注記:以下で単に「ユダヤ」と書いているものは英語でいえばJewryであり、ユダヤ人一般を指すものではない。これについてはイズラエル・シャミールによるこちらの文章を参照のこと。》

[ヨハネス23世とシオニスト・ユダヤ]

 アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリは、1881年に貧しい小作農の息子としてイタリアの片田舎に生まれた。彼は後に教皇ヨハネス23世となるのだが、それまでの彼の経歴の中に注目すべき時期がある。

 1935年から44年にかけてロンカッリ大司教はバチカンの大使としてトルコおよびギリシャにいた。その地で、彼は自分のオフィスを使って、ナチス・ドイツの手から逃れる数万人とも言われる東欧のユダヤ人たちをパレスチナへ移送するのために、あらゆる手を尽したのである。
《注記:この点については「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第9部 近代十字軍」にある「[トルコとイスラエル]」を参照のこと》

 東欧一帯のカトリック司教会に命じて、衣服や食料の支給などはもとより、大量の偽の改宗証明書を安全確保の手段としてユダヤ人たちに渡す、カトリック修道会の通信網をシオニスト・エージェントに使わせる、といったことまで行った。

 現在までもロンカッリはADLなどのシオニスト組織から絶賛されている。後に彼がヨハネス23世として聖座に上ったときに、ユダヤ人たちが支配力を持つニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどの米国の大新聞は一様に歓迎の意を表明した。それまではユダヤ人に「キリスト殺し」の汚名を着せるローマ教会に対して常に冷ややかな報道をしていたのである。

 また1963年に彼が死去した後に創設されたヨハネス23世基金は、ボローニャ大学と提携して、特にキリスト教とユダヤ教の相互理解を目的とした宗教研究と交流を行っている。また彼の名をとったロンカッリ委員会は、世界各国の閣僚クラスや市長、科学者、作家、ホロコースト研究者、ユダヤ教とキリスト教の関係者などを集め、「ロンカッリによるユダヤ人救出とホロコーストの事実」を踏まえて、彼の徳を称えると同時にホロコースト史観の徹底に努めている。

 この261代ローマ教皇の選出の際に起こったとされる不可解な出来事と彼の第2バチカン公会議(1962-65)に果した役割については、前回ご説明した。しかし彼に関する不可解な点は1958年に行われた教皇選挙のコンクラーベばかりではない。彼とシオニスト・ユダヤとの関係は相当に深い根を持っている可能性がある。

 彼は1905年に正式にカトリックの僧侶となった。彼がどのような経緯でバチカンの上層部に食い入ったのかは分からないが、1921年にベネディクト15世によって信仰伝道会のイタリア代表に任命された。1925年にはピオ11世によって、バチカン大使に相当する役職でブルガリアに派遣され、同時にギリシャの名誉司教にも就いている。そして1935年に、ピオ11世の命で大司教としてトルコへと向かったのである。

 それにしても、ローマ教会のような千数百年の歴史を持ち「伏魔殿」とすらいわれる巨大な権力機構の中で、一介の貧しい農民の息子が次々と要職の階段を登り教皇の座に就くまでになる、というのは少々現実味に欠ける。彼の前任者エウジェニオ・パセッリ(ピオ12世)は歴代の教皇を輩出してきた高名な貴族の家柄であり、その前のピオ11世(アチッレ・ラッティ)は大富豪の絹織物工場所有者の息子、ロッカッリの後に続くパウロ6世(ジョバンニ・モンティーニ)もやはり貴族出身の身である。

 通常このような組織の中では、本人に家柄や財産などが無い限り、あるいは背後に余程の強力な支援者が控えていない限り、こういったことは考えにくい。さらに、ユダヤ人への敵意をむき出しにするヒトラーがドイツで政権を握り、一方でパレスチナでは建国へ向けたシオニストたちの活動が盛んになっていくその時期に、このロンカッリがユダヤ人口の多い東欧のブルガリア、次に、大きな権限を行使できる立場で欧州とパレスチナの中間にあるトルコとギリシャに派遣されるというのは、偶然にしてはできすぎている。

 1905年から25年までにかけての彼に関する詳しい資料は今のところ見つけていない。一つの仮定としてなのだが、ロンカッリは早い時期からシオニスト・ユダヤ勢力との接触を持っており、シオニストの背後にいてバチカンと財政面でつながっているロスチャイルド家あたりの後援があったのではないか。

 もしそうだとすれば、シオニスト・ユダヤへの協力は彼の一存ではなくバチカンの深い方針でもあったはずだ。ヒトラーに協力したと非難されるピオ12世だが、ロンカッリの行動を把握していなかったはずは無い。また当時のバチカンにはシオニズムに対する懸念と敵意も存在していたのだ。しかし不思議なことにこの「ヒトラーの教皇」は、彼の行動を咎めたり妨害したりするどころか、1944年に彼をナチスから解放されたばかりのパリの大使に、そして1953年には枢機卿へと昇進させているのである。これはつまるところ、ピオ12世にとって「ヒトラーへの協力」と「シオニストへの協力」が決して矛盾していなかったことを表しているのではないか。
《注記:この点については「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第6部 イスラエルの母胎:ナチスドイツ」の中にある「[ヒトラーが「育てた」シオニズム]」に書かれている事実から見れば当然かもしれない。》

 さらにロンカッリにはマルク・サンニエのシヨン運動との深いつながりもある。この運動がフランス革命以来の反教会主義に貫かれている点を考えると、単なるユダヤ民族主義としてのシオニズムではなくもっと深く大きな力が関与している可能性がある。もちろんカトリック守旧派はそれをフリーメーソンであると断言する。またシヨン運動の中心地であったパリにはロスチャイルド家も控えている。しかしそれに関しては、今の私にはまだはっきりと言える段階ではない。

 なおロンカッリは2000年にヨハネ・パウロ2世の手によって福者に列せられている。


[ベアとケーニッヒ]

 「シオニストの友」ロンカッリが全生命力をつぎ込んで開催にこぎつけた第2バチカン公会議だが、その最も重要な改革ポイントの一つが「非キリスト教との対話と協調」の路線、特にユダヤ教とユダヤ人に対する姿勢の劇的な変化だろう。それを最も精力的に推進させた二人の人物がいる。ドイツ人イエズス会士であるアウグスティン・ベア枢機卿、およびオーストリアの枢機卿フランツ・ケーニッヒである。

 この二人に共通するのは、ドイツ語圏の出身であることと同時に、オプス・デイの創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーと親しかった点である。彼自身は公会議には参加しなかったが、オプス・デイが言うところの「エスクリバー・デ・バラゲル師の友人たち」がこの会議を取り仕切っていた。

 もちろん「非キリスト教との対話と協調」は、他のイスラム教や仏教などとの関係もうたっているし、同時にキリスト教の他の諸宗派、つまりプロテスタント各宗派や正教などとの教会一致(エキュメニカル)にも関係が深いのだが、その中でもユダヤ教との関係強化の動きは抜きん出ているのだ。

 ベアは以前からピオ12世の聴罪師を務めるなどバチカンの中で大きな実権を握っていたのだが、実は彼がベジャールという本名を持つ改宗ユダヤ人である、という説は根強い。中には「非改宗ユダヤ人」つまり「バチカン内のユダヤ教徒」とまで呼ぶ人もいる。確かに彼のユダヤ人およびユダヤ教への「偏向ぶり」は際立っていた。

 その口実となったのがナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害、とりわけ「ホロコースト」であったことは言うまでも無い。彼はカトリックの変革にこれを脅迫的にと言ってよいほど最大限に活用した。

 ベアは公会議終了後まもなく1968年に死去したが、彼の名を冠した「ユダヤ研究のためのベア枢機卿センター」では積極的にキリスト教とユダヤ教の融合が研究されているようである。現在その動きはやはりドイツ出身のワルター・キャスパー枢機卿によって引き継がれている。

 もう一人のケーニッヒもベアと同様に第2公会議での「非キリスト教との対話と協調」路線確立に尽力しただけではなく、その後も長くウイーンの大司教としてキリスト教徒とユダヤ教徒の「兄弟愛に基づく関係」を築くための努力を惜しまなかった。彼は、「ホロコースト」に対してキリスト教徒とオーストリアが持つ共同の責任を無条件に認め、オーストリアの政治指導者による「明確な謝罪」を実現させた。現在この国はドイツやフランスなどと並び「ホロコーストへの疑問を犯罪と定める」国の一つである。

 また奇妙なことにケーニッヒはヨハネス23世が誕生する直前に枢機卿となっており、以来「キングメーカー」を噂されてきたのである。そして、1978年のヨハネ・パウロ1世の奇怪な死の後で行われたコンクラーベで、無名だったポーランドのカロル・ヴォイティーワ枢機卿を強力に推薦してヨハネ・パウロ2世を誕生させたのが彼であったことも強調しておかねばならない。

 ヴォイティーワについては次回に詳しく説明するが、彼自身がユダヤ系であるとする主張もある。その真偽はともかく、ユダヤ人たちとの親密さで有名な人物であることに間違いは無い。そしてヨハネ・パウロ1世の死とヴォイティーワの教皇就任の裏には、単にオプス・デイやシオニスト勢力だけではなく、共産圏の解体を目指すCIAなどの謀略機関と英米支配層、そしてフリーメーソンP2ロッジが潜んでいたことだろう。
《注記:カロル・ヴォイティーワがユダヤ系であることは英国のユダヤ人歴史家によって2005年に明らかにされている。》

 また現在のバチカン中枢部では、ドイツ人教皇ベネディクト16世(ヨーゼフ・ラツィンガー)、およびウィーン大司教でケーニッヒの後継者クリストフ・シェンボーン枢機卿は、イスラエルから全面的な信頼を寄せられている。シェンボーンはカトリック・シオニストとしての立場を明確にしているのである。なおラツィンガーは第2公会議では改革派の急先鋒の一人だった。

[「リベラル教皇」パウロ6世]

 1963年、第2バチカン公会議の最中に教皇ロンカッリは死亡した。その跡を継いで公会議を成功裏に終了させたのがジョバンニ・モンティーニ(教皇パウロ6世)である。モンティーニはピオ12世の後継者としても有力候補と言われていたのだが、ピオ12世はなぜか彼に枢機卿の座を与えず、1958年に疑惑に満ちた経過を経て誰もが予想しなかったヨハネス23世が誕生したのである。

 しかし奇妙なことはこのモンティーニを選出した1963年のコンクラーベの際にも起こった、と言われる。前回申し上げた守旧派のジュゼッペ・シリ枢機卿がやはりこのときにも最有力候補と言われていた。そして――ここから先は未確認情報だが――投票の結果シリ枢機卿が選出に十分な票を集めた。そのときある一人の枢機卿(ケーニッヒか?)がシスティナ礼拝堂から忍び出て、外で待つブナイ・ブリス(フリーメーソンのユダヤ・ロッジ)の要員に結果を告げた。返答は、カトリック教会に対する虐殺が起こる、という脅迫であった。その枢機卿は礼拝堂に戻りモンティーニを選出させた・・・・。

 もちろんこのような話の真偽など確かめようが無い。しかしカトリック守旧派は今でもこのときのシリ選出を固く信じている。確実に言えるのは、もしもシリが教皇に選ばれていたら第2バチカン公会議は中止されていただろう、ということだけである。当のシリは「私は秘密に縛られている。この秘密は恐ろしい。」と言い残し、沈黙を守ったまま1989年にこの世を去ってしまったのだ。

 モンティーニは公会議で「信教の自由」を高く評価し、カトリックの戒律を大幅に改め、エキュメニカル運動の推進者となった。そして前任者のロンカッリ同様にベアやケーニッヒと手と携えて「非キリスト教との対話と協調」路線の確立に力を注いだ。彼はユダヤ教神学者アブラハム・ヘシェルとの間で秘密会議を持ち、その要望を受け入れてユダヤ人の改宗に関する規定を削除した。

 さらにこのパウロ6世は、ユダヤ教やイスラム教などの非キリスト教も真実の神を崇拝しておりイエス・キリストへの忠誠無しで救済を受ける、とおおやけに発言した最初のローマ教皇である。その姿勢はヨハネ・パウロ2世にも引き継がれた。旧来の熱心なカトリック信徒にしてみれば青天の霹靂ともいえる事柄だっただろう。しかしローマを疑うことを知らぬ多数派の信徒たちはこの改革を受け入れた。

 彼の「自由化路線」は信仰だけにとどまらず、ついにはローマ市内で堕胎をおおっぴらに行う病院まで出現させた。このような「自由化」の行き過ぎを指摘され、さすがのモンティーニも声を上げて泣き出した、と言われる。

 このようなあまりに急激な変化を推進したため、彼は、カトリック伝統保守派から最も非難される教皇の一人となった。そして彼にもやはり「ユダヤ人疑惑」があるのだが、それに関しては何とも言いようが無い。

 面白いことがある。ローマ教皇が就任する際には7世紀以来の伝統として「教皇の誓い」を読み上げる習慣があった。ピオ10世(在位1903-14)以降はそれが「近代主義に反対する誓い」と解釈されたようだ。そして、守旧派によると、それはパウロ6世までのすべての教皇によって誓われたのだが、その後ヨハネ・パウロ1世、同2世、ベネディクト16世によっては無視されたそうである。

 しかしパウロ6世は紛れも無くリベラルな近代主義教皇であった。そして第2バチカン公会議とこの教皇の在位中(1963-78)に、ロック・ミュージックの爆発的流行およびそれと併行したLSDや大麻などのドラッグ、ヒッピーの出現とニューエィジ・ムーヴメントなどなど、世界中でそれ以前の価値観や文明観を片っ端から激しく壊していく動きが、若者層を中心に広がっていった。このような文化の流れを、ある謀略的な集団によって意図的に作られたものだ、と考える人もいる。

 今のところ私はそれに関しては何とも言えないが確かに偶然とは思えないフシもある。これは後年の研究課題としておこう。

[「ユダヤの陰謀」か?:第7部のまとめと次回予告]

 今回は直接にオプス・デイへの言及を行うようなテーマではなかったが、今回述べた第2バチカン公会議での変化を通して、この教団はローマ教会の中で確固たる勢力拡張を成し遂げた。またこの教団の創始者であるエスクリバー自身が改宗ユダヤ人の子孫である可能性が高い。スペインでオプス・デイの庇護者となった独裁者フランシスコ・フランコにしても同様である。

 カトリック守旧派で反ユダヤ感情の強いグループでは、ヨハネス23世以降の各教皇とこの公会議、そしてオプス・デイの台頭などを、すべてひっくるめて「ユダヤ=フリーメーソンの陰謀」とする傾向が強い。これには、例の「シオン長老の議定書」を下敷きにしてあらゆるけしからぬ動きや変化に「ユダヤ臭」を嗅ぎ取る、典型的な「陰謀論」の影響があると思われる。

 確かにいたるところにシオニスト・ユダヤの影がちらつくし、実際に彼らが相当に強くバチカンに力を及ぼしたことは間違いの無い事実だろう。しかしこのような「ユダヤの陰謀」論は、しょせんは例の「知的計画による創造論」と同一レベルの変形一神教、知的退廃としか思えない。私としては、調査と研究、大胆な推論、綿密な検証と修正による認識の深化あるのみである。

 次回、「十字架とダビデの星(下)」では、オプス・デイとその傀儡教皇ヨハネ・パウロ2世を中心に、カトリックとユダヤ勢力(シオニスト)との関係を検討していくことにしたい。
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第9部:十字架とダビデの星(下)    (2006年3月)
《注記:以下で単に「ユダヤ」と書いているものは英語でいえばJewryであり、ユダヤ人一般を指すものではない。これについてはイズラエル・シャミールによるこちらの文章を参照のこと。》

[ユダヤ人教皇ヨハネ・パウロ2世]

 2005年4月、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が死去したすぐあとのことだが、英国の新聞メトロ紙が次のような内容の記事を掲載した。

 《英国マンチェスター在住の正統派ユダヤ歴史・哲学研究家ヤアコヴ・ワイズの研究によると、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(カロル・ヴォイティーワ)の母親、祖母、曾祖母がすべてユダヤ系であった。》

 ヴォイティーワがユダヤ系であることは以前から一部で指摘されていたことだが、生前にこれを語ることはタブーだった。しかし彼の極めて強い親ユダヤ性はいやでも人目を引かざるを得なかったのである。

 カロル・ジョゼフ・ヴォイティーワは1920年5月18日に南部ポーランドのヴァドヴィツェで生まれた。この町は第2次世界大戦の前には多くのユダヤ人が住んでおり、彼はそこでユダヤ人社会との極めて強い接触を持っていたようである。ネット百科辞典ウイキペディアはカロル少年がヴァドヴィツェのユダヤ人の子供たちと共にサッカーを楽しんでいた、という逸話を紹介している。

 バチカンの情報誌Znet.orgは彼が死亡するやや前の2005年1月に次のような話を掲載した。あるポーランド人の夫婦がユダヤ人の幼い男の子を預かった。彼の両親はナチによって連行され二度と戻ってこなかった。夫婦はナチを恐れその子供にカトリックの洗礼を受けさせようとしてクラコウの教会に行ったが、若い神父は洗礼を拒否した。子供の『ユダヤ人としてのアイデンティティを尊重するがゆえに』である。その子供は無事に成人となり後に米国に渡った。そしてヨハネ・パウロ2世が就任した年に、育ての親からその神父がカロル・ヴォイティーワであることを聞かされたのだ。

 欧州のユダヤ人社会の中でこの教皇に対する信頼は圧倒的だった。彼は幼友達のユダヤ人であるジャーズィ・クルガーの多大の影響を受けながらイスラエルとユダヤ教に関するバチカンの政策を決めていた、といわれる。

 この教皇は倫理や政治姿勢の面では極めて保守的であったが、宗教面では次々とカトリックの伝統を打ち破った。ユダヤ教とイスラム教に対して「同一の神をあがめる宗教」でありイエス・キリストに対する忠誠無しでも「救済される」としたのだ。先ほどのユダヤ人少年に関する逸話がヴォイティーワの死の前にバチカンの雑誌に載ったことは意味深長である。一方で彼のバチカンは、カトリックの教義をヒンズー教徒や仏教徒にも理解出来るように再構築しようとしたスリランカのベラスリヤ神父を、キリストによる救いなどの根本的な教義を否定するとして破門に処した。これに直接に手を下したのが教理省長官ジョセフ・ラツィンガー(現教皇ベネディクト16世)である。

 ユダヤ教に関しては前任者のパウロ6世も同様の姿勢を打ち出してはいたが、ヨハネ・パウロ2世のユダヤに対する偏向は際立った。2000年3月に彼はカトリックの「過去の過ち」を認め神に許しを乞うミサを行ったが、これが主要にユダヤ人に対する偏見とその結果起こったとされる「ホロコースト」に対してであるのは言うまでも無い。ユダヤ人である彼が「カトリックを代表してユダヤに謝罪した」のだ。

 1978年にこの全く無名だった男が「ミスター冷戦」となるべく教皇位に就いた裏に、極めて親ユダヤ的なオーストリアの枢機卿フランツ・ケーニッヒがいたことは前回(第8部 )でも触れた。そしてそこに米国支配層の意思と同時にユダヤ組織の介入があった可能性は否めない。偶然かもしれないがその前年にイスラエルで、リクード党首で元イルグン・テロリストのメナヘム・ベギンが首相となっている。

[オプス・デイ創始者のユダヤ起源]

 カロル・ヴォイティーワがオプス・デイの創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーに心酔していたことは有名である。彼は教皇に選出される直前、その3年前に死亡したエスクリバーの墓の前に跪いて懸命に祈っていた。ヨハネ・パウロ2世は教皇就任後に、オプス・デイを「属人区」という特別な地位でバチカンの正式な機関とし、1992年にはその死後わずか17年でエスクリバーを福者に、その10年後の2002年には聖人へと、異常なスピードで「出世」させた。サン・ピエトロ寺院の脇には彼の巨大な彫像 すら飾られている。あの第2バチカン公会議最大の功労者であるアンジェロ・ロンカッリ(ヨハネス23世)は未だに聖人ではないのだ。

 そして、当然のごとくというべきか、このエスクリバーには「ユダヤ人説」がある

 彼のフル・ネームはJosemaría Escrivá de Balaguer y Albásなのだが、しかし彼が生まれたときの名前はJosé María Escriba y Albásであった。最後のAlbásは母親方の姓であるが真ん中のEscriba(エスクリーバ)は父親の姓だ。これを後にEscrivá(エスクリバー)と改名したわけなのだが、実はこのescribaというスペイン語はユダヤ教の『律法学士』を指すものである。

 スペイン人の姓の中には明らかにユダヤ起源を伝えるものがいくつかある。その代表的なものがフランコであり、あの独裁者フランシス・フランコはユダヤ系と見なされているのだ。フランコは生真面目な堅物だったのだが、結婚後に熱心なカトリック信徒である夫人の影響を受けるまでは決してミサに行かなかったといわれる。同様にキューバの首相カストロの姓もユダヤ系に多いようである。

 エスクリバーは1902年にスペイン北部のバルバストロという田舎町で生まれたが、そこには改宗ユダヤ人、スペイン語でマラノあるいはコンベルソと呼ばれる人々の子孫が多く住んでいた。スペインには1492年のカトリックによる統一の以前には数多くのセファラディ・ユダヤ人がいた。その過半数はカトリック教徒によって追放されたが一部は改宗してそのままスペインに残った。そして彼らの中には「隠れユダヤ教徒」として秘密裏にその信仰を守り続けた者もいた。

 彼が父方の姓を変えてまでその出自を隠そうとしたのはなぜか。「マラノの子孫」であることにひけ目を感じていたのか、あるいは修道院に入るのにキリストから嫌われた「律法学士」の名では不都合だと考えたのか、そのへんはわからない。ただ当時はユダヤ人に対する「キリスト殺し」の汚名と偏見がカトリック社会の中で強く根付いており、それが彼に有形無形の圧力をかけていたことは想像に難くない。

 1928年にオプス・デイを作りカトリック僧として左翼思想を敵視していたエスクリバーはスペイン内戦中にフランコと出会うのだが、フランコとオプス・デイの関係は単にお互いの利用以上のものがあったであろう。

 そして、内戦終結のわずか4年後の1943年に、オプス・デイの幹部であったラファエル・カルボ・セレルが、おそらくスペイン王政復古の画策を開始するために、スイスに亡命中のスペイン王家・ブルボン家の後継者ドン・フアンと会見している。このようなコンタクトは、欧州の「雲の上」を通して物事を動かすことの出来る巨大な力が介在しない限り、実現できるようなものではありえない。

 さらには1942年からローマへの本部移転の下準備を始め4年後の46年にエスクリバーはローマに移ったのだが、その後わずかの間に、フランスのロベール・シューマンやエドゥモン・ジスカールデスタン、イタリアのアルチデ・デ・ガスペリといった政界の大物を取り込んでいるのだ。この集団は単なる新興教団ではない。

 20世紀の前半にシオニズムとバチカンの両方に深く関わりどちらをも支えてきた要素として英仏のロスチャイルド家がある。そして後半では米国の姿が大きく浮び上がるが、彼らは同時にナチス・ドイツをも誕生させ育てた。当然だが、そのどちらにも世界の支配階層となったユダヤのマモン崇拝者たちの姿を見ることができる。
《米国とナチス・ドイツとの関係については、「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第7部 ナチス・ドイツを育てた米国人たち」を参照のこと。

 十字架と六芒星が重なってくる。ニューヨークにあるオプス・デイ米国本部にはカトリックに付き物の聖人像や聖画は無く十字架すらほとんど目に付かない。ここに七支の燭台があればそのままシナゴーグに代ってしまうのかもしれない。『律法学士』たるエスクリバーの背後にユダヤ支配者の影が濃く映る。ヴォイティーワとエスクリバーは最初から共通の基盤の上に立っていたのだ。

[世俗的メシア主義]

 オプス・デイの教義内容に関しては次号で詳しくご説明したいが、この教団が第2バチカン公会議の「申し子」として勢力を伸ばしてきたことは今までにも申し上げた。そしてその公会議に多大な影響を与えたものが三つあることもお話してきた。一つは米合衆国憲法、二つ目はシヨン運動(フランス革命の思想)、そしてユダヤ(シオニズム)である。この三つに思想上の共通点があるとすれば、おそらく「現世主義」「世俗的メシア主義」とでもいうべきものだろう。

 以前のカトリックの特徴であった現世否定的な姿勢はこの公会議を境にほとんど消えて無くなった。旧来なら、キリストの再臨を待たない理想世界の建設は「地上の王国」の理想化であり反キリスト的な発想として糾弾されるべきものであったのが、この公会議を境に180度の変化を受けた。

 オプス・デイは、イエズス会やフランシスコ会などのような僧侶中心の組織ではなく、基本的に世俗組織である。社会のピラミッドで中〜上層部を構成する実業家、知識人、法律家や政治家、エリート軍人などがその能力を最大限に発揮できるように、その教義が組まれている、と考えたらよい。

 それは一見すると、「貧民救済」の発想をイデオロギー化させたイエズス会系の「解放の神学」とは逆のように見えるが、「世俗的メシア主義」という点では全く一致している。この二つは第2公会議で生まれた『双子の兄弟』、鏡像の関係にあるものと言って構わないであろう。

 面白いことに、カトリックの変化よりも先にユダヤ教の内部で類似の大変化が起きていたのである。神が遣わすメシアの登場を待たずにパレスチナの地に戻ろうとするシオニズムの台頭である。現在でも少数派ではあるがシオニズムに頑強に反対する旧来のユダヤ教徒たちがいる。そしてそのシオニズム運動とマルク・サンニエのシヨン運動はともに19世紀後半のほぼ同時期に誕生した。
《注記:トーラーを聖典を仰ぐ正統派のユダヤ教徒たちは、神から遣わされたメシアによらずにパレスチナの地に戻ることをユダヤ教に対する冒とくであるとして、シオニズムとイスラエルを厳しく批判している。》

 さらにオプス・デイが一貫して敵視してきたマルクス主義にしても、ある種の「世俗的メシア主義」と言って差し支えないだろう。これもまた19世紀後半から主に左翼ユダヤ人たちによって急激に広められたものなのだ。もっと言えばヒトラーやムッソリーニのファシズム思想すら同様に考えることもできよう。

 そして今までに述べたどの側からも希求されるものは、それぞれにニュアンスや使用する論理は異なっていても、人間の手と意思による「理想社会」「地上の楽園」の実現であり、これらの動きの全てがそれを理論化し合理化しようとしている。そしてその果てにあるものは何であろうか。

[エルサレムへ]

 2003年7月に、イスラエルの元首相で労働党首シモン・ペレスは、エルサレムを国連の主導の元に象徴的な「世界の首都」とし国連事務総長に「市長」となるように提案した。ユダヤ人とイスラム教徒の係争地であるエルサレムを「国際化」することによってパレスチナ問題を解決しよう、というのである。ただイスラエルは従来から、バチカン主導によるエルサレムの「国際化」には一貫して反対している。

 しかし2006年になってイスラエルのアシュケナージ・チーフ・ラビであるヨナ・メツガーはチベット仏教のダライ・ラマに対して、世界の宗教家の代表による「宗教の国連」をエルサレムに設立することを提案した。ダライ・ラマは即座に歓迎の意を表したのだが、この場にはイスラム聖職者、およびローマ教会と非常に親しい米国ユダヤ人協会のラビ・デイヴィッド・ロウゼンも同席していたのである。

 ヨハネ・パウロ2世の死を受けた2005年4月のコンクラーベでベネディクト16世(ジョセフ・ラツィンガー)が選出された際に、世界各国の反応の中で米国ブッシュ政権とイスラエルの手放しの喜びようが印象的だった。ラツィンガーは長年ヴォイティーワの元で教理省長官を務め、実質的なバチカンのナンバー2であった。当然オプス・デイとは強い関係で結ばれている。彼の選出を決めたのはオプス・デイの全面協力であった。彼らはアルゼンチンのホルヘ・ベルゴリョなどの有力なライバルから支持者を引き離すべく、中南米の枢機卿を中心に猛烈な根回しを行ったのだ。
《注記:ラツィンガーが生きたまま教皇を辞めた後に教皇フランシスコとなったのがこのホルヘ・ベルゴリョである。しかしラツィンガーは「名誉教皇」としてバチカンに居座っている。これはバチカン内の激しい権力闘争を現しているのだろう。》

 ベネディクト16世も極めて親ユダヤであり、イスラエルに反感を表明するイスラム教徒たちに対しては厳しい姿勢をとり続けている。そして彼の懐刀でカトリック・シオニストのクリストフ・シェンボーンは、このコンクラーベの直前に、欧州のキリスト教徒のイスラエル支持はホロコーストへの罪悪感に基づくものではなく、シオニズムが「ユダヤ人に対する聖書の命令」だからである、と語った。

 ここでシヨン運動と対立したシャルル・モラスが20世紀初頭にマルク・サンニエに宛てた手紙の一部を引用しよう。(聖ピオ10世司祭兄弟会の翻訳による)

 《あなたはフランス語でのミサや晩課と、ローマの権威から完全に離れた聖職者を、希望していますね。そうなったら必ず残念に思うでしょう。『ローマ』が廃止されるならば、このローマとともに聖伝の一致と力が失われるでしょう。カトリック信仰に関する書き物の記念碑(聖書を指す)は、ローマから外れた宗教的影響を受けることになるでしょう。直接にテキストを、特に書簡を読むでしょうが、もしローマが説明しなければ、ユダヤ的であるこの書簡はユダヤのようにふるまうでしょう。(・・・・)ローマから離れることによって、私たちの聖職者はますますイギリス、ドイツ、スイス、ロシア、ギリシアの聖職者たちのように変わっていくでしょう。彼らは司祭から「牧師」「福音の僕」になり、ますますラビニスムに近づき、少しずつエルサレムへとあなたを導いてしまうでしょう。》

 文中の『ユダヤ的であるこの書簡』はおそらく新約聖書中の預言書ヨハネの黙示録を指すと思われる。これが『ユダヤのようにふるまう』というのは「世俗的(現世的)メシア主義で解釈する」という意味に他ならない。モラスはこの運動が持つ方向性を実に正確に見抜いていた。そしてこの流れがシオニズムと共同で第2バチカン公会議を生み、オプス・デイの台頭を導くと同時に現在のシオニスト主導のバチカンにつながる。

 すでに『ローマ』は廃止されつつありカトリックは着実にエルサレムへと導かれてきている。そして今、世界中の宗教、思想、道徳がこの都市に招かれようとしている。

[世界統一宗教?:第8部のまとめと次回予告]

 教皇ピオ10世(1903〜14)は、シヨン運動を禁止するために1910年に書いた回勅の中で、この運動が「世界統一宗教」に進む方向性を敏感に感じ取り、次のような見事な予言的警告を発している。(聖ピオ10世司祭兄弟会の翻訳による)

 《そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が成り立っていけるならば)合法化された狡知と力の支配ならびに弱者および労苦するものらへの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。》

 ピオ10世はシヨン運動に隠された「反キリスト」的性格を見抜いた。『自由と人間の尊厳の名のもとに合法化された狡知と力の支配』はネオコン主義そのままであろう。そのような世界が『世界統一宗教』とともにやってくる、というのである。そしてそれは現在、半ば達成されているように思える。その中心にあるのがエルサレムなのだ。

 次回はオプス・デイの教義内容に迫り、現代世界においてそれがいかなる方向性の持つものかを分析してみたい。
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