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第5部:欧米社会の新たな神聖同盟(上)   (2005年4月)

[聖人製造工場]

 「おい、冗談だろう?」3・11マドリッド列車爆破事件の少し前の2004年3月初旬、欧州の各界で驚きの声が上がった。バチカンが「シューマン」を福者の候補として挙げたからだ。カトリックの教義で、福者は人間に与えられる地位の中で聖人に次ぐものであり、聖人はこの福者の中から選ばれる。聞いた人の中には音楽家のシューマンを想像して妙に納得した人もいたようだが、これは「EUの父」「EUの守護聖人」とも呼ばれるロベール・シューマンのことだったのである。

 そもそもある人物が福者に推薦されるには、死後5年以上たつこととその人物が行った「神による奇跡」が少なくとも一つは認められなければならない。バチカンの専門会議で本物の奇跡であるかどうかが厳しく審査され、伝統的には認められることが非常に難しいはずのものである。

 ところが故教皇ヨハネ・パウロ二世は2004年末までの26年の在任中、何と1337名の福者、482名もの聖人を作った。もちろん一人の教皇としては空前絶後で、彼以前の17名の教皇が作った聖人・福者の数の合計よりも多い。人は彼のバチカンを「聖人製造工場」と呼んだ。しかしそれにしてもロベール・シューマンが何の奇跡を行ったというのだろうか。もし彼が福者となったのならそれこそ「神による奇跡」に違いなかったであろう。

 第二次大戦後にフランスの首相も勤めたロベール・シューマン(1886〜1963)は、外相であった1950年に、それまで米英の主導で進められていた欧州統合路線を一気に覆し、仏独を軸にした統一欧州構想であるシューマン・プランを発表した。そしてその計画に沿って翌年にECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足したのだが、彼は、このプランに協力したイタリアのアルチデ・デ・ガスペリ、西ドイツのコンラート・アデナウアーと共に、熱心カトリック信徒であった。そしてシューマンとガスペリは、実はオプス・デイに所属していたのだ。

 オプス・デイの傀儡と言われた故ヨハネ・パウロ2世がシューマンを福者にしたがった特別な理由はちゃんと存在した。何せ2002年には死後27年という異例の早さでこの教団の創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーを聖人に仕立て上げた教皇である。この「EUの父」を福者にする目論見は、EU憲法の中に「キリスト教」の一言を記入させ、ローマ教会つまりオプス・デイのペースでEUを動かすためのデモンストレーションでもあった。しかしさすがにこの横車は押し通すことが出来なかったと見えて、2004年のシューマン列福は立ち消えになりEU憲法もバチカンの思惑から外れた。

[統一欧州とオプス・デイ]

 シューマン・プランが発表された1950年といえば、創始者のエスクリバーがローマに本拠地を移転してからわずかに4年目のことである。シューマンとガスペリだけではなく、欧州統一を目指して1946年に作られた経済協力欧州連盟(LECE)の会長で後のフランス大統領の父親であるエドゥモン・ジスカール・デスタンも、またオプス・デイに属していたといわれる。

 教団創設から間もないこの時期に、すでにこれほどの欧州政界の大物をかかえ、その会員の名を冠したプランがその後の欧州の運命を決めてしまったのである。このECSCの成立は、米国と組んでアングロサクソンのペースで欧州をまとめようとした英国の思惑を打ちのめし、現在のフランスとドイツを軸にしたユーロ圏とEUの登場に道を開いたものであった。オプス・デイはその初期からすでに欧州の「雲の上」にその身を届かせていたのだ。この教団は最初から支配者となるべく育成されていた。第3部 でも述べたが、その誕生と成長の過程には実に多くの秘密が横たわる。

 そもそも欧州統一の流れは、理念としては17世紀のアンリ4世の時代にまでさかのぼるのかもしれないが、実質的には第一次大戦終了後の1922年にリヒャルト・デ・クーデンホフ-カレルギ伯爵が主導した「汎ヨーロッパ主義運動」がその出発点であった。オーストリア帝国外交官と日本人の母ミツコとの間に生まれたこのオーストリア・ハンガリーの貴族は、フランス・ドイツ国境の石炭と鉄鉱の資源争奪が戦争の原因と考え、国境線の廃止と超国家的権威による資源の管理が新たな戦争を食い止める唯一の道であると唱えた。彼の「統一欧州」は米国、ソ連、大英連邦と拮抗する勢力をなるべきものであり、分裂し疲弊して米国とソ連に挟撃される欧州をよみがえらせようとする熱意の産物であった、といえる。彼の理想はアポリネール、トマス・マン、アインシュタイン、フロイト、ピカソなどの欧州文化人(不思議とユダヤ人が目立つ)から高い評価を受けたが、大不況と第二次大戦がその夢を打ち砕いた。

 そしてクーデンホフ-カレルギと共に欧州統一構想に力を尽くした人物がイタリア人の大富豪でフィアットの創業者ジョヴァンニ・アニエッリであるが、彼はベルサイユ条約と国際連盟に反対してムッソリーニ政権最大の庇護者となりヒトラーを支持した。ジョバンニは一九四五年に他界したが、その後もアニエッリ家は、オプス・デイと関係の深いイタリア保守政界(例えばガスペリの他にジウリオ・アンドレオッティもそのメンバーと言われる)を中心的に支え続け、欧米支配層の中で遺憾なく実力を発揮した。おそらくこの教団の創成期に深い関わりを持っているものと思われる。

 第二次大戦後はソ連圏に対する集団的防衛の意味合いを帯びた形でこの統一欧州構想が改めて取り上げられることとなった。それは米国に亡命していたクーデンホフ-カレルギの声にCFRが耳を傾けたものであったのだが、米国と英国のプランは彼の構想とは似ても似つかぬ、アングロサクソン主導による大陸欧州の属領化ともいえるものであった。しかしこれは1952年までに担当者内部の不一致とド・ゴールなどの抵抗で頓挫し、クーデンホフ-カレルギの当初のアイデアを生かしたシューマン・プランに沿ったECSCが本格的に始動することとなったのだ。

 米国はNATOを先に(1949年)発足させ対共産圏の軍事政策を利用して欧州に枷をはめていた。しかし欧州事情に詳しく後にCIAの長官となるアレン・ダレス(CFR委員)はペンタゴンの思惑とは別にシューマン・プランの実現に向けて協力を惜しまなかった。ダレスといえば、米欧ユダヤ支配階層に最も信頼される人物の一人であり、オプス・デイと縁の深いリチオ・ジェッリと共にバチカン・ラットライン を画策・実行した人物でもある。ここに米国の持つ「もう一つの顔」が見え隠れする。

 ECSCの成立はアングロサクソンを狼狽させたが、しかしやがてNATOとの妥協点から、欧米を支配する者たちによる一つの「ソサエティー」が誕生することとなる。これが1954年に発足するかの有名なビルダーバーグ会議であるが、ここではこの集まり自体については触れない。

 ECSCは1951年にフランス、西ドイツ、イタリアおよびベネルクス3国の6カ国で成立し、1957年には同じ6カ国による欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(Euratom)が発足した。これが英国をも巻き込んで後のECに、そしてユーロ圏を形成し、東欧・バルト海諸国を含む今日の25カ国のEUへと発展したのである。将来はトルコやひょっとしたらイスラエル、果てには地中海沿岸全域を含む、巨大な地域ブロックを形作る可能性すらある。

 そしてオプス・デイの姿は、その発起人ともいうべきシューマンやガスペリはもとより、推進者のアニエッリ家と歴代イタリア保守政界、フランス保守政界にちらつくし、また現在の欧州議会と欧州委員会の中でも非常に強い影響力を持つ。さらにハブスブルグ家、ブルボン家、リヒテンシュタイン家、ポニアトウスキ家、ワルドブルグ-ゼイル家などのEU内での有力な家系の者はオプス・デイに関係ありと見たほうがよい。オランダ王家も無縁ではなさそうだ。彼らは王家・貴族の家柄だけでなく大資本家であり、欧州の政治・経済を影で(というより「雲の上」から)取り仕切る者たちである。当然のことながらバチカンとスペイン王家は完全に彼らの勢力範囲だ。

[共産圏解体の陰に]

 ここにロベール・シューマン研究所という組織がある。これは正式には「中央および東ヨーロッパにおける民主主義発展のためのロベール・シューマン研究会連合」という名称である。1995年に発足したもので、各国の保守的(つまりキリスト教的)政党や団体によって構成され、その主体はルクセンブルグ・ロベール・シューマン基金、キリスト教民主党連合、欧州国民党(EU議会内の保守党会派)、欧州研究基金である。その目的は名称の通り旧共産圏の国々に西欧型民主主義を根付かせる、というものだが、このソ連圏の解体に果たしたバチカンとオプス・デイの役割は限りなく大きい。

 ポーランド出身のカロル・ヴォイティーワが教皇の座に着いたのは冷戦継続中の1978年のことであった。彼の前任者ヨハネ・パウロ1世は在位わずか1ヶ月で謎の死を遂げたが、オプス・デイあるいはフリーメーソン組織P2による暗殺ではないか、との噂もある。さらにその少し前のニクソン政権の時代から、それまで公式には関係を絶っていた米国が、バチカンに積極的な接触を開始していた。

 関係を絶っていたとはいえ、第4部でも書いたように、米国政府とCIAは中南米での数々の反米政権転覆謀略の中でオプス・デイと密接な協力関係を保ち続けていた。そしてそのオプス・デイがヴォイティーワを強力に推し、誰もが予想しなかったポーランド人教皇の誕生となったのだ。この筋金入りの反共主義者であるヨハネ・パウロ2世誕生の背後にはただならぬ気配が漂う。
《注記:ヨハネパウロ2世と米国、そしてオプス・デイの関係についてはこちらの記事も参照のこと。》

 米国はレーガン時代の1984年にバチカンと正式に国交を結びCIA局員が大手を振って教皇庁に出入りできるようになったのだが、もちろんそれ以前から米国政府−CIA−オプス・デイ−教皇庁のつながりはしっかり出来ていた。その前年に教皇は反米サンジニスタを壊滅させるべくニカラグアを訪れているのだ。

 また教皇庁、つまりオプス・デイはリチオ・ジェッリを通してソ連・東欧の情報機関との接触を持っていたと思われる。この教団のメンバーであるFBI局員ロバート・フィリップ・ハンセンが十数年間のKGBスパイ容疑で2001年に逮捕され、同じく会員である疑いが強いその上司のルイス・フリーフFBI長官がその後に辞任したことが何よりの証拠だ。要するに口封じである。「冷戦」体制から「対テロ戦争」体制に移る際に、以前の対立構造の秘密を消し去っておかねばならなかったのだろう。

 そして1989年にレーガンの跡を継いだ元CIA長官のジョージ・ブッシュ父は、ヨハネ・パウロ二世の仲介でソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談を実現させ、冷戦に終止符を打った。これが長年にわたるCIAとオプス・デイによる地道な諜報活動と根回しによる結果であったことは説明の要もあるまい。ヴォイティーワは共産圏を解体し冷戦構造を終了させるべく選ばれた男だった。それを知っていたからこそブレジネフは彼に刺客を放ったのだ。

 しかし何よりも彼らの熱意を感じさせる場所は、やはり教皇の祖国ポーランドであろう。ポーランド「民主化」のシンボルはあの労働組合「連帯」委員長で後に大統領となるレフ・ワレサなのだが、このワレサがオプス・デイのメンバーである可能性は高い。2002年に教団創始者エスクリバーが聖人に列せられた式典で、ワレサの姿が大勢の信徒や支持者たちに混じって目撃されたのだ。またP2とオプス・デイ、バチカン銀行が絡むアンブロシアーニ銀行倒産事件を招いた13億ドルと言われる使途不明金は、中米とポーランドでの反共政治活動資金につぎ込まれた、と噂されている。

 80年代に入って急激に高揚した「連帯」の動きの裏には、教皇庁、オプス・デイとCIAの連帯もまた存在していたのである。こうして1989年6月に行われた議会選挙で「連帯」は大勝利をおさめ9月には東欧初の非共産主義政権が誕生した。これがいわゆる「東欧革命」の口火を切ったのである。現在この国はEUに加盟しながらも強く親米路線をとっている。これは伝統的な反独感情もあるが、何と言っても80年代以来のオプス・デイとCIAの工作による世論形成が引き継がれているのであろう。先ほどのロベール・シューマン研究所の設立は東欧各国のEU加入を準備したものであり、そしてポーランドには東欧で最初にロベール・シューマン基金が開設された。

 もちろんEUの動向はオプス・デイだけによるものではない。EU内には、宗教派と世俗主義派、カトリック派と反カトリック派、そしてカトリック内部にも「保守派(オプス・デイを主体にした)」と「進歩派」の大きな対立がある。しかし「第2部:スペイン現代史の不整合面 」でも述べたとおり、この教団は「対立概念」を超越しているのだ。「雲の上の住人」は対立を巧みに操作しながら現実を作り変えていく。見かけの姿にとらわれると世界は見えてこない。

[アングロサクソンがターゲット]

 2004年12月、英国に衝撃が走った。トニー・ブレアー首相が教育大臣としてオプス・デイ会員の女性ルース・ケリーを指名したからだ。伝統的に英国聖公会が圧倒的に強い英国政界で、カトリック信徒、それも「得体の知れぬ秘密組織」との風評が絶えず「超保守派」として名高いこの教団のメンバーが入閣するとは! 早速、人工中絶や避妊の認知を進める女性団体やバチカンの策謀を警戒する宗教界は各方面の学者を動員してその「危険性」を訴えたが、ブレアーは今のところ全く動じる様子は無い。

 英国労働党政府周辺に入り込んでいるオプス・デイ関係者が彼女一人とは到底思えない。さらにガーディアンやタイムズなどの英国の新聞は、ブレアーの妻シェリーがオプス・デイに近い筋のカトリック信徒であり、ケリーの入閣には彼女の強い働きかけがあった、というもっぱらの噂を報道する。しかし問題は妻のシェリーだけではない。当のトニー・ブレアー自身が知る人そ知る「隠れカトリック」なのである。報道によると、彼はあるカトリック僧に将来の改宗を示唆した、という。妻を通してオプス・デイに操られているのではないか、あるいはすでにそのメンバーとなっている、という声すらある。彼がユーロ導入に熱心なわけだ。

 英国にとって、カトリックが国の指導部に入り込む、ということは、ヘンリー8世、エリザベス1世の時代以来の大問題なのだ。それも事実上バチカンを取り仕切って保守的カトリックを固守し、大陸欧州政財界で底知れぬ実力を持ち、そのうえに何やら秘密結社めいたイメージを拭い去れない教団であればなおさらだろう。

 しかしオプス・デイに関しては不思議な点がある。創始者のエスクリバーがその本部をローマに移転した同年、欧州統一構想が再び盛り上がりつつあった1946年にイングランド支部が開設された。なぜパリやウイーンより先にロンドンなのか。さらにその後、教団最大の論客で最重要幹部の一人、スペイン王政復古と民主化に尽くしたラファエル・カルボ・セレルが、ロンドンのスペイン研究所所長になっている。しかしそこは聖公会と英国王室の本拠地、世界を股にかける諜報機関の中心地、そしてユダヤ金融センターではなかったのか。

 つまりこういうことになる。英国とアングロサクソン世界を支配する「彼ら」にとってこのカトリック集団は危険ではなく、むしろ「当然の仲間」として迎え入れるべきものであった、ということだ。ここにも表面ばかり見ていたのでは到底理解できない世界が存在する。そういえばP2事件の中心であるアンブロシアーニ銀行の頭取ロベルト・カルビが謎の死を遂げたのもまたロンドンだった。この世界の魔都が自ら進んでこの新参の悪魔を招いたとしか思えない。

 オプス・デイは一般大衆に対する布教には熱心ではなく、中産階級以上の優秀な人材を「一本釣り」をするのが特徴である。また有力な会員の周辺には、思想信条を問わない「協力者」という名目の関係者からなる非常に幅広い裾野を持つ。これは主に政治的・経済的利益で結び付いているものだが、こうして中〜上流の階層から発して一つの社会を動かしていくのがこの教団のやり方である。この点は「解放の神学派」を除く旧来のイエズス会とも似通った面を持つ。

 したがって英国の一般民衆の大部分が聖公会信徒のままでもこの教団は意に介しないであろう。現在アングロサクソンが彼らの最大のターゲットになっている、といえる。しかしそのためには何よりもシティを牛耳るユダヤ資本、および米国支配層との「共存共栄」が不可欠であろうが、その辺は心得ているように思える。

「ダヴィンチ・コード」に惑わされるな:第5部まとめと次回予告

 近年日本でも評判になっている「ダヴィンチ・コード」だが、この小説に登場する中世的雰囲気を漂わせるおどろおどろしいカルトのイメージでこの教団を考えていると、とんでもない見誤りをしてしまう。彼らの本体は「雲の上」にあり「右」も「左」も使いこなす演出家の一群なのだ。オプス・デイが冷徹に計算された統一欧州構想に最初から中心的に関わってきたことは紛れも無い事実である。そして同時に、「冷戦構造」の構築とその解消を演出した米国支配集団とも密接につながっている。

 注意が必要なのは、欧州にしろ米国にしろ、彼ら支配集団が決して一枚板ではないことだ。彼らはあくまでも「チェスの指し手」の集団であって「雲の上」で手を結ぶことも反目しあうこともありうる。次回は今回に引き続き「欧米社会の新たな神聖同盟(下)」と題して、米国社会の中で暗躍するオプス・デイと、彼らが思い描いているであろう未来世界の構図「新たな神聖同盟」の姿について探っていくことにしたい。
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