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第2部:スペイン現代史の不整合面   (2004年7月)

[自ら姿を消した「支配者」のミステリー]

 フランシスコ・フランコによる過酷な独裁政治が1939年から36年間も続いたスペインでは、それを根底から覆す激しい自由化と民主化が、1975年の独裁者の死からわずか3年のうちに法と制度の改革だけによってさしたる混乱も無く実現された。同様にサラザール独裁政権に苦しんだ隣国ポルトガルで、1974年のクーデターの後、長年にわたる政治的・経済的混乱が続いたのとは好対照である。

 スペインのこの大変化は多くの謎を投げかける。フランコの事実上の後継者カレロ・ブランコがETAの爆弾テロによって殺害された影響が大きいにせよ、独裁政権を支えてきた保守派たちがいとも簡単に力を失い、また彼らと繋がってきた軍がこの変化に対して完全な中立を守ったのはなぜか。また、長年地下活動を続けて共和制樹立を目指してきた社会労働者党(以後、社労党)と共産党があっさり立憲王制を認めてしまったのはなぜか。誰の力でどのようにしてこのような大変化が起こりえたのか。

 様々なことが言われる。60年代後半からの労働者や学生と民族主義者の反独裁運動、国王フアン・カルロス1世とその腹心のアドルフォ・スアレスの政治手腕、保守派内部の分裂と混乱、十分に近代化を果たした経済システム、共産党や社会労働者党に代表される左翼政党の中道化の傾向、経済的にゆとりを持てるようになっていた国民の冷静さ、などなど。しかしそのどれを、あるいはすべてを考慮に入れても、ちょうど「大日本帝国」が戦争や混乱を経ずに「日本国」に、しかも内部からわずかの期間で変化する、それに匹敵するような出来事を説明し切るのだろうか。

 最も奇妙なのはオプス・デイである。1950年代後半からフランコの死の75年までスペインの財界と官僚機構、言論界、教育界、軍部を掌握、カレロ・ブランコを先頭にして多数の閣僚を配置し、一方で保守的カトリックを国民に強制して、事実上の「支配者」として独裁国家を運営してきたこのカトリック集団が、その大変化とともに国家経営の表舞台から忽然と姿を消したことである。ソ連圏崩壊後の共産主義勢力のように存在基盤を失ったためではない。独裁時代に彼らが築き上げた経済システムは多少の修正を経ながらも基本的にそのまま生き残り、今日まで財界、官僚、軍部、マスコミの中で、その力は増大しこそすれ決して衰えていない。しかし70年代後半の大変化の際には何の後腐れも無くあたかも自ら進んで表舞台から退場したような印象さえ受ける。

 内外の歴史研究者は、すでに「歴史」になってしまったフランコ時代についてはともかく、この大変化以後の現代史で「オプス・デイ」の名に触れることはない。またこのカトリック集団を批判する文章は無数にあるが、その多くが、この教団の「極右・超保守的」体質、フランコ時代の思想弾圧、および70年代から80年代に中南米諸国でCIAと手を組んで行なった政治謀略に集中しており、せいぜい2000年に誕生した第2次アスナール政権に言及するのみである。

 しかし私は、この1970年代後半のスペインの大変化は、現代ヨーロッパ史最大のミステリーの一つではないか、と思っている。そしてこの大変化の中にこそ、バチカンを支配し中南米で政変を演出し、今後の世界支配を企む強力なカトリック集団オプス・デイの本質が見えているような気がしてならないのだ。

[通説スペイン現代史:フアン・カルロスとアドルフォ・スアレス]

 1931年のスペイン革命により第2共和制が発足、国王アルフォンソ13世は退位・亡命した。彼とヴィクトリア英国女王の孫でバッテンベルグ公ハインリッヒの娘のユージェニーとの間の息子が、フアン・カルロス1世の父親、バルセロナ伯ドン・フアン・デ・ボルボンである。ドン・フアンは英国海軍に入隊後、ローマで仏ナポリ家の両シシリア王女マリア・デ・ラス・メルセデスと結婚、スペイン内戦中の1938年(フランコ政権誕生の1年前)に生まれたのがフアン・カルロスである。

 ドン・フアンは、スペイン国内の王党派残党との連絡を保ちつつも同時にフランスに亡命中の社会主義者たちとも接触し、フランコ政権打倒・立憲君主制樹立の道を探った。ドン・フアンはフランコを毛嫌いしていたし、フランコも王室を遠ざけ無視しており、両者の間で和解の余地は無いように思えた。しかし複雑な経緯の後、1948年に、王子フアン・カルロスをマドリッドで養育させフランコ亡き後に国家の首長にするという約束の元に、フランコと妥協することになった。

 さて、1928年に誕生したカトリック系集団オプス・デイ(神の御技:創始者はホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲー)はフランコ政権とともに成長し、その活動の初期から多くの分野の優秀な学生の間に浸透した。50年代に入ると、エスクリバーの盟友で政権内の実力者カレロ・ブランコの引きもあり、政府機構内に強力なテクノクラート層を形成し始めた。そして冷戦中に米国・西欧資本の流入が本格的に始まると、ロペス・ロドを中心にしたオプス・デイのテクノクラートたちはまさに「水を得た魚」であった。60年代の「スペインの奇跡」と呼ばれる日本のそれに匹敵する経済成長は、貧困にあえいでいた国民に精神的な余裕を与えた。さらに他の欧米諸国からの観光客とその文化に直接触れ合うにつれて、反独裁の動きが国のあちこちで始まった。

 唯一の合法政党でファシズム運動のファランヘ党は「国民運動」と改名したが政権内で次第に勢力を弱めていった。フランコの老齢と肉体的衰弱が明らかになった60年代に、体制内権力闘争を経て事実上の指導者となったのはオプス・デイのカレロ・ブランコであった。彼自身は頑固な保守主義者だったが、彼が信頼する脱イデオロギー化したテクノクラートたちによって成し遂げられる経済成長は必然的に様々な制度改革を必要とせざるを得なくなっていた。一方、1969年に王子フアン・カルロスは国会で正式にフランコの後継者・次期国家元首として承認された。

 この時期にはエレロ・テヘドル、ラファエル・カルボ・セレルなどの体制内の改革派も登場した。特にカルボ・セレルは新聞などの言論機関を通して、保守派から「裏切り」と目されながら体制の改革による自由化を目指した。一方でキリスト教左派、地下活動中の社会主義者や共産主義者、またバスクやカタルーニャの民族主義者の動きも活発になり、フランコ体制は急激にその求心力を失っていった。そして73年にカレロ・ブランコがETAに暗殺されると、事実上独裁政権を支える実力者は不在となった。

 1975年11月のフランコの病死の後、国王として正式な国家元首となったフアン・カルロス1世は、ほとんど無名だった法務テクノクラート出身の若きアドルフォ・スアレスを首相に指名した。以後、国王とスアレスのコンビは凄まじい勢いで独裁体制の一掃と民主政治の確立を果たしていく。

 就任直後のスアレスは、地下活動中の社労党の書記長で後に首相となるフェリペ・ゴンサレスと秘密会談を持ち、またパリに亡命中の共産党書記長サンチアゴ・カリリョと話し合うために使者を派遣した。一方で国王フアン・カルロスは腹心フェルナンデス・ミランダらを使って右派の有力者に徹底的な根回しをして反対派を押さえ込み軍部の中立を確保した。こうしてスアレスは1976年暮れに政治改革法案を議会で通し、国民投票で圧倒的多数の賛成を得た。

 続いて公安裁判所の廃止、社労党の合法化、国民運動の解散、すべての労働組合活動の承認、そして共産党の合法化と、瞬く間に自由化・民主化が進められた。続く77年6月の第1回総選挙では、スアレスの民主中道連合が過半数には満たないが第一党、社労党が第二党となった。翌年の78年12月6日に新憲法が発布され、フアン・カルロス1世は「象徴」となって政治の舞台から退いた。

 このようなフランコ体制内部から表れてきた急激な改革に、過去との決裂=共和制樹立を目指していた左翼政党は完全に虚を突かれ、右派は自由化と民主化を、左派は立憲王制を、それぞれ認めざるを得ない流れを作られてしまったのだ。

 さらに注目すべき事件がある。1981年1月にスアレスは突然辞任しソテロが首相になったが、その直後の2月23日、軍の一部である国家防衛隊(グアルディア・シビル)のアントニオ・テヘロ中佐が200名ほどの部下を率いて国会を占拠し、それに呼応してバレンシアの軍司令官によって非常事態宣言が出される、という事件が起こった。国王フアン・カルロス1世は即座にテレビで国民に平静を呼びかけ軍に忠誠を誓わせて、次の日にテヘロは投降しアルマダ将軍ら数名が首謀者として逮捕された。

 この「クーデター未遂事件」が国民に与えたショックの大きさは言うまでも無い。そして次の年の総選挙には獄中からテヘロが立候補し、独裁政権の亡霊に危機感を募らせた国民はこの82年総選挙で社労党に圧倒的な支持を与え、その後14年間続くゴンサレスの社労党政権が始まった。こうしてフランコ時代の名残は見事に消えてなくなりスペインの民主化は完成されて、安定した立憲君主制が続くこととなったのだ。

 以上が一般的に伝えられるスペイン現代史のあらましである。

[オプス・デイによる「現代史」の演出]

 スペイン現代史を紹介する資料のほとんどが、「独裁政治に対する民主主義の勝利」としてこの変化を紹介する。しかし何かが不自然だ。独裁時代に国中に張り巡らされた支配構造が、まるで優秀なデザイナーによってあらかじめ計られていたかのように、スムーズに新しい体制に置き換えられていくのだ。また81年のクーデター未遂事件は、あたかも社労党政権確立のために準備されていたかのように見える。そもそも、政治の表舞台に突然現れ巨大で決定的な働きをした上で、わずか3年間で彗星のように政治面から去っていった国王フアン・カルロス1世とは一体どんな人物なのか?

 ここで、以上の「歴史」と同時進行した別のラインを追っていこう。

 第2次大戦の最中の1943年10月、フランコ権誕生のわずか4年後、スイスにいたドン・フアンを訪ねてきた男がいる。これが先ほど60年代の「体制内改革派」として紹介したカルボ・セレルなのだ。彼はオプス・デイの初期からの会員で、創始者エスクリバーの最も信任の厚い人物の一人である。この会談の内容まで知る由も無いが、フランコの信頼を勝ち得たこの教団は一方で王政復古を画策していたのだ。

 また1946年にエスクリバーは、スペインを盟友カレロ・ブランコやロド、セレルなどの主要会員に任せ、バチカンに潜入すべく本拠地をローマに移す。

 48年にフアン・カルロスがフランコの「後継者」と約束された後、10歳を過ぎたばかりの王子の養育係を任せられたのはオプス・デイの僧侶フェデリコ・スアレス(後に王室付きの主任司祭となる)、またソフィア王妃(ギリシャ王パブロ1世の娘)の秘書となったのはやはりオプス・デイ会員のラウラ・ウルタド・デ・メンドサである。

 一方でオプス・デイはカレロ・ブランコを中心にして、反対派のファランヘ党(国民運動)などを徐々に追い落としていく。またセレルとともに体制内改革派として活躍したテヘドルもオプス・デイのメンバーである。さらに驚くべきことに、フランコ死後にフアン・カルロス1世と協力して急進改革を成し遂げたあのスアレスやミランダさえもオプス・デイであり、おまけに81年のクーデター未遂事件の首謀者として逮捕されたアルマダ将軍までがオプス・デイのメンバーだったのである。特にアルマダは国王と極めて近い筋にあった。

 これでもうすべて明らかだろう。

 改革の功労者スアレスとオプス・デイを結びつけることは、どうやらスペインでは「右」にとっても「左」にとってもタブーらしい。しかし彼の息子アドルフォ・スアレスJr.はオプス・デイ系の学校の出身者で(オプス・デイの世俗会員には子供を教団の学校に入れる義務がある)、現在、同窓生で前首相アスナールの娘婿アレハンドロ・アガッグ(オプス・デイ)と並んで、国民党の若手のホープである。また2004年3月に死亡したスアレスの娘が2度の乳がんの大手術を受けたのはナバラ大学(オプス・デイ経営)医学部だ。スアレスがオプス・デイ会員であることは「公然の秘密」なのだ。

 スペイン現代史はみごとに演出されていた。独裁政権を支え強化し、経済界、官僚層、保守派政治家、軍部に圧倒的な支配力を誇っていたこのカトリック集団こそが、独裁政治を崩しその名残をも一掃した激変の本当の主人公だったのだ。言ってみればある種の「上からのクーデター」に他ならなかったのである。

 一方では同時期に中南米でCIAと手を組んで反共軍事独裁政権を次々と作っていくわけだからずいぶんと奇妙な話ではあるが、紛れも無い事実である。彼らは、「右・左」「保守・進歩」といった対立概念を超えている。それらは総て彼らの「手の内」にあるのだ。そして、このフアン・カルロス1世とその周辺が発する政治力の恐ろしさを知っていたからこそ、ゴンサレス社労党政権は諜報機関CESID(後のCNI:国家中央情報局)を使って国王の身辺を常に見張っていたのだ。

 ここまで来ると、1973年のETAによるカレロ・ブランコの暗殺も、ひょっとすると彼らがETAと警察を操って実行したのではないか、とすら思えてくる。奇妙な事件だった。ブランコは教会のミサに決まった時間に決まった道を使っていたのだが、その道に面したアパートの地階を借りたETAメンバーがそこから道路の下に穴を掘って爆弾を仕掛け、車もろともブランコを吹き飛ばしたのだ。警察は「管から漏れた都市ガスの爆発」という見解を出して捜査を遅らせ、彼らが逃げおおせる時間的余裕を作った。漏れたガスが道路の下から爆発するだろうか? しかし、ともかくもブランコ暗殺によって「改革」の幕が切って落とされたわけである。古くからのオプス・デイ関係者であり創始者エスクリバーの盟友は、この教団のために命を捧げたのであろうか。
《注記:2004年に機密解除されたフランコ政権の諜報資料によれば、ETAを使ってブランコを暗殺させたのは米国CIAである。当然だが、この当時ラテンアメリカでCIAと手を組んでいたオプス・デイがそのことを知らなかったはずもあるまい。CIAの意図は様々に推測されているが、自由化とNATO加入を拒み旧体制を死守しようとしていたブランコは、西側世界にとって危険な存在だったのではないか。》

 なお、国王フアン・カルロス1世はローマ・カトリックの上級秘密組織、マルタ騎士団の騎士だ、という説もある。オプス・デイの上層部とマルタ騎士団とはかなり重なっているようであり、欧州の王家のネットワークから見てもオプス・デイの背後にはもう一段大きな権力構造があってもおかしくないが、しかしここではそこまで話を広げる余裕は無い。いずれにせよヨーロッパは奥が深い。「雲の上」の世界を下界から窺い知ることは非常に困難である。しかし感覚と理性と観察眼を研ぎ澄ませば、雲の切れ間を通してその上にいる「チェスのさし手」の指が図らずも見えてくる場合があるのだ。

 また、カレロ・ブランコ暗殺から82年の社労党政権誕生までの経過には、2004年3月11日のマドリッド列車爆破事件から14日の総選挙での社労党勝利までの事態を髣髴とさせる部分もある。この事件の裏にもやはり「神の御業」があったのだろうか。真相は闇の中、いや「雲の中」である。

[第2部まとめ]

 バチカンの支配者オプス・デイは、恐らく今後の欧州、中南米そして中近東、ひいては全世界の情勢に大きな影響を与え得る集団である。それだけに彼らの本当の姿を見極めておく必要がある。独裁政治のイデオローグ、超保守的カトリック、バチカンの金権支配、中南米での極右的活動といったイメージだけでは対応不可能であろう。彼らはそのような「舞台の上の俳優」というよりはむしろ「舞台裏の演出家」なのだ。

 次回は『ネズミの後を追って』と題して、第2次大戦直後のバチカンを通したナチス残党の南米逃避行とCIAの誕生の秘密、そしてそれとオプス・デイの疑わしい関わりについて突っ込んだ探求を行なう予定である。
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