(聖なるマフィア オプス・デイ 目次に戻る    (アーカイブ目次に戻る)  
 
第3部:ネズミの後を追って   (2004年10月)

[バチカン・ラットライン]

 ドイツの敗北がすでに避けられぬものとなった1945年3月、スイスで米国OSSのアレン・ウエルシュ・ダレスとナチSSのカール・ウォルフが、敗戦後のドイツの処理について秘密交渉を行った。このダレスは後にCIA長官(1953〜61)となる人物だが、30年代から40年代にかけてヒトラー政権と盛大な取引を行っていたニュージャージー・スタンダード・オイル(後のエクソン)の役員であり、また兄弟のジョン・フォスター・ダレス(ロックフェラー家の一員、後の米国国務長官)と共に法律家としてロスチェイルド系シュローダー銀行(ドイツ:ナチスを支えた金融機関の一つ)の法律顧問を勤め、同様にナチスとつながるITTとも深い関係を持っていた。なおCIAは1947年にOSSを母体に創出されたが、ダレスは最初からその中心人物だった。
《注記:ダレス兄弟とナチスの関係については『イスラエル暗黒の源流 ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム』にある「第7部:ナチス・ドイツを育てた米国人たち」を参照のこと。》

 この交渉の中で一つの重大な決定がなされた。大量のナチス幹部を、バチカンを通して中南米、米国、カナダ、オーストラリア、中東などの土地に逃がす、というものである。この「バチカン経由の逃げ道」を俗に「ラットライン」と呼ぶ。一応その語感から「ネズミの通路」とでも訳しておこう。そしてその「通路」を通って3万人とも5万人とも言われるネズミどもが逃亡した、といわれる。その中には、後にイスラエルに連行されて処刑されるアドルフ・アイヒマン、「リヨンの屠殺屋」クラウス・バルビー、またヨゼフ・メンゲレなども含まれる。

 これは一面では米ソによる「人材引き抜き競争」の一環であろう。ヒトラー政権は「世界支配・改造計画」とも言えるアイデア実現のために必要な人材とノウハウを集積していた。例えば、ベルリン陥落後にソ連がロケット開発の優秀な技術者を多数連行したことは有名である。一方米国はフォン・ブラウンなどのロケット研究者の他に、ソ連と中東に対する諜報活動の人材とそのノウハウを確保した。それが後のゲーレン機関やCIAのスパイ網につながることはよく知られている。いってみれば「第3帝国」は米国とソ連に引き継がれたのだ。

 移送されたのは人間だけではなかったようだ。ナチス・ドイツ所有の大量の金塊が運び出され、そのうち400トンはスペインに運ばれた、といわれる。それ以上に重要だと思われるものがモルヒネである。現在の南米からのコカイン流通ルートの元は、CIA保護下のマフィアとナチ残党によるモルヒネ取引の経路である可能性が高いからだ。その他、精巧な「偽英国ポンド札」もあったようだが、これが「本物のポンド印刷機」を入手してのものなら、当然そこにはロスチャイルド家と英国諜報機関が絡むだろう。そういえば現代でも、北朝鮮の極めて精巧な「偽ドル札」は本物のドル印刷機を使用して作られたのでは、と疑う向きもある。これが事実でなくても、どうやらドイツ製の印刷機を使用してのものらしいから、これもまた面白い取り合わせだ。

 それにしてもここでなぜバチカンなのか。一般的にはソ連圏との対決を見込んで反共の方針で一致した米国−バチカンの共同作戦、ということになっているが、ただそれだけでは説明し切れない不可解な面が多く残る。当時の教皇ピウス12世はドイツで教育を受けた人物で、ナチスとの関係には並々ならぬものがある。またこの「ネズミの通路」には、ナチスやファシストと米国諜報機関のほかに、スペインのフランコやアルゼンチンのペロンといったカトリック諸国の軍事独裁者、マフィア組織、80年代にP2事件で華々しく登場する裏組織の人物たちまでが複雑怪奇に絡んでいるのだ。

 もちろん資料として表に出るような事ではないが、IOR(宗教活動協会:俗に言うバチカン銀行)はマフィアやCIAなどの資金洗浄の場であるとささやかれる。バチカンがスイスと並ぶ「金融大国」になったきっかけは、ムッソリーニとの間で1929年に締結されたラテラン条約である。教皇庁はバチカンとして独立し、イタリア政府から教皇領喪失の補償として毎年多額の資金提供を受け(これは1984年まで続いた)、イタリア国内にあるそのバチカン所有の施設は(後にはその投資をも)非課税となる権利を手に入れた。ムッソリーニ時代のイタリア国内から流入した資金だけでも当時の金額で10億ドルに上ると言われ、やがてはナチス・ドイツが国民から徴収した「教会税」の一部もバチカンの懐に入ることになる

 1942年にはIORが創設され、以来バチカンは戦中から戦後にかけて、イタリアだけでなくドイツ、スペイン、スイス、米国等の大企業・金融機関、そしてCIA、マフィアといった組織と深いつながりを持つようになった。「ラットライン」は彼らすべての利益にも合致していたのだ。

 当然のことだが、こういった事柄に関連する正式な公文書としての資料が公開される可能性は極めて小さいだろう。しかし「人の口に戸は立てられぬ」である。様々な方面で語られた「事実」が、その後に起こった多くの明らかな出来事と重要な整合性を持つ場合、一つの有力な仮説として採用すべきだろう。

[マドリッドからローマへ]

 話は飛ぶが、1928年にスペインの首都マドリッドで奇妙なカトリック系宗教団体が産まれていた。その名はオプス・デイ、創始者はホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲー(1902〜1975:以下、エスクリバーと表記)である。カトリックの修道士であり同時に法律を学ぶ学生でもあったエスクリバーは、通常のカトリック僧が行う貧者救済のような事業にはさして興味を持たず、ひたすら中・上流家庭出身の優秀な学生をつかまえては自分の信念を説いた。その中心は、『人間は自分の職業活動で完璧な成功を収めることで神の恩寵を受け、俗世の生活を捨てることなく聖なるものとされる』という、従来のカトリック思想とはおよそかけ離れたものである。(オプス・デイの思想についてはいずれ号を改めて《注記:第10部第11部第12部で》 ご紹介したい。)

 1932年に起こったスペイン革命と第2共和制の誕生、36〜39年のスペイン内戦は、エスクリバーを反共の闘士に鍛えていった。内戦中は主にフランコ軍参謀本部の置かれたブルゴスで過ごす。後にフランコ独裁政権の最高幹部になるカレロ・ブランコとの出会いはこの過程においてである。またそこでエスクリバーのカルト集団はフランコとその側近たちの信頼を得、軍事独裁政権誕生後に宗教・思想界のみならず教育、マスコミそして産業界にその網の目を広げていくことになる。

 エスクリバーは大戦後の1946年にローマに移り住み、オプス・デイの本部もそこに新たに作ることになる。その3年前の1942年(IOR創設の年!)に側近のホセ・オルランディスとサルバドル・カナルスが、また43年には最大級の幹部アルバロ・デ・ポルティーリョがローマに行ってその下準備をした。本部のローマ移転以後、オプス・デイはバチカン内および世界の多くの国々で強大な勢力を誇る集団に成長していくわけだが・・・、しかし何か奇妙だ。

 いくらスペインの独裁者に取り入ったとはいえ、一体どれほどの金脈と人脈を持っていたというのか。創立間もないころのオプス・デイは常に資金不足にあえいでいた。初期の会員の身内が宝くじで大金を当てたとたんにエスクリバーから入信の勧誘が来た、という逸話まである。また彼は教団の資金が底を付くたびにブルゴスのカレロ・ブランコに会って無心を繰り返していたのだ。学生の会員たちが卒業し社会的地位を得るにつれて教団の資金繰りにも余裕が出てきたが、その程度でローマに乗り込むなど気違い沙汰だろう。古株の陰謀組織のような種々の集団がうごめき伏魔殿とまでいわれるバチカンに、没落・荒廃した貧乏国からやってきた新参者がいきなり挨拶しても、おそらく鼻も引っ掛けられまい。しかしオプス・デイに関しては異なっていた。

 そればかりではない。すでに1943年には、幹部のカルボ・セレルが亡命中のスペイン王位継承者ドン・フアンとスイスで(またしてもスイス!)秘密会談を持ち、将来のスペインの体制変革について語り合うほどに政治的にも実力を持っていたのだ。欧州の王家連合をバックにし教皇庁にも顔の効くこのブルボン家当主はフランコを根っから嫌っていたのだが、そのフランコに認められた程度の得体の知れぬ集団の一員に会って、こともあろうに自分の息子とスペイン王家の将来を託す、そんなことがありうるだろうか。何かが変だ。何かが隠されている。エスクリバーがオプス・デイの本拠地をローマに移す1946年までに一体何が起こっていたのか。

[ヨーロッパの闇に潜む男]

 話を第2次大戦中のイタリアに移そう。1943年7月に連合軍はシシリー島に上陸するのだが、それは米国軍が、ムッソリーニから圧迫を受けてファシスト党に恨みを持っていたシシリーのマフィア組織に、米国マフィアのドンであるラッキー・ルシアーノを通して十分な根回しをした結果だといわれる。米国諜報機関はやがて麻薬取引を通してマフィアと緊密な関係になるが、そのきっかけはこの辺にありそうだ。

 以後、ムッソリーニは追い詰められていくわけだが、その側近にリチオ・ジェッリという男がいた。彼は1936年のスペイン内乱勃発時には黒シャツ隊としてスペインに派遣され、フランコ独裁政権樹立に多大の貢献をした。そして大戦中はSSヘルマン・ゲーリング部隊の常駐員となり、終戦直後には米軍諜報部隊と協力して、クロアチア人カトリック僧ドラゴノビッチと共に「バチカン・ラットライン」の作業に当たった。そして冷戦中にはCIA長官アレン・ダレス(ラットラインを計画した人物!)によって提案された反共ネットワーク「ステイ・ビハインド」の中でのキーパーソンの一人となる。またフランコだけでなくアルゼンチンのペロンとも親しく、一説ではペロンの方がジェッリを崇拝していたそうだ。当然のことだがペロンはラットラインで南米に逃れたナチ党員を全面的に受け入れている。

 この男は後にイタリアのフリーメーソン組織P2の頭目であることが発覚し、バチカン銀行(IOR)を危機に追い込むアンブロシアーノ銀行倒産疑惑(1982年にはP2メンバーで頭取のロベルト・カルビがロンドンで謎の「自殺」をとげた)および多くの殺人に関連して、1998年に逮捕された。

 このヨーロッパの、いや世界の闇に下半身をどっぷり漬けた男は、実はオプス・デイとは切っても切れない縁を持つ。P2事件では、死んだカルビや、その投資者の一人でマフィアとの関係も深いミケレ・シンドーナとともに、ジェッリがイタリア社会の裏表でオプス・デイと密接につながっていたことが公になっている。またジェッリの親友ペロンはオプス・デイが支援した独裁者の一人であり、1973年に彼が大統領に復帰する際にマドリッドに保管されていたナチスの金塊がアルゼンチンに移送された裏にオプス・デイがいたのは明白だ。同じ年にチリではピノシェットの軍事独裁が始まる。

 またその一方でジェッリは、ソ連のKGBとの強いつながりをも持っていたともいわれる。KGBといえば、2001年3月に十数年間にわたってKGBのスパイを努めた容疑で逮捕された米国FBI職員ロバート・フィリップ・ハンセンはオプス・デイのメンバーであり、その上司で同年6月に辞任したFBI長官ルイス・フリーもオプス・デイ関係者であることが極めて濃厚だ。逆にオプス・デイの操り人形である教皇ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)はソ連と共産圏の解体を演出した最重要人物の一人であり、1989年12月にゴルバチョフとブッシュ(父)がマルタ島で開いた冷戦終結の会談の仲介役がバチカンだった。オプス・デイがソ連内にも隠密のコネクションを持っていたことは確実であり、恐らくその橋渡しをしたのはジェッリではないか。

 何よりもジェッリはスペイン内戦時にフランコと共にいたのだ。何一つ資料は残されていない(少なくとも私は現在までに出会っていない)が、その際にオプス・デイ創始者のエスクリバーやその幹部たちと出会わなかった、と考える方が不自然だろう。もちろん彼以外の黒シャツ隊メンバーの中にも、バチカンに通じる者や種々の資金ルートに精通する人間がいたであろうし、ひょっとするとナチスから派遣された人員がこの教団と接触した可能性すらある。

 実際にエスクリバーはヒトラーとムッソリーニを熱烈に賛美していた。また彼らの方がこの教団の持つ一風変わった思想に興味を持ち共感を覚えたのかもしれない。もちろんこれらは私の想像でしかないが、オプス・デイ本部のローマ移転とそれ以後の爆発的な発展の謎は、まずその出発点を疑うことでしか解けないだろう。またそのような仮定をすることで初めて、後のCIA、中南米の政財界や軍部、マフィア集団やP2などの裏社会とオプス・デイとの緊密な関係も説明可能になる。

 さらに、ローマにはカトリック系上級秘密組織であるマルタ騎士団の本部もある。慈善団体を装うこの謎の集団は、欧州の王室や旧ナチ関係者、欧米の政治家や資本家、CIA関係者などの中に幅広くメンバーを持っているといわれる。ただこの手の話はどこまで信用してよいものか困るのだが、各方面に相当に圧力の効く団体であることだけは間違いなさそうだ。もしも、オプス・デイが1942年にローマに先遣隊を送った際に、ジェッリなどの手引きでそのようなヨーロッパの深奥にまで侵入していたと仮定すれば、王家連合の重要メンバーでありスペイン王室・ブルボン家継承者のドン・フアンとサシで話ができたことにも不思議はなくなるだろう。

[ネズミの後を追って]

 オプス・デイは第2次大戦直後からスペイン以外の国々に急速に進出していった。1945年にはポルトガルに、46年にはイタリアとイングランド、47年にフランスとアイルランド、49年にメキシコ、50年には米国、チリとアルゼンチン、51年にコロンビアとベネズエラ、52年にドイツ、53年にペルーとグアテマラ、56年にウルグアイとスイス、57年にブラジル、オーストリアとカナダ、58年にエルサルバドル、ケニアと日本、59年にコスタリカ、60年にオランダ、62年にパラグアイ、63年にオーストラリア、64年にフィリピン、65年にベルギー、69年にプエルトリコに、といった具合である。

 カトリックと対立するはずのイングランドに、ローマへの本部移転と同年に進出していることはなかなか興味深い。ひょっとするとロスチャイルド家か英国諜報部あたりとの関係も考えられなくはない。また非キリスト教国である日本にも意外と早く入っている。しかしこのオプス・デイ拡大について何よりも注目すべきことは、本部に近いヨーロッパ諸国はともかく、あたかも「バチカン・ラットライン」で逃げたネズミどもの後を追うように、南北アメリカ大陸に侵入した様子がよく分かることだ。

 東西冷戦という絶好の環境の中で、すでにこのネズミの通路はさまざまな裏組織と謀略機関の往復する街道になっており、そこをこのオプス・デイという新参の妖怪が悠々と通っていった・・・、大西洋の地図を眺めながらそのような想像をめぐらしてみる。

 ひょっとするとオプス・デイの急成長の秘密自体は永久に証明されることが無いかもしれない。しかしそれを探る努力の中から、闇に埋もれた「もう一つの現代史」の姿が少しずつ浮び上がってくるのではないか。

 1930年代から40年代にかけてのナチス・ドイツ進展の裏には、英・米資本と多くの米国企業が関与していることはすでに周知の事実である。ナチスを育て、「バチカン・ラットライン」を使ってその「遺産」を引き取り、その世界征服の野望をも受け継いで発展させてきた現在のアメリカ合衆国こそ、まさに「ナチ第4帝国」の名にふさわしい。ナチを育てた一人であるプレスコット・ブッシュ の子と孫がその頭目になっていることがそれを象徴している。

 ただ、今回使用した「ラットライン」関係の資料の作成者には恐らく左翼系のユダヤ人、あるいはそのシンパが多いと見えて、悪魔の双生児であるナチスとシオニストの関係が全くといってよいほど描かれていない。おそらくこれは高等な(つまり悪質な)情報操作の一つだろう。ナチスと米国との関係をどれほど正確に暴いても、そこにシオニストとの関係が書かれていない場合には、現代史の分析として片手落ちなばかりか、結局は英米イスラエル支配層を擁護するだけの大嘘につながるからである。

 私はオプス・デイとユダヤ・シオニストとの間にも重大な関連があるのではないか、と疑っている。イタリア・ファシストの系列である現イタリア保守政権は親シオニストであり、そこに深く食い込んでいるのがこの教団だからだ。この追究は恐らく困難を極めるだろうが、真実を知りたいという衝動は私の本能なのだ。腰をすえて調べていきたい。ここまで迫りきれば「現代史の闇」の全面開示となることだろう。
《注記:オプス・デイとシオニズムとの関係については第7部第8部第9部を参照のこと》

[第3部まとめと次回予告]

 2002年2月から3月にかけて、エルサレム近郊のベツレヘム生誕教会に多数のパレスチナ武装勢力が立てこもり、イスラエル軍とにらみ合いが続いたことは記憶に新しい。このときに事態を打開するために、関係のある(?)4つの国の諜報機関が集まって会議を持った。米国からCIA、英国からMI6、イスラエルからシン・ベト、そしてバチカンから来たのがオプス・デイである。

 いってみれば旧知の仲、お互いに腹の底まで分かっている間柄なのだろう。彼らは、中南米での反共政権樹立や東欧共産圏解体の策動で、また北アフリカ・中近東の動乱を作っては収める作業の中で、時には協力し時には対峙しながらも、「現代史を作るのは俺たちだ」という誇りを胸に秘めて活動してきたのかもしれない。

 次回は『中南米政変を操る影』と題して、中南米の数多くの動乱の陰に潜むこの教団の姿に迫ってみたいと思う。
(聖なるマフィア オプス・デイ 目次に戻る    (アーカイブ目次に戻る)

inserted by FC2 system