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イラン・パッペ『パレスチナの民族浄化』への書評

 この拙訳は2007年3月に私(童子丸開)が和訳して、季刊『真相の深層』誌(木村書店、廃刊)に寄稿し、その後、私の旧HPに掲載していたものである。気付いた限りの誤訳、誤字や脱字などは修正を施し、必要に応じて注釈等を加えている場合がある。またこの文章は非常に長いため、小見出しごとにリンクを作って、読みたい箇所に飛ぶことができるようにしている。 (外部リンク先にはすでに通じなくなったものが含まれているかもしれない。その点はご容赦願いたい。)
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The Ethnic Cleansing of Palestine (Hardcover) 
http://www.amazon.com/Ethnic-Cleansing-Palestine-Ilan-Pappe/dp/1851684670

(訳者より)

 この長大な書評は、今まであえて誰もが手をつけようとしなかった「ユダヤ人の祖国」によるナチス・ドイツに勝るとも劣らぬ残虐な民族浄化の実態を、これだけを読んでも十分に知ることのできることのできるものである。

 「パレスチナの民族浄化(The Ethnic Cleansing of Palestine)」の作者であるイラン・パッペ(Ilan Pappe)についてはこの書評の冒頭に書かれてあるのだが、翻訳者の方から一点だけ補足しておく。

 パッペはイスラエルの暴虐を告発し、パレスチナ人とユダヤ人の完全な平等およびパレスチナ人に対する公正な補償を求める世界組織デイル・ヤシン・リメンバード(Deir Yassin Remembered)の常任理事となっている。(HPはhttp://www.deiryassin.org/)この常任理事の中にはイズラエル・シャミール、モルデハイ・バヌヌなどの人士の名も見える。(参照:http://www.deiryassin.org/board.html

 また書評の筆者であるステファン・レンドマンはシカゴ在住のユダヤ系米国人であり、パレスチナやハイチなどに対するイスラエルと米国政府の抑圧政策に反対する活動家、また作家として有名であり、Global Researchの寄稿者でもある。彼の著した論文の一覧は次のサイトに掲げられる。http://www.populistamerica.com/stephen_lendman#1

 訳者としては、イスラエル建国における、いわゆるシオニスト右派の役割についてほとんど触れられていない点がやや不満ではあるが、しかしユダヤ・ファシスト、ウラジミール・ジャボチンスキー の直系オルメルトが首相を務める現在のイスラエル内でこれに言及することは極めて危険であろう。パッペがイスラエル内でこれほどの内容を調査し公表したことだけでも歴史に残る偉大な業績と言える。最大級の賛辞を贈りたい。


 なおこの翻訳には次のthe Global Researchに掲載された文章を使用した。
The Ethnic Cleansing Of Palestine By Ilan Pappe
http://www.globalresearch.ca/index.php?context=viewArticle&code=LEN20070207&articleId=4715
 また同じ文章は次のCounter Currentsでも読むことができる。
http://www.countercurrents.org/pa-lendman090207.htm

小見出し一覧:クリックすればその項目に飛びます 。】
始まり:民族浄化の最初の計画
明白な民族浄化
シオニストの思想的ルーツ
パレスチナ人追放計画
分割、民族浄化、戦争、そしてイスラエル国家の設立
非アラブ・パレスチナ計画の終了
パレスチナをめぐる偽の戦争と本物の戦争
占領の醜い姿
Nakba(破滅)の「記憶抹殺」
「城砦国家イスラエル」によって起こされるどうしようもない問題

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イラン・パッペ『パレスチナの民族浄化』への書評
                 ステファン・レンドマン

Global Research
2007年2月7日
 イラン・パッペはイスラエルの歴史家でありハイファ大学のベテラン講師である。彼は同時にGivat Haviva【訳注:イスラエルでのアラブ人とユダヤ人の平等を目指す教育基金、本部はニューヨーク】で「平和のための調査研究所」の学術指導者、そしてEmil Touma Institute for Palestinian Studies【訳注:ハイファにあるパレスチナとイスラエルに関する研究所】の責任者である。パッペはイスラエル、シオニズムおよびパレスチナ人祖国帰還権の専門研究者であるが、『誠実さと良心を持つ賞賛すべき学者』として知られ、「パレスチナ人の復権と帰還のための会議諮問委員会:the Advisory Board of the Council for Palestinian Restitution and Repatriation (CPRR)」のメンバーである。この組織は『全てのパレスチナ人はその本来の土地に戻り財産を完全に取り戻す正当な個別の権利を持っている』と宣言している。

 パッペはまたイスラエルの「ニュー・ヒストリアン」の一人だが、その学位と著作は、最も正確で文書化されたイスラエル史の真実を語るイギリス委任統治時代およびイスラエル側資料の研究に基づいている。それはイスラエルが国家となる以前のものも以後のものも含むが、それは現在、ユダヤ人国家建設にいたる年月に関する、そして今日に至るまで続く神話を打ち破ることに寄与しているのである。

 パッペはさらに9冊の本の著作、寄稿そして編集を行っている。この書評は彼の最新の著作を詳しく紹介するものであり、したがって読者諸氏はその力強く衝撃的な内容を知ることができるだろう。それは西側諸国とイスラエル内ではほとんど知られていない事実であり、私は読者諸氏がこの書評に喚起されてこの本を手にとりパッペの綴った全詳細を知りたいとお思いになるであろうことを期待している。彼は公式の記録を用いて、どのようにしてイスラエル国家が、その何百年も以前から住み続けてきたパレスチナの住民から強制的に奪い取った土地から出る血でその手を汚す存在になったのかを明らかにしている。1940年代以来、パレスチナ人たちの祖国をユダヤ人だけのものとするために、彼らは民族的に浄化され情け容赦もなく虐殺されたのである。

この恥ずべき出来事の結果として、当時から今日までパレスチナ人たちは、自分たち自身の土地と国で平和に安全に住むことの出来る権利を含めほとんどあらゆる権利を奪われてきたのだ。彼らの土地と国はもはや存在しない。当時の生存者とその子孫は、イスラエルの中でほとんど権利を持たない好ましからぬアラブ市民として住むか、あるいはパレスチナ占領地(OPT)の中で住むしかないのだが、そこでの彼らの生活は占領された国での監獄の中で宙吊りにされている。そこで彼らは制度化され体系化された日常的な人種差別と刑罰の支配下にあるのだ。彼らは日常の生活に対して何の力も持たず、絶え間ない恐怖の状態で生きている。それには十分な理由がある。彼らは経済的に行き詰まっている。あらゆる理由にかこつけての集団的な懲罰的暴力に直面する。自由な移動ができない。分離壁や電流を流す塀や境界閉鎖によって閉じ込められている。加えて毎日の夜間外出禁止令、道路閉鎖、検問所、ブルドーザーによる家の喪失、ふざけ半分の破壊や略奪による作物と果樹園の喪失、理由の無い逮捕、そして監禁中の日常化された拷問、など。

彼らは超法規的暗殺と無差別殺人の標的である。懲罰的な税金をかけられ、生活と福祉に欠かすことの出来ない基本的な施策は拒否されている。それには衛生管理、教育、雇用、さらには食料と水まで含まれているが、それは彼らの抵抗の意思を打ち壊し追放や絶滅作戦によっては抵抗の意思を失わない者達を消滅させようとするイスラエル当局の執念深い努力の中でデタラメに行われてきたのだ。パレスチナ人たちはこの恐ろしい虐待と人間性に対する犯罪を終わらせる力を持たない。あるいはイスラエルと西側世界の中や国際犯罪法廷を通してその補償を受ける力を持たない。イスラエルはそれが自分の利益を脅かす場合には無視するのである。

イスラエル人たちが彼らを抑圧しても罰せられることは無く、米国は資金を渡し最新式の破壊兵器をあてがいながら寄り添っており、西側諸国と多くのアラブ諸国はどこもパレスチナ人達をほとんど支払う値打ちの無いものと見なして、利益のためにイスラエルや米国と同盟を結びたがっている、そんなユダヤ人種主義国家の中で彼らがイスラム教徒として何ができるだろうか。昨年、被占領地の人々にとって初めての破滅的な経済制裁のために、身の毛もよだつような人間的な悲惨さと絶望の状態がさらに激化させられた。この制裁によって貧困と80%を超えるレベルの失業が作られ、飢餓状態と様々な原因での知らされることのない死の事例が増加している。イスラエルが被占領地区内外で全ての物事と全ての人々をコントロールし、そしてそれが許されているからである。被占領地区の内に住む者達はその結果として非常な苦痛を味わっている。助ける力を持っている他の者達はそれを気にも留めず何もしない。

パッペは短いエピローグを添えた12の章と何の説明も不要な18の写真を使ってこの全てがどのようにして始まったのかを記述する。彼はその本を彼からの「その計画を練った政治家たちと民族浄化を実行した将軍たちに対するユダヤ人としての告発」と呼び、村と都市の破壊、自分の土地で平和に暮らすことを望んでいるだけの無防備な人々に対して行われた残虐極まりない犯罪を訴える。彼らは、権力者や抑圧者としてではなく、隣人としてユダヤ人たちと付き合うことを望んでいたのだ。

この書評は相当に長く、読者はイスラエルの当局者が何十年もの間に何をうまく押さえつけることができたのかについての詳細を知ることになるだろう。パッペはその本の中で勇敢にもそれを明らかにし、それが意識ある忠実な人々に読まれ議論されることを願っているのだ。彼らはこの長期にわたって吹き荒れる不正の嵐に対する世論の盛り上げを作りだす必要がある。その不正は、圧倒的な不条理に対抗して自分達の権利と存在を求めて戦う無力な人々に対して向けられているのである。

パッペは読者に対して、彼の収拾した1940年代とそれ以降の民族浄化につながる広範な公的文書とその他の資料を提供してくれる。特に彼はヌル・マサルハ(Nur Masalha)が書いた重要な本のうちの二つについて語る。まず「パレスチナ人の追放:シオニストの政治思想における移転の概念、1882 – 1948(Expulsion of the Palestinians: The Concept of Transfer in Zionist Political Thought, 1882 - 1948)」、そして「否認の政治:イスラエルとパレスチナ難民問題(The Politics of Denial: Israel and the Palestinian Refugee Problem)」の二つである。読者諸氏には、西側諸国で長い間不問に付されていたそれらの醜悪な事実をあからさまにしその自由な公表を求めて、このテーマについてその二つの本とその他の書籍を元にして、さらなる追及をお願いしたいと思うばかりである。


始まり:民族浄化の最初の計画【小見出し一覧に戻る】

パッペはその最初の章でテルアビブにあった『赤い家』について書いているが、そこは1920年から1948年のイギリス委任統治領時代を通してシオニストの支配的な非合法軍事組織だったハガナーの本部となった場所である。そしてそのときにこのユダヤ人国家がその存在を開始したのだ。彼は、イスラエル初代首相となるダヴィッド・ベン-グリオンが、1948年の5月10日にシオニスト指導部や若いユダヤ人武装勢力幹部たちと会って、どのようにしてパレスチナの民族浄化計画を練り上げたのか、詳しく述べている。それは何ヶ月もしないうちに現実のものとなったわけだが、この計画は『大掛かりな(殺すほどに激しい)恐喝:村と人口密集地に対する包囲と爆弾攻撃、家や財産や物品の焼き払い、追放、破壊、そして最終的に追放された者達が誰一人として戻ってくることのできないように砂利の中に地雷を設置すること』から成り立っているのだ。

最終的なマスター・プランは「プランD(Dalet in Hebrew)」と呼ばれ、その前段階であるプランA、B、Cに続くものであった。それは1938年6月にベン-グリオンがユダヤ機関幹部に語りそしてその後決して覆ることの無い方針だった。彼は次のように語った。『私は強制的移住を支持する。私はその中に不道徳性を見出さない』。プランDはそれを実行するためのものだった。それは、都市と農村に住む数十万人の望まれないパレスチナ・アラブ人の強制的な追放であり、その実行によって数知れない大量虐殺を伴うものであった。目的は単純であり直接的である。集団虐殺を含むいかなる手段を用いても実現すべきアラブ人の存在しないユダヤ人専用国家の創出である。

それが始まるや否やありとあらゆる醜悪な作業が続き、その完成までに6ヶ月をかけた。それは80万人を追放し大勢の死者を出し、531の村とテルアビブやハイファやエルサレムなどの11の都市居住地区を破壊した。この行動は、ニュルンベルグ裁判でナチ戦犯処刑の根拠とされ今日国際法によって「人類に対する犯罪」と呼ばれる民族浄化の、明らかな実例だった。そしてイスラエルに関する限りは常に国際法から免れ続けた。その罪深い指導者たちとその命令を遂行した者たちの名がその犯した犯罪とともによく知られているのも関わらずそうなのである。

その犯罪には、冷血の集団殺害、家と村と作物の破壊、強姦、その他の残虐行為、女性も子供も区別せずに行われた無力な人々に対する虐殺が含まれる。その犯罪は覆い隠され、パレスチナ人たちは侵入したアラブ人の軍の被害を恐れて自主的に去っていったという神話をでっち上げたイスラエルの歴史記述に見られるように、公式見解から抹消されたのである。それはパレスチナ人がthe Nakbaすなわち破滅、大災厄と呼ぶイスラエルの犯罪を覆い隠す虚構なのだ。それは現在もなお冷たく厳しく傷を傷め続ける未解決の不正義なのだ。

委任統治が終了する以前のイギリス軍がいたときでさえ、ユダヤ人武装勢力は法と秩序を犯しておよそ25万人のパレスチナ人の追放をやり遂げたのだが、イギリス人達はそれを一切止めようとしなかった。それが弱まることなく続いたのは、やっとのことで介入した近隣のアラブ諸国に何のやる気も無かったからである。アラブ人たちは小さく貧弱な装備しか持たず手遅れ状態でやってきて、次に述べるように、到底イスラエルの十分に装備された武装勢力の敵ではなく、簡単に撃退することができたのだ。


明白な民族浄化  【小見出し一覧に戻る】

パッペは民族浄化が国際法で十分に定義されていることを強調する。それは人類に対する罪であるとされるのだ。彼は数多くの定義を引用するが、その中にはそれが住民の均一化のために強権を用いて行う追放であるとするハッチンソン百科事典からのものもある。米国国務省はその要点に宗教的な歴史の抹殺を付け加えることに同意する。国際連合の人権委員会(UNCHR)は1998年に民族浄化に対して同様の定義を使った。それは次の点である。ある国家や政権が民族の混在する地域で追放やその他の暴力的手段を用いて一つの民族の支配を強制すること。その暴力には男女の間を引き裂くこと、逮捕、戦闘員になるかもしれないあらゆる年齢の男子の殺害、家屋の破壊、そしてもう一方の民族グループの移住。

1948年にシオニストは、プランDを使って国連の定義どおりのパレスチナ「浄化」を行うために「独立戦争」を起こした。それは血も凍る虐殺と無差別な殺害、標的への暗殺、そして全面的な破壊を伴うものだったが、これは明らかな戦争犯罪であり人類に対する罪である。そしてこのことは後にこの国の公式な歴史から抹消されその集団的な記憶から拭き消されたのだ。そして風化させるにはあまりにも重要すぎる真実を保存するためにこれらの出来事の記憶をよみがえらせる作業が、イラン・ペッパのような少数の勇気ある歴史家のために残された。彼の測り知れない価値を持つ本は、現実に起こったことの歴史的な評価を与えてくれる。それは幅広く人目に触れる必要がある。しかしイスラエルや米国や西側の企業的なメディアの中では全く取り上げられることあるまい。これを出版する勇気をもったこの重要なウエッブ・サイトで公表されることだろう。


シオニストの思想的ルーツ  【小見出し一覧に戻る】

パッペはシオニズムの起源を1880年代後半の中央〜東ヨーロッパにまでたどる。それは「これらの地域で、全面的に同化するのかそれとも弾圧を受け続けるのかという、ユダヤ人に対する圧力が強まったことによって促された民族再生運動として」である。テオドル・ヘルツェルによって創設されたこの運動は、初期にはその多くの人々の間で候補地について一致しなかったものの、イスラエルの地にあるユダヤ人の祖国、すなわちエレツ・イスラエルへの支持が国際的な見通しにまでなっていった。シオニズムがその目標を決定した1904年にヘルツェルは死亡したが、その後にそれはパレスチナへの植民に変化した。パレスチナが聖書にゆかりがあり、たまたま「よそ者」によって不当にも占領された土地だ、という理由からである。これはユダヤ人以外の誰もそこに住む権利を持たないということを意味しているのだ。

そこでその正当化として、「民無き土地に土地無き民を」という神話が創作されたのだ。たとえそこがパレスチナ・アラブ人と少数のユダヤ人によって栄えていたとしても「空っぽの土地」なのである。シオニストの指導者達は現地のアラブ人に完全な所有権の放棄を求めた。その創作はユダヤ人だけのユダヤ国家として古代のエレツ・イスラエルを再建させる目的で、第1次世界大戦の後にパレスチナが大英帝国によってその支配地の一部とされた後に、イギリスの後押しを受けて為されたものである。二枚舌を用いたのだが、ブリテン人たちは1917年にバルフォア宣言を書き上げパレスチナにおけるユダヤ人の祖国建設の意図を支持した。その一方で同時に、地元のアラブ人たちにはその権利が守られその土地が外国人の支配から免れることを約束していたのだった。

パレスチナのアラブ人たちはシオニストの計画の全てを知りその一部たりとも実現を望まなかった。そこは彼らの土地であり彼らは戦い無しにそこを諦めようとはしなかった。彼らはこれ以上のユダヤ人移住に猛反対したがその甲斐は無かった。彼らの願いがイギリスの領有地政策と対立したからである。そして何十年かの戦いが始まり、委任統治制度の下でのイギリスによる援助と、それを防止するための努力をほとんどしなかった近隣アラブ諸国の無関心とによって、1948年にユダヤ人国家が設立されることとなった。パレスチナ人たちはその祖国を失い、彼らの正義の闘いは未解決であり続けている。そしてこれらの苦難の民は、自らの利益のためにイスラエルとの同盟を好む西側社会と近隣アラブ諸国から実質的に孤立した状態である。彼らは、パレスチナ人たちがイスラエルの占領から逃れた実現可能な独立国家創設を含む解決への道を手助けしようとすらしない。

パッペはパレスチナ人が人口の80〜90%を占めていたバルフォア後の初期の歴史をたどる。そのときですら彼らは、シオニスト植民者たちに有利な待遇を与えていたイギリス委任統治の下で不当な扱いを受けていたのだ。だから1929年と1936年の蜂起が起こったのだが、後者は3年間も続き残酷に鎮圧された。これに驚いてイギリスはパレスチナ人の指導者を追放し彼らをユダヤ人の武力よりも弱体化させ、それが第2次世界大戦後に彼らの敗北と従属化を導いたのである。ユダヤ人に同調するイギリス委任統治当局が、ユダヤ人入植者が1920年代の武装組織をハガナーへと変身させる手助けをすることによって、それを可能にしたのである。ハガナーは「防衛」という意味なのだ。その後それはユダヤ機関つまりシオニスト統治機構の軍事組織となり、今日のイスラエル国防軍(IDF)と呼ばれるものとなった。


パレスチナ人追放計画  【小見出し一覧に戻る】

ダヴィッド・ベン-グリオンはイスラエルの最初の首相だが、1920年代半ばから1960年代に至るまでシオニスト運動を率いてきた。彼はユダヤ人国家設立計画のおいてユダヤ・コミュニティーにおける安全保障と防衛の全般にわたる大きな支配力を持ち、その「建築家」として中心的な役割を果し超越的な権威を持っていた。彼の目標は古代パレスチナに当たる土地に対するユダヤ人の主権であり、彼がそれを可能にするために考えた唯一の方法によって成し遂げられるものであった。その方法とは、パレスチナ人たちのその土地からの強制的な放逐でありその後にユダヤ人がその代わりに住み着く、というものである。

それを実行するために、彼と他のシオニスト指導者達はユダヤ人だけの居住のためにその土地を「洗浄」する組織的な計画を必要とした。ユダヤ国民基金(JNF)がそれをまとめあげるように命じられ、彼らはアラブ人の村の詳しい登録簿あるいは財産目録の作成に着手した。JNFはパレスチナへの植民に対するシオニストの主要な機関として1901年に設立された。その目標はユダヤ人移民を居住させるために使われる土地の買い上げであったが、1948年のイギリス委任統治の終了までにパレスチナの5.8%、つまりシオニストがユダヤ人国家のために求めたもののほんのちいさな部分が買い上げられたに過ぎなかったのである。早い時期からベン-グリオン達は、彼らの植民地化計画を成功させるために、もっと攻撃的なやり方が必要であることを知っていた。

それは1930年代末期までにその大枠が完成されたJNFのアラブ村落資産目録とともに開始されたのだが、そこには各村落についての地勢上の位置が詳細な情報とともに載せられた。農耕、耕作地、木の本数、果実の質、1家族あたりの平均土地面積、車両の数、商店主、パレスチナ人の組織集団とその政治的な関連、村のモスクの記述とその聖職者の名前、公的な職業の者達、その他多くの情報である。この目録の最後の更新は1947年に為されたが、そこには1948年に捜索捕縛作戦の標的とされた各村落の「お尋ね者」のリストが添付された。彼らは残酷にもその場でまとめて射殺されことになったのである。

その発想は単純であった。指導者達および危険と見なされる全ての者達を殺せ、である。その危険とはイギリスが1936〜39年の蜂起の際に鎮圧しきれなかった部分を指す。この虐殺が権力の真空を作り出し、シオニストの計画に対するいかなる効果的な反対をも無力化させてしまったのである。その後に唯一残るはずの障害はイギリスの存在であったのだが、ベン=グリオンはイギリスが1946年までに撤退を開始していたのを知っており、その統治は1948年の5月に終了した。


分割、民族浄化、戦争、そしてイスラエル国家の設立  【小見出し一覧に戻る】

民族浄化は1947年の12月初旬に始まった。その時にはパレスチナ人が人口の3分の2を構成しており、そしてユダヤ人は、その多くが戦争で引き裂かれたヨーロッパから来た者達だが、3分の1を占めていた。イギリスはこの二つの異なった民族集団を取り扱う際にその方法として分割案を採用した。1937年までにこの解決方法はシオニストの政策の中心となった。しかしイギリスにとってこの問題を解決し双方を満足させることはあまりにも困難な作業だった。そしてこの問題は委任統治が終了する以前に新たに作られた国連に任せることとなった。

国連はパレスチナ人の運命をパレスチナ特別委員会(UNSCOP)の手に委ねたわけだが、そのメンバーは紛争を解決するという事前の経験を全く持たずパレスチナの歴史に関してほとんど無知であった。それは事態が進展するにつれて大災厄のレシピになった。UNSCOPはナチによるホロコーストに対する同情としてユダヤ人に有利になる分割案を選び、それが、人口の3分の1であるユダヤ人にパレスチナ全土の56%に当たる土地を国として与えその一方でエルサレムを国際都市とする1947年11月29日に国連総会決議181号となったのである。パレスチナ人たちは正当にも激怒した。彼らはその解決案作成のプロセスから締め出され、そしてその意思に反し彼らの犠牲の上に成り立つ結論を出されたのだ。

その瞬間からパレスチナに死神が訪れ、分割、民族浄化、最初のアラブ・イスラエル戦争を導き、その後に続く戦争、そしてその決定に対する彼らの権利を顧みない、何の解決の見通しも無い絶望的な状態を作り出したのである。181号解決案は、56%対44%という領土の分割という以上に、パレスチナの最も肥沃な土地とほとんど全ての都市、そして近郊の地域を新たなユダヤ人国家に与えたばかりか、1000以上ものパレスチナ人の村の400で彼らはその居住権を失い異議を申し立てる権利すら与えられなかったのである。

パッペは、ベン-グリオンがその解決案を受け入れたと同時に拒絶したと説明する。彼および他のシオニスト指導者達はパレスチナに自らの国を持つ権利について国際的な正式の認知を求めた。彼は同時にエルサレムをユダヤ人の首都にすると決め、将来的に可能な限り多くの領地の確保を望んで最終的な国境線を流動的なままに残しておくことを意図していた。そして現在、イスラエルは世界の中ではっきりした国境線を持たない唯一の国である。ベン-グリオンは国境線を「分割解決案ではなく武力によって決められるものである」と決め付けた。彼はシオニスト指導者達の特別な集まりである諮問委員会の責任者を務めたのだが、それはユダヤ人だけが居住するようにその地を浄化するパレスチナ人追放計画の目的だけで作られたものである。

そのプロセスは1947年12月初旬に、パレスチナ人の村落とその近隣を次々と攻撃することで始まった。彼らは、1月9日【訳注:これは2月9日の誤りではないか】に作られた最初の全アラブ義勇軍部隊によって最初から苦戦を強いられた。これが結果として1948年2月半ばに始まる強制的な追放をもたらした。3月10日ついにプランDがパレスチナの諸都市中心部を最初の標的と定めて採用された。それらは4月末までには全て占領され、およそ25万人のパレスチナ人たちが根扱ぎにされ放逐され、あるいは殺された。集団虐殺も起こった。最も著名で記憶に残るものはデイル・ヤシンであるが、タントゥラのものが最大だった。

4月9日のことである。パレスチナ人の村デイル・ヤシンで、乱入したユダヤ人兵士が家々に機関銃を乱射してその中にいた多くの人々を殺害した。残りの村人達は一つの場所に集められて子供達を含めて大勢が冷酷に殺された。女性はまず強姦されそして殺された。最近の調査では93名(30名の乳幼児を含む)という犠牲者の数が挙げられているが、しかしそれ以外に何十名もが戦闘中に殺されており、合計の数字はそれよりもはるかに大きなものである。

アラブ連盟は4月30日についに軍事介入を決定したが、その直後の1948年5月15日【訳注:より正確には14日ではないか】にイギリス委任統治が終了しユダヤ機関がパレスチナにおけるイスラエル国家の建国を宣言した。アメリカ合衆国とソヴィエト連邦は公式にこの新しい国家を認知し合法的なものとした。そして同日、アラブ軍がその地に侵攻したのだ。

パッペはシオニスト指導部の計画とそれが、181号解決案を無視してパレスチナの大部分をできる限り残留パレスチナ人の少ない状態で手に入れることにつながった点を詳しく述べる。彼らは委任統治領パレスチナの80%以上の土地、つまり国連がパレスチナ人から強制的に取り上げて配分したものをすら40%も上回る土地を望んだ。それを手に入れるために、彼らはこっそりヨルダン人と共謀して最強のアラブ軍を上手に中立化させ、領地の残り20%を彼らから買い上げたのである。

1948年の戦いの前夜、ユダヤ人の戦闘部隊はおよそ5万人(夏までには8万人に増えたが)であった。彼らは小規模な空軍と海軍を持ち、また戦車、装甲車そして重火器の部隊があった。陸軍はハガナーの主力部隊に加えて、二つの過激主義の要素を持っていた。一つはイルグンであり、これは後の首相で激烈なアラブ・ヘイターであるメナヘム・ベギンに率いられた。もう一つはスターン・ギャングであり、その最も際立ったメンバーは同様に後に首相となるイツァーク・シャミールだが、これもまた極端な人種主義者だった。ここにはまた1941年に創設されたパルマフ(Palmach)部隊があり、その指導者は後のイスラエル首相であるイツァーク・ラビン、および著名な戦争のヒーローであるモシェ・ダヤンもいた。彼らは絶望的に無秩序で武器も不足するおよそ7千人のパレスチナ人非正規軍と対峙することとなったのだ。

アラブによる外からの介入は1948年5月15日にようやく開始したのみであり、それは国連解決案181号が採択された5ヵ月半も後のことだったのだ。そしてその期間にパレスチナ人たちは無防備な状態でシオニストの民族浄化に曝されていたのだった。アラブ諸国がそこまで待ったのは彼らが無関心だったからであり、ようやく行動を起こしたときに彼らは優勢なユダヤ軍の相手にならない程度の劣った軍を派遣したのだが、それについては先のほうで述べよう。


非アラブ・パレスチナ計画の終了 【小見出し一覧に戻る】

1947年の12月にパレスチナ人の数は130万人であり、そのうちの100万人が後のユダヤ人国家となる地域に住んでいた。少数派のユダヤ人は60万人であった。シオニスト指導者達には、ユダヤ人だけの居住のためにその地を「洗浄」する際に、膨大な数の人間を取り去るための方法が必要であった。彼らはそれをおとなしく行うような計画を立てていたのではなかった。その代わりにそれは、ほとんど無防備な人々に対する国家ぐるみのテロによる組織的な戦闘となった。一歩また一歩と襲いかかる恐ろしい攻撃に対抗することなどその人々にとっては不可能だった。それは脅迫し恐怖を煽る作戦でもあった。村々は住民が夜寝ている間に襲われ、動くものは射撃の対象となり、中にいる住民ごと家が爆破され、そのうえに様々な暴力行為が誰彼の区別無く振るわれた。特に戦闘要員となることが可能な、あるいはその脅迫に抵抗を示す可能性のある男性と少年達に対してである。

ベン-グリオンは事の進行に大喜びで次のようなコメントを出したのである。「我々は、我が軍が村ごとすべて破壊し住民を全て放り出すだけの能力を備えたと聞いている。やろうじゃないか。」別の機会に彼は次のように説明した。「戦いは全て占領と破壊と追放をもって終了しなければならない。」。彼はこう言った。一つの村の全人口は取り去られなければならず、あらゆる物は地面の高さにまで削られその歴史は破壊されなければならない。その場所には新しいユダヤ国家の一部として新たにユダヤ人の共同体が建設されるであろう。彼と諮問委員会にいるその仲間達は、大規模な民族浄化の移送とそして/あるいはそこに住んでいるパレスチナ人を絶滅させること抜きには、それを達成できないと信じていた。

彼らの計画には都市近隣の浄化があり、最初の標的とされたハイファから攻撃が始まったのである。そこには7万5千人のパレスチナ人が、隣人であるユダヤ人たちと平和に協力し合って住んでいたのだが、その平和はこの暴力の開始をもって終了した。暴力は他の都市に広がっていきエルサレムにまで達した。そこでは初期の散発的な襲撃が次第に激化した。それは、抵抗するあらゆる者達、あるいはシオニストが自分のものとして望み力づくで奪い取ろうとする土地に不幸にも住んでいただけという人々に対する、支配と追放と虐殺の全面展開の開始に過ぎなかったのである。

民族浄化が進むにつれて、諮問委員会は全ての村の略奪と女性や子供や赤ん坊まで含む膨大な数の虐殺をますます激しく決定するようになった。恥ずべきことなのだが、それはその地で秩序を維持するために存在した巨大な軍事力を持つ委任統治当局の下で始まり激化していったのだ。彼らは秩序維持のためになることを何もしなかった。その代わりにイギリスが選んだのはそっぽを向くこと、その地のあらゆる恐るべき出来事が抑止されないままに進行するに任せることだった。1948年の3月までに、D計画は練り上げられた軍事計画となった。それはイスラエル国家が誕生し委任統治が終了する5月15日には国土の78%からあらゆるパレスチナ人を取り除くためのものであった。

その作戦の中には、悪意に満ちた人々の脅迫にさらされたパレスチナのユダヤ人が自己防衛のために攻撃せざるを得なかった、などという腹黒いレトリックを使ったプロパガンダがあった。しかしこのような見解は、この2つのコミュニティーの軍事的、政治的、経済的な不釣合いぶりを見るならば覆されてしまう。それはあまりにも一方的なものだった。そしてイギリスが我関せずの態度をとり続けた以上、結果は目に見えていた。彼らは素知らぬ顔をし続け、5月半ばに委任統治が終了した後にパレスチナは国連が取り扱う問題となったのだ。イギリスはまた次に取り上げるようにその問題には不合格であった。

D計画はエルサレムからテルアビブに向かう道の中間にある山岳地の西側斜面の丘陵で始まった。それはナフション(Nachshon)計画と呼ばれ、それ以降の戦いのモデルケースとなったのだが、突然で巨大な複数の爆破によって始まり以降に続くユダヤ人入植のために空いた土地を用意する最も効果的なテロ戦術を使うものであった。当初からその計画は一つの村だけに適用されるものではなく、実行の際に下された命令は明らかだった。「この作戦の根本的な目的はアラブ人の村の破壊と村民の追放である。それは彼らが幅広いアラブ軍の経済的なお荷物になるようにするためである。」

イスラエル軍が攻撃する動機付けのために、パレスチナ人たちは尊重や考慮の必要の無い人間未満の値打ちしか持たない存在として非人間化され破壊の合法的な対象とされた。それは、アメリカ軍が第2次世界大戦で日本人に対して使用し、またベトナムと今日のイラクやアフガニスタンで使用しているものと同じ戦術である。その場合を見ても、標的は有色人種であり、あるいはアラブ人のように十分に白人とは言えない人々だった。

パッペは彼が「パレスチナの都市抹殺」と呼んでいるものについて詳しく語る。それはこの国の主要な都市中心部を攻撃し浄化するものであった。その都市にはティベリア、ハイファ、テルアビブ、サファド、そしてパッペが「エルサレムの亡霊都市」と呼ぶものが含まれていた。「永遠の都市」だったエルサレムは、1948年4月にユダヤ人部隊が砲撃し攻撃をかけその西側のアラブ人居住地域を占領したときに亡霊へと変わったのだった。イギリス人たちは恥知らずにも横に立っているだけで、イギリスの駐屯司令部が干渉したアハイク・ジャラーという一つの例外を除いてユダヤ人の攻撃を止めようとしなかったのだ。

それは、イギリスの「庇護者たち」がもし実際にその仕事を行ったとしたらどれほどパレスチナ人たちが歓迎していたはずなのかを明らにする希な例外であった。しかしそこ以外ではイギリス人たちは何もしなかった。その結果は混乱でありパニック状態であった。イスラエル人たちは重火器での砲撃と略奪と破壊でエルサレムの北側と西側を荒廃させ、エルサレム近郊地域にある8箇所のパレスチナ人居住地区と39の村落の人々を根こそぎにして市の東側に追いやったのである。

この都市抹殺は5月に入っても続き、5月6日には地中海岸にあるアクレと東部のバイサンが占領された。委任統治が終了する2日前の5月13日にジャッファが奪い取られた。この都市には5千人のユダヤ人部隊に対して1千5百名の義勇軍が守っていた。それは3週間の篭城と日中の攻撃を戦い抜いたが、陥落する際にその全住民5万人が追放された。このジャッファの陥落によって、ユダヤ占領軍はパレスチナの全ての主要都市と市街地域を空にし無人にしたのだった。そして大部分の住民達は二度と戻って元の家を見ることはなかった。

パッペは1948年の3月30日から5月15日までという「アラブ人の正規軍が1部隊でもパレスチナに入る以前に(パレスチナ人を助けるためだが彼らがやってきたときには何の役にも立たなかった)」に起こったことの全てを説明する。同時に、イスラエルはパレスチナ人たちがアラブ軍が介入する前後に自主的に去っていったなどという神話をひねり出したわけだが、彼の追及によってこの神話がくつがえされる。彼らの村のほぼ半分はアラブ諸国が一つでも軍隊を派遣する以前に襲撃され破壊されたのだ。そしてその他90の村が、5月15日(委任統治終了の日)以降6月11日に最初の二つの短い休戦が実施されるまでに、取り払われてしまった。

国連の分割案は問題を引き起こし、そしてこの国際機関はこのような混乱状態を調停するためのことは何一つ行わなかった。最初から大災厄が訪れる可能性が明らかに見えていたし、実際に当初の予想よりもひどい結果となった。それでもなお、5月15日を経たイギリスも、国連も、さらにはエジプト、シリア、レバノン、ヨルダン、イラクといった近隣のアラブ諸国も、いやいやながらこの問題に踏み込む以前にできる限り長い間かけて介入を引き延ばしていた。そして彼らがやっと動いたときには、その効果はほとんど無くあまりにも遅すぎた。パッペはヨルダン(当時のトランスヨルダン)のアブダラー国王を「残り鬼」と呼ぶ。彼はパレスチナの内部に軍の部隊を持っており、一部の軍人は意欲的に村の家と土地を守ろうとしたのだが、しかし彼らは司令官達によって押さえつけられてしまったのだ。
それはこの国王とシオニストたちがそれ以前に、分割案がパレスチナ人に割り当てた土地の大部分 − それは後に西岸地区となるのだが − をヨルダンのものとする取引をやらかしていたからなのだ。その見返りとしてヨルダン軍はユダヤ人部隊に対して軍事的な関わりをしないことに同意した。彼らの恥ずべき裏切りに加え、イギリス人がパレスチナ人の運命を効果的に封じ込めるその計画に賛同した。それでもなお、イギリスの委任統治が終了するや、ヨルダンはユダヤ人部隊と闘わなければならなかった。ベン-グリオンがその取引をひっくり返したからだった。彼は最初から可能な限り多くの土地を新しいユダヤ人国家のために求めており、結局はその78%に終わったものよりもずっと多くを望んでいたのだった。そしてヨルダン軍が優勢となって彼の計画をくじいた。それが西岸地区の25万人のパレスチナ人を民族浄化から救ったのだが、浄化の被害にあわされた他のパレスチナ人たちは彼らほど幸せではなかったのだ。

すでに説明したように、4月から5月にかけての躊躇の後で、アラブ連盟はついにパレスチナに介入するために正規軍を派遣した。皮肉にもこのときには、アメリカ国務省が国連に対して,分割案が失敗し他の取り組みが必要であるという提案を書き上げていたのだった。それは1948年3月12日のことだった。その提案は双方がお互いに合意する解決案を作るために5年間パレスチナを国連の信託統治とするというものであり、分割案が失敗し暴力と流血の原因を作ったと結論付けた。パッペは、パレスチナと西側諸国間の関係の長い歴史の中で、これが最も理にかなった提案であったことを強調する。

恥ずべきことにそれは流産してしまった。それは、もうその当時からワシントンに影響力を及ぼしていたシオニスト・ロビーがハリー・トルーマンとホワイトハウスを動かして、国務省の努力を封じ込めることに成功したためであった。国務省の親アラブ派がトルーマンに分割案を見直すように説得し双方に検討するための3ヶ月間の停戦を提案したが無駄であった。それはまた、5月12日に新たなユダヤ民族評議会(the Jewish People's Board)が作られて会合を開いたときにもつまずいた。ベン=グリオンと出席者のほとんどがトルーマンの提案をはねつけたのだった。その3日後に彼らはイスラエル国家の設立を宣言しホワイトハウスは即時にそれを承認した。


パレスチナをめぐる偽の戦争と本物の戦争 【小見出し一覧に戻る】

 先ほど説明したようにヨルダン国王アブダラーは、5月初旬の短い期間続いた戦闘に軍隊を動かさない返礼として後に西岸地区に変わる場所が手に入るようにシオニストと取引を行ったのだが、実際には彼はユダヤ人の二枚舌のせいで戦うはめになった。シオニストたちはヨルダンを中立化させる必要があった。それがアラブ世界で最強の軍を持っていたからであり、もしヨルダンが全アラブ軍の一部として新たに生まれたユダヤ国家との戦争に参加していたならば恐るべき敵となっていただろうからである。ヨルダンが局外に立ったことが、アラブ連盟のイギリス人参謀総長であるグラッブ・パシャ(Glubb Pasha)が1948年の戦争を「偽の戦争」と呼んだ理由である。パシャはアブダラーが自分の領土を手に入れるために取引を行ったことを知っており、戦争に参加した他のアラブ軍が「悲壮な決意で」 − とアラブ介入軍の一部がこの戦いを説明したのだが − 戦うように計画していたのである。

 カイロだけが5月12日が終わるギリギリになって軍を動かした。戦闘に向かう1万人の部隊を編成したのだが、その半分はエジプトの帝国主義への協力に反対して逮捕されていたムスリム兄弟団の義勇兵であり、彼らは刑務所から釈放されたばかりであった。彼らは全く訓練を受けておらず、便利な大砲の弾代わりに採用されたようなものであり、その情熱にもかかわらず到底ユダヤ軍の敵ではなかった。

 シリア軍はより訓練されておりその政治指導者たちはより熱心だったが、単に小さな部隊を送っただけでそれも極めて要領悪くふるまい、政府の評議会は後に1967年戦争で奪われることになるゴラン高原の確保を承認しただけだった。レバノン軍部隊はより規模が小さくより少ない干渉を行っただけであり、その多くが境界線の手前側にとどまって近隣の村を守るものであった。イラク軍もやはり参加したのだがわずかに数千人を派遣しただけだった。その政府は軍に対してイスラエルを攻撃しないように、そしてヨルダンに所属する西岸地区を守ることだけを命令したのだった。それでも彼らは命令に背いてより幅広く戦闘に携わり、1949年までにはワジ・アラで15のパレスチナの村を一時的にだが救ったのである。しかしその年にヨルダンは相互の停戦合意の一部としてその地域をイスラエルに譲渡したのだ。

 全体的に言えば、アラブ軍は「悲壮な決意」を演じた。彼らは補給路を延ばしすぎ、兵站に欠乏し、大部分の武器は旧式で機能の劣ったものだった。そして戦いをうまく進めるために不可欠な指令網も統制された共同の作戦も無かったのである。公平を期して言うならイギリスとフランスの主要な武器供給元がパレスチナへの武器輸送を止める宣言をしたわけだが、それにしてもアラブ軍の勝利に対する意欲の欠如は明らかだった。

 これとは対照的に、ユダヤ人部隊はソビエト連邦とその配下にあるチェコスロバキアなどの東ヨーロッパ諸国から兵器の供給を十分に受けていたのだ。その結果として、彼らの武器は簡単に合同アラブ兵を打ち負かすことができた。ユダヤ軍は全く脅威を受けることが無かったわけであり、パッペは、ユダヤ国家の存在そのものが危機にさらされたなどというイスラエル製の神話の実体を暴露する。決してそんなことはなかったのだ。そしてベン-グリオン以下のシオニスト指導者たちは最初からそれを知っていた。

 戦争の結果は見えていた。そしてそれは民族浄化を止めようの無いものにしてしまった。誰一人として、立ち退き、虐殺、家と土地の強奪から逃れることはできなかった。家はダイナマイトで爆破され火で焼かれ、そしてその空き地にされた土地は新たにユダヤ人たちが入植地と居住区を作るように平らにならされた。それでもなおアラブ軍は戦い続け、イスラエルに二つの短い休戦を合意させた。最初のものは6月8日に発表され11日に始まった。それは7月8日まで続いたのだが、その間にイスラエル軍は民族浄化作戦を推し進め空になった村落の破壊を続けたのである。

 第2の停戦は7月18日に始まったがこれはすぐに破られた。あのイスラエルの指導者は性懲りも無く全面的な民族浄化と可能な限りの土地の略奪に精を出していた。停戦があろうが無かろうが戦いは滞ることなく続けられ、結果として10月までには浄化の大部分が完成し1949年の1月に最終的に仕上げられた。いくつかの「拭き掃除」が残ったがそれはその夏まで続けられた。

 1948年9月に戦争は相変わらず続いたものの鎮静化に向かい、結局1949年にイスラエルが4つの主要な敵国と個別に休戦合意を結んだときに終わった。それらの合意によってイスラエルはイギリス委任統治領パレスチナの78%、国連分割案が許したものより40%以上も多い土地を手に入れたのだった。合意された戦闘停止ラインは「グリーン・ライン」として知られるようになった。ガザはエジプトに、西岸地区はヨルダンに占領された。これは、勝ち誇るイスラエルにとってはその「独立戦争」勝利の瞬間だったのだが、打ち破られ追放されたパレスチナ人にとっては"al Nakba"すなわち「破滅」として記憶されるものとなった。【訳注:以後、al Nakbaをそのまま使用する。】数知れないパレスチナ人が殺されおよそ80万人が難民となった。その生活は破壊され周辺のアラブ諸国の憐みに頼って難民キャンプでやっと生きていけるだけの状態を与えられたのだ。

 1948年の年末に向けて、イスラエルは彼らが戻ってこないようにさせる政策に集中しそれを2段階に分けて実施した。第1は国内のものでありこの年の8月に導入した政策であるが、それは無人化した村を全て破壊して新しいユダヤ人入植地あるいは「自然林」へと変える決定であった。第2は外交的なもので、パレスチナ人がその故国と村に帰ることを許そうとする国際的な圧力をかわすためのものであった。

 それにもかかわらず、パレスチナ人たちは国連パレスチナ調停委員会(PCC)の中に同盟者を作り、PCCは難民帰還の無条件の権利を要求するための努力の先頭に立った。その姿勢が国連解決案194号を実現させたのだが、それはパレスチナ人に対して、故国に戻るか、そうしない場合にはその損失の賠償を受けるか、の選択権を無条件に与えるものだった。この権利は同時に、194号解決案採択前日の1948年12月10日に、総会解決案217 A (III)として世界人権宣言第13条の中でしっかりと盛り込まれることとなった。イスラエル政府は今日に至るまでことごとくこの二つの解決案を無視し撥ね付け続けている。それはイスラエルに対する西側諸国の支援と共謀のせいでもあるし、また、イスラエル近隣のアラブ諸国による無関心のせいでもあるのだが、彼らは自らの利益のために戦略的な同盟を選び、パレスチナ人を自分の無恥と不名誉のちっぽけな代償として切り捨てたのであった。


占領の醜い姿  【小見出し一覧に戻る】

 戦争が終りイスラエルの民族浄化が完了したといっても、それはパレスチナ人にとって苦悩と災難の開始に過ぎなかった。1949年中を通して、そしてそれは今日まで続く具体的事実の始まりなのだが、およそ8千名の難民が逮捕されて囚人キャンプに送り込まれ、一方で浄化を逃れた他の多くはイスラエルの軍事支配の下で身体的な虐待と攻撃にさらされた。パレスチナ人たちは、家も畑も礼拝の場も聖所も行動と表現の自由も、そして法による正当な待遇に対するあらゆる期待をことごとく奪い去られ、法の命令による補償は彼らには適用されなかった。彼らは新たに発行された身分証明書が必要であるという屈辱に悩むことになった。もしそれを常に携帯していなければ1年半までの懲役刑に加え「不法な」そして「疑わしい」アラブ人へと即刻転落させられるのである。これは都市部と郡部であからさまな人種主義と虐待として続けられたのであった。

 このときに導入されたイスラエルの無慈悲さは他にもある。これは今日でも引き続いてパレスチナ占領地(OPT)にいる全てのパレスチナ人が従わねばならないものである。それは道路の封鎖であり、今日では検問と夜間外出禁止令が加わっており、違反者は射殺される。このような生活を極めて耐えがたいものにする状態が彼らに押し付けられた。それらは、その状況から逃れて他の場所で生きるためにその土地を去る、という選択を彼らに強いるものであった。

 1949年に存在したさらに悪いものは強制労働キャンプである。そこでは何千人ものパレスチナ人が軍の支配の下で拘留され、経済的な強化や軍事的な助けになるあらゆる作業を強制的にやらされた。それらの条件は耐えがたいものであり石切り場で重い石を運ぶ作業もあり、朝に一個のジャガイモ、昼に半切れの干し魚が与えられただけであった。不満を言えば誰彼なく激しく殴られ、危険とみなされた者はつまみ出されて即座に処刑された。

 監獄と労働キャンプの外にいる者たちの生活もたいしてましなものではなかった。赤十字の代表者たちは、死体の山の目撃を含む集中的な人権侵害についての報告書をジュネーブの本部に書き送った。結局、追放を免れて現在イスラエル国民となっているパレスチナ人は何を得ることもできなかった。彼らは何の権利も持たず常に無秩序に起こる暴力と乱暴の対象とされ、法律の保護はユダヤ人に対してだけ適用された。彼らの礼拝所は冒涜され学校は襲撃を受けた。家を持つ者は罰せられることの無い略奪者達によって昼の日中に強盗に押し入られた。彼らは欲しいものを何でも奪い取っていった。家具や衣類など、新しいユダヤ国家に入ったユダヤ人移住者達にとって役に立つものなら何でもである。パレスチナ人たちは、強盗と略奪に遭ったことのない家や店など一軒も無いと報告している。当局者はそれを止めたり攻撃者を罰したりするようなことは全くやらなかった。それは永遠に続く「水晶の夜」の下での生活のようであった。

 さらに、鉄格子の向こうや労働キャンプに放り込むこと以外に、人々を閉じ込めておく方法としてパレスチナ人地区はゲットー化された。例えばハイファでは人々は家から出るように命じられ市の定められた地区に移された。そして市の最貧困地区であるワディ・ニスナスのような狭い地域に押し込められたのだ。国連も赤十字も多くのレイプ事件を伝えた。それは公開されたイスラエルの資料と犠牲者およびその傲慢な迫害者たちによる口述の記録から確認できることである。

 最終的に、戦争の終りと民族浄化の完成に伴って、イスラエル政府はその過酷さをゆるめ都市での略奪とゲットー化を止めた。アラブ問題委員会と呼ばれる新しい機構が作られたのだが、それはイスラエルに対して難民の帰還を許すように求める国際的な圧力に対処するためのものであった。イスラエル当局者はこれに対して、レバノンやヨルダン、シリアといった近隣のアラブ諸国に難民たちを定住させるように提案することで圧力をかわそうとした。解決案194号を強制するような結論を何一つ生み出さないまま多くの議論が空転し、こうして彼らの努力は成功したのだった。

 他にも未解決の事柄がそのまま残されたのだが、その中には委任統治領パレスチナの130万人にのぼるパレスチナ住民から強奪されて現在イスラエル人の手にある資産と金の問題があった。イスラエルの最初の国有銀行はそれを1億イギリス・ポンドと見積もった。また同時に、350万ドゥヌム、つまり2万2千平方マイルもの没収されたあるいは失われた農耕地の問題もあった。イスラエル政府は、要求のあった資産についてその最終的な処分に至るまでの間の管理人を指名するという処置によって、国際的な非難を出し抜いたのだ。イスラエルはそれらを、管理人の権利があるとイスラエル政府がお墨付きを出した公的・私的なユダヤ人団体に売却することで、この問題を処理した。没収された土地が政府の管理下に置かれた途端にそれがイスラエル国家の資産となったからである。そして、これは現在も存在するイスラエルの法律なのだが、国有財産は決してアラブ人たちに売られることが無い。こういうことなのだ。

 これに伴って、パレスチナの人間的な地勢が計画的に作りかえられた。都市部でのアラブ性、および歴史と文化がともに消し去られたのだが、それは、シオニストたちがやって来て人々をその祖国から追い出しユダヤ人だけのためのものにする以前にパレスチナ人たちが持っていたものであった。彼らはごく一部だけをそこから受け継いだが、しかし以前のパレスチナをイスラエル国家に作り変え、その内部やパレスチナ占領地(OPT)の中で直面するどうしようもない問題を産み出した。1949年には15万人のパレスチナ人が追放を逃れてイスラエル領内に住んでおり、彼らはアラブ問題委員会によって「アラブ系イスラエル人」として住民登録された。その登録は彼らがユダヤ人には与えられるあらゆる権利を拒否されることを意味した。

 彼らは軍による支配の下に置かれ、それはナチス政権下でのニュルンベルグ法にも匹敵するものでありそれに勝るとも劣らぬものであった。イスラエルは彼らに対して基本的な表現、移動、団結の権利、そしてユダヤ人国家の「選ばれたユダヤ民族」との平等性を拒否した。それでも彼らは投票してイスラエル・クネセット(国会)に選出される権利を持ったのだが、それは厳しく制限されていた。この政策は公式には1966年まで続いたことになっているが、しかし実際には決してそれで終わったのではない。特に2006年1月のハマスの民主的な選出以来その政策は厳しさを増している。2000年9月28日にアリエル・シャロンがアル・アクサ・モスクを訪れるという挑発行為によって始まった第2インティファーダを通しても同様だったのだ。

アラブ問題委員会は会合を続け、遅くとも1956年までにはイスラエル内のアラブ人全員を集団的に除去するための計画を編み出した。民族浄化が1949年に形の上では完成したとはいうものの、追放はこの期間1953年まで続いたのである。しかしそれは実際には今日まで終わってはいない。追放を逃れたパレスチナ人達はその資産、土地、歴史、そして未来を失うという惨い代価を支払わねばならず、それは未だに法廷の対象とされるどころか問題の存在すら否定され無視され続けているのだ。

 民族浄化による彼らの土地の強奪によって新たにユダヤ人入植地がその場所に作られ始めたのだが、現在もそれはOPTつまり占領地に建設されている。1950年にその処分はユダヤ国民基金(JNF)の手に任された。1953年にはJNF法が成立し、この機関はユダヤ国家のための「土地所有者」としての独立した地位を与えられた。この法とイスラエル国土法のような他のいくつかの法が、JNFが非ユダヤ人に土地を売ったり貸したりできないことを明記した。クネセットは1967年に最終的な法案を可決した。この農業用居住区法はユダヤ人所有の土地を非ユダヤ人に貸すことを禁止する。またこの法律は非ユダヤ人の土地に水をまわすことを禁止した。

 民族浄化の完成後、パレスチナ人たちは新しいイスラエルの人口の17%を占めていたが、その土地のわずかに2%が家を建てて住むために割り当てられただけであり、他に1%が農地とされたのだった。今日、140万人のアラブ系パレスチナ人がイスラエル国民となっている。これは人口の約20%である。彼らは合計でいまだに同じ3%の土地を持つだけであり、その規模の人口としては耐え難い状況に置かれている。占領されゲットー化され隔離されたガザ地区の中では140万人のパレスチナ人が、現在マンハッタンの3倍の人口密度を持つ世界最大の青空刑務所と見なされるような過酷な条件の下で暮らしている。西岸地区にいる他の250万人にしても、外国人占領者たちによる激しい圧迫の下で、決してましな待遇を受けているとは言えないのだ。


Nakba(破滅)の「記憶抹殺」  【小見出し一覧に戻る】

 JNFのコントロールの下でパレスチナの地は、それが刻み込んできた何百年にもわたる歴史を破壊するべく名前を変えられることとなった。この作業は考古学者と聖書解釈の専門家に任され、彼らはパレスチナの地理を「ヘブライ化」する公式の命名委員会の仕事に自主的に参加した。その目的はこの地を脱アラブ化することであり、その歴史を消し去り、新来のユダヤ人による植民地化とその発展のためにそれを利用することであった。また同時に、ピクニック用地を含む保養施設を持つヨーロッパ風の国立公園とユダヤ人専用の児童公園を作ることでもあった。その裏に隠された事実はパレスチナ人の村を大衆の記憶から消滅させたことであったが、しかしそれはかつてそこに住んでいた人々の記憶からは決して消えなかった。彼らは決して忘れないだろうしその子孫にも忘れることを許さないだろう。

 JNFのウエッブ・サイトは、大規模で最も人気がある保養地を4つ大きく取り上げているが、それらは背後にある長い歴史を偽り冒涜しているのだ。この4つとは、ビルヤの森(the Birya Forest)、ラマット・メナシェの森(the Ramat Menashe Forest)、エルサレムの森(the Jerusalem Forest)そしてサタフ(Sataf)である。それらはすべてパッペの次のような痛切な表現を象徴しているのだ。「現在イスラエルにある他のどのような場所よりも素晴らしいが、(これらの土地が意味することは)NakbaおよびNakba否定の両方なのである」。今日、60年前に追い出された家族の子孫たちは未だに難民キャンプと近隣アラブ諸国などにある離散者コミュニティーに住んでいる。彼らの集団的な記憶は決して消し去られることは無いだろうし、その父祖達や未だに生きている者達に対して為された犯罪についての賠償を彼らが受け取るときまで、決して癒されることは無いだろう。

 パッペは、彼と同様なイスラエルの専門家達が次のように信じていることを強調する。中東に平和をもたらす鍵は、正当で長続きするパレスチナ問題の決着であり、同時にまた、パレスチナ占領地に住む者達、および長期間あらゆる権利を否定され厳しく抑圧されるむごたらしい状況に置かれてイスラエルのアパルトヘイト国家の中に住むことを強要されてきたパレスチナ系イスラエル国民全員に対する公正さなのである。

 パッペは主に二つの要因が今日の紛争解決を妨げていると確信する。人種優越主義のシオニスト・イデオロギー、および、何としてでも和平を避けるための構造を保ち続ける「和平プロセス」の二つである。最初のものがNakbaの正当性を否定し続けており、2番目のものがイスラエルの無慈悲な対応を正当化するために、自己防衛を言い訳にしながら紛争状態を維持することによって、この地域に正義を実現させようとする国際的な意思を常につまずかせているのだ。それはアメリカが、このユダヤ人国家を援助して資金を与え、大量殺人、財産の破壊、土地泥棒を許し、生命と自由を含めてパレスチナ人たちが持っている多くのものを否定して脇に追いやることを許しているからなのである。1948年以来何一つ変わっていない。西側諸国が大部分のアラブ諸国と一緒に自分達の政治的・経済的利益のためにこれと付き合い続けているためなのだ。パレスチナ人たちは大盤振る舞いするような力を持っておらずその苦境を軽減するために何もできないのである。

 国連の世界組織が彼らを助けるべきだったのに何もしなかった。それは分割案を無効にしそれとともに始まった紛争の原因を作った。それはパレスチナ人に全てを押し付けた。そしてそれ以来彼らの救済を勝ち取るようなことは何も起こさなかった。最初のしくじりの後でも、国連は違ったことができたのかもしれないのだが、常に祖国帰還が難民の権利であると唱える国際難民機関(IRO、国連難民高等弁務官事務所の前身)を関わらせないという手を使って過ちを繰り返した。その代わりに国連は、IROの介入を避けたいというイスラエルの希望をバックアップした。パレスチナ難民のための特別な機関を創設することによってだが、それは1950年に設立されたUNRWA、すなわち国連パレスチナ難民救済事業機関であった。UNRWAは帰還の権利には関わらず、単に職を見つけ彼らを住まわす恒久的なキャンプに資金を与えるために難民達の日常的な必要性の面倒を見るだけだった。その努力は生々しく開き手の施しようの無い傷口にバンドエイドを貼るよりは少しはましな程度のものであった。

 これが、いかに国連が、今日でもなおその本部を置く支配国家の親指の下で動いているのかを典型的に表すものである。そのいわゆる「平和維持」機能とは、ほとんど何もしない青ヘルメットに象徴されるような悲惨で屈辱的な平和維持の例なのである。その最初の行動は、1948年に国連休戦監視機構(UNSTO)が休戦の協定と戦闘状態にあるイスラエルとアラブ軍との間で結ばれた初期の不安定な休戦を監視する任務を請け負ったときに始まった。しかしそれ以来、1956年、1967年、1973年の戦争を防ぐことはなく、平和を確立するとか維持するとかに一度たりとも成功しなかった。その行動は未だに続いているが、しかしその地での暴力を監視することなく、それらを止めるための何をするでもなく、上級機関に適切に報告することすらしないような、無意味な存在に毛の生えた程度のものである。イスラエル軍はあらゆるものを支配し、自由に行動し、そして国連の「平和維持軍」は黙り込み何の平和も無い状態を維持している。

 この初期の混乱の中からパレスチナのナショナリズムがパレスチナ解放機構(PLO)の形で湧き上がり、それがパレスチナ人の唯一の合法的な代表機関となった。それは1964年にアラブ連盟によって基礎を置かれ帰還の権利を追及した。それはまた、パッペが「否定の二つの顕示」と呼ぶものと直面しなければならなかった。それはパレスチナ問題を将来の平和協定の一部とすることに対する国際的な平和ブローカー達による否定であり、そしてNakbaに対するイスラエルの否定とそれへの責任をとろうとしない態度に手をつけることへの拒否であった。今日に至るまで、難民問題とNakbaの犯罪はいわゆる「和平プロセス」から除外されており、この点が変化しない限り何一つ解決しないことは確実だろう。

 最初に国連は1949年の春にスイスのローザンヌで会議を開き紛争解決の何らかの努力をしたのだが、そこからは何も生まれてこなかった。なぜなら首相のベン=グリオンとアブダラー国王が彼らの分割計画をやり遂げるためにそれを頓挫させてしまったからだ。それ以来1967年戦争が終わるまでの20年間は空白であり、この戦争ではアメリカ合衆国がより多くの関与しイスラエルとの共謀を開始して、中東パックス・アメリカーナという全般的な筋書きの中で新しい和平努力を言い表していった。それは、そのとき以来現在に至るまでなのだが、均衡の取れた紛争の解決を意味しており、イスラエルやアメリカの同盟国の要求に応えるためにパレスチナ人の要求と権利は脇に追いやられた。

 1967年にイスラエルはあらゆる和平会議からNakbaと帰還の権利を排除してしまった。そのとき以来、1967年6月の「6日戦争」でガザと西岸地区をイスラエルが占領したときに紛争が始まった、ということが、すべての和平交渉のベースとなってしまったのである。これが、1948年の「独立戦争」および大衆の記憶から消し去ってしまいたい彼らの犯罪のすべてを合法化するために、イスラエルが追求した方法である。もはやこういったことはその後のあらゆる紛争解決の交渉の席で顧みられることがなくなった。パレスチナ人にとっては、1948年のNakbaこそが問題の中心であり、その点抜きで均衡の取れた解決を図るならば決して何の解決も出てこずこの地域における本当に長続きする平和をもたらすこともありえない。

 にもかかわらず70年代の半ばに、PLOは二国家解決策を好むアメリカ主導の国際的な合意を受け入れるまでにその姿勢を軟化させた。それが1978年のキャンプ・デイヴィッド合意とイスラエル・エジプト間の平和条約につながったのだが、それは帰還の権利を無条件に断念し独立国家の問題点と取り組まないことによって、パレスチナ人たちをほうり出し寒風の中に置き去りにしたものだった。

 その予想通りの結果は占領地での怒りの爆発であり、それが1987年に第1次インティファーダにつながり、これが今度は1991年の湾岸戦争に続くマドリッド平和会議を導いた。これから発して1993年のオスロ合意といわゆる暫定自治原則合意が登場したわけだが、これは再びパレスチナ人の償いへの希望を裏切り否定したものであり、それが今日まで続いている。イスラエルは新たなパレスチナ暫定自治政府設立の合意を得たのだが、それは御しがたい人民を管理するための買弁抑圧者としてふるまうものであった。全ての強圧的な項目は手付かずのままで残され、それは決して独立したパレスチナ国家を意味せず、帰還の権利やエルサレムの地位や占領地でのユダヤ人居住区や確立された国境線などの問題を解決するものではなかった。

オスロ第1回会議に続くオスロ第2回会議はさらなる裏切りだった。新しい合意は西岸地区をA、B、Cの3地区に分割し、これにプラスしてイスラエルが占領するエルサレム東側地区を第4のものとした。それはイスラエルがC地区でユダヤ人居住区を作るための複雑な支配システムを作り上げたが、その居住区は水資源のある最も価値のある土地に作られそこからパレスチナ人をほとんど排除したものであった。2000年までに西岸地区の59%がこのC地区に含まれてしまった。イスラエルはユダヤ人居住区を拡大させ新たに建設することによって、徐々により多くの西岸地区の土地を付け加えつつある。イスラエルはまた、奪い取ったパレスチナの地に分離壁つまりアパルトヘイトの壁を立て、ユダヤ人専用の新しい道路を依り多くの土地に作り、西岸地区の3分の1を拡大エルサレムと定義することによって、西岸地区の土地を奪い取りつつある。【訳注:この分割については http://www.allrefer.com/west-bank を参照せよ。】

 いわゆる「恒久的地位」会談は2000年7月にキャンプ・デイヴィッドで始まったが、またしても裏切りに終わった。イスラエルは全く文面で誠意ある提案を行わなかったしそうする気も無かった。彼らは何の文書も地図も提供しなかった。パレスチナ人が手に入れたものは単に、西岸地区をイスラエル人居住区に囲まれた4つの孤立した「バンツースタン【訳注:アパルトヘイト時代の南アフリカに作られた黒人居住区】」地区に分割する計画と、彼らの基本的な長期にわたる問題と中心的な課題に対して何の解決にもならない占領の継続だけであった。

 予想通りこれは第二のインティファーダを、すでに述べたように2000年9月28日に起きたアリエル・シャロンのイスラム聖地への挑発的な訪問をきっかけに起こったアル・アクサ・モスク・インティファーダを引き起こすこととなった。そしてそれは、ファタハの裏切りに見切りをつけたパレスチナ人たちが2006年6月に民主的にハマス政府を選出したときに収拾のつかないものとなってしまった。それは共謀する同盟者を再び勝たせようとするイスラエルの努力をくじくものであった。ファタハが敗北したとき、イスラエルはその結果を非難し、ハマスを和平のパートナーとすることを断固として受け入れなかった。そして彼らと誠意をもって交渉することを拒否し、それ以降はハマスを破壊するという、またパレスチナ人達をその「誤った」選択のゆえに懲らしめるという邪悪な振る舞いを行った。これが、アメリカとそのイスラエルのパートナーによって実行される帝国運営の法則の下でいかに物事が進行するのかを示すものである。それは、民主的に選ばれた政府を「テロリスト」であるというでたらめな説明をして西側諸国にはそれに倣わせ、西側の人々にもそのように信じ込ませるための集中的な試みを伴うものである。

 今日イスラエルは、利用価値のある土地すべてをユダヤ人専用居住地のために求めながら、止まることの無いプロセスの中で徐々に西岸地区のより多くの部分を手に入れつつある。その作業は西岸地区の3分の1が拡大エルサレムと定義されることによって容易なものとなり、同時にパレスチナ人の土地を取り上げて現存のユダヤ人居住地を拡大させ新たに建設し、そして新しいユダヤ人専用の道路を作っている。さらに分離壁をそびえ立たせているのだが、これが治安維持のためという主張は真っ赤な嘘であり、その真の土地泥棒の目的とパレスチナ人たちをお互いに孤立した地域に分けて住まわせ能率よく巨大な青空監獄に閉じ込めるための新たな方策を誤魔化すためのものである。

 これらは占領地に住むパレスチナ人に対して続けられている身の毛もよだつ日常的な抑圧と迫害の一部であり、また同様にイスラエルに住むアラブ系イスラエル人に対するものでもある。アメリカの元大統領ジミー・カーターは、敢えて禁じられた窓を開けて「最後のタブー」に穴を開けた。それは彼が最近ベストセラーとなっている本「アパルトヘイトの無い平和を」を著した事なのだが、彼はそれによってイスラエル・ロビーから反ユダヤ主義者であると中傷された。彼は占領地で行われている厳しい人種差別のシステムについて勇気を出して書いたのである。ただしイスラエル内部で行われている同様の不正を認識していない。彼はイスラエルを民主国家のモデルであると呼んだがそれは間違いである。

 実際のパレスチナ系イスラエル国民はイスラエルのユダヤ人たちに授けられている民主的な権利を何も与えられていない。そしてもちろんのことだがカーターはそのことを知っているし、もしそうでないのなら知らねばならない。彼は一度に暴露するにしては余りにも多くの真実があるのだろうと考えて身を遠ざけたのである。それでもなお、たとえ部分的であったにせよ、彼のあからさまな一歩は一つの重要な突破口となるものである。それはアメリカでもどこでも他の高官たちを勇気付け、彼の告発に多くの声を付け加え、その作りなおしを求めて全てのイスラエルの犯罪を明らかにしていくのかもしれない。このようなことは、十分に有力な人物たちが進み出てそれらを告発し、最終的にそれらが何も知らされていない大衆にまで明らかにされるときが来るまでは、決して解決の努力が払われることは無いだろう。

 解決の日は、ちょうどユダヤ人たちに対する何世紀間も続いた迫害がなくなったのと同様に、いつかはやってくるのだろう。ただそれは、真実と正義の勢力が権力と影響力においてイスラエル・ロビーを上回ることによってその権力を中和させるときまでは、決して起こらないだろう。その日はまだ見えては来ない。しかしそのときが訪れたら、ユダヤ人とアラブ人はシオニスト時代の以前にそうしていたように再び平和に住むのであろう。それは何十年も以前に反ユダヤ主義が強くユダヤ人に対して各種の機会や権利を拒否していたアメリカで今日ユダヤ人とキリスト教徒が気軽に混ざり合っているのと同様のことである。アメリカのユダヤ人たちはいま、政府、産業、学会、その他重要な国中の公的・私的な団体の中で高い影響力を持つ地位に付く機会と権利を享受しているのである。そうしようとする意思や様々な事態が介在すれば、ユダヤ人とアラブ人が気軽に共存できないという理由など無いはずである。


「城砦国家イスラエル」によって起こされるどうしようもない問題 【小見出し一覧に戻る】

 パッペの本の最終章は、イスラエルが「人口統計学的問題」と呼び将来のパレスチナ人の人口増加を制限する必要性を掲げる事柄を取り扱っている。この問題は、初期のシオニストにとってユダヤ人だけの祖国を作る夢を追求する際に巨大な障害と認識されたものである。テオドル・ヘルツルはその日記の中で彼の解決案を記している。「我々はその哀れな人間達を予告無しに国境線の向こう側に追放し、途中の国々で職業を手に入れるようにさせるだろうが、我々自身の国の中ではいかなる職に就かせることも拒否することになるだろう。」

 1947年になって、ベン-グリオンは彼の民族浄化計画を適用してヘルツルの解決案を自分なりに焼き直した。それはそれ以来、歴代の首相達の下で様々な形をとって続けられ今日に至っている。それは、イスラエル人居住地区の新たな拡大の進展と分離壁による土地の強奪によって、西岸地区のパレスチナ人の継続的な除去を意味してきたのだ。パッペはそれを次のように説明する。「『黒い』(アラブの)世界における『白い』(西側諸国の)砦を建設して守る(現在試行されつつある)シオニストの計画である。パレスチナ人の帰還の権利を拒絶する中心にあるものは、数的にアラブ人によって次第に凌駕されるだろうというユダヤ系イスラエル人の恐怖感なのだ」と。決してそうならないようにイスラエルは世界の世論を顧みずに全体的なユダヤ人の優越を維持しようとしているのである。西側諸国や大部分のアラブ諸国指導者の間にこれに対する異論は無い。アメリカ政府が異論を許さないからである。

 パレスチナ人にはユダヤ人国家にとってほとんど全く価値の無い細分化された無益な荒地だけを与えておき、「電流を通したフェンスと有形・無形の壁に囲まれた」90%のパレスチナの土地を抱合するような国家 − パッペは今日のイスラエルでのコンセンサスとはこのようなものであると確信する。2006年には140万人のパレスチナ人がイスラエルの2%の土地を割り当てられ他に1%の土地を農地としてあてがわれ、一方で600万人のユダヤ人たちが残りのほとんどを所有する。それとは別に390万人が西岸地区のイスラエルが好まない部分に固まって住んでおり、さらにマンハッタンの3倍の人口密度であるガザ地区に密集して暮らしている。果てしの無い暴力の循環と抑圧と未解決でほったらかしの不正の中で、抵抗すれば確実にそれに対するイスラエルの厳しい報復がある、これが占領地全体にわたって耐え難い状態を生み出しているのだ。

 増大しつつある人口の不均衡は単に事態を悪化させるのみであり、それはすでにイスラエル指導者の悪夢となっている。彼らは十分な数のユダヤ人の移民あるいはそれを跳ね返す適量なユダヤ人の人口増加率を得ていない。彼らは同時にまたイスラエル内のアラブ人の数を減らすこともできていない。今のところ考えられる解決策はすべて、アラブ人口の増大を大爆発させないようにする、あるいはもっと悪くすれば一部のイスラエル過激派好みの、冷静な思考が止めない限りいつの日か政策となるかもしれない、恐ろしいものにつながるのみである。

 パッペおよび高い意識と良心を持つ全ての人々にとって唯一の解決策は、イスラエルの意識がいつの日か、アラブ世界にある植民地主義以後のヨーロッパ最後の飛び地であることをやめて、その国を市民的で民主的な国家に変えることである。パレスチナの人々はそうでない限り受け入れないだろうし、また受け入れるべきでもない。またNakbaの恐ろしさと不正に気付くイスラエル人の数は増えつつある。今のところそれは小さな割合に過ぎないが、その数が十分に大きくなりその声が現在徐々に起こりつつあるように広がっていくのなら、それが将来の問題解決に向かう鍵を握っているかもしれない。

 しかしながらパレスチナ人をめぐる現在の状況は、ガザと西岸地区でのイスラエルによる止むことの無い日常的な暴力行為によって、またそれとともにエルサレムをユダヤ人だけの都市とするための民族浄化プロセスの進行によって、より困難なものとなっている。この著作の最後にパッペは次のように説明する。「イスラエルをめぐる問題は決してそのユダヤ性にあったのではなく、その人種主義的なシオニズムの性格にあるのだ」。それは「(ユダヤ人たちをもパレスチナ人たちをも)破滅させる恐れのある混乱」を表している。そしてそれは現在、ちょうど夏の間の【訳注:2006年】レバノンでそうであったように、占領地域で広がりつつある。そこではありとあらゆる言い訳で粉飾した紛争の中で、不安定な平和が再び破られることになるかもしれない。

 ユダヤ人とアラブ人の未来は、いまだ解決されていない問題や事態に対する公平な解決を見出すこと、そして、イスラエルとワシントンの過激派達が勝手にその歩を進めてイラク戦争をイランとシリアに拡大しそれがあるあらゆる紛争地域を飲み込むという危険の増大を防ぐこと、この二つにかかっている。クウェートに本部のあるアラブ・タイムズの編集長アーメッド・アル・ジャララーは、彼が信頼の置ける情報源と呼ぶものから引用して、イランにある石油と核施設に対する軍事攻撃は4月より前の開始が計画されており、ペルシャ湾で数を整え準備のできている軍艦からの攻撃で始まるだろうと語っている。

 ロシアの黒海艦隊の元司令官エドゥアルド・バルティン海軍大将がペルシャ湾岸での米国の活動に関して判断するところによれば、ジャララーの言う通りになる可能性があるのかもしれない。現在アメリカの原子力潜水艦がその地域を見張り続けており、バルティンはインターファックスのニュースで次のように語った。「ペルシャ湾地域におけるアメリカ原子力潜水艦の存在は、ペンタゴンがイランの核施設を目標に急襲をかけるという計画を捨てていないことを意味している。この目的があるからこそ、任務遂行の準備の整っている多目的の潜水艦がこの地域に配備されているのだ」。バルティンは、この潜水艦の存在はペンタゴンによるペルシャ湾での航行のコントロールとイランの標的に対する攻撃の意思を示すものであると付け加えた。

 もう一つ他の情報が、現在進行しつつある地域戦争の拡大の危険性に関するより大きな信憑性を付け加える。それはアメリカ国務省中東担当部の元情報分析官であるウエイン・ホワイトからのものである。彼は言う。「私は計画の一部を見たことがある。・・・あなたは外科手術的な攻撃について話しているのではない。あなたはイランに対する戦争を語っている。我々は標的に至る道をはっきりさせることについて話しているのだ」。その「標的」とはイランの空軍であり、大型潜水艦であり、対艦ミサイルであり、そしてペルシャ湾にある民間の船籍やアメリカの軍艦を狙うことのできる弾道ミサイルでもあり、同時にまたイランの核施設である。

 より大きな圧力が今もなおイスラエルの高官からやってくる。彼らはイランの核計画が「現実的な脅威」であると言うのだが、イスラエル野党の指導者で元首相のベンジャミン・ネタニヤフの言い草を聞くと彼が犯罪的なほどに気が触れているように思えてくる。1月21日に【訳注:2007年】彼はヘルツリヤでの治安会議でイランの政府を「虐殺者の政権」と呼んで戦争への炎をかきたてた。そして次のように続けたのだ。「イラン政府が軍事作戦の必要無しでその核計画をやめるにせよ、あるいは戦争準備をするにせよ、・・・我々でなければ誰が責任を持てるというのか。もしユダヤ人が自分自身を守らないならば誰も防衛してくれないだろう」。またこの会議でアメリカのニコラス・バーンズ補佐官はタカ派的にこう語った。「イランが核兵器を求めていることに疑いはない。そして合衆国の政策は、イランが核保有国になることを許さないということである。・・・イランはこの地域を不安定化させる試みを引き下げることを拒否してきた。・・・我々はわが兵士達を守る絶対的な権利を持っている」。

 もしアメリカおよび/またはイスラエルがイランを攻撃したら全てが無茶苦茶になるだろう。そしてイスラエルの兵糧攻めの下にあるパレスチナ人たちはさらに一層苦しむことになるだろう。したがって双方の冷静な人物達がこのような語り口を告発しなければならず、また戦争の拡大を防ぐ方法を見つけなければならず、今日のイラクとアフガニスタンとパレスチナでの紛争を終了させなければならない。それは紛争の拡大が計画されるような危険な時代においては決して簡単なことではない。しかし死の灰が降るような解決はしてはならない。あまりにも恐ろしい。それはその地域に住むあらゆる人々のために許されるべきではない。とりわけ占領に苦しむ人々にとっては。

 いまパレスチナのひとつのグループがもう一つのグループと対立するという新たな危機が起こっている。一方は攻撃を受けつつあるハマスが率いる政府であり、すでに何ヶ月もの厳しい制裁とイスラエルによる日々の攻撃でぼろぼろにされている。もう一方はパレスチナ自治政府代表マフモウド・アッバスに忠実な堕落したファタハ勢力であり、この男は自分とその仲間どもに与えられるパンくずのために自らの人民を売り渡しながら、アメリカとイスラエルの帝国主義的な利益のために、手に入れることができるあらゆるものを求めて裏切り者の代理買弁執政官を務めている。彼らはそのために十分なほど武装させられ、ジョージ・ブッシュはアッバスに8千6百万ドルの追加援助を発表した。一方でハマスと大部分のパレスチナ人たちは飢えるままである。この数日間にも何十人ものパレスチナ人の命が奪われた。彼らは追い出してやりたいあの抑圧的な占領者以外にこの戦いの中で付き合う仲間のいない状態に置かれているのだ。

 彼らは植民地化された地に住む者として、こういった極めて困難な状態から解放されるために、戦いながら声をあげている。しかし遅かれ早かれいずれは、流血と苦しみがもはや許されなくなり外部的な力がこの不正と無益さに目を留めて助けようとするときがくれば、紛争と抑圧は終わるだろう。それはイラクの中で起こりつつありアフガニスタンでも起こるだろう。そしてついにはパレスチナ占領地に止めようのない巨大な力で及ぶこととなる。それがやって来るとき民族浄化と不正義は終わるだろう。そしてユダヤ人にとってもパレスチナ人にとっても民族的な勝利に置き換えられるだろう。そして他の地域に住む者達がパレスチナで成功したものを見て、正義のために行う自らの闘いのモデルケースとすることだろう。


ステファン・レンドマンはシカゴ在住。lendmanstephen@sbcglobal.net
ブログ・サイトhttp://sjlendman.blogspot.com/を訪問していただきたい。

Global Researchに寄稿されたステファン・レンドマンの作品は以下で見ることができる。
http://www.globalresearch.ca/index.php?context=listByAuthor&authorFirst=Stephen&authorName=Lendman


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