Global
Research
2007年2月7日
イラン・パッペはイスラエルの歴史家でありハイファ大学のベテラン講師である。彼は同時にGivat
Haviva【訳注:イスラエルでのアラブ人とユダヤ人の平等を目指す教育基金、本部はニューヨーク】で「平和のための調査研究所」の学術指導者、そしてEmil
Touma Institute for Palestinian
Studies【訳注:ハイファにあるパレスチナとイスラエルに関する研究所】の責任者である。パッペはイスラエル、シオニズムおよびパレスチナ人祖国帰還権の専門研究者であるが、『誠実さと良心を持つ賞賛すべき学者』として知られ、「パレスチナ人の復権と帰還のための会議諮問委員会:the
Advisory Board of the Council for Palestinian Restitution and Repatriation
(CPRR)」のメンバーである。この組織は『全てのパレスチナ人はその本来の土地に戻り財産を完全に取り戻す正当な個別の権利を持っている』と宣言している。
パッペは読者に対して、彼の収拾した1940年代とそれ以降の民族浄化につながる広範な公的文書とその他の資料を提供してくれる。特に彼はヌル・マサルハ(Nur
Masalha)が書いた重要な本のうちの二つについて語る。まず「パレスチナ人の追放:シオニストの政治思想における移転の概念、1882 – 1948(Expulsion of the Palestinians: The Concept of
Transfer in Zionist Political Thought, 1882 -
1948)」、そして「否認の政治:イスラエルとパレスチナ難民問題(The Politics of Denial: Israel and the
Palestinian Refugee
Problem)」の二つである。読者諸氏には、西側諸国で長い間不問に付されていたそれらの醜悪な事実をあからさまにしその自由な公表を求めて、このテーマについてその二つの本とその他の書籍を元にして、さらなる追及をお願いしたいと思うばかりである。
最終的なマスター・プランは「プランD(Dalet in
Hebrew)」と呼ばれ、その前段階であるプランA、B、Cに続くものであった。それは1938年6月にベン-グリオンがユダヤ機関幹部に語りそしてその後決して覆ることの無い方針だった。彼は次のように語った。『私は強制的移住を支持する。私はその中に不道徳性を見出さない』。プランDはそれを実行するためのものだった。それは、都市と農村に住む数十万人の望まれないパレスチナ・アラブ人の強制的な追放であり、その実行によって数知れない大量虐殺を伴うものであった。目的は単純であり直接的である。集団虐殺を含むいかなる手段を用いても実現すべきアラブ人の存在しないユダヤ人専用国家の創出である。
それにもかかわらず、パレスチナ人たちは国連パレスチナ調停委員会(PCC)の中に同盟者を作り、PCCは難民帰還の無条件の権利を要求するための努力の先頭に立った。その姿勢が国連解決案194号を実現させたのだが、それはパレスチナ人に対して、故国に戻るか、そうしない場合にはその損失の賠償を受けるか、の選択権を無条件に与えるものだった。この権利は同時に、194号解決案採択前日の1948年12月10日に、総会解決案217 A
(III)として世界人権宣言第13条の中でしっかりと盛り込まれることとなった。イスラエル政府は今日に至るまでことごとくこの二つの解決案を無視し撥ね付け続けている。それはイスラエルに対する西側諸国の支援と共謀のせいでもあるし、また、イスラエル近隣のアラブ諸国による無関心のせいでもあるのだが、彼らは自らの利益のために戦略的な同盟を選び、パレスチナ人を自分の無恥と不名誉のちっぽけな代償として切り捨てたのであった。