イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム 目次に戻る    (アーカイブ目次に戻る) 

第5部 シオニスト・テロリズムの国際主義  (2006年12月)  

小見出し  
[テロのパイオニア、シオニスト《テロ・リスト》]  [シオニスト・テロを支えた米国のならず者ども]  [英国・米国・カナダ・ソ連の「国際連帯」によるイスラエル建設]
     

[テロのパイオニア、シオニスト《テロ・リスト》]   【小見出しに戻る】

 英国の反シオニスト・ネット雑誌Redress Information & Analysisはシリア生まれのレバノン人であるサム・カッバニによる興味深い文章を掲載している。『テロリズムの開拓者:イスラエル建国の父たちに関する事実』と題されたこの記事は、20世紀初頭から現在までに世界中で数多く記録されるシオニスト・テロの中から、その初期の代表例を分かりやすく、言ってみれば《テロ・リスト》としてまとめている。これはそのまま翻訳してみよう。

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テロリズムの開拓者:イスラエル建国の父たちに関する事実
サム・カッバニ著

 以下は、シオニズムと現代のテロリズムとの関係に関するほとんど語られることの無い事実の一部である。
1. 最初の飛行機乗っ取りは1954年にイスラエルによってシリアの民間航空機に対して行われた。【訳注:12月12日のことである】
2. カフェーでの手榴弾:1937年3月17日にイェルサレムで、シオニストによってパレスチナ人に対して最初に行われた。【訳注:イルグンによる】
3. 混雑した商店街での電気仕掛けの時限爆弾:1938年7月6日にハイファで、シオニストによってパレスチナ人に対して最初に使用された。【訳注:イルグンによる】
4. 民間人の旅客が乗っている船に対する爆破:1940年11月25日にハイファで、シオニストによって最初に実行された。シオニスト達はパレスチナへのユダヤ移民を渋る英国の政策に抗議するために彼らと同じ民族を爆殺することすら厭わなかった。パトリアと呼ばれるこの船は1700名のユダヤ移民を運んでいたのだ。【訳注:ハガナーによる】
5. 政府高官の暗殺:カイロでシオニストによって英国に対して最初に行われた。1944年11月6日にスターン・ギャングによってモイン卿が暗殺されたときのことである。イツァーク・シャミールは以前はイルグンのメンバー、その後スターン・ギャングの指導者、そしてイスラエルの首相になったのだが、彼がこの計画の背後にいたのだ。
6. 圧力をかける手段としての人質の使用:1946年6月18日にテルアビブで、シオニストによって英国に対して最初に使用された。
7. 政府高官たちを民間人の従業員や訪問客と共に爆殺;1946年7月22日にイェルサレムで、シオニストによって英国に対して最初に実行された。キング・デイヴィッド・ホテルで91名の英国人が死亡し46名が負傷したのだ。メナヘム・ベギンはこの攻撃を計画して実行し、後にイスラエルの首相となった。彼は、この大量殺人がハガナーのシオニスト・ギャングの協力と教示のもとに実行されたことを認めたのだ。
8. スーツケースに仕掛けられた爆弾:1946年10月13日【訳注:これは31日の誤り】にローマで、シオニストによって英国大使館に対して最初に使用された。
9. 一般市街地での自動車に仕掛けられた爆弾の使用:1946年12月5日にサラファンド(ジャッファの東)で、シオニストによって英国に対して最初に使用された。
10. 人質に対する暴行:1946年12月29日にテルアビブとネタニヤとリションで、シオニストによって英国に対して最初に行われた。
11. 政治家に送られた手紙爆弾:1947年6月4日と6日の間にイタリアからロンドンに向けて20通の手紙爆弾が郵送された際に、シオニストによって英国に対して最初に使用された。【訳注:ベギン(イルグン)とシャミール(レヒ)によって計画された】
12. 政府の行動に対する報復としての人質の殺害:1947年7月29日にネタニヤ地区で、シオニストによって英国に対して最初に使用された。
13. 小包爆弾:1947年9月3日にロンドンで、シオニストによって英国に対して最初に使用された。
14. 1953年10月14日水曜日に、イェルサレムの北西にあるキビアでの大殺戮が、アリエル・シャロンの命令の下で第101師団によって実行された。この襲撃は、悪名高いデイル・ヤシンの大虐殺以来の、シオニストによる最も残虐で最も野蛮な犯罪である。42の家屋が学校やモスクと共にその住民もろともダイナマイトで爆破された。72名の女性、男性、子供が殺されたのだ。
(以上、引用・翻訳終り)
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 上のリストはユダヤ人が行ったテロ行為のごく一部に過ぎない。当然だが、名うてのテロ集団であるハガナー、イルグン(Itzl、Etzelなどとも書かれる)、スターン・ギャング(レヒLehiとも言われる)と共に、ベギンやシャミールといったウラジミール・ジャボチンスキーの弟子どもの名が見られる。そしてこれらの集団が合流して現在のイスラエル国防軍を形作るのだが、その最も凶悪な司令官がやはりジャボチンスキー直系のシャロンであった。この国防軍が2006年夏に、これもジャボチンスキー直系のエフッド・オルメルトの下で、ガザ地区とレバノンで働いた住民大量虐殺は記憶に新しい。

 こういった歴史的な事実によって、シオニスト・イスラエルの本性と同時に、今日「イスラム・テロ」として紹介される手法の多くがシオニスト起源 であることもまた、白日の下に曝されることになる。

 なお、1948年4月9日に起こった有名な「デイル・ヤシン村大虐殺」とそれに続くパレスチナ人への蛮行・殺害・破壊では、ベギン率いるイルグンやシャミール配下のレヒといった実行部隊をハガナーが全面バックアップしていたことがよく知られている。さらにキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件にしても、前回申し上げたように このテロがソ連の協力で行われたのなら、スターリニスト=ハガナーとファシスト=イルグンの協力も当然と言えよう。

 一般的には、ハガナー系統の勢力は「労働左派」、イルグンやレヒ系統の勢力は「修正主義右派」として知られているが、要するにこの右派は、当面の主人公となるべき左派が表立ってやりにくいことを引き受けて実行していただけの話なのだ。下っ端同士で殺し合いまで演じた「左右の対立」など茶番に過ぎない。

 それにしても「英国とは何と弱い国か」と慨嘆する人も多いだろう。これほどのシオニスト・テロで多くの人材を失って、なおかつ黙って引っ込むしか能が無いように見える。ベギンに至っては後にノーベル《平和》賞まで受け取っているのだが、抗議の声一つ上げるでもない。MI5もMI6もシオニスト・テロリストのやりたい放題にさせているように見える。

 しかし実際には決して彼らが無能だったわけではあるまい。英国としてはこれらのテロのおかげで、「委任統治を諦めてイスラエル建国を認める」口実を作り、ついでに反シオニスト勢力を弱体化させ沈黙させることができた、ということだ。シェイクスピアを産んだこの国の名演技には年季が入っているのである。

 この英国とシオニスト・イスラエルの関係はその後数十年間に全く変化を見せた様子が無い。現在、でっち上げとしか思えない「イスラム・テロ」をネタに「断固たる姿勢」を見せてそのファシズム願望を実現させようとする英国の真実の姿もまた、このサム・カッバニによる《テロ・リスト》によって逆に浮き彫りにされるであろう。

【以上、参照資料】
http://www.redress.btinternet.co.uk/skabbani.htm


[シオニスト・テロを支えた米国のならず者ども]   【小見出しに戻る】

 しかし、このシオニスト・テロリストがどのような物質的基盤の上にその活動を展開できたのであろうか。軍事顧問と謀略家の派遣、そして資金や武器の一部はスターリン政権が受け持ったとしても、それだけでは決定的に不足だろう。ナチス・ドイツに国内奥深く侵攻されつつあったときはもちろん、対ナチ戦勝利の後もソ連にイスラエル建国を全面支援する余裕があったとは到底思えない。

 もちろんよく知られていることだが、米国在住の富裕なユダヤ人士による寄付は莫大なものだった。しかしそれだけではない。いまだ精々が「武装勢力」としての扱いしかされていなかったハガナーやイルグンなどに米国が国家として武器を供与することは難しい。しかし武器はザルの目をくぐる水のように米国からテルアビブに流れ込んでいた。

 ここでもう一つの文献をご紹介したい。ロバート・I.フリードマン(Robert I. Friedman)著『偽預言者:ラビ・メイア・カハネ;FBIの情報屋からイスラエル国会議員まで(The False Prophet: Rabbi Meir Kahane;From FBI Informant To Knesset Member)』である。このメイア・カハネは米国でテロ集団ユダヤ防衛同盟(JDL)を創設し後にイスラエルに渡ってクネセット(イスラエル国会)議員になった人物だが、イスラエルでもいくつかの凶悪なテロ組織を主催している。

 この「第3章:ベタール;好戦集団への道(pp 35-38)」の一部を翻訳してご紹介する。翻訳に使用した文章は次のインターネット・サイト"Terrorists and Organized Crime" に収められているものである。 

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第3章:ベタール;好戦集団への道
(pp 35-38)
 メイア・カハネの戦闘性は必然的にベタールの中にそのはけ口を見出した。これは修正主義運動【訳注:ジャボチンスキーの影響を受けるシオニスト集団】の青年組織なのだが、彼は1946年にバール・ミツバー【訳注:思春期に達したユダヤ人の子供を祝う儀式】を済ませたすぐ後にそこに参加した。その暴力的な街頭デモ、軍事組織的な訓練キャンプ、松明行進、そして旧約聖書の神話中の英雄たちを強調することで、ベタールは後のJDLのモデルとなる。
 ゼエヴ・ジャボチンスキーは1923年にラトヴィアのリガでベタールを組織した。それは悪意に満ちた反ユダヤ的な欧州の民族主義運動広まりに対する反応だった。その二重の目的は、ユダヤ人青年を自己防衛組織として訓練することと、それをパレスチナからユダヤ国家へと変えていく火と血による闘争のために準備することだった。
 米国でのベタール青年運動は1940年6月10日にニューヨークで発足した。同年にそれは、ニューヨークのハンターに近いキャッツヒル・マウンテンズに軍事訓練用のキャンプを開いた。ジャボチンスキーは、開設されたばかりのキャンプを訪問中、ある支持者から寄付された薄汚れたホテルの中で8月3日に死去した。1940年代の初期には、ベタールはニューヨーク地区に何百人ものメンバーを抱えたが、その中には米国における初期の指導者の一人にモシェ・アレンスがいた。彼は1980年代にイスラエルの米国大使となりそしてイスラエル外相となったのである。
 ベタールの最も緊急の活動はイルグンへの武器の密輸だった。1940年代に、イルグンのリーダーであるメナヘム・ベギンは代理人を何度となく米国に派遣し武器を調達した。イルグンの海外情報部の長であるエリ・タヴィンがその作業を監督したのだが、隠れ蓑として世界シオニスト機構の教育指導者としての地位を利用していた。こうしてタヴィンは23カ国にわたる武器調達ネットワークを作り上げたのだが、同時に同数の自衛組織を作った。その中には第2次大戦中に中国に亡命したユダヤ人の収容所を保護する上海の組織もあった。
 タヴィンはまた欧州で英国に対するイルグンのテロ攻撃の計画者でもあった。例えば彼は1946年10月31日にローマの英国大使館への爆弾攻撃を工作した。 タヴィンは武器を米国で、第2次大戦から戻るユダヤ人GIからと同時にマフィアからも手に入れた。「ユダヤ人の退役軍人たちは新聞紙に包んだ包みを我々のところに持ってきてそして言うのでした。『私はイスラエルのためにこれをあなたに渡すことができると聞いた』と。」このように言うのはシルヴィア・ズェイボンである。彼女は夫と共にイースト・ニューヨーク、当時圧倒的にユダヤ人の優勢なブルックリン地域で敷物店を営んでいたのだが、武器はそこに蓄えられた。「一箇所が武器で満杯になったら、私達は別の倉庫を探さなければなりませんでした。」このようにズェイボンは付け加えた。彼女は米国に来る前にはポーランドでベタールのメンバーだったのである。
 イスラエルの要員達はその武器をニューヨークとニュージャージーの波止場に運んだのだが、そこは、熱烈な右派シオニストであるメイア・ランスキーと親しい仲間である暴力団のボス、チャールス・"ラッキー"・ルチアーノによって運営されていた。ランスキーは、ロスアンジェルスのミッキー・コウヘンのような他のユダヤ・ギャングたちとともに、イルグンに対して巨額の資金を提供した。これらの暴力団に支配された港湾労働者組合は米国の港からアラブ諸国などに武器を船で運ぶ修正主義者たちの破壊活動を支援していたのだ。
 チャールズ・カハネ【訳注:メイア・カハネの父親】自身も武器密輸組織に深く絡んでいたのだが、彼の息子にベタールに参加するように勧めた。「ベタールは俺のオヤジと同じ考えを持っている。そして当たり前だが俺はそれに心酔しているのだ」。このようにメイア・カハネは語った。彼はイスラエルにいるイルグンに向けて武器を箱詰めするために深夜のホボウクン・ドッグズに通った。それには危険が伴った。1947年にメイアの仲間のうち2名がマンハッタンの毛皮倉庫で、144の機関銃、203のライフル、268のピストルと共に逮捕されたが、それらの若者達は彼らの弁護士ポール・オドワイヤーのおかげで1ヵ月後に釈放された。この妨害にも関わらず、1948年の2月から5月の間だけで、タヴィンはニューヨークからテルアビブに向かう47回の船便で武器を密輸したのである。
(後略:以上、引用・翻訳終り)
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 この後の部分には次の内容のことが書かれている。もう一方の左翼テロ集団ハガナーもやはり1940年代に米国から資金と共に大量の武器を密輸していた。それを支えた者達の中には、後にラスベガス・サンの発行人となるハンク・グリーンスパン、イラン・コントラ事件に関与するイスラエルの武器商人アル・シュヴァイマーがいた。1948年の「イスラエル建国」後、米国でのベタール運動は米国の親イスラエル極右組織に成長し、多くの反アラブ・親イスラエル活動の基点となった。

 こうして、ロウズベルト=トルーマン民主党政権時の米国は、スターリンのソ連と共に「イスラエル建国運動」最大の拠点となったのである。しかも、裕福なユダヤ人たちから集めた資金と同時に、本来なら米軍の倉庫にあったはずの武器が米国内のならず者どもの手によって極めて大量にパレスチナに「密輸」されたのだ。言い訳程度の取り締まりはこの武器搬送にほとんど何の支障ももたらさなかった。

 このシリーズの第2部:現在に直結する「イスラエルの源流」 にも書いたことだが、イスラエル「建国」の年1948年に米国ユダヤ人有志による以下の告発がニューヨーク・タイムズ紙に掲載された。

 《我々の時代で最も困惑する現象の中に、新たに創設されたイスラエル国家の中での「自由党(ヘルート党)」の出現がある。これは、その組織において、方法論において、政治方針において、そして社会的なあり方において、ナチ党およびファシスト党に極めて近い政党である。これは元イルグン、つまりパレスチナにおけるテロリストで右翼の狂信的排他主義集団のメンバーと支持者によって形作られた。この党の指導者であるメナヘム・ベギンの米国に対する最近の態度は、明らかに、来るイスラエル選挙で彼の党に対する米国の支持を印象付けるように、また合衆国内のシオニスト右派分子との政治的な連携を固めるように、計算されているのだ。数多くの米国の著名人士たちが彼の訪問を歓迎するためにその名前を貸している。【以下略】》

 この中にある「合衆国内のシオニスト右派分子」が先ほどのメイア・カハネを中心とした米国ベタールとその周辺の組織であったことに間違いは無い。しかし「数多くの米国の著名人」とは誰だろうか。イスラエルを支える米国内のユダヤ人たちと共に、おそらく後のアイゼンハワー共和党政府を支えた者達が大勢混じっていたのではないかと思われるが、明らかではない。しかしすでにこのときまでに米国は左・右の親イスラエル勢力によって存分に蹂躙されていた のだ。

【以上、参照資料】
http://www.telusplanet.net/public/mozuz/odynsky/lemieszewski20020729macaulay.html


[英国・米国・カナダ・ソ連の「国際連帯」によるイスラエル建設]   【小見出しに戻る】

 次にご紹介したい資料はデイヴィッド・J.バーカスン(David J. Bercuson)による『秘密の軍隊(The Secret Army)』(1983)である。ここには1940年代のカナダが、ユダヤ人によるパレスチナへの武器密輸を黙認することによって、いかに左翼テロ集団ハガナーを強力にサポートし続けたのかが生々しく描かれている。カナダといえば「新世界のロスチャイルド」ことブロンフマン一家の帝国なのだが、現在の世界ユダヤ人会議議長であるエドガー・ブロンフマンは、先ほどのメイア・ランスキーと並ぶユダヤ・マフィアのボスだったサミュエル・ブロンフマンの息子である。

 この資料の引用箇所にはブロンフマンの名は出ないが、この一家が資金援助ばかりを務めていたとは到底思えない。 以下の翻訳に用いた文章は先ほどの『偽預言者:ラビ・メイア・カハネ・・・』と同じく"Terrorists and Organized Crime "に載せられている。

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(以下、翻訳)
第4章:極めて重要な事柄
(pp.44-49)
【前略】
 カナダは米国と同様に第2次世界大戦中には連合軍の主要な武器供給場であった。戦闘が終了した後、そこは巨大な量の余剰の武器が大幅に値下げされて売り飛ばされる場と変わった。ハガナーにとっては当然のごとく武器収拾活動の標的となったのである。しかし、カナダの戦争用具は容易に横流しできるものではなかった。カナダの武器輸出政策は米国や英国の政策と協調するものであり、またカナダ政府は英国と米国による中東地域への厳しい武器流出取り締まりへの協力に心を砕いていた。しかしながら、ここオタワの態度がカナダのユダヤ人たちにとってハガナーを援助する決意に対する障害となっていたにも関わらず、それを止めることはできなかった。カナダに住むハガナーの支援者達は様々なグループであった。1945年の夏にソンネボーンのオフィスでベン・グリオンと会うために集まった者達の一人であり、またパレスチナ物的援助(Materials for Palestine)のカナダ版であるパレスチナ支援(Aid to Palestine)の運営に加わったのがサミュエル・J.ザックス(Samuel J. Zacks)なのだが、彼はトロントの著名な企業家でありまたシオニストのリーダーでもあった。同様に数多くのトロントのユダヤ人たちが、ハガナーのためにカール・エクダール(Carl Ekdahl)が米国でデザインした軽機関銃の試作品の組み立てとテストの初期の試みに参加していた。武器や航空機やその他の軍装備をパレスチナに輸送するカナダでの主要な動きはthe Victory Equipment &- Supply Company Limitedを通して行われたのだが、それはモントリオールのマックギル通422にある小さな埃っぽいオフィスから伸びる一本の電話線を使って繰り広げられる際どい作戦であった。
 Victory Equipment社はカナダの多くの著名なシオニストたちによって設立されたのだが、その中にはサミュエル・シュゥイスバーグ(Samuel Schwisberg)とジョー・フランク(Joe Frank)がいる。それはパレスチナ支援(ここはカナダの非軍事物資を集めた)および統一シオニスト購入委員会(the United Zionist Purchasing Commission)と密着して活動し、モントリオールの法律家レオン・D.クレストール(Leon D. Crestohl)に率いられていた。
(後略:以上、引用・翻訳終り)
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 この後の部分には、カナダのユダヤ人組織によるハガナーとイスラエル建国を支援する具体的な行動が詳しく説明されているのだが、カナダ政府と米国政府、特に軍と諜報当局がこういった動きに気付いていなかったわけがあるまい。数え切れないほど多くの船便がパレスチナと北米大陸を往復した。その「荷物」には小銃や機関銃ばかりではなく飛行機まで含まれていたのである。

 「公式現代史」は「イスラエル建国」に使用された兵器の具体的な出所と搬入経路を語らない。精々が各国の諜報当局や警備当局を無能扱いにして「密輸」を認める程度だろう。「神話」はこのようにして作られる。

 当然だが、「イスラエル建国」後に米国政府が合法的に与えた巨大な資金面・軍事面の無償援助はこういった非合法活動容認の延長に過ぎまい。要はパレスチナでの「ユダヤ人国家建設」は、英国、米国、カナダ、そしてソ連などの国々にとって他のあらゆる事柄に優先させなければならない超法規的な事項だったのだ。ハガナー、イルグン、レヒといったテロ組織の活動は、まさしくこの「インターナショナリズム」によって保証されていた のである。

 こうして1948年に「ユダヤ人の祖国」が無事に作られ、その後、十分に準備を整え待ち構えていたかのように「冷戦」が開始する。スターリンはその大役を終えて姿を消し、世界が「左・右の対立」で目をくらまされている間にイスラエルは、米国を『お抱え養育係』とし、「ユダヤ国家の名による公認テロ」「ホロコーストを用いた恐喝」と核兵器の脅威によって世界を威圧・睥睨する文字通りの「テロ国家」として成長することとなる。ソ連がイスラエルのいわば『産婆』であり、その『養育係』を務めたのが米国だが、米国と英国は同時にもう一つの極悪集団であるドイツ・ナチスの『養育係』でもあった。そしてそのナチスとまるで兄弟のように一緒に育ったのがユダヤ・シオニスト である。しかしその話は次回以後としたい。

【以上、参照資料】
http://www.telusplanet.net/public/mozuz/odynsky/lemieszewski20020729macaulay.html

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