イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム 目次に戻る    (アーカイブ目次に戻る)
第2部 現代に直結する「イスラエルの源流」  (2006年4月)

小見出し  
 
[歴史に皮肉は無い]   [ベタールからネオコンへ]   [現代に直結するファシスト集団]

     


[歴史に皮肉は無い]   【小見出しに戻る】

 2006年現在、「反テロ戦争」の名のもとに欧米各国社会で急速な全体主義化が強行されつつある。その流れを特に先鋭化させている米国と英国が、公式の歴史では、第2次世界大戦で「自由主義・民主主義陣営」の旗頭を勤め「ファシズムと戦った」とされる国々である点は実に興味深い。さらにその動きを主導するのがイスラエルに忠誠を誓い「ファシズム被害者」を標榜するユダヤ人集団なのである。

 「歴史の皮肉」と言うべきだろうか。しかし、皮肉も何も、いま現在目の前にある事実はこの通りなのだ。現在を歴史と照らし合わせてみてそれが「皮肉」と映るのなら、逆にその歴史の方を疑うべきだろう。歴史に皮肉などない。現在の事実の原因は過去にしか存在しえないのだ。 単純な話である。

 米国ブッシュ政権は「愛国法」の恒久化を、一時は議会の抵抗に遭って失敗したものの、その危険性を包み隠した「修正法案」として2006年3月に実現させてしまった。引き続いて彼らは、一旦は批判に曝された一般市民に対する令状無しの盗聴を許す法案を議会に提出している。今後は当局が「国内テロリストと判断した」人物の逮捕・拘束が自在に行われる可能性が高い。さらに、飛行機のみならず全米の大都市でバスや電車、フェリーなどの公共交通機関にまで武装警官を張り込ませる体制が作られつつあり、インターネットへの監視も国防総省の力で推し進められている。

 ここでもう一度米国内で大規模なテロが起これば(起こせば!)一気に全面的な「マーシャル法適用・軍事支配体制」を組むことが可能だろう。その「予行演習」はすでに2005年のハリケーン・カトリーナを利用して行った。そして911事件以来「愛国法」の下で米国の警察・スパイ国家化に狂奔してきたネオコン・ユダヤ人のマイケル・チャートフが、国土安全保障省長官として「有事」を待ち構えているのである。《注記:2014年現在、オバマ政権によってこの監視国家体制は着実に完成されつつある。》

 G.W.ブッシュの祖父プレスコットとその義父ジョージ・H・ウォーカーがユダヤ資本と共にナチス・ドイツを強力に支援していた ことは今や周知の事実であろう。これについてはいずれ稿を改めて論じたいが、そのG.W.ブッシュは2005年12月の「愛国法」延長の議論中に、ワイマール憲法を嫌悪したヒトラーと同様に合衆国憲法を「忌まわしい紙切れに過ぎん!」となじった。

 このような米国の変容に、元レーガン政権高官でウォールストリート・ジャーナルの記者であるポール・クレイグ・ロバーツは公然とブッシュを「ヒトラー」と呼んだ。そして911事件《注記:2001年9月11日》を、ナチス独裁のきっかけとなった「ドイツ国会議事堂放火 」と並べて、ネオコンによる内部犯行と断定したのである。

 一方の英国では、7・7ロンドン交通機関爆破事件《注記:2005年7月7日》をきっかけとしてブレアー政権が、市民への監視と言論・表現の自由に対する大幅な規制強化の実現を目指している。IDカード導入や「テロ防止」を名目としたインターネット規制などの策謀は上院の抵抗にあって頓挫したが、主要道路で何百万台もの自動車を追跡し監視するシステムを整備することが2006年1月に議会で承認された。そしてその英国の主導で、欧州全体で携帯電話の通信記録の長期保存と監視を可能とする体制が作られている。あの7・7地下鉄・バス爆破事件が英国のReichstag Fire《注記:ドイツ国会議事堂放火》 であったことに疑念の余地は無い。

 そしてもう一つの第2次大戦戦勝国フランスでは、イスラエルの新聞が「インティファーダ」と呼んだ2005年秋の「都市暴動」を通して、ネオコンに近いとされるニコラス・サルコジが急速にその存在感を見せ始めている。彼が2007年の選挙で次期大統領に当選すれば、間違いなく英国と米国の後を追うことになるだろう。 《注 2013年、サルコジはもちろん、後継者のオランデもまた、この予告通りになった。》

 欧米および日本では、ユダヤ資本の道具であるマスメディアがゲッベルス流人心支配の仕組みをほぼ完成しており、対外戦争の緊張と宗教的迷妄によって人民を隷属化させるレオ・シュトラウスの理想社会が、実現に向けて着々とその歩を進めている。「ナチ第4帝国」は「アングロサクソン・ユダヤ帝国」としてその姿を現すのだろうか。

 これは決して表面的な現象による隠喩ではない。この動きはドイツ・ナチズム、イタリア・ファシズムとの明らかな連続性を持って、「ファシズムと戦った」側および「ファシズムの被害者」側から打ち出されているのだ。彼らこそが、過去も現在も、ファシズムの真の担い手なのである 。

【以上、参照資料】
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/02/04/AR2006020401373.html
http://www.thetruthseeker.co.uk/article.asp?ID=4164
http://asyura2.com/0510/war76/msg/923.html
http://www.rense.com/general69/paper.htm
http://www.arcticbeacon.com/3-Jan-2006.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/01/06/AR2006010602100.html
http://www.israelshamir.net/English/Satanic.htm
http://www.iht.com/articles/2006/02/10/news/edpfaff.php
http://www.haaretz.com/hasen/pages/ArticleNews.jhtml?itemNo=642115&contrassID=13&subContrassID=1&sbSubContrassID=0


[ベタールからネオコンへ]   【小見出しに戻る】

 911事件後の軍事政策を担い2003年に米国をイラクに引きずり出した主役の一人に、当時の国防次官ダグラス・ファイスがいる。彼は第1期ブッシュ政権の国防副長官ポール・ウォルフォヴィッツ、国防政策委員会委員長リチャード・パールらと並ぶネオコンのユダヤ人である。サダム・フセインを取り除きイラクをコントロールしようとする彼らの異常なまでの執念が、米国・共和党ではなく、イスラエル・リクード党に対する忠誠心によることは今さら疑念の余地も無い。

 ファイスはレーガンの時代に、米国の国家機密文書をイスラエル大使館に流した嫌疑で国防省から外されていたがじきにパールの力で返り咲いた。そしてネタニヤフ政権の時には、パールやチャールズ・フェアバンクらとともに、イスラエルの外交政策決定のための大きな情報源の一つであった。さらに2005年5月にイスラエル・ロビーAIPACを通して米国の国家機密をイスラエルに渡していた容疑でローレンス・フランクリンがFBIに逮捕された事件では、彼を動かしていた人物として「ユニバーサル・ファシスト」マイケル・レディーンとこのファイスの名前が噂に上っている。彼らは一貫して「イスラエルのエージェント」である。

 イラク人に対する拷問を正当化しブッシュ政権にジュネーブ協定の拘束を拒否させたこの男の飽くなき残忍さと攻撃性はどこから来ているのだろうか。

 1997年に彼は父親のダルック・ファイスと共に、米国シオニスト機構(ZOA)から年次昼食会招待の栄誉を受けた。「特筆すべきユダヤ人の慈善家であり親イスラエル活動家である」というのがその理由だった。そしてダグラスのリクード党に対する忠誠心は当然といえる。彼の父ダルックはベタール の「戦士」だったのである。

 現在、世界各地に支部を持ち文化・教育団体を装う民間団体ベタールは余りにも非ユダヤ人の意識に上らない集団なのだが、このベタールこそ、ユダヤ・ファシストの元祖ウラジミール・"ゼエヴ"・ジャボチンスキー自らが作り上げ、そして今もなおリクードと「ジャボチンスキー国家」イスラエルを陰で支える組織なのだ。

 1923年に、「リヴィジョニスト」として世界シオニスト機構から飛び出したジャボチンスキーは、ラトヴィアのリガでユダヤ人青年組織ベタールを結成した。彼はその以前にはパレスチナでユダヤ武装自衛組織ハガナー(イスラエル国防軍の前身)の創設にも力を尽していたのである。

 ベタールの名は1920年にパレスチナで死亡した彼の元同志のジョセフ・ツルンペルドルにちなんで付けられ、2世紀にローマ帝国に対する独立戦争を指導したバアル・コクバを思い出させるものでもあるという。結成後数年のうちにこの団体は過激なユダヤ戦闘組織として欧州各国に支部を広げ、総勢で数万人規模の勢力となった。

 シオニズム研究家レニ・ブレンナーによると、ベタールはナチ党やファシスト党と遜色の無い狂信ファシスト集団であり、ドイツではナチと同様の茶色の制服、イタリアではファシストの青色の制服を着用し、所作もそっくり彼らに倣っていた。ジャボチンスキーはワイツマンから『ユダヤ・ファシスト』、ベン・グリオンから『ウラジミール・ヒトラー』と呼ばれたほどの人物なのだが、ベタールの青年たちは時としてそのジャボチンスキーに対してすら「ファシストではない!」「親英・親アラブ的だ!」と非難の声をあげるほどであったという。その最大勢力であるポーランド支部の中にいたのが、後にイスラエルの首相となるメナヘム・ベギン、イツァーク・シャミール、そしてダグラス・ファイスの父親ダルック・ファイスであった。

 ドイツ支部の周辺には後年ネオコンの「師匠」となるレオ・シュトラウス がいたのだが、この支部は当然のことながらナチ党に接近し、イタリアの支部はムッソリーニからの援助を受けた。ムッソリーニは彼の黒シャツ隊に命じて、1934年以後チビタベッキアの海軍基地で正式な軍事訓練を施すまでにこのユダヤ・ファシスト集団に入れ込んでいたのである。彼はジャボチンスキーを絶賛して次のように言った。

 《シオニズムを成功させるためには、あなた方はユダヤの旗とユダヤの言語を備えたユダヤ人国家を持たなければならない。このことを本当に理解する人物はあなた方のファシスト、ジャボチンスキーである。》

 同時にジャボチンスキーもユダヤ人社会の中でムッソリーニの代弁者であった。彼は自他共に認めるファシストだった。1936年にスペインで人民戦線政府に対してフランシスコ・フランコがクーデターを起こした際に、パレスチナのベタール組織は断固としてフランコ支持を訴えたのである。

 パレスチナのメンバーはハガナーから分離したテロ組織イルグンと重なり、後にこの地に移ったベギンとシャミールもその中に身を投じた。彼らはポーランド脱出後、ソ連からイランを経由してパレスチナに渡った のである。そのイルグンからはナチスと手を結ぼうとする過激テロ組織レヒ(スターン・ギャング)が誕生し、シャミールはここに移る。これらの経過ついては稿を改めて詳しく論じるとしよう。

 だが知っての通りヒトラーは反ユダヤ政策を明確にし、1938年にはムッソリーニがこれに倣ってユダヤ人に対する弾圧を開始、1940年にジャボチンスキーが死亡した。通常の感覚を持った人ならば、ベタールの組織とその運動もまた自壊していったのではないか、と考えるであろう。ヒトラーやムッソリーニが世界の指弾を受けた以上は彼らと密接に関わったこの集団がユダヤ人に容認されるはずはなかろう、と。

 しかし現実に起こったことは、まさしくその逆だったのである。

【以上、参照資料】
http://aljazeerah.info/Opinion%20editorials/2003%20Opinion%20Editorials/July/4ob/The%20Neocons%20Undersecretary%20Douglas%20J%20Feith,%20Richard%20H%20Curtiss.htm
http://www.inthesetimes.com/site/main/article/1114/
http://www.chroniclesmagazine.org/Chronicles/November2004/1104Perspective.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Betar_%28youth_movement%29
http://www.marxists.de/middleast/brenner/index.htm
http://www.marxists.de/middleast/ironwall/


[現代に直結するファシスト集団]   【小見出しに戻る】

 時間はやや飛ぶが、1948年、イスラエル「建国」の年、12月2日付の米国ニューヨーク・タイムズ紙は、同紙編集部に寄せられた米国のユダヤ人有志からの手紙を掲載した。その中にはアルバート・アインシュタインの名もあった。その手紙には次のように書かれてある。

 《我々の時代で最も困惑する現象の中に、新たに創設されたイスラエル国家の中での「自由党(ヘルート党)」の出現がある。これは、その組織において、方法論において、政治方針において、そして社会的なあり方において、ナチ党およびファシスト党に極めて近い政党である。これは元イルグン、つまりパレスチナにおけるテロリストで右翼の狂信的排他主義集団のメンバーと支持者によって形作られた。この党の指導者であるメナヘム・ベギンの米国に対する最近の態度は、明らかに、来るイスラエル選挙で彼の党に対する米国の支持を印象付けるように、また合衆国内のシオニスト右派分子との政治的な連携を固めるように、計算されているのだ。数多くの米国の著名人士たちが彼の訪問を歓迎するためにその名前を貸している。》

 この手紙の後半には、ベギンとイルグンの最大の犯罪、デイル・ヤシン村でのパレスチナ人集団虐殺に対する激しい告発がなされている。

 ここにあるヘルート党は後に他の右派政党を糾合して現在のリクード党に直結するものだが、代表者はベギン、もちろんシャミールも幹部であった。このユダヤ人有志は『ナチおよびファシスト党に極めて近い』と慎重な表現をしているが、まだ以前の記憶が生々しい時期である。彼らは、この集団が「ウラジミール・ヒトラー」が作り欧州ファシズムの流れを受け継ぐ「ユダヤ・ファシスト党」に他ならないことを知っていたはずだ。

 さらに注目すべき点は、米国の中ですでにこのヘルート党支持の体制が整っており『数多くの著名人士たち』がベギンの訪米を歓迎していたことだ。ヒトラーとナチを産み育ててきた米国支配層 が同時にこのユダヤ・ファシスト集団のパトロンである事実を、これもまた現代に直結するのだが、この手紙は明確に指摘している。

 ジャボチンスキーが死亡したのは1940年、ニューヨークにおいてである。ベタールの米国支部が作られそのキャンプを視察中のことであった。心臓病の発作が死因とされる。この時期に米国でジャボチンスキーの運動を支援した者の中にユダヤ教のラビであるチャールズ・カハネがいた。その息子メイア・カハネは後にユダヤ極右テロ組織JDLを結成する。

 しかし不思議なことがある。1938年から後およそ30年間以上のベタールの活動に関する記録が見当たらないのだ。パレスチナではそのメンバーの少なくとも一部がイルグンと重なりその活動を支援したものと想像はできるが、この時期の米国や英国の支部を含めて、ほとんど何のデータも無い。各国ベタールのインターネットHPを見ても、奇妙なことに、その多くで自らの歴史に対する記述が掲載されていない。あっても1940年以前の「歴史」のみである。どこの組織でもその「輝かしい歴史」を誇示したがるものだが、ここだけは別だ。ポーランドで1938年に開かれジャボチンスキーもベギンも参加した第3回ベタール世界会議から、いきなり現在にやってくるのである。

 1945年初頭にスペインの独裁者フランコは、英国の意思に逆らって(?)ユダヤ機関が欧州のユダヤ人を密かにパレスチナに運び込むのを手伝った 。フランコはその後もモロッコ経由でセファラディ・ユダヤたちを移送し続けたのである。そしてパレスチナにフランコ政権と親しく連絡が取れる組織があったとすればこのジャボチンスキー集団以外ではあるまい。またイスラエル「建国」と同時にヘルート党が結成された裏にパレスチナでのユダヤ人社会でベタールによる支援と根回しがあったと考えなければ筋が通るまい。しかしこれらの実体については闇の中に閉ざされている。

 現在ベタールはイスラエル本部の他に南北アメリカ大陸、英国とフランス、ロシアとリトアニア、南アフリカ、オーストラリアにその支部を持ち、主に学生をターゲットとして、ジャボチンスキーを賞賛しイスラエルへの忠誠心と排外主義シオニズムをユダヤ人青年に植え付けている。この中から次々と「ウラジミール・ヒトラーの戦士」が再生産されていく。イスラエルはジャボチンスキーを「国祖」として祀る紛れも無いユダヤ・ファシスト国家であり、ベタールは常にその中心部に存在する『ブラックホール』なのだ。

【以上、参照資料】
http://www.socialistviewpoint.org/sept_02/sept_02_1.html
http://www.kahane.org/biography.html
http://www.cecaust.com.au/main.asp?sub=culture/jewish&id=part3.htm
http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/380.html
http://www.betar.co.uk/history.php
http://www.betar.org/

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