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通報者たちは、エル・パイス紙に対して匿名を希望しているが、彼らの疑いは2001年の9.11にまでさかのぼっている。「一人のシリア人が妻と3人の子供と一緒に約4年間ほどその家に住んでいたが、周囲を塀で囲っていた。【注1】そしてツインタワーに飛行機が突っ込んだ事件の後、彼らは姿を消した。我々がそのテロに関与した容疑者の写真を見たとき彼の顔を思い出した。しかし特徴に決め手が無かったため我々はそれについてそれ以上のことは言わなかった。なにせ我々にとっては指名手配写真はみな同じような顔に見える。」 そのシリア人がいなくなった後、その家は今年の1月まで公式には住人がいなかった。見かけだけはそうである。通報者によればそこには人がいたような形跡があったからだ。たまたまその家は空家であるように見えたが、一方で何回か門や窓が開いており干している毛布が見られ子供の声も聞こえた。【注2】去る1月半ば、人がいる姿がはっきりと確認された。北アフリカ人と思われる5名が住み始めたのだ。しかしその時期は非常に寒くマフラーかターバン、あるいはスキー用のマスクで顔を隠すことは不思議とは思われなかった。彼らはその建物の上に小さな屋上の部屋を作った。それは部屋の増築のように見えたが、しかし同時に見張りのためのもののようでもあった。 |
3月5日、午前10時、一組の男女がフォルクスワーゲン・ポロに乗って出て行った。彼らはいっぱいに荷物を積んだもう一つの車に乗った2名の者と共に正午頃戻ってきた。彼らはおそらく3.11の爆弾にした青いスポーツバッグを持ってきたのだろう。ただし住民たちは盗品か麻薬の取引ではないかと思ったわけだが。そして「これは奇妙だ。警察が見た方が良いのでは。」と感じた。 3月7日、10時50分、彼らは通報した。最初は国家警察に電話したが、警察はシビル・ガードに回し【注3】、彼らがその通報を引き受けることになった。警察と住民との会話は録音されていた。しばらくして通報した住民たちにシビル・ガードから電話がかかり、その建物についての詳しい確認が次のようになされた。 「屋根の上に小部屋のついた家ですか。周囲が緑の塀で囲われていますか。」 「そのとおりです。」 そしてようやくシビル・ガードの車がやって来た。 通報者たちはその電話以上のことは知らなかった。3.11の後も、その家の住人が住みつづけていたことが確認された。そして3月26日の午前中、シビル・ガードの広報車が現れた。そしてその家の近所の人に質問し、通報者たちの証言を求めた。その捜査官が明らかに驚いている前で、彼らはその家に着いての詳細を述べただけでなく、3月7日の通報について覚えている事も語った。数時間後、国家警察の係官が司法当局の許可を得てその家に入った。 「もしその家を見張ってくれていたらあんなことは起こらなかっただろう。事件の後で動きが始まったのだ。誰がこの家の存在について彼らに知らせたのだろうか。警察は、何をどう言おうが、連絡を受けていたのだし、住民たちは協力したのだ。」と通報者たちは不満を述べた。 シビル・ガードの広報担当者は、その通報が問題にされなかったのではない、と断言した。語るところによると、その家はパトロールの制服警官が訪れていたし、私服警官によって通報から後2日間にわたって見張られていた。「司法当局の許可が無いので、ただ自動車の登録を確認しただけだった。何の問題も無かった。3.11の後、不法移民の存在が疑われただけなのだが、警察と行き違いにならないようにその捜査を終えたのだ。」と強調した。 |
『ヨーロッパのアルカイダ軍事責任者の指紋が3.11を準備した家から発見された』 警察は、モロッコ人でヨーロッパのアルカイダ軍事責任者とみなされているAmer Aziziが、3.11列車爆破の爆発物を準備した人物と接触していた確証を掴んだ。彼の指紋が、事件を計画し準備した家から見つかったのである。その家には22から26名の人物の指紋が得られたが、その中にAziziのものがあった。彼は、3.11に関連してフアン・デル・オルモ検事から国際手配を受けているSaid Berrajと、2001年にイスタンブールで会合を開いたことが知られている。そのモラタの家はテロリストたちが1年前に借りたのだが、そこで3.11で使用した爆発物を製造し、事件のすぐ後で宴会を開いた。 3月22日にその家から小型トラックで、サンタ・エウヘニア、エル・ポソ、アトチャの3つの駅で使わなかった爆薬を積んで出て行ったのだが、それは後でレガネス市で7名のテロリストたちが死亡したアパートの爆発で使われた。捜査員によると、その爆発物の移送は困難で、途中でトラックが故障して動けなくなりいったんその家に戻った。そこで、レガネスで爆死したSerhane Ben Abdelmajid Farkhet通称「エル・チュネシーノ」はオートバイで仲間に助けを求めに行き、次の朝にトラックを引っ張り出して運ぶことができた。このモラタの家はその4日後の3月26日に突き止められ、その中で起爆装置と爆発物の残り、レガネスで死んだテロリストの中の4名の者の遺留品が発見された。 レガネス市で爆死したうちの6名は身元が確認されたが、残りの一人分の死体は、イスタンブールで2001年に会合したSaid Berraj と Amer Aziziの一人と推測されている。両者とも2001年9月にアルカイダのスペイン細胞が捜査され解体された際に、居所がつかめず逃げていたのだ。いずれにせよ、 BerrajはAziziと共謀した3.11の唯一の容疑者ではなく、その電話番号は、バルタサル・ガルソン判事によって2001年の8月にフランスの要請によって見つかっており、爆破された列車で多くの人に目撃され13日に逮捕されたJamal Zougamのマドリッドの住居に登録されていた。 さらに、事件後の捜査当局の情報では、2002年の終わりか3003年の初めに「エル・チチュネシーノ」がAziziに、モロッコイスラム戦闘団がスペインを攻撃するように要請した。Aziziはスペイン女性と結婚しており通称「エル・アンダルース」だが、「エル・チュネシーノ」に対して、この「戦闘団」員の多くががキューバのグアンタナモの米軍基地に囚われているため、この要請には不満であったが、彼の計画を認め、アルカイダの援助をあてにできると語った。 |
まさに唖然呆然とするような当局発表だ。子供だまし以外の何ものでもあるまい。「テロリスト」たちは、人目につく野原の一軒家で大量の爆発物を準備し、事件直後に宴会を開き、指紋とか爆発物と起爆装置とか個人の身の回りの物とか、数々の証拠を好き放題に残しまくって、トラックの不調で大騒ぎまでして出て行った、そしてそれらすべてが住民に好き放題に目撃されまくったというのである。警察発表によると、そのトラックに「次のテロ攻撃で使う予定の爆薬」を積んでいたのだが、そんな大切なものを故障するようなトラックで運び、挙句に爆薬を積んだまま一晩そのままにしておくのだろうか? しかも事件後でマドリッド市付近に警戒体制をひいていたはずの警察にも全く不審尋問されずに。
しかもそこに「国際指名手配中のアルカイダの重要人物」を登場させる。こんな程度の不注意な馬鹿なら「国際指名手配」するまでもあるまい。しかしこのアメル・アズィズィはいまだに「行方不明」である。
そしてこのような馬鹿げた「大本営発表」を見るものに信じさせようとするマスコミの報道ぶりもまた素晴らしいものだ。ただ「進歩派新聞」エル・パイスと異なりこの全国第2の発行部数を持つ「保守派新聞」エル・ムンド紙は、極めて不十分なものながらも、3・11の「公式見解」に疑問を発する特集をたびたび組んでいる。
(8)実行犯全員爆死:死人に口無し
4月1日、サラゴサ(アラゴン州)の郵政局で、マスコミ機関(に宛てた3通の手紙爆弾が発見され、警察によって不発処理された。ただしこれは「アナーキストグループによるものと思われる」ということで「イスラム・テロ」とは無関係とされたが、「テロへの恐怖」をかきたてる演出として十分なものだろう。そして同時に、スペイン内務相が翌2日に、セビージャとマドリッド間(マドリッド付近)の国鉄の高速鉄道の線路に約10キログラムのダイナマイトが仕掛けられているのを発見した、と発表した。爆薬入りの包みには136メートルのケーブルと起爆剤がついていたそうである。今回は無線や時限爆弾ではなくて、わざわざ事件後にあからさまな証拠を残す「電気のケーブル付き」というあまりにもクラッシックなスタイルである。
そしてその日、3・11事件担当判事フアン・デル・オルモは「エル・チュネシーノ」を事件の首謀者の一人であると認定して指名手配した。新聞によれば、彼は2003年に「ジハードの一環としてマドリッドで『暴力的行為』を計画した」のだがそれが具体的に何かは述べられていない。また国家警察当局は数百名規模の「イスラムテロリスト」の組織がスペイン国内にある、と発表した。
その翌日の4月3日に国家警察はマドリッド近郊の都市レガネス市にある集合住宅の1室が「エル・チュネシーノ」の隠れ家であると「発見」し、国家警察による「大捕り物」が行われた。どうやら「テロリスト」たちはあのモラタ・デ・タフーニャの「隠れ家」を大騒ぎしながら引き払った後、秘密裏にここに移り住んだらしい。警察は昼過ぎごろからその周辺を包囲し付近の住民には避難命令を出した。
その様子はテレビ中継されたのだがもちろんアパートの中は誰も知ることができない。外側の様子と、時々アナウンスされる警察発表があるのみである。数時間銃声が響き渡り、時々大声のアラブ語によるコーランの斉唱が聞こえた。そして夜の9時ごろに突然その部屋で大爆発が起こった。そこで国家警察の1名、そして「テロリスト」7名が死亡した。警察は「自爆死」と発表。何名かが逃亡したかもしれないという発表もあったが今日に至るまで詳細は不明。結局は事件「実行犯」が全員死亡。死人に口無し・・・。
なお後日になって、この大捕り物で死亡した警察官の墓が荒らされ遺体が焼かれるという事件まで起こった。その犯人は分からなかったのだが、「きっとイスラム教徒に違いない」という無責任な憶測が飛び交い「反イスラム感情」が強引に掻き立てられた。
要は、警察や内務省の発表と、それに尾ひれをつけて流すマスコミの情報だけが、この事件の全てである。いったい何が本当のことなのか、何一つ確かめようが無い。しかし明らかなことがある。あまりにも筋の通らない当局の公表内容と、ただそれを垂れ流すしか能の無いマスコミ、ジャーナリズムの姿勢である。9・11事件も同様なのだが、このマドリッド3・11は我々の「リアリティ」のあり方が本質的に問われる事件であった。我々はただ誰かによって準備されたスクリーンに映されたものを見せられスピーカーから流れるものを聞かさるだけである
。そしてそれが「真実である」とされる。疑う者は「テロリストの仲間」「陰謀論者」なのだ。それがどれほど方々で食い違い歪みまくり空白だらけになっていようが・・・。
マドリッド3・11(4) 「生け贄」と「魔女」たち に続く
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