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このシリーズを、2004年3月11日にマドリッドで失われた全ての命に捧げる


まやかしの「イスラム・テロ」

マドリッド3・11 (1)  

アスナール政権の失速とETAによる下地作り


【始めに】
 この事件は一般的に「マドリッド列車爆破事件」と呼ばれる。2004年3月11日、午前7時35分をやや過ぎたころ、マドリッド市アトーチャ、エル・ポソ、サンタ・エウヘニアの3つの鉄道駅で、ほぼ同時に満員の通勤電車が爆破され、地獄の様相を作り出した。それは死者191名、負傷者1500人以上を出した大虐殺事件だった。

 私の住むスペインを襲ったこの事件は、私にとって、9・11を含む「対テロ戦争」のイカサマに取り組む大きなきっかけを作ったものである。「当局発表」がどれほどいい加減で矛盾とあいまいさとごまかしに満ちているのか、マスコミ報道がどれほど偏った論調を作り人々を誤誘導しているのか、またそこからどういった「世論」と風潮が作り上げられていくのか、そしてどんな種類の者たちがそれを積極的に政治的に利用していくのか、十分に観察できた。ヘドが出るほどに!
 この事件は2004年3月11日に起こったために、9・11事件と並んで「3・11事件」とも呼ばれる。スペインのみならず世界中を恐怖と混乱におとしいれたこの大型テロ事件は、その3日後に行われたスペイン総選挙で、ブッシュ米国大統領やブレアー英国首相と並んでイラク戦争を先頭切って推し進めたアスナール首相の国民党政権を一気に沈没させ、イラクからスペイン軍を撤退させると公約していたサパテロ党首の社会労働者党政権を誕生させるという「政治的効果」を生み出した。しかしそれは同時に、イラク戦争開戦の大嘘とゴマカシが次々と明るみに出されその「対テロ戦争」路線が危機に瀕していた米国ブッシュ=ネオコン政権にとっては、まさに「天からの贈り物」であった。《イスラム・テロ》の恐怖感を改めて米国国民と世界の人々に強調し植え付けることができたのである。

 ところが、数多い《イスラム・テロ》事件の例に漏れず、当初ありとあらゆる論調の中で叫ばれていた「アルカイダ主犯」の声がしだいに小さくなり、ついには消えてしまった。「犯人」とされた者達の中には誰一人「アルカイダ」とつながるものが見当たらず、結局は「首謀者無し」の事件として、人身御供的に3名のモロッコ人とスペイン人が無期懲役の判決を受けた。(スペインには死刑制度が無い。)

 この3・11事件は、ある意味で9・11とは非常に対照的な事件だった。9・11がその映像を世界の人々に見せつけ「オープンなTVショー」として起こったのに比べて、これほどに事件そのものに関する映像資料の少ない事件も珍しいだろう。我々にはただ新聞とテレビに編集・脚色された当局発表の筋書き以外には、目にも耳にも全く入ってくるものが無かったのだ。私は丹念に毎日の新聞を調べ記事を記録し、重要な部分は翻訳して阿修羅に投稿を続け、季刊誌『真相の深層』に4部連続で寄稿した。警察と判事局の捜査やマスコミ報道にあからさまに現れる救いようも無い数々の矛盾と撞着、明白な隠ぺい工作と意図的なイメージ操作、薄汚い政治利用、そして空虚なごまかしでしかない裁判・・・。スペイン国民の3分の2はこの事件の公式な見解を信用していない。誰にとってもとうてい納得できる説明でも判決でもないのだ。

 しかしこの二つの事件は重要な点で一致している。物的証拠の破壊である。9・11では米国ブッシュ政権とジュリアーニのニューヨーク市当局によって、即座に、最重要な物証である世界貿易センター地区の残骸がほとんどことごとく永久に再生不能なリサイクル処分とされてしまった。

 3・11事件でも全く同じことが起こった。爆破された列車の車体は科学的な捜査が行われる以前に、全国管区裁判所の「超法規的処置」によって破壊されたのだ。それは事件発生から48時間も経たない時点で開始されたのだが、全国管区裁判所のどの判事がそれを命令したのか、その作業に国家警察の誰が立ち会ったのか、どのように解体されたのかなどの詳細は、いまだに(2011年現在)最高裁判所と国家警察の手によって封印され続けている。いずれにせよ、爆発物が本当は何だったのか、どこにどのように仕掛けられたものだったのかを突き止めるための最も重要な手掛かりは、事件後わずかのうちにこの世から抹殺された。後の裁判の過程で車体がすでにこの世に存在しないことが明らかになったのは、事件後1年も経ってからだったのである。
(スペインの裁判制度は日本のものとは大きく異なる。地方裁判所と家庭裁判所に当たる裁判所はあるのだが、その上級の裁判所は「全国管区裁判所 la Audiencia Nacional」と呼ばれ日本の高等裁判所のような地域性は無い。実質的な審理はここで行われ、最高裁判所は上告の訴えがあれば全国管区裁判所の判決の審査だけを行う。またフランスの予審判事制度と同様に裁判所に所属する判事が事件捜査などを警察に命令する。したがって、物証である爆破された車体の解体処理は全国管区裁判所に所属する判事の命令が無ければ行われない。なおスペインでは、この「超法規的」物証破壊について疑問を述べるなら、左翼・進歩派とみなされる人々が一斉に「陰謀論!」の罵声を投げかけるという、奇妙な構図ができている。)

 さらには爆破現場で採取されたいくつかの小さな物体も、弁護団の要請と裁判所の命令で科学的な再検証が行われる以前に、そのほとんどが水とアセトンで処理され、表面に付いていた物質が洗い流されてしまった。そしてわずかに1個だけ残された手付かずの検体から突き止められた爆発物の成分は、Gomaタイプのダイナマイトという公式の発表とは全く異なる爆薬を示していた。

 そしてその事実を指摘して再調査を要求し続けた弁護側に向かって、判決文を読み上げる裁判長はこう言った。
「テロリストが用いた爆発物は、全ての箇所においてGomaタイプであった。・・・。我々は列車を爆破した爆発物の種類を正確には知らない。・・・。爆発物の正確な種類の全部までは決められないが、それは刑法上の決定にいたることを妨げるものでは無い。」

 こんなふざけた裁判があるのか?


 しかも、「実行犯」「実行に関わった者達」だけがいて、「実行を計画し資金を与え指揮をとった首謀者」はどこにもいない「イスラム・テロ」、という、まさにトンデモ判決なのだ! この点も、FBIが最後まで(2011年に米国特殊部隊によって「殺害された」とされるまで)オサマ・ビン・ラディンを主犯とは見なさなかった9・11と類似しているのだろう。

 事件捜査から判決まで、実に馬鹿馬鹿しいプロセスとしか言いようが無いのだが、人々の心の中には公式の説明に対する不信感とは裏腹に、わけの分からぬ不安な気分の中で《イスラム・テロ》に対する恐怖感が植えつけられてしまった。それは9・11以来、定期的に起こるテロ事件の報道で繰り返し拡大再生産され条件反射化されてきたものだ。誰が一番ほくそえんでいるのか?

 この事件はいまだに何一つ決着がついていない。それどころか、この事件の背後にある闇は時がたつにつれてますます広がっている。次の年から次々と起こったロンドン7・7交通機関爆破、アンマンのホテル爆破、バリ島ディスコ爆破、そして2008年のムンバイ・テロ事件などなどに共通する、デタラメで矛盾だらけの当局発表、それをほとんど無視して《イスラム・テロ》一色で塗りつぶすマスコミの異常あるいは狂乱状態としか言いようのない有様が、表面で「対テロ戦争」に浮かれる愚か者達を白々と浮かび上がらせると同時に、背後の暗闇をますます際立たせる。その闇の中でうごめくものこそがこの「対テロ戦争」を仕掛けた者たちの正体でもあるのだ。

 しかし世界中でこの事件について知っている者は非常に少ない。その原因の大半は、スペイン語情報がなかなか英語に翻訳されないことである。またそのため必然的に日本語情報にもならない。私はこの謎だらけの事件の「公式な説明」に真正面から向き合ってきた数少ない日本人の一人だろうと自負している。この事件について日本語情報にして幅広く知らせていくことが私に科せられた任務なのかもしれない。しかしとても一つの文章で書ききれるようなものではないため、数回のシリーズに分けてこのサイトで掲載することにしたい。

 ただこの事件の真相に迫るためには、事件が起こる以前の経過について最小限の知識が必要だ。面倒だがこれは非常に重要なことなので、ここで述べる事実を心に留めておいていただきたい。


(1)アスナール

 事件前年の2003年3月16日、大西洋に浮かぶポルトガル領アゾレス諸島で、ブッシュ、ブレアー、アスナールの三馬鹿揃い踏みが行われた。イラク戦争の「旗揚げ式」である。それはこの三羽烏にとって「対テロ戦争」の英雄となるはずの最も栄光に満ちた瞬間だった。もっとも、その後の軌跡を見るとそれが彼らにとって落ち目になっていく分岐点だったわけである。

 最初に脱落したのがスペインの首相アスナール。2期8年間の首相を務めた後、いずれにしても次の年2004年の総選挙に出馬せず引退する予定だったが、3・11大虐殺というとんでもない置き土産を残してくれた。ただしその土産を《イスラム・テロ》として大切に保存し「対テロ戦争」に協力し続けているのが、皮肉なことに、政敵であったサパテロが頭となる現社会労働者党政権なのだが。

 国会で絶対多数を誇る与党国民党支持者を含め、スペイン国民の80%近くがイラク戦争参加に反対したにも関わらず、アスナールなどの国民党の一部がネオコンに擦り寄って突っ走ったのである。しかし4月8日にバグダッドに侵攻した米軍によってスペイン人TV記者ホセ・コウソが惨殺されるにおよんで国民の怒りと疑念は一気に膨らんだ。その直後にイラク戦争推進者の一人である英国外相ジャック・ストロウがマドリッドにやってきた際に、取り囲んだ数十名のスペインの各テレビ局のカメラマン、テレビ記者、新聞記者たちが、代表でカメラに収める一人を除いて、全員カメラとマイクを地面の上に置いて取材を拒否し、腕を組んで黙ってストロウをにらみつけて抗議の意思を表した。口をぽかんと開け目を剥いて立ちすくむストロウの顔とその横でうろたえるスペイン外相のアナ・パラシオの姿が実に印象的だった。

 一方で、イラク攻撃には参加しなかったものの占領後に兵員を派遣したアスナールとその周辺は、「イラク復興事業」参入の期待で大いに盛り上がった。しかし軍諜報員7名が11月にイラク人抵抗勢力によって殺害され、国民は次第にアスナールにそっぽを向け始めた。国会では当時野党党首だったサパテロがアスナールに向かって「あなたは戦争は終わったと言うが実際に戦争は継続中だ。あなたはテロリストと言うが彼らは抵抗勢力だ」と詰め寄った。その後、アスナールが政界引退を表明し次の年の3月14日に総選挙を行うと決めたころからイラクでの米軍による残虐行為の報道が続々とマスコミに載るようになり、次の年にはイラク戦争開戦の大嘘とデタラメが次々と暴かれ始めた。

 その年の12月11日に、マドリッドと並ぶ重要な政治リーダー的地方、カタルーニャの地方選挙で保守勢力が惨敗し、社会労働者党と左翼共和党を中心とする左翼政権が誕生した。フランコ没後長年カタルーニャの政権党であり、7年間アスナール国民党と手を組んできた保守民族主義政党CiUは、それ以後2010年の州統一選挙まで浮かび上がることがなかった。この地方選挙の結果はマドリッド政府にとって大きな衝撃だった。与党国民党が総選挙で勝てるかどうかの見通しが全くつかなくなってしまったのである。


(2)ETA

 スペインにはフランコ独裁時代以来ETA(バスク祖国と自由)というテロ組織が活動を続けている。ETAは、言葉も文化も全く異なり独立心旺盛なバスク人の政治組織の中でも特に過激な分派であり、1973年12月に、フランシスコ・フランコ総統の後継者であったカレロ・ブランコ首相を地下に仕掛けた爆弾で自動車ごと吹き飛ばして暗殺し、独裁政権の延長を不可能にした。だがその後も過激な爆弾闘争を継続し、80年代後半に多くの一般市民を巻き込む無差別攻撃を行ったため一気に支持を失った。しかしバスク地方ではまだ一定程度の支持があり、軍や警察、バスク独立に反対する政治家などの個人を標的にして銃や爆弾による暗殺を繰り返してきた。このETAが実は3・11事件の重要な「狂言回し」の役を務めたのである。

 このテロ組織が、IRAや「アルカイダ」などのあらゆる「テロ組織」の例に漏れず、もぐりこんでいるフランスやスペインなどの諜報部員に操られ様々な形で政治的に利用されてきたことは言うまでもあるまい。そればかりではない。3・11事件直後の2004年4月1日にスペイン語情報誌”Solidaridad.net”が大変な記事を掲載した。フランコ時代のスペイン情報機関が最高裁判事に提出した機密文書が一部リークされ、そこには「CIAがETAを助けてカレロ・ブランコへの攻撃をやらせた」ことが書かれてあったという。状況的にもこれは納得のいく面がある。フランコ政権を支えていたカルト政経集団オプス・デイとCIAは切っても切れない関係にある。彼らは、一方で中南米では親ソ勢力を倒す名目で軍事独裁者を擁護したが、その一方でスペインではこれ以上ファシズム型の独裁政権が続くことは危険だった。フランコ死後に「法から法へ」の「革命」を驚くべき速さで進めスペインの「左翼化」を実現させたフアン・カルロス国王とアドルフォ・スアレスは、共にオプス・デイの極めて重要な関係者なのである。この暗殺事件には多くの謎がある。もしこの情報が本当だとすると、ETAはCIAと底通していることになるだろう。

 クリスマス気分が覚めやらぬ2003年12月26日、スペイン国民の間に大きな衝撃が走った。ETAがマドリッドの駅を爆破する計画を立てていた、と国家警察から発表があったのだ。奇妙な話だ。ETAはこの10年間以上も一般市民を対象とするテロをやめてきたのである。この「計画」は1週間ほど前にフランスで逮捕されていたETAの幹部が自供したとされるが、事の真偽を確かめる術はない。全てが警察からの一方的な発表でしかないのである。しかしその次の日にダイナマイトを積んだETAの自動車が発見され、新聞もテレビも「ETAのテロ」で塗りつぶされた。

 年が明けてもカタルーニャで与党となった左翼共和党の党首がETA幹部と会っていたとか、それに中央情報局(CNI)が絡んでいたとかの「ETAネタ」が新聞をにぎわした。しかし1月28日に今度はアメリカで、イラクの「大量破壊兵器」調査の責任者ディヴィッド・ケイがCIAを非難して、イラクにそのような兵器が存在していなかったことを明らかにしたのである。もちろんこれは世界中を揺り動かしたわけだが、スペインの選挙戦は「ETA」と「イラク戦争」で埋め尽くされ、この二つが決定的な争点になってしまったのだ。そうして総選挙の迫った3月1日に、「ETAがマドリッドを爆破攻撃する予定だった」とシビル・ガード(Gualdia Civil 国家警備隊)からの発表があり、マドリッドに続く国道に放置された500kgのダイナマイトを積んだバンが報道陣に公開された。不思議なことにその車に乗っていたはずの者たちの姿はどこにも無く、警戒体制に気づいて車と爆発物を置き去りにして逃亡したのだと説明された。それ自体が奇妙な話なのだが、これは総選挙を間近にひかえたマドリッド市民を恐慌におとしいれてしまった。

 2004年3月14日のスペイン総選挙は、「ETAのテロと闘う国民党か」あるいは「イラク戦争に反対しイラクからスペイン軍を撤退させる社会労働者党か」という二者択一の明確な争点 を元に行われることとなり、世界中がその結果に注目した。しかしこれは実に巧妙な《誘導》だったのだ。

 そして、その総選挙の3日前・・・、2004年3月11日・・・。


マドリッド3・11(2) 「ザマミロ!アスナール!」で済むのか?  に続く

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