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特集:「カタルーニャ独立」を追う @


小見出し一覧:それぞれの小見出しの記事にクリックで飛ぶことができます】
世界の注目を浴びた地方選挙
カタルーニャの911
独立要求「200万人」超巨大デモ
率の悪い大博打?2年早い州議会選挙
鍵を握るのはEUなのだが…


【初めに】
 この4ヶ月間ほどのできごとは、カタルーニャの州都バルセロナに住む私にとって、「エエーッ?」、「何じゃ、こりゃ?」、「ウソやろ?」、「んなアホな!」の大連続である。私自身ここの住人である以上「高みの見物」というわけにはいかず、その渦中でエライ目に遭うかもしれない。だからこそ関西弁で言う「オモロイ!」状況なのだ2012年9月から12月までのことだけでも十分に長いので3回分を使うことにするが、以後長期にわたって続くカタルーニャ(バスクが続く可能性がある)の「独立」をめぐる政治的・経済的な激動は、将来のためにぜひとも丁寧に記録を続ける価値があるだろう。
 もしかして、この経済危機の中から欧州の新国家が誕生するのかもしれない。そしてそれが従来の国家の枠組みを解体し欧州の政治統合を促進する「触媒」作用を果たすのかもしれない。あるいはスペインで再演される独裁的な弾圧の悲劇が欧州の政治・経済の仕組みに致命傷を与え欧州連合とユーロ自体が崩壊するかもしれない。悪くすると、カタルーニャに触発される分離独立運動が欧州各国で続き、その反動として欧州連合がソ連型の恐るべき独裁国家に変身するのかも知れない。……。
 いずれにせよスペインと欧州は一度足を踏み入れるともう後戻りできない「地理的分裂」の岐路に立っている。それはどのような形であれ欧州の経済・政治の構造を震撼させ、世界のあり方に大きな影響を与えることになるだろう。今から何が起こるかの正確な予想は不可能だが、どうやら私は歴史的な大変動の現場に立っているようだ。
 苛酷な緊縮財政の中で社会が激しく上下のカーストに分裂しつつあるスペインの様子は別の記事でお知らせした。私は経済関係の専門家ではなく、日に日にやせ細っていく自分自身の生活の実感と身近に見える街の状況を下敷きにし、地元のマスコミ報道から分かる崩壊途中の国家と社会の有様をお伝えしたつもりである。そしてこういった「国の上下分裂」は日本でも同様に進行中だろうし、ひょっとすると将来において日本の方がスペインよりもはるかに深刻で残酷な事態を迎えるかもしれない。
 
しかし、この特集のテーマである「国の水平方向の(地理的な)分裂」は日本では起こりえないだろう。カタルーニャ独立運動は日本人にとってさほど関心の深いものではないだろうが、それには近代の国家観や社会観を一変させる重大な面が含まれているのかもしれない。スペインだけではなく、英国、イタリア、ベルギー、フランス、ドイツなどにある複雑な民族・地域問題は、単なる経済問題以上にやっかいな要素を含む。国家と社会を構成する要素が「パンのみによりて生きるのではない」人間だからである。日本ではほとんど報道されることもなく、大手報道機関を通しては正確な事実が日本語情報となって伝わることがまず期待できないため、この私の記録が少しでも多くの人の記憶に残れば幸いである。


世界の注目を浴びた地方選挙 【小見出し一覧に戻る】

 スペインの自治州であるカタルーニャでこの11月25日に行われた州議会選挙は、欧米各国で大きな関心を集めた。その結果が同州のスペインからの分離独立を加速させるかも知れず、それが欧州全体、そして世界の経済と政治に重大な影響を与える可能性すら考えられたからである。地方分権が進んでいる欧州の国での地方選挙は、日本でのそれとは比較にならない重要性を持っており、国家全体の政治的なあり方を大きく左右してしまうのだ。ユーロ圏第4、EUで第5の経済規模を持つスペインで起こるかもしれない国家分裂の危機は、ひょっとするとギリシャの財政破綻の比ではない打撃を欧州と世界に与えるのかもしれない。しかしこの地方議会選挙が行われた翌日、11月26日の各国の新聞は、注目ポイントこそ異なるものの、全体として冷静な、ある意味でやや拍子抜けした調子でその結果を伝えていた。
 まず数値データからお伝えしよう。議席総数は135で過半数が68議席である。投票率は69.5%で、前回2010年の選挙に比べて10.8%も増えた。これはフランコ以後の新制度下で行われた同州議会選挙では最大の数値であり、独立問題に対する州民の関心の高さを物語る。なお、スペインの選挙制度はドント方式による小選挙区比例代表制である。(以下、政党名はアルファベット頭文字で表記することにしたい。)
 結果は次のとおり。この選挙期間中にカタルーニャ独立運動のイニシアチブをとってきた中道右派民族政党CiU(集中と連合)は、改選前の62から50へと大きく議席数を減らし、得票率も38.4%から30.7%へと縮小させ、第一党の座を守ったものの州民の支持を劇的に失った。しかし、民族左派政党でより強硬な独立派であるERC(カタルーニャ左翼共和党)が10議席から21議席へ(得票率7.0%から13.8%)と勢力を倍増させ、史上初めて第2党に躍り出た。
 一方でほんの2年前まで州政府与党だったPSC(カタルーニャ社会労働党)は、独立に反対し、憲法改正を経て連邦制を実現させることを主張したが、8議席マイナスの20議席に甘んじ第3党へと転落した。しかし中央政府の全力の応援を受けて独立運動を阻止したいPPC(カタルーニャ国民党)は、1議席増の19議席と過去最高の議席を確保して「勝利感」を漂わせた。また、ERCと連帯して独立運動にも共感を示す環境左派のICV(訳は難しいが「左翼環境連合」とでも言っておこう)は3議席増の13議席を確保し、独立反対派のC’s(市民党)は3倍に増えて9議席を獲得、アナーキスト民族主義系の強硬な独立派CUPが結党以来初めて3議席を手に入れた。以上が開票の全結果である。

 獲得議席数を「カタルーニャ独立」に対する姿勢から見ると、積極的独立派がCiUとERCとCUPで74議席(得票率47.8%)となり、独立推進派が議会の過半数を大きく突破した。これに消極的独立容認派であるICVの13議席(同9.9%)を加えると87議席(同57.7%)となり、議席数の3分の2近くを占める。一方の独立反対派はPSC、PP、C’sの3党で48議席(得票率35%)の議会内少数派に留まることとなった。
 この数字からだけなら「独立派」が圧勝しているように見える。ところが内実は複雑だ。
 地元財界と地主階層の利害を代表するCiUが、労働者や小規模自営業者、左翼的知識人などに支持され長年CiUと敵対してきたERCと手を組むことは多くの困難と混乱を伴う。さらにICVは旧スペイン共産党の流れを汲む左翼連合の系統であり、ERCとは手を組むことができたとしても、CiUに同調することはありえない。またCUPはどの党とも協力関係を結ぼうとしない。11月初旬の国家統計局の調査によればカタルーニャの住民の57%が独立を積極的・消極的に希望しており、今回の選挙の得票率がその数字をほぼ裏付けたわけだが、実際には独立運動の中心となったCiUの惨敗によって「独立派」の間で混乱と不統一が拡大してしまった。

 スペイン国内と世界の各マスコミの論調もまた様々にならざるを得ない。どの報道でも同じように各党派の当選議席数を伝えるのだが、それから受けるイメージ(というか、打ち出したいイメージ)はそれぞれずいぶんと異なっているようだ。各報道の見出しを比較してみたい。(大半が電子版)
 まず外国を見ると、「スペイン・カタルーニャの地方選挙で分離主義諸党が勝利(ニューヨーク・タイムズ)」、「分離主義諸党派がカタルーニャの選挙で勝利(ロイター)」、「独立がカタルーニャの選挙を制する(BBC)」、「カタルーニャの親独立派が地方選挙に勝利(ビジネスウィーク)」、「親独立党派がカタルーニャを制する(RTロシア・トゥデイ)」といったように「独立派勝利」のイメージを打ち出すものがある一方で、投票者は国家の分裂にしり込みした(ウォールストリート・ジャーナル)」、「投票者はカタルーニャ州知事の独立住民投票への希望に打撃を与える(ガーディアン)」というように、むしろ敗北的なイメージを与える論調がある。中には「カタルーニャの選挙:この地域の新たな親独立派の多数派はどうしてスペインからの分離独立に保証を与えないのか(タイム)」といった疑問を掲げるものもある。
 しかしどの記事の中にも、この結果が欧州の政治・経済問題に悪影響を与えるだろうといった悲観的な論調は見当たらない。実際に、多少の不安感から株価が若干下がったものの、懸念された影響はほとんどゼロに等しかった。この選挙結果がスペインの政治的混乱に直接的には結びつかないことが誰にでも理解できたのだ。
 一方でスペイン国内の報道は、CiUとその党首アルトゥール・マスの失敗、さらには独立運動の失敗を指摘する論調が目立つ。「カタルーニャ人はマスの計画に罰を与えた(エル・パイス)」、「マスは住民投票を失う(ABC)」。地元カタルーニャで普段はCiU寄りの記事が多いエル・ペリオディコですら、ウエッブ版では「マスの計画は失敗した」、その街頭売り第一面大見出しは「ずっこけた」とからかい調子である。最も手厳しいのはエル・ムンド街頭売り第1面「マスは歴史上の人物となる」、ラ・ラソン街頭売り第1面「さよなら、マス:カタルーニャはスペインが好きなんだ(この「さよなら」はカタルーニャ語の"Adeu")」。
 スペインの新聞がこぞってこのような論調になるのは理由がある。まず大部分のスペイン国民は伝統的に地域の分離独立に対する強い反感を持つ。民族や言語が異なるとはいっても、各地域同士は、経済的にも人的にも、もはや分離が不可能なほど強く結びついている。もちろんだが、カタルーニャ自身のものを含めて、大銀行や全国的な企業は独立運動に強い警戒感を持っている。スペイン経済の20%以上を支えるカタルーニャ抜きでは、スペインのどの地域も生き残っていけないのだ。必然的に、フランコ以後の政権を担当してきた国民党と社会労働党の双方とも独立運動には厳しく敵対しており、軍や国家警察も分離の動きには神経を尖らせている。つまり、カタルーニャやバスクの独立派政党とその支持者を除けば、スペインにある有力な要素のほとんどが地域の分離独立を望んでいない。この国のマスコミが独立の動きに対してどんな反応をするのかは言うまでもない。
 しかしそれにしても、昨年から盛り上がっていた「カタルーニャ独立」劇には不自然で奇妙な要素が多い。そこでまずは3回に分けて2012年9月以降の4ヶ月間に「カタルーニャ独立」を巡って起きた動きを記録してみたい。(以下、カタルーニャにちなむ固有名詞についてはカタルーニャ語風の表記で表す。)
 

カタルーニャの911 【小見出し一覧に戻る】

 例の911事件とは何の関係もない。9月11日は、カタルーニャでは「ディアダ」と呼ばれる祭日となっている。スペインでは国家で決めた休日のほかにそれぞれの自治体が独自の休日を持っているのだが、この911(オンザ・ダ・セテンブラ:Onze de Setembre)はカタルーニャ人にとって特別な意味を持つ。
 18世紀初頭に起こったスペイン王位継承戦争(日本語Wikipedia)で、フランスのブルボン家がオーストリアのハブスブルグ家からスペインとアメリカ大陸植民地の支配権を奪ったのだが、その際にフランスの覇権を恐れる英国とオランダはハブスブルグ家の支援に回った。そしてその反ブルボンの隊列の中にカタルーニャも混じっていたのだ。戦争は複雑な駆け引きの下で13年間続いたのだが、フランス有利の情勢の中で英国とオランダは手を引き、王位継承戦争自体は1713年で終わった。しかしバルセロナはその後も独自に、王権を手にしたブルボン家のフェリペ5世に対して徹底抗戦を続けた。
 古代から近世までのカタルーニャの歴史については、『カタルーニャとバルセロナの歴史概観』の@ABを参照していただきたいのだが、おそらく、ブルボン家の勢力拡張を恐れるオーストリアと英国とオランダが、「独立」を餌にして、以前からマドリッドの支配に反感を持つカタルーニャをたきつけたのだろう。しかしはしごを外された後も1年間以上戦い続けた後に彼らを待っていたのは悲惨な運命だった。バルセロナが14ヶ月に及ぶ篭城戦(日本語Wikipedia)の末に城内の草まで食べつくして陥落したのが、1714年9月11日のことである。
 外国勢力と手を組んでスペインの分裂を図ったとして、マドリッドの中央政府はカタルーニャに苛酷な制裁を課し、あらゆる地方特権と独自の制度を奪い取った。カタルーニャ語はあらゆる文書文献から追放されバルセロナ大学は閉鎖・移転を余儀なくされた。バルセロナはマドリッドから派遣される軍によって厳重な監視下に置かれ、一切の反抗の芽は押しつぶされた。それ以来、バルセロナとカタルーニャはマドリッドとスペインに対する敵対心を片時も忘れたことはない。
 20世紀にこのブルボン王朝に倍して厳しい独自文化・制度への弾圧を行い続けたのがフランシスコ・フランコの独裁政権だった。名前すら自らの言語を許されず、ジュゼップはホセに、ジョルディはホルヘに、カルマはカルメンに、ジュゼフィーナはマリア・ホセに変えられた。八百屋の値札からも民族言語が追放され、カタルーニャ語はカスティーリャ語(スペイン語)の一つの方言に過ぎないとされ、小学校で子どものカタルーニャ語の会話には厳しい罰が待っていた。そんな時代が終わったときに、この9月11日を「ディアダ」という祭日にしたのはカタルーニャ人のアイデンティティの根幹に関わることだったのだ。

 独裁時代が1975年のフランコの死の2年後に終了し、新憲法の下で、カタルーニャ人たちは18世紀の戦争で失われたジャナラリターッ(政府:Generalitat)を、自治州政府という限定された形ではあったが、復活させた。そして独裁政権によって長期間禁止されていた独自言語と文化をも再び自らの手に取り戻すことができた。
 カタルーニャ人は州政府を「ゴベルン(Govern)」、そしてその首長を「プレジデンッ(President)」と呼ぶが、ここでは「州政府」「知事」と言っておこう。フランコ以後の最初の知事はカタルーニャ共和党左派の代表で長い亡命生活を終えて祖国に戻ったジュゼップ・タラデージャだったが、1980年の州議会選挙で多数派を治め知事になったのは民族右派政党CiUのジョルディ・プジョルである。彼はその後、2003年にパスクアル・マラガイュ率いる社会労働党に敗れるまで23年間の長期政権を維持する。CiUは2010年の州議会選挙で、経済の悪化と州民の反発に苦しむホセ・モンティージャ率いる社会労働党を打ち破って再び多数派を制し、プジョルの後継者アルトゥル・マスが知事となって今日へと続く。

 しかしマスには最初から受難が待ち構えていた。州民は、スペインの他の地域住民と同様に2007年以来の不況に全く対処できない社会労働党に愛想をつかしたのだが、その不況の原因の多くは、20世紀末からスペインの国政を担ったアスナールPP(国民党)中央政権と手を結んだCiUの州政府が責任を負うべきものであった。他の州と同様に、バブル経済の中で進行した政治腐敗と経済基盤の弱体化はもはや手の付けようも無い。彼は中央政府にならって厳しい緊縮財政を行わざるを得ず、州民の激しい抵抗に直面する状況に追い込まれた。
 カタルーニャの抱える公的債務の総額は、州政府によれば2009年の段階ですでに164億ユーロ(約1兆6千5百億円)を超え、州GDPの8.4%に上っていた。マス州政府はその原因を、州が税金の中から国に治める拠出金に比べて国から州に下りる交付金があまりにも少ない点、つまり州民からの税金の多くがマドリッド政府に吸い上げられているせいであると主張する。この主張は「根拠が無い」という反独立派からの猛反撃を受けているが、大多数のカタルーニャ人は「自分たちのカネがマドリッドの者たちの懐を潤して彼らによる全国支配のために使われている」と固く信じる。
 いずれにしてもカタルーニャ州は国に対して総額50億ユーロ(約5千億円)の流動化資金の貸し付けを要求しており(そのうち今年10月9日までに10億ユーロ以上を受け取っているが)、膨大な赤字に悩んでいることに違いは無い。2012年第2四半期のカタルーニャ州の公的債務は国内最大の22%(対GDP比:440億ユーロ)にまで膨らみ、公営の病院や学校、福祉施設での給料遅配が恒常化し、多くの反対と抵抗を押し切って緊縮政策と私営化が推し進められている。
 マス州政府は昨年から、マドリッド中央政府と分け合う税金の取り分を増やすための財政協定の締結を最大の政治目標としてきた。もちろんだが、今年第2四半期に対GDP比75.9%(8040億ユーロ)の公的債務を抱える中央政府がそんな協定などすんなりと受け入れるわけは無いし、スペイン各地の自治州もカタルーニャの「身勝手さ」を非難した。おそらく州政府もそれを承知の上で、中央政府と対決するポーズとしてこの財政協定を掲げたもののように思える。

 そういった絶望的な経済状況の中で、昨年あたりから「分離独立」の声が今までになく盛り上がり始めた。経済危機が政治危機へと拡大することに何の不思議も無いのだが、この盛り上がりには異様さすら覚える。2011年の9月11日「ディアダ」では、黄色地に4本の赤線の入った巨大な「カタルーニャ国旗」【写真】がデモの中心を飾り「独立」への意欲が掻き立てられた。またサッカーの試合も「カタルーニャ独立」ムードを盛り上げるように演出された。
 今年5月25日にマドリッドのビセンテ・カルデロン球技場(アトゥレティコ・マドリッドの本拠地)で行われたスペイン国王杯の決勝戦は、同様にスペインからの分離独立の声が強いバスクの州都を本拠地とするアスレチック・ビルバオと、カタルーニャのFCバルセロナ(バルサ)との対決となった。この国営TVで全国中継されるゲームは、両州民の独立要求運動にとって格好の示威運動の場と化したのである。掲揚台に掲げられる1本を除いてスペイン国旗を目にすることはなく、会場はカタルーニャとバスクの国旗【写真】にあふれた。運悪く(運良く?)股関節を痛めて療養中の国王は欠席し、貴賓席には名代としてフェリペ皇太子が出席したのだが、試合前に流されたスペイン国歌は双方のファンからの猛烈なブーイングのために完全にかき消され、応援席の多くが皇太子に背中を向けた。FCバルセロナの応援席からは「独立!独立!」の大怒号が響き【ビデオ】バルサの旗と共に巨大はカタルーニャ国旗がつるされて【ビデオ】(このビデオではTV局の意図で国歌の音が大きくされているが)、サッカーの試合が政治運動の会場に一変したような印象すら受けた。
 このサッカー国王杯決勝でアスレチック・ビルバオとFCバルセロナが戦ったのは初めてではない。不況が深刻化の様相を見せ始める2009年5月13日に、バレンシアのメスタージャ球技場で行われた決勝戦もまた大荒れ状態となった。スペイン国歌の演奏をかき消す猛烈なブーイングの中で、貴賓席の国王夫妻に会場全体から「帰れ!帰れ!」の罵声が飛び、応援席にはわざわざ英語で「Catalonia is not Spain 」と書かれた横断幕【写真】が掲げられた。
 このような経過があるため、同じ組み合わせでしかも首都のマドリッドで行われることとなった2012年の国王杯決勝では、レアル・マドリッドが本拠地サンチアゴ・ベルナベウ球技場の使用を断り、マドリッド州知事だったエスペランサ・アギレが「決勝戦を中止させる!」と息巻いていた。そして先ほどのビデオにもあったが、両チームの応援席からは「エスペランサ!イハ・デ・プータ!(売春婦の娘:スペイン語で最大級の侮辱)」の罵声がとんだ。さらにカタルーニャ州議会選挙に向けて走り始めた10月7日に、FCバルセロナの本拠地カム・ノウで行われたバルサvsレアル・マドリッドのリーグ戦の試合では、会場全体が巨大な「カタルーニャ国旗(セニェーラ)」と化した【写真】

 もちろんサッカー・ゲームだけではなく他のあらゆる種類の行事を通して「独立」の気分が盛り上げられていったわけだが、その最も重要な演出が、2012年9月11日の「ディアダ」の日にバルセロナで行われた目を見張るようなデモンストレーションだった。ひょっとするとこれはスペインにとって文字通りの「911事件」だったのかもしれない。


独立要求「200万人」超巨大デモ 【小見出し一覧に戻る】

 筆者はいままでにこの国でいろんなデモを見てきたのだが、これほど巨大な規模で市街を埋め尽くしたデモは知らないし、おそらく今後も見ることはないだろう。主催者のカタルーニャ国民会議の発表によれば参加者は200万人である。これは少々大げさな数字かもしれない。このようなデモでは大概の場合、主催者発表の半分未満を考えておけば十分である。ところが、バルセロナ市警察による発表は、150万人という前代未聞の数字だったのだ。
 通常はデモ参加者を過小評価したい側が発表した数字を見て、主催者発表と足して2で割るくらいがちょうど良い。たとえば2003年のアスナール政権時に、スペインが先頭切って参加したイラク戦争反対の大デモがバルセロナで行われた。これはこの当時イラク戦争参加に反対していた社会労働党が政権をとるバルセロナ市の協賛という一種の「官製デモ」だった。このとき主催者はその参加者を100万人と主張したが、市警察の発表は50万人だった。ところがバルセロナにある中央政府機関の発表ではわずか17万人である。これにはさすがに笑ってしまった。
 では2012年9月11日のデモはどうだろうか。分離独立の動きを忌み嫌う中央政府機関の発表はなんと60万人である。たとえそうだったとしてもものすごい数字だ。最も過小評価したい側ですら前代未聞の「60万」を言わざるを得なかったのである。それほどに巨大な規模だったといえる。このようなデモの正確な参加人数を知ることは不可能だろうが、いちおう警察発表の150万人を最も近い数字と考えておこう。

 それにしてももすさまじい数だ。2011年のバルセロナ市の人口が赤ん坊から老人まで含めて160万人であり、ほとんどそれに匹敵する。もちろん参加者はバルセロナ市民だけではない。数千台のバスや自動車を連ね満員の列車に乗って、カタルーニャの各地から膨大な数の人々が集まってきた。バルセロナ市街地のアシャンプラ地区のあらゆる道路が巨大な「市営無料駐車場」と化した。その人々がデモコースに予定されたグランビア−グラシア交差点からライエタナ通を通ってシウタデージャ公園までの道路に入りきるはずもなく、北側のディアゴナル通から海岸の旧市街地まで、ありとあらゆる道路は黄色地に4本の赤線、青や黄色の三角形の中に星の印が入った「カタルーニャ国旗」を手にし、ドラムと民族楽器の音に合わせ「イン! インダ! インダパンデンシア(独立)!」と叫ぶ人々で埋め尽くされていた。その様子の一部は同日のエル・パイス紙が映像で伝えている(少し下がったところにある写真をクリックすればCMの後にビデオが続く)。
 ここでは数枚の写真でこのデモの様子をご覧いただこう。

「出発地点」とされたグランビア−グラシア交差点に続々と集まり始める人々。
エル・ペリオディコ紙より:写真Urlhttp://estaticos.elperiodico.com/resources/jpg/4/7/1347383204274.jpg


「出発地点」付近から、歩道も車道も埋め尽くしてデモコースに入る人々(撮影筆者)


ライエタナ通を埋め尽くす人々。「今こそ独立を!(INDEPENDENCIA JA!)」
エル・ペリオディコ紙より:写真Urlhttp://estaticos.elperiodico.com/resources/jpg/3/3/1347385113033.jpg


老いも若きも「独立(INDEPENDENCIA)」 (撮影筆者)


身動きならないほどの人々にあふれるライエタナ通(撮影筆者)


伝統の巨人人形(ジガン)が繰り出される(撮影筆者)


ワンちゃんまで国旗を背負う(なんだかおびえている…) (撮影筆者)

 このデモの巨大さはインターネット辞典ウイキペディアに独立した項目(これは英語版)として載せられるほどである。おそらく世界の歴史上最大級のデモとして記念されるべきものだろう。もちろんこのデモは州政府与党のCiUが呼びかけてカタルーニャ中から人々を動員した「官製デモ」に他ならない。そしてERCやCUPなどの他の独立党派も、CiUに主導権を取られてはならじとより積極的に参加を呼びかけたものだったが、それにしてもこの人数には圧倒される。
 9月13日のニューヨークタイムズ紙は、このデモに参加したバルセロナの医療機器メーカーPalex社長のシャビエル・カルボネイュの「独立によってスペインの他地域がカタルーニャ製品をボイコットするようなことがあっても、それは短期的リスクに過ぎない」という見解を紹介し、「カタルーニャの声を聞かないとすれば(スペイン政府は)ドラマチックな過ちを犯すことになるだろう」というバルセロナ経済サークルを率いるジョルディ・アルベリックの言葉を伝える形で、このデモを紹介している。また英国のファイナンシャル・タイムズ紙は「ラホイ首相がカタルーニャに何らかの歩み寄りを見せなければこの地域の独立を止めることができなくなる」と注意を促した
 またこの独立運動では「ヨーロッパの新国家カタルーニャ」が強く打ち出されている。カタルーニャは、スペインから独立することで欧州の中に大きな存在感を示すだろうという期待が込められているようだ。しかし、世界は人の期待や情熱だけで動くようなものではない。カタルーニャ中を突き動かした「独立熱」がその後どうなっていくのかを、順を追って見ていくことにしたい。


率の悪い大博打?2年早い州議会選挙 【小見出し一覧に戻る】

 私はこの巨大デモの熱気の中で、カタルーニャ人の「民族自立」に向けた情熱の激しい盛り上がりに感動を覚えつつ、何かしらそこに、ある種の危うさと不安を感じざるを得なかった。昨年バルセロナではあの「15M(キンセ・デ・エメ)」を中心とした大衆運動が巻き起こり、また公的教育や医療の切り捨てに怒る労働組合の激しい抵抗が打ち続いている。そして失業と貧困が深刻化する中、人々の意識は、一般の下層大衆とそれを食いものにして肥え太る巨大資本との「上下関係」に向けられていった。それは、民族や文化の間の違いを超える性質のものであり、先達のジョルディ・プジョルと同様に地元のブルジョア・地主を代表するアルトゥール・マスは、中央政府と同じく警察権力を動員してその運動を潰そうとしているのだ。
 そのマスの州政府は救い様のない財政難の中で厳しい緊縮策を採らざるを得ず、多くのカタルーニャ州住民の怨嗟の的となりつつある。自分の党と州政府の崩壊を防ぐために、過半数の住民が無条件に支持を与える「独立」を持ち出して民衆の怒りの矛先をマドリッドに向け、財政協定を中央政府に飲ませる圧力として使う手が十分に考えられる。昨年来の不自然なまでに盛り上がる「独立熱」が、CiUの州政府とその同調者によって意図的に掻き立てられてきたことは誰の目にも明らかだった。
 ところが
マスはこの巨大デモの後で「もし財政協定が結べないのなら、カタルーニャの自立に向かう道が開くだろう」と語った。このマスの発言は政治家として3流であろう。単なる子どもの喧嘩での脅し文句に過ぎないのだ。(もっとも、アジアの東の果てにこれ以上の「子どもの喧嘩」を近隣の大国に向かって仕掛ける政治家がいるようだが…。)厳しい事実を突きつけつつ「おいしい話」をちらつかせながら粘り強い駆け引きと交渉を行おうとする態度ではない。しょせんはボンボン育ち、田舎ブルジョアの御曹司に過ぎない彼にそれを求めるのは無理かもしれないが、「独立」「民族自立」などという言葉は最後に出せばよいものであり、黙ってその恐怖感だけを与えておけば済む話だ。マドリッドの政治家と官僚たちはもう何百年も昔からそんなことはわかっているのである。こんなときに出すべき言葉ではない。
 しかもカタルーニャ人たちは、プジョールらが率いてきたこの右派政党が、「民族主義」を標榜しながら実際にはマドリッドの支配層と馴れ合い、利益誘導で農村部を支配しながら独立運動を抑えてきた歴史を知っている。彼らが本気で「独立」を語るわけがないのだ。それならそれで、せめて経済的な優位さを確保するために民衆の怒りを上手に利用すればよいのである。

 そして9月20日のニュースがカタルーニャ人の多くを唖然とさせた。11日の巨大デモで民衆の独立への熱意を確認したマスが、スペイン首相のマリアノ・ラホイと会談するためにマドリッドに赴いたのだが、わずか2時間の会談を終えた彼の口から出てきた言葉が「州議会選挙を2年前倒しで実施する」というものだったからだ。
 自ら推し進めてきた財政協定締結の方針をあっさりと投げ捨てたばかりではない。会談後にラホイはマスが「独立」についても「独自国家」についても全く語らなかったと言った。マスは民衆の「独立」への情熱を中央政府への圧力としてすら使おうとしなかったのである。おそらく彼の「財政協定」が多くの欠陥を含んだ見せかけに過ぎずそれを推し進めることが不可能なことを彼自身が知っていたのだろう。選挙は11月25日に行われると発表され、彼のCiUはその会談後にさっさと選挙準備に取り掛かった。最初からその筋書きだったのである。それにしても彼は、2012年中に州議会選挙を行って多数派を確保できると本気で考えていたのだろうか。

 ほとんどのカタルーニャ人が「独立」「民族自立」といった言葉に非常に敏感に反応することは事実である。この地域はそれほど十分に中央政府からの邪険な扱いを耐え忍んできた。単に「稼ぎのうわまえ」をはねられるだけではない。たとえばカタルーニャに外国企業を誘致しようとしてもマドリッド官僚がだらだらとその認可を遅らせる、私営化する予定の空港に州政府が株主として参入することを妨害するなど、日常茶飯事なのである。もちろんスペイン他地域の人間自体を憎んでいるわけも無いのだが、マドリッド中央政府に対する敵意はもう「無前提の常識」にすらなっている。
 だからと言って州民はCiUの語る「独立」を無条件に信じるほどお人よしでもない。選挙結果を見れば明らかだろうが、彼らの多くは州政府の正体を見抜いていた。マスは「カタルーニャ国家」がスペインに「さよなら」を告げるものではないと語り、国民党中央政府に対する腰の引けた姿勢を隠そうとしなかったのだ。彼らがこれで州議会選挙を勝ち抜けると本気で考えていたのだろうか? 博打にしては率が悪すぎるように思える。(もっとも、アジアの東の果てにある世界第3位の経済大国では、CiU以上に率の悪い博打を打って自爆した間抜け政権党もあったようだ。)


鍵を握るのはEUなのだが… 【小見出し一覧に戻る】

 当たり前のことだが、一口で「独立」と言っても一筋縄では片付かない問題が山積みである。既存の国家からの分離独立はその国家にとって存亡の危機であり、政治・経済的手段ばかりではなく、軍と警察とプロパガンダのあらゆる機能を使って国家を防衛しようとするのが当然である。実際に大手マスコミのほとんどが独立運動を警戒し、軍の幹部とOBはカタルーニャの情勢に神経を尖らせている。現実的にはスペイン国家が法的・軍事的・情報的にハナから勝ち目が無いほどの強大な外国の力が必要となるだろう。たとえば、米国とNATO、麻薬ルートを支配する闇権力と世界のマスコミから強力な支援を得て、戦闘の果てにセルビア(旧ユーゴスラビア)から「分離独立」を果たしたコソボのようにである。自治州知事のマスは10月31日にカタルーニャをそのコソボと比較したのだが、彼が本気だとすればお笑いであろう。
 もしここでその「強大な外圧」の可能性として考えられるものがあるとすれば、それはEUとユーログループということになる。実際上、カタルーニャ独立問題を最終的に決定できる要素は、カタルーニャ自身にでもスペインにでもなく、ブリュッセルにあるといえよう。そのEU委員会では、9月11日の独立要求デモを受けて、EU本部のオリバー・ベイリー報道官が「もしカタルーニャが独立すればEUからは除外され、新たに加盟を申請して承認を受ける必要がある」という見解を発表した。そしてEU本部は現在までこの態度を変えていない。しかしこれは法的にも当然と思える筋道であり、1加盟国の1州でしかないカタルーニャが文句を言える筋合いのものではない。
 また「独立後」にもし加盟を申請したとしても、当然のようにスペインの反対があり、さらに自らの国に分離独立の火種を抱えるベルギーや英国なども反対に回る可能性が高いため、残念ながら「カタルーニャ共和国」がEUに加盟することは半永久的に不可能となるだろう。EU「大統領」であるヘルマン・ロンパイ自身、2011年に作られたビデオの中でスコットランドやフランダースの分離独立問題に触れ「分離主義は過去のものだ」と極めて否定的な見解を示している。
 またカタルーニャは経済不況の始まった2007年から2010年にかけてEUからの援助を70億ユーロ(約7000億円)分も受け取っている。これは欧州地域振興基金(ERDF)や欧州社会基金(ESF)などの組織を通してのものだが、こういった援助が1年でも途切れるならカタルーニャ経済はたちまち崩壊するに違いない。
 もっと面倒な問題がそれに加わる。カタルーニャを失うスペイン各地は間違いなくカタルーニャ・ボイコットを実行するだろう。カタルーニャ製品はスペインの市場を失い、他の欧州諸国からは関税の壁に阻まれ、自慢の産業が壊滅的な大打撃を受けることになる。人的な移動にしても、今までは何の不便も無く往復できたスペインの各地が「外国」となり、国境検問所が置かれ、移動するたびに「カタルーニャ共和国」発行のパスポートを見せなければならなくなる。もしスペインがカタルーニャを新国家として認めない場合はそれすらも不可能となり、いまスペイン各地に親族や友人を持つ人々は大変な苦悩にさらされることになろう。ちょうど韓国と北朝鮮の人々のようにである。

 カタルーニャ人が「独立」の成果を味わうことのできる唯一の道があるとすれば、まずEUおよびユーログループによる経済的・政治的・軍事的そして情報面での無条件の全面的なバックアップであり、同時に、領土と国民と経済活動領域に関するスペインの国家としての機能が実質的に解体されることだろう。しかしこれは誰がどう考えてもありえない話だ。
 もちろんのことだが、EUの態度を最も気にし不安を感じているのはカタルーニャ人自身だ。独立派の見解を紹介することの多い地元紙エル・ペリオディコが11月3日に行った調査によると、「あなたはカタルーニャがスペインの一部であることを望みますか?それとも独立国家になることを望みますか?」という質問に、前者が36.9%だったのに対して後者は50.9%と過半数を超えた。ところが「もし独立国家がEUを去らねばならないとしたらどうですか?」という質問を受けると、独立反対が47.8%に増え逆に賛成派は40.1%と、逆転してしまったのである。
 州政府もこの州民の不安はよく知っており、マスは「独立カタルーニャがEUに留まれるか否かは誰にも分からない」と語る一方で、ブリュッセルに対して独立の計画を説明すると約束し、あくまで「EU内部での独立カタルーニャ」を強調して主権の獲得に向けてのEUの助力を要請した。しかし現在のところ、「EU内での独立」を可能にする道筋は見えてこない。

 ただほんの少しだけだが気になる点がある。欧州委員会が加盟国からの分離独立問題に関する委員会としての法的解釈をいまだに公式な形では宣言していないことである。どうやらカタルーニャ州政府もこの点を指摘して彼らの夢をつないでいるようだ。加えて引っかかることを言えば、アムネスティやヒューメイン・ソサエティなどの人権・動物愛護団体が利用し国際的に大きな影響力を持つ米国のウエッブサイトChange.orgが、欧州議会に「カタルーニャの権利を尊重するように」働きかけている点である。私は、同種の「人権団体」などが深く関わる「カラー革命」や「アラブの春」などの国際的な動乱を冷ややかに眺めてきたため、この種のサイトには常にいかがわしさを覚える。また関連があるかどうか知らないが、ニューヨークタイムズやBBCなどの英米の報道機関がやけにこの「分離独立」に肩入れしているように見えることもまた私の注意を引く。
 単にこのような機関が格好をつけるために「分離独立」に悪乗りしているだけかも知れず、さしたる意味は無いのかもしれない。しかし、すっかり熱くなっている州民たちはともかく、あの、利害にさとい割にはとうてい政治力にあふれるとは言い難い州政府幹部たちが、やけに大げさで自信たっぷりに「独立」を語っているのを見ると、何らかの強大な力がその背後に隠れているのではないか、などと、ついついあらぬことでも疑ってみたくなる。


 実を言えば私はこの間首をひねりっぱなしだった。中央にせよ地方にせよ、この国の政治家がおおよそ「政治家」とは言い難く、単なる利権屋のゴロツキか、さもなければ無能で先見えのしない理屈屋に過ぎないことは十分に知っている。要するに「国家と社会の基本デザイン」ができないのだ。それは20世紀末から10年間の経済バブルおよびそれへの対応を見るだけで簡単に知ることができる。それにしてもこのようなカタルーニャ州政府の動きの馬鹿馬鹿しさは、単に指導部の不明さを表すにしてはあまりにも不自然に思えたのである。
 しかしその不自然さをますます不自然に引き立てたのがマドリッドの中央政府の対応だった。
 彼らにしても、カタルーニャ州民が最もこだわる「EU内に留まったままの独立」という要求の虫の良さをよく知っているわけだから、「独立したらどうなるのか」について、落ち着いた調子で具体的に分かりやすいプロパガンダを繰り返せばよいだけではないのか。またスペイン各地にいる親族や友人たちと「国境線」によって隔てられるという最も身近な恐れを掻きたて続けるだけで、十分にその要求をひるませ萎縮させることが可能だったはずである。ところが中央政府のとった方法は、燃え盛る火に無遠慮にガソリンをぶっかけるようなものだった。
(以上、2012年12月27日 バルセロナにて 童子丸開)

「カタルーニャ独立」を追うAに続く】


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