まず言語の復権である。日常の話し言葉としてはともかく公的な使用を禁止され文章用語としては打ち捨てられていたカタルーニャ語が詩人のカルラス・アリバウ(Carles
Aribau)、ビクトル・バルダゲー(Victor Verdaguer)、ジュアン・マラガィュ(Joan
Maragall)などによって高らかにうたわれた。なお、このジュアン・マラガィュは後にバルセロナ市長、カタルーニャ州知事、スペイン国会議員となるパスクァル・マラガィュ
の祖父である。(2008年現在、マラガィュ氏はアルツハイマーと闘病中。)またカタルーニャの独立と主権を主張するカトリック僧で哲学者のジャウマ・バルマス(Jaume
Balmes)も登場した。
次に音楽である。ジュゼップ・クラベー(Josep A. Clavé)はカタルーニャの貧しい労働者や農民達が少しでも人間らしい生活を送れるようにと、カタルーニャ語の詩とメロディーで歌う合唱運動を広めていった。この運動は現在、カタルーニャ音楽堂を本拠地とするウルフェオー・カタラー(Orfeó Català)に引き継がれているとされるが、しかしこの現在の合唱団の主体は豊かな中産階級であり19世紀のものとは異なる。またオペラやコンサートの活動も盛んになり、リセウ劇場はイタリア・オペラを楽しむ資本家や中産市民の家族で満員になった。またカタルーニャはアルベニスやグラナドス、ギタリストで作曲家のソルやタレガの出身地であり、チェロの巨匠パウ・カザルス(Pau Casals
:日本ではパブロ・カサルスと呼ばれる)などの世界的に有名な音楽家の出身地でもある。
さらに、市民の有志や知識人から構成された野外調査委員会が、カタルーニャの山間部の隅々にまで入って行き、荒れ放題になっていた中世の教会や建造物を調査・補修し、埋もれていた風俗・習慣や民間芸能にも光を当てていった。その作業は建築家、画家、彫刻かなどの造形の専門家にも引き継がれ、その流れの中から19世紀後半にドゥメネク・イ・ムンタネー(Domenech i Montaner)、プッチ・イ・カダファルク(Puig i
Cadafalch)、アントニ・ガウディなどの優れた建築家が輩出することとなる。
ところで、バルセロナの旧市街地に「4匹の猫(Els Cuatra
Gats)」という奇妙な名前のバル(喫茶店)があった。現在もあるのだが、これは一時期なくなっていたものを復活させたものである。ここには20世紀の始めごろに多くの芸術家志望者が出入りしたことで有名だが、その中からパブロ・ピカソ(Pabro
Picasso)という名の若い天才画家が登場した。彼はカタルーニャ出身ではなくアンダルシアのマラガ生まれだが、青春の最も大切な時期をバルセロナで過ごした。(なお、このPicassoという名前だが、本来はPicasoだったはずだがこれではカタルーニャ語では「ピカゾ」と濁って発音されてしまう。おそらく本人がカタルーニャ人に発音しやすいようにsを二つ重ねたのだろう。)ピカソが世界を驚愕させた作品が「アビニョンの娘たち」
であるが、このアビニョンはフランスのそれではない。バルセロナ旧市街地にあるアビニョー(Avinyó)通にあった娼婦宿の娼婦達を描いたものである。
またジュアン・ミロー(Joan Miró:日本ではホアン・ミロ)は港に近い旧市街に生まれ育った。さらにフランス国境に近い田舎町フィゲラスはサルバドール・ダリー(Sarvador Dalí)の出身地だ。さらにフランス領カタルーニャからは20世紀前半の代表的彫刻家・画家アリスティッド・マィヨールが出ている。カタルーニャは、決して誇張ではなく、20世紀に世界の芸術を生んだ場所である。
しかし何といってもバルセロナを輝かせているのはムダルニズマ(Modrenisme)と呼ばれる19世紀後半から20世紀初期の建築家達の作品だろう。ムダルニズマというカタルーニャ語は英語のモダニズム、つまり近代主義に当たる言葉なのだが、他の国のモダニズムとは全く異なる性格を持っている。そもそも近代の世界にとって中世という時代は古臭く打ち捨てる以外には無いもの、もっと言えば断じて両立できない「敵」である。ところがムダルニズマの建築家達にとっては中世はイマジネーションの宝庫だった。彼らはカタルーニャ民族主義を高揚し資本家達をパトロンにして活躍した。
彼らは概してサルダーの設計したラシャンプラの街並みを憎み、その普遍性と無個性さに抗議し挑戦するように正方形の区画とその周辺に次々と個性的な作品を設計した。ガウディーのカザ・ミラ(Casa Mira:地元ではラ・ペドレラLa Pedreraと呼ばれる)、グエイュ公園(Parc Guell:日本ではグエル〜)カザ・バッリョー(Casa Batlló:日本ではバトリョ)、未完のサグラダ・ファミリア聖堂(Catedral de Sagrada Familia)。ムンタネーのサンタ・クレウ・イ・サン・パウ病院(Hospital de Santa Creu i Sant Pau:現役の病院として使われている)、カタルーニャ音楽堂(Palau de la Música Catalana)、カダファルクのカザ・タラダス(Casa Tarrades)、カザ・アマッリェー(Casa Amatller)などのムダルニズマの建築物は、バルセロナをまさに「魔法の街」にしている。
それらは彼ら建築家の作品であると同時に、レンガ積み、石組み、タイル貼り、ガラス加工、金属加工などの中世以来のバルセロナの産業を支えてきた無数の優れた職人達の「わざの記念碑」でもある。一つ一つの作品を単独に取り出してみると個性的という以上に奇抜でけばけばしくさえ見えるのかもしれないが、しかしバルセロナの市街地に置いてみたときには、何の違和感も無く太古の昔から自然にそこにあるかのように思える。強烈で挑戦的な個性が、無個性と普遍性の権化のようなサルダーのラシャンプラに静かに包み込まれているようだ。
またラシャンプラではないがムンジュイック(Montjuïc)の丘のふもとにカダファルク設計の紡績工場の建物が残されている。フランコ独裁時代に取り壊す費用すら惜しんでほったらかしにされていたものを、地元の金融機関の出資で改修され美術館として蘇っているのだ。工場といっても、幾何立体の建物を見慣れている我々の目からは、大小の個性的な屋根が突き出し方々に見事な装飾を施した魔法の館のような赤レンガの建物である。その美術館の正面玄関は日本の建築家である磯崎新氏が設計している。
しかし経済不況がたたって、彼らの運動は1910年代には勢いを無くしてしまった。1929年にはムンジュイックの丘のふもとで第2回目の万国博が開かれ、今も観光客を呼ぶスペイン村(Poble Espanyol)、ロマネスクとゴシックの美術を集めたカタルーニャ美術館
などが建設されたが、カタルーニャとバルセロナの運命は再び大きく揺れようとしていた。