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カタルーニャとバルセロナの歴史概観B
                                             童子丸 開
※ 文中の、人名や地名、建築物名などはスペイン語とカタルーニャ語の発音に近づけて表記しており、いくつかには綴りを添えている。

(4)近代:飛躍と開花

 19世紀になって蒸気機関の導入によって本格化したカタルーニャの産業革命は、資本主義の初期にはどの国でも見られたことだが、農村の没落と都市への大量の人口流入を加速していった。そしてブルボン王朝の庇護の下で財力を蓄えた産業資本家達は、没落農民とその子孫である労働者達を情け容赦なく搾取した。彼らの中にはアメリカ大陸で、カスティーリャ人と同様に、あるいはもっと残酷に奴隷を売買しこき使って成り上がり、そこで得た莫大な資金をカタルーニャの工場経営に投資する者も多かった。またそれらの資本家達は大金をマドリッの王家に献上して次々と貴族の地位を買いあさった。後にアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí)のパトロンとなるグエイュ(Guell)侯爵家などはその代表例である。
 彼らにとってバルセロナの労働者も植民地の奴隷も一緒だった。労働者達にはおよそ人間らしい生活が許されず、劣悪極まりない環境の元で1日に12時間から16時間にも及ぶ激しい労働でやっとギリギリ生きていける薄給を手にし、女性や子供達はもっと安い給料で使い捨てられた。これも資本主義の初期にはどこでも共通の現象であるし、現在の欧米の経済支配下にある中南米やアフリカ東南アジアなどではどこにでも見られる現象である。
 必然的に労働者と一部の知識人たちが、人間の血の最後の一滴まで搾り取ろうとする資本家と、彼らを保護するカトリック教会や絶対主義の政府に対して怒りを爆発させ、城壁内に閉じ込められたバルセロナでは自然発生的な暴動が打ち続いた。やがてそれは過激なアナーキズム運動へとまとまっていき、計画的なテロ活動が活発になった。特にカトリック教会は憎悪の対象となり、何度も激しい破壊と焼打ちを受けた。
 以後、20世紀の初期まで、工業化を本格化させて華々しい発展を遂げていくバルセロナと、暴動、爆弾テロ、そして政府軍による野蛮な弾圧の打ち続く危険なバルセロナの、「二つの顔」が同時並行的に存在することとなる。

 当時のバルセロナ市の敷地は現在の旧市街地の部分のみであり、マドリッ政府はそれを取り囲む城壁の撤去要請を拒み続けていた。この反抗的な都市が拡大し強力になることを恐れたからだ。そのわずかな面積に20万人以上の人間が詰め込まれていた。特に貧しい労働者達の住むラバル地区の住環境の悪さは言語を絶するものであった。縦に積み上げただけの粗悪な集合住宅がビッシリと立ち並び、日も当たらず風も通らない、1家族とネズミが同居する寒く暗い部屋、汚水と煙の臭いで満ちた路地には常に疫病と欲求不満が充満する。病死や栄養不良はもちろん暴動と殺人が日常茶飯事だった。
 このままではこれ以上の経済発展が望めなくなるという危機感を持った資本家達と市当局による粘り強い交渉の結果、ようやくマドリッ政府が壁の撤去と市街地の拡張を許可したのは1854年のことだった。そしてその15年後には壁と共に市民の憎悪の的となっていたシウタデーリャ城砦の取り壊しと跡地の公園化も決定された。
 このラバル地区の住環境を調査して危機感を抱いた一人に、新市街地のプランを立てた
イルデフォンス・サルダー(Ildefons Cerdà)がいた。彼は理想論的な社会主義者であり、人間が平等で健康的な生活が出来るようにと、格子状の幅広い道路に囲まれた1辺が110mほどの正方形の区画の中に高さ制限の設けられた集合住宅の間に公園化される十分な空間(リンクの図で茶色の部分が集合住宅敷地、緑の部分が公園)を確保した画期的な都市計画を練った。それはまさに無個性の権化のようなモジュールであり、条件さえ許せばそのまま世界の果てまでも広げることが可能とすら思えるものである。当時としては不似合いに広い道路には公共の交通機関として鉄道を引き、それが曲がりやすいように正方形の区画の角は大きく削られた。
 大きな広場を中心に放射状の道路を作りその個性を強力に打ち出したいバルセロナ市はこのプランを退けた。ところが、理由は定かではないが、マドリッ政府はこのサルダーのプランを採用するように命令し、ラシャンプラ(L'Eixampre:定冠詞を取って「アシャンプラ」ということもある)、つまり拡張市街地が建設されることとなった。現在でも「マドリッに押し付けられた」この地区の形状を嫌う人がいる。確かに
どこを見ても正方形の碁盤の目であり、よほど慣れない限りどこに行っても同じ風景のように見えてしまい、一つ間違えば西も東もわからなくなって延々とうろつく羽目になる。またこの街にはいわゆる都心が存在しない。ほとんどの集合住宅は低い階が商店やレストラン、オフィスなどであり上の方に市民の住居がある 。さらにそれに混じって公的な機関のオフィスなどがあるのだ。商業地域、行政地域、居住地域がどこでも一つの区域の中で渾然一体となっており、全体としてまさに無個性の権化のような都市といえる。
 しかし馬車全盛の時代である当時としては驚異的なことだが、市街地すべてを縦横に走る歩道も含めて20mもあるゆったりした道路の配置は、後の自動車時代を迎えて大いにその威力を発揮することとなる。現在ではそれでも足りずに渋滞がよく起こるのだが、もし当時の市のプランどおりだったらバルセロナはとうの昔に窒息していただろう。また、かなり無視されているとはいえやはり集合住宅の高さ制限は生きており、道を歩いていても周りから押さえつけられる息苦しさは感じられない。正方形の角を大きく切った広い十字路は、確かに2重駐車、3重駐車の天国だが、ふと見上げたときに目に入る広い空は住む人の心に大きなゆとりを与えるものである。またこの「中心の無い構図」が逆にその中に住む人の心にある種の開放感と自由を与えるのかもしれない。ユーロ導入以来、物価が非常に上がり生活しにくくはなったが、やはりこの街が人に与える自由の感覚は何にも代えがたいものだ。
 ただ実際には利益に群がる土地開発業者と賄賂でどうにでも動く役人のせいで、道路の形状を除いてサルダーの理想はほとんど無視され、集合住宅で超過密状態の市街地となってしまった。しかしそれでもなお、この地区は最もバルセロナらしい個性と魅力に溢れた街だと言えるだろう。
 現在バルセロナ市はこのラシャンプラ地域の景観の保存を義務付けており、スペイン内戦以前の歴史を持つ建物を改装する場合は大変なことになる。古い建物を壊して丸ごと作り換えることが許されないために、装飾つきの外壁はそのままに保存してその内側だけを壊して作り変えなければならないのだ。そのような困難な工事の専門業者も多くいて、いかなる効率性を無視してでも(そもそもスペイン人には効率という感覚が非常に薄いのだが)頑固なまでに歴史を保存しようとする姿勢はまさに驚嘆すべきものだ。

  下の写真で、黄色い線で囲まれた部分が旧市街地である。かつてジャウマ2世の城壁で囲まれ、スペイン王位継承戦争の後にマドリッ政府による壁に封じ込められた部分。



(5)カタルーニャ・ルネサンス

 1888年には城砦跡に作られたシウタデーリャ公演で万国博覧会が開催された。規模こそ小さかったのだが、世界がバルセロナの存在に注目し始める重要なきっかけとなった。この時期のカタルーニャを最も特徴付けるのはラナシャンサ(reneixança)つまりルネサンスという文化運動である。もちろんだがこれは中世の終りにイタリアなどで発生したルネサンスとは全く別物である。ルネサンスが中世を否定して古代ギリシャやローマの合理的精神を再生させることを意味したのに対し、このラナシャンサは栄光に満ちた中世を再評価することを通して近代化を進めようという、一見すると矛盾とも思える運動である。
 これは当時の欧州各地で広がったナショナリズム運動のカタルーニャ・バージョンといってよいだろうが、その推進者は主にマドリッの中央集権主義を憎みながら経済的な実力をつけてきた中産階級であり、この文化運動こそがバルセロナを世界で最も特異な都市の一つにしていく原動力になったのだ。

 まず言語の復権である。日常の話し言葉としてはともかく公的な使用を禁止され文章用語としては打ち捨てられていたカタルーニャ語が詩人のカルラス・アリバウ(Carles Aribau)、ビクトル・バルダゲー(Victor Verdaguer)、ジュアン・マラガィュ(Joan Maragall)などによって高らかにうたわれた。なお、このジュアン・マラガィュは後にバルセロナ市長、カタルーニャ州知事、スペイン国会議員となる
パスクァル・マラガィュ の祖父である。(2008年現在、マラガィュ氏はアルツハイマーと闘病中。)またカタルーニャの独立と主権を主張するカトリック僧で哲学者のジャウマ・バルマス(Jaume Balmes)も登場した。
 次に音楽である。ジュゼップ・クラベー(Josep A. Clavé)はカタルーニャの貧しい労働者や農民達が少しでも人間らしい生活を送れるようにと、カタルーニャ語の詩とメロディーで歌う合唱運動を広めていった。この運動は現在、カタルーニャ音楽堂を本拠地とするウルフェオー・カタラー(Orfeó Català)に引き継がれているとされるが、しかしこの現在の合唱団の主体は豊かな中産階級であり19世紀のものとは異なる。またオペラやコンサートの活動も盛んになり、リセウ劇場はイタリア・オペラを楽しむ資本家や中産市民の家族で満員になった。またカタルーニャはアルベニスやグラナドス、ギタリストで作曲家のソルやタレガの出身地であり、チェロの巨匠
パウ・カザルス(Pau Casals :日本ではパブロ・カサルスと呼ばれる)などの世界的に有名な音楽家の出身地でもある。
 さらに、市民の有志や知識人から構成された野外調査委員会が、カタルーニャの山間部の隅々にまで入って行き、荒れ放題になっていた中世の教会や建造物を調査・補修し、埋もれていた風俗・習慣や民間芸能にも光を当てていった。その作業は建築家、画家、彫刻かなどの造形の専門家にも引き継がれ、その流れの中から19世紀後半に
ドゥメネク・イ・ムンタネー(Domenech i Montaner)、プッチ・イ・カダファルク(Puig i Cadafalch)、アントニ・ガウディなどの優れた建築家が輩出することとなる。
 ところで、バルセロナの旧市街地に「4匹の猫(Els Cuatra Gats)」という奇妙な名前のバル(喫茶店)があった。現在もあるのだが、これは一時期なくなっていたものを復活させたものである。ここには20世紀の始めごろに多くの芸術家志望者が出入りしたことで有名だが、その中から
パブロ・ピカソ(Pabro Picasso)という名の若い天才画家が登場した。彼はカタルーニャ出身ではなくアンダルシアのマラガ生まれだが、青春の最も大切な時期をバルセロナで過ごした。(なお、このPicassoという名前だが、本来はPicasoだったはずだがこれではカタルーニャ語では「ピカゾ」と濁って発音されてしまう。おそらく本人がカタルーニャ人に発音しやすいようにsを二つ重ねたのだろう。)ピカソが世界を驚愕させた作品が「アビニョンの娘たち」 であるが、このアビニョンはフランスのそれではない。バルセロナ旧市街地にあるアビニョー(Avinyó)通にあった娼婦宿の娼婦達を描いたものである。
 また
ジュアン・ミロー(Joan Miró:日本ではホアン・ミロ)は港に近い旧市街に生まれ育った。さらにフランス国境に近い田舎町フィゲラスはサルバドール・ダリー(Sarvador Dalí)の出身地だ。さらにフランス領カタルーニャからは20世紀前半の代表的彫刻家・画家アリスティッド・マィヨールが出ている。カタルーニャは、決して誇張ではなく、20世紀に世界の芸術を生んだ場所である。

 しかし何といってもバルセロナを輝かせているのはムダルニズマ(Modrenisme)と呼ばれる19世紀後半から20世紀初期の建築家達の作品だろう。ムダルニズマというカタルーニャ語は英語のモダニズム、つまり近代主義に当たる言葉なのだが、他の国のモダニズムとは全く異なる性格を持っている。そもそも近代の世界にとって中世という時代は古臭く打ち捨てる以外には無いもの、もっと言えば断じて両立できない「敵」である。ところがムダルニズマの建築家達にとっては中世はイマジネーションの宝庫だった。彼らはカタルーニャ民族主義を高揚し資本家達をパトロンにして活躍した。
 彼らは概してサルダーの設計したラシャンプラの街並みを憎み、その普遍性と無個性さに抗議し挑戦するように正方形の区画とその周辺に次々と個性的な作品を設計した。ガウディーの
カザ・ミラ(Casa Mira:地元ではラ・ペドレラLa Pedreraと呼ばれる)、グエイュ公園(Parc Guell:日本ではグエル〜)カザ・バッリョー(Casa Batlló:日本ではバトリョ)、未完のサグラダ・ファミリア聖堂(Catedral de Sagrada Familia)。ムンタネーのサンタ・クレウ・イ・サン・パウ病院(Hospital de Santa Creu i Sant Pau:現役の病院として使われている)、カタルーニャ音楽堂(Palau de la Música Catalana)、カダファルクのカザ・タラダス(Casa Tarrades)、カザ・アマッリェー(Casa Amatller)などのムダルニズマの建築物は、バルセロナをまさに「魔法の街」にしている。
 それらは彼ら建築家の作品であると同時に、レンガ積み、石組み、タイル貼り、ガラス加工、金属加工などの中世以来のバルセロナの産業を支えてきた無数の優れた職人達の「わざの記念碑」でもある。一つ一つの作品を単独に取り出してみると個性的という以上に奇抜でけばけばしくさえ見えるのかもしれないが、しかしバルセロナの市街地に置いてみたときには、何の違和感も無く太古の昔から自然にそこにあるかのように思える。強烈で挑戦的な個性が、無個性と普遍性の権化のようなサルダーのラシャンプラに静かに包み込まれているようだ。
 またラシャンプラではないがムンジュイック(Montjuïc)の丘のふもとに
カダファルク設計の紡績工場の建物が残されている。フランコ独裁時代に取り壊す費用すら惜しんでほったらかしにされていたものを、地元の金融機関の出資で改修され美術館として蘇っているのだ。工場といっても、幾何立体の建物を見慣れている我々の目からは、大小の個性的な屋根が突き出し方々に見事な装飾を施した魔法の館のような赤レンガの建物である。その美術館の正面玄関は日本の建築家である磯崎新氏が設計している。
 しかし経済不況がたたって、彼らの運動は1910年代には勢いを無くしてしまった。1929年にはムンジュイックの丘のふもとで第2回目の万国博が開かれ、今も観光客を呼ぶ
スペイン村(Poble Espanyol)、ロマネスクとゴシックの美術を集めたカタルーニャ美術館 などが建設されたが、カタルーニャとバルセロナの運命は再び大きく揺れようとしていた。


カタルーニャとバルセロナの歴史概観Cに続く

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