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カタルーニャとバルセロナの歴史概観A
                                             童子丸 開
※ 文中の、人名や地名、建築物名などはスペイン語とカタルーニャ語の発音に近づけて表記しており、いくつかには綴りを添えている。

(3)近代初期:没落とたび重なる受難

 バルセロナには16世紀から18世紀にかけての建物が非常に少ない。この事実はカタルーニャとバルセロナが味わわねばならなかった長い苦難の歴史を表すものである。

 15世紀前半にバルセロナ伯の家系が途絶え、西の大国カスティーリャ系統の王が跡を継ぐこととなった。もちろん当時の欧州では当たり前のことだったが、たび重なる政略結婚によって欧州の王族や有力貴族は「高貴な血のネットワーク」を形作っており、王位継承者がいなくなれば即刻血縁関係の強い家系がその国の王権を主張することになる。そしてカタルーニャの伝統的な議会制度や法律は、すでにイベリア半島の多くを手に入れ強力な王権を重視するカスティーリャ人たちから次第に疎まれるようになっていった。この時期からカタルーニャとバルセロナの運命に黒い影がさしはじめるようになったのだ。
 15世紀の黒死病の大流行で人口が大幅に減少し、大規模な内乱も発生、地中海の制海権もジェノバに脅かされていった。続いて15世紀後半、
カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンド2世 が結婚し、1479年のこの二つの大国は合併し新たにエスパーニャ王国が誕生したのである。
 その時代にはイベリア半島にあるイスラム支配地域はわずかにアンダルシア南部の
グラナダ王国を残すのみとなっていたのだが、合併によって強化されたキリスト教徒の軍勢の猛攻撃に耐えることができず、ついに1492年、優美な姿を今に伝えるアランブラ(アルハンブラ)宮殿 を残して滅亡することになる。そしてその直後にイサベルの命を受けたコロンブスが大西洋の対岸に到着した。そしてこのことが、スペインと世界の歴史を大きく変えることになったと同時に、カタルーニャの没落を決定的にしたのであった。

 イサベルとフェルナンドの両王は、アメリカ大陸からの富の略奪とその植民地化を推進すると同時に、それまでおおらかな関係を保ってキリスト教徒と共存していたイスラム教徒やユダヤ教徒に対する政策を変えることにした。これは彼らの豊かな財産を採り上げて逼迫していた国庫を潤し王権の強化にあてようとした面があるが、同時に、成り立ちも民族も様々なスペイン各地を単一の強力なイデオロギーによって統一し、国王中心の絶対主義国家の建設を目指していたのだろう。
 まず1492年にユダヤ教徒に対してキリスト教への改宗か、さもなければ全財産を没収して国外追放、という方針を決定した。 このときに約5万人が改宗し16万人が国外に追放されたと言われている。そして10年後にはイスラム教徒が同様の運命を味わうこととなった。そしてそれ以降、無残の極みを尽す異端審問の歴史が続くこととなる。
 しかしイサベルとフェルナンドは不幸なことに世継ぎに恵まれなかった。そこで両王の死後、オーストリアのハブスブルグ家に嫁いでいた娘フアナの子供である
カール5世(カルロス1世) が王権を継ぐこととなった。ところがカール5世はスペインにはほとんど住まずカスティーリャ語も話せず、神聖ローマ帝国を守るためプロテスタント勢力やオスマン帝国との戦いに明け暮れていた。彼はアメリカ大陸から略奪した富の多くを、スペインを素通りさせてウイーンやアムステルダムに集め、軍資金と帝国の運営に当てたのである。

 カタルーニャにとってこの歴史の変化はまさに災厄であった。アメリカの植民地との交易権はセビーリャが独占し、バルセロナには与えられなかった。このときにはすでに地中海の市場をほとんど失っていたバルセロナは為すすべも無かった。エスパーニャの歴代の王は、かつて地中海の雄であったカタルーニャが再び力を蓄えることを警戒したのかもしれない。
 以後、植民帝国スペインではカスティーリャの貴族、僧侶、大商人だけが羽振りを利かし、セビーリャや大西洋岸の港町カディス、新しく作られた首都マドリッ、古都トレドなどの大都市で、
ベラスケスムリリョエル・グレコ などの芸術家が華々しく活躍した。しかしその一方で大土地所有が進んで農民は没落し土地は荒れ果てていった。また時代の流れに取り残されたカタルーニャでは、バルセロナの手工業は健在だったが、他はその狭い土地と伝統的な制度にしがみついて細々と生きる以外に道が残されていなかったのだ。

 他のスペインの都市にはルネサンスやバロックの建築物が多く見られるし、ロマネスクやゴシックの教会にしても外形はともかく内部の祭壇や装飾はバロックやネオクラッシック様式、といった例が目立つ。しかしカタルーニャでは多くの教会が古い形式のままで捨て置かれ、バルセロナにもこの時期の建築物が非常に少ない。ただ現在の目から見ると、スペインの他の地域では失われた貴重な中世の記録が大量に保存されているわけであり、逆にその存在価値を高めているとも言える。
 また、これはカタルーニャ人の身びいき半分だろうが、地道に働きながら困難を耐え忍んだカタルーニャ人はカスティーリャ人のような怠惰で発展性の無い民族にはならなかった、という見方もある。たしかに自ら生産せず他の大陸から略奪したり奴隷をこき使って安易に利益を手に入れてばかりいると、怠惰で投機的な癖も付くことだろう。しかしそれは支配的な階層には言えても国民の大部分を占める貧しい下層民に言えることではあるまい。スペイン人を「労働嫌い」に追いやったのは、むしろ、農民に対するあまりにも過酷な収奪と貴族の大土地所有と極端に厳しい宗教的締め付けによって大衆から働く意欲すら奪い取ってしまった絶対王政のあり方に原因があるのではないか。
 事情は南部アンダルシアで特に激しかった。大土地所有者たちは外国に高い値段で売れるオリーブの生産にばかり熱中し、
見渡す限り続くオリーブのプランテーション を作り上げた。そして一般の農民達は収穫期にだけ雇われ給料をもらい、養豚場や貴族の畑などで雇われる一部の幸運な者を除いて、多くの農民にとって他の季節はエネルギーを浪費して飢え死にしないように日陰でじっとしている以外に無かったのだ。その悲惨さから逃れるようにアメリカ大陸に渡るものが相次いだが、それも旅費が工面できる幸運な者達だけだった。さんざんに搾り取られたうえに働く場すら持てない惨めな生活の中で、勤労意欲を持てと言う方が無理だろう。
 なお、スペイン南部の季節農業労働者は、現在はほとんどがモロッコなどの北アフリカ諸国や中南米からの出稼ぎ移民によって構成される。皮肉なことに彼らの先祖はかつてこの大地から追い出され、また悲惨さから逃れて新大陸に渡った者達である。この地平線まで続くオリーブ畑を、彼らはどんな目で見ているのだろうか。

 さて、カタルーニャではマドリッ政府とハブスブルグ王朝に対する不満が17世紀の前半についに爆発した。隣国フランスとの30年戦争のための過酷な徴兵と課税、カスティーリャ人兵士の蛮行に怒った農民の暴動が1630年に起こり、以後12年間にわたる「収穫人戦争」が始まったのである。現在のカタルーニャの歌(国歌と同じ「イムノ・ナシオナルhimno nacional」という言葉を使うのだが)はこのときに作られた詩を元にしているのだが、結果は悲惨だった。ハブスブルグ家と敵対するフランスは、最初はカタルーニャと同盟を組んでいたのだが、じきに手を引いたばかりか、ピレネー北部にあったカタルーニャの領地を奪い取って去って行ってしまった。そしてその後、バルセロナなどの都市は長い包囲戦に苦しめられ力尽きて降参した。
 勝利者のハブスブルグ家はカタルーニャの独自の議会制度と法律、言語などを奪い取ることはしなかった。彼らにしてみればおとなしく言うことを聞いてくれたらそれでよかったのだ。しかしこの戦争でフランスに奪われた北カタルーニャの土地はもはや二度ともどることはなかった。フランス南部にあるパルピニャン(Perpinyàn)はその失われたカタルーニャの主要都市である。

 そしてその半世紀ほど後のことだが、マドリッのハブスブルグ王家の血筋が途絶え、共に親戚筋に当たるウイーンのハブスブルグ家とパリのブルボン家がスペインとその植民地の支配をめぐって争った。有名な
スペイン王位継承戦争 である。マドリッはブルボン家を受け入れフェリーぺ5世が新国王となったのだが、王位奪還を図るハブスブルグ家は、同様にフランスを警戒するイギリスとオランダを味方につけて、1701年から13年間に渡って続く戦争を起こした。
 カタルーニャは今回はハブスブルグの側に付いた。旧政権がカタルーニャの独自の制度と地方特権を尊重していたためだが、前回の戦争で裏切ったうえに土地まで掠め取ったフランス人に対する警戒心もあっただろう。しかし今回もまた結果は同様だった。イギリスとオランダは途中でさっさと手を引き、オーストリアも大勢の決した時点で手を引いた。最後までマドリッ政府と対決するつもりのカタルーニャはあらゆるはしごをはずされ孤立無援となり、バルセロナは長い包囲戦の果てにあらゆる武器を失い城壁内の草まで食べつくして降伏せざるを得なかった。そしてその後の運命は前回よりもはるかにひどいものとなった。
 ブルボン王家とカスティーリャ人による報復は過酷を極め、容赦の無い投獄と処刑はもちろん、議会は廃止させられすべての地方特権と制度は奪い取られ、厳しい税が徴収された。バルセロナ大学は廃止の憂き目に遭い、一切の文書からカタルーニャ語が追放されてカスティーリャ語が強制された。さらに
バルセロナ市を囲むジャウマ2世の壁が補強され市の活動はその内部に封じ込まれた 。仕上げとして、市の北東部に巨大な城砦(シウタデーリャ:現在その跡地は公園となっている)が作られ、また南東部ムンジュイックの丘には常に大砲をバルセロナに向ける城が作られた。そこには常にカスティーリャ人兵士が駐屯し、逆らうものは容赦なくとらえて処刑した。以後、現在に至るまで、バルセロナとカタルーニャはマドリッとカスティーリャに対する恨みを片時も忘れたことが無い。

 ところで、絶対王政にとってまさに目の上のたんこぶであったこの最も頑強な「地方主義者」であるカタルーニャ人を屈服させたブルボン王朝は、カタルーニャを強制的にスペイン経済の中に組み込んで、絶対主義的統一国家としての形態を完成させた。
 ところがこのことが、実に皮肉なことなのだが、カタルーニャ復興の原因となっていくのだ。今までこの地方に閉じこもっていたカタルーニャ産のワインや綿織物などがスペインという広い市場を手に入れたのである。さらに18世紀の半ばにはアメリカ大陸との交易権がようやくバルセロナにも与えられ、これによって膨大な利益がもたらされることとなった。スペインの他の地域が大土地所有制による農村の疲弊と貪欲な貴族や教会の収奪、そして政治家の無能によって貧困にあえぐのを尻目に、バルセロナ付近は急速に工業化を進め大きな経済発展を見せていった。しかしこれもまた新たな不幸に見舞われることになる。

 フランス革命後の19世紀初頭に、フランスの皇帝となった
ナポレオンがイベリア半島を支配下に置くべく侵入を開始した。ゴヤの絵によって現在に伝えられる この侵略戦争は、スペイン全土を民衆のゲリーリャ(ゲリラ戦)とそれに対する残虐な報復の続く地獄へと変えてしまった。もちろんカタルーニャでも同様であり、各地で激しい抵抗と虐殺が繰り返され、ジロナ市は人口の半分が失われる大被害を受けた。ナポレオンというと「英雄」というイメージが強いが、スペインでは単なる侵略者、虐殺者の代名詞である。
 ナポレオン軍が去った後、バルセロナ周辺は再び産業の発達が開始されたのだが、人々の心は荒れすさび切っていた。 
 
 
カタルーニャとバルセロナの歴史概観Bに続く

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