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カタルーニャとバルセロナの歴史概観@
                                             童子丸 開
※ 文中の、人名や地名、建築物名などはスペイン語とカタルーニャ語の発音に近づけて表記しており、いくつかには綴りを添えている。

(1)古代〜中世初期:礎石は置かれた

 今から2500年前の古代イベリア半島には、南部にイベロ(Ibero)族、北部にケルト(Celta)族と呼ばれる種族が住んでいたが、両種族はかなり混血していたと言われる。ケルト族はゲルマン侵入以前にブリテンに住んでいた種族と近い関係にあり、ほとんど同種族としての共通点を持たない今日でも、スペイン北部のアストリアス州やガリシア州ではバグパイプ が民族楽器である。
 紀元前7世紀くらいからは地中海岸でカルタゴやギリシャなどの有力な海洋民族が都市を作った。現在のマラガ、カディス、カルタヘナなどの都市はカルタゴの町として作られたものである。しかしイベリア半島北東部のカタルーニャに存在する紀元前の主要な遺跡はフランス国境に近い
アンプリアス (エンポリエ)の古代ギリシャ遺跡くらいのもので、住民であったはずの古代イベロ族に関するデータは少ない。
 紀元前3世紀後半にカルタゴを退けて地中海の制海権を握った共和制古代ローマがイベリア半島南部一帯の支配を確立することになる。トレド、コルドバ、セビージャ(セビリヤ)、バレンシアなどの現在スペインの主要都市の多くがローマ時代にその基盤を置かれることとなった。そして紀元前後に初代皇帝
アウグストゥス によって帝国へと変化したローマは、このころまでに地下資源の豊富なイベリア半島のほとんどを領土にしていた。バルセロナ(Barcelona)の起源であるバルキノ(Barcino)が建設されたのもこの時期である。

 しかしそれは現在のような地中海の大都市としてではなく、イベリア東部からフランス南西部にかけて存在した
タラコネンシス州の、ローマの軍人が駐屯する小さな田舎町に過ぎなかった。タラコネンシス州の首都はタラコ、現在のタラゴナ市であり、ここには帝国の栄華を現在に伝える壮大な遺跡 が残されている。またジロナ(Girona:ヘロナ)、リェイダ(Lleida)、ビック(Vic)などのカタルーニャの主要都市や、各都市を結ぶ主要道路もほとんどがローマ起源である。たとえば現在のバルセロナ市にあるアウグスタ街道(Vía Augusta)は、当時のスペイン各地とローマを結ぶ幹線道路の跡をそのまま拡張し舗装したものである。
 このようなことはスペイン中どこででも見られるのだが、バルセロナでは非常に珍しいことに、馬蹄形をした古代の城壁の形がそのまま旧市街中心部に保存されている。ローマの卓越した建築技術で作られた
堅固な城壁は中世にもそのまま残り、人々が城壁に沿って家を作りそれを家の壁として利用したために、結果としてその形が道路や街並みにそっくり写し出される結果となった。バルセロナ旧市街地のゴシック地区と呼ばれる区域の地図を注意深く眺めてみると分かることだ。


 また現在ではカテドラルの付近に残される城壁の石組みや水道橋の跡の他に、旧市街中心部の地下に発見されたローマ時代の家や神殿の跡が歴史遺産として保存され、上の建物を崩さずに地下の遺跡をそのまま博物館にするという、奇抜だが合理的な発想の市立歴史博物館 となっている。

 ローマによる支配は、建築物だけではなく言語と宗教という人間生活の基本的な柱を確立させた。
 当時のローマの言語には2種類ある。一つは僧侶や貴族が使う「上ラテン語」、他は兵士や一般民衆の「俗ラテン語」である。このうち上ラテン語は、貴族や上級軍人が多く住んでいたイベリア半島南部〜中央部で定着し、現在のカスティーリャ語(スペイン語)の起源となった。それ以外のラテン系言語は俗ラテン語の流れだが、カタルーニャ語は中世の初期までイベリア半島の地中海岸から南フランス、北イタリアにかけて広く使われてきたオック語から分かれたものである(南フランスにあるラングドックは「オック語」という意味)。したがってカタルーニャ語はスペイン語よりもむしろフランス語やイタリア語に近い要素を多く持っており、「スペイン語とフランス語とイタリア語を足して3で割ったような言葉」という面白い言い方もある。
 また、古代の多神教の後に4世紀前半にローマの国教となったキリスト教がヨーロッパ一帯に定着し、カタルーニャもキリスト教化された。バルセロナでの最初の殉教者とされる
聖女アウラリア が現在も市の守護聖人となっている。

 そのローマも5世紀には滅亡の道をたどり、イベリア半島の大部分は
西ゴート族の王国 の領土となった。この一族は、4世紀から大移動を開始して西ローマ帝国を弱体化させ滅亡へと追いやったゲルマン族の一部である。荒々しいことで有名なゲルマンたちの中では比較的温厚でキリスト教も受け入れ、バルセロナは破壊を免れて一時的にだが西ゴート王国の首都となったこともある。
 そしてバルセロナなどの都市はこの王国に忠誠を誓い、比較的安定した時代が続くこととなった。西ゴート族は他のゲルマン所属と同様に技術や造形などの文化のレベルが低く、人数も少なかったために、すぐに土着の人々と同化してしまい言葉もほとんど失い、わずかの
キリスト教会 を除いてほとんどその目だった痕跡を残していない。
 ただ、ヨーロッパの他の地域と同様に、中世の封建的な社会関係の原形がこの時代に作られた。さらにゲルマン系統の貴族の子孫は西ゴート王国滅亡後もやはり支配階級の重要な部分を形作り続けた。そして8世紀の前半に、高度な文化水準と組織形態をもって
ジブラルタル海峡を渡ってきたイスラム教徒 によってその王国はいとも簡単に滅ぼされてしまう。


(2)中世中期〜後期:栄光の帝国


 バルセロナが重要な都市になったのはこのイスラムの侵入がきっかけである。イスラム勢力は711年にイベリア半島に上陸し、わずか8年ほどで北部海岸地方を除くイベリアのほぼ全域を席巻した。そしてその勢いでフランク王国、現在のフランスに攻め込んだのだが、さすがの彼らも北部トゥール・ポワティエの戦いに敗れ地中海岸まで退却せざるを得なかった。8世紀後半にはフランクのカール大帝 (シャルル・マニュ)がイベリア半島の征服を試み、ピレネー山脈地方に逃れたキリスト教徒の有力者に伯位を与えて従属させ、その領地を「ヒスパニア辺境」と呼んだ。
 バルセロナはおよそ80年間イスラム教徒に支配されたのだが、8世紀末ごろにキリスト教徒の手に落ち、攻防の最前線となった。現在もバルセロナ市の南側にあるリョブレガッ(Llobregat)川を挟んだ攻防戦がそれから長い間続くことになる。その間に、キリスト教徒の中でバルセロナ伯が最大の力を持つようになった。
 初期のバルセロナ伯の中で最も有名な者は「毛むくじゃら」とあだ名されカタルーニャ建国の祖として半ば伝説化された9世紀後半の
英雄ギフレッ(Guifrè )である。彼はピレネー東部地域の主導権を握り、その権力を強力にバルセロナに集めていった。そしてそのときには大国フランクは弱体化しており、ギフレッは支配地域をパリの王権から徐々に切り離し、バルセロナを首都とするバルセロナ伯国 が事実上形成された。その後この国は自力で南と西のイスラム教徒を退けながら領土を拡張し、現在のカタルーニャの元を作ると同時に、バルセロナの地位を確固たるものにしていった。そして勢いに乗って一時はフランス南部を占領するのだがこれはすぐに奪い返された。

 一方、イベリア半島北部カンタブリア山脈の北側にまで逃れたキリスト教徒貴族は
アストゥリアス王国を築いて満を持し、やがて徐々に南側に領地を広げていく。その中からカスティーリャレオン 、そしてポルトガルの各王国が生まれた。この3国の中ではカスティーリャが最も強力で、レオンを吸収して11世紀から14世紀にかけてイスラム勢力を南に退けていった。
 イベリア半島を支配していたイスラム勢力は主に北アフリカの様々な種族の混成であり、その内紛が、文化的・政治的なレベルの高さにも関わらずキリスト教徒勢力に押し戻されてしまった原因と言われる。しかしその領地の中では高度な技術と文化水準に基づいた独自の文明が栄え、キリスト教徒やユダヤ教徒たちはその信仰を変えることなくイスラム教徒と共存した。首都トレドの大学では大勢のキリスト教の僧侶がイスラムの学者と一緒にギリシャ哲学を学び、アリストテレスの合理主義がキリスト教に取り入れられていく流れを作った。
トレドセビリャコルドバなどの大都市ではその卓越した建築技術で今日でも観光の目玉となる数多くのイスラム建築 が建設された。
 元々から降雨量に乏しいイベリア半島だが、この高度な文明を支えたのがイスラムの優れた灌漑技術による農業だった。しかし新たに占領者となったカスティーリャのキリスト教貴族たちはその畑を潰し用水路を片っ端から壊し、牧草地にして羊を放った。彼らは外国に高く売れるメリノ羊の羊毛しか目に入らなかったのだ。そして羊が草を食い尽くした後には乾ききった土以外何も残らなかった。ドン・キホーテがさ迷う干からびたイベリアのメセタはこの大規模な農地破壊の結果ともいえる。
 後にアメリカ大陸に進出し先住者の帝国を破壊し滅亡させた者達の多くが、この荒廃した南部スペインの土地から逃げ出すように移住した人々だった。その残虐さで有名な
フランシスコ・ピサロ は、スペインでも最も荒廃の激しかった南西部エクストゥレマドゥーラの出身である。新大陸における彼らの文明破壊と先住民虐殺は、イベリア半島での文明破壊と農業破壊の延長だったのかもしれない。

 話をカタルーニャに戻そう。12世紀半ばのバルセロナ伯
ラモン・バランゲー(Ramon Berenguer)4世は、西隣にあったアラゴン王国 の王位継承者が途絶えたのを機会に、バルセロナ伯がアラゴン国王を兼任するという形でバルセロナとアラゴンを合併させた。1137年のことである。この国は日本ではアラゴン王国という名で知られるが、「カタルーニャ・アラゴン連合王国」と呼んでもよく、合併以来アラゴン国王は代々バルセロナ家が務めることになる。
 13世紀には「征服王」として名高い
ジャウマ(Jaume)1世 がバレンシアと地中海の要地バレアレス諸島を攻略し、西地中海の制海権を手に入れ、名目・実質共に南欧随一の強国として君臨することになる。ジャウマ1世は元々のローマの城壁を中心に広がっていたバルセロナを新たな大きな城壁で囲み市街地を拡張させた。現在の旧市街地であるゴシック地区、リベラ地区となっている部分がそうである。この国はさらに14世紀から15世紀にかけて、サルジーニャ島、シチリア島、南イタリアのナポリ王国を支配下に置き、一時はアテネを手にいてエジプトに進軍し、地中海の大帝国にまで発展したのである。
 アラゴン王国は地中海沿岸諸国だけではなく北欧諸国との貿易で繁栄し、当然ながらバルセロナはその首都として大いににぎわった。14世紀のジャウマ2世はバルセロナの城壁をさらに拡大し、現在のラバル地区に当たる部分にまで市街地を拡張し、帝国の首都としてふさわしい規模とした。そして市内の建物を当時の流行であったゴシック様式に作り変えた。
 13〜15世紀にかけて作られた建物は現在でも旧市街地に多く残っており、いつも観光客でにぎわっている。
カテドラルサンタ・マリア・ダル・マル(Santa Maria del Mar:海のサンタマリア)教会、サンタ・マリア・ダル・ピ(Santa Maria del Pi:松の木のサンタマリア)パドラルバス修道院(Monasteri de Pedralbes)などのカトリック建築は、広大な内部の空間と八角形の鐘楼が印象的なカタルーニャ・ゴシック様式である。また現在ピカソ美術館となっている建物は当時の大商人の屋敷の一つであり、ドラサナス(Drassanes)の造船所は現在は海洋博物館として使用されており、証券取引ロッジ(リョッチャ:Llotja)は改装されて現在の証券取引所の一部となっている。これらは中世バルセロナの地中海貿易による活気を今に伝える代表的な建築物であろう。またカタルーニャ自治州政府庁舎バルセロナ市庁舎 などもこの栄光の帝国の記念物となっている。
 
 やや残念なことに、この都市には10〜12世紀のロマネスク建築がほとんど残されていない。しかしカタルーニャの他の地域には古い時代の教会が数多く残され、現在でも現役の教会として使用されている。中でも北部ピレネー山麓の
リポイュ(Ripoll)サン・ジュアン・デ・ラス・アバデサス(San Joan de les Abadesses)ブイー渓谷(Vall de Voiなどには初期〜中期ロマネスクの素朴で堅牢で落ち着いた教会が多くみられる。特に世界遺産にもなっているブイー渓谷のロマネスク教会群はロマネスク壁画で有名であり、その逸品は保存のためにバルセロナのカタルーニャ美術館に移され、地元には模写が飾られている。中でもサン・クリメン・ダ・タウイゥ(Sant Climent de Taull)アプス(祭壇)のキリスト像サンタ・マリア・ダ・タウイュ(Santa Maria de Tau ll)アプス聖母子像は世界的に有名なものだ。そのほかに、南部タラゴナ付近のサンタス・クレウス(Santes Creus)プブレッ(Poblet) には13〜14世紀の後期ロマネスクの大規模な修道院が優美な姿を誇っている。
 また当時のカタルーニャではコルツと呼ばれる議会と慣習法によって国王の権限が規制され、首都バルセロナの百人委員会と呼ばれる市議会は貴族や僧侶と共に商人や職人などの市民の代表も含めた幅広い階層の人々から構成されていた。このような議会制度は「近代民主主義発祥の地」と言われるイギリスよりもはるか以前に作られていたものだった。
 さらにここでは、他の地域ほど大土地所有が進まず中世の欧州では普通だった農奴制があまり発達しなかった。またギルド制度に守られたバルセロナの手工業のレベルは高く、特に鉄製品の質はヨーロッパの中でも卓越していたという。また当時の世界では例外的に女性の権限も強く、財産相続の際の男女の平等を認める慣習法すら存在していた。
 しかしもちろんだが、他の地域ほどではないにしてもやはり貴族や教会による農民の支配は厳しく、バルセロナなどの都市では暴力事件や強盗が日常茶飯事であったうえに、疫病が常に市民を脅かした。またその商業と貿易の実力で国王に重宝され裕福な生活を送るユダヤ人に対する貧しい市民の反感が何度か騒乱や殺人を引き起こした。
 しかしこのような光と影を引きずりながらも、やはりバルセロナは地中海の大商業都市として君臨し続けたのだ。


カタルーニャとバルセロナの歴史概観Aに続く

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