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ガウディとバルセロナ
※ この文章は 2004 年 1 月 01 日に阿修羅サイトに投稿したものに、加筆・訂正を行ったものである。
http://www.asyura2.com/0311/war45/msg/757.html

¡Feliz Año Nuevo! (フェリス・アニョー・ヌエボ : スペイン語)
Bon Any Nou! (ボン・アニィ・ノウ : カタルーニャ語)
 ちっともめでたいという気分にはなれませんが、阿修羅投稿の皆様へ、とりあえず新年のご挨拶を申し上げます。「戦争版」には少々ふさわしからぬ投稿内容かも知れませんが。
 阿修羅への投稿を始めて、やっと少し『時の流れ』への感覚を取り戻し始めた気がします。さまざまなことを教えていただき、『時の流れ』への私の参加を受け入れてくださった阿修羅と投稿者の皆様に深く感謝いたします。
 何せ、スペインという国の中にいると『時の進み方』がなかなか感じられないわけで、例えばバルセロナには、あのコロンブスがスペイン国王夫妻に謁見した、と伝えられるアラゴン王宮があり、その前には現在はよく野外コンサートが開かれる「王の広場」があるのですが、その王宮の階段に座ってボンヤリと真っ青な空を眺めカテドラルの鐘の音を聞いていると、今にも500年前と同様の姿でコロンブスがやってくるような気すらしてきます。もっとも実際にやって来るのはスリとか引ったくりの類ですが。
 バルセロナのカテドラルは、13世紀末に建設され始めて一応屋根がふけたのが約120年後、そして現在の姿になったのがなんと19世紀になってから、ということで、なんとものんびりした建設なのですが、この国の建築はとにかく時間を考えないわけです。その「伝統」は現代にも生きていて、街中のちょっとしたビルを建てるのにも2,3年かけてゆっくりゆっくり作っていきますし、古い建物に新しくエレベーターを作る、という、日本なら1ヶ月以内でできそうな工事を半年以上かけてやります。前なんか、工事のオッサンが間違えてガス管をぶっ壊して、アパートの住民一同が早くガス管を取り替えるように散々ガス会社に文句を言ったのですが、ガスが再び通るまでに3週間もかかって、その間風呂にも入れずひどい目にあいました。
 スペイン人と待ち合わせをする際には1時間くらいの余裕を持っておくのが常識で、平気で遅れてやってきます。「8時、って言ったじゃないか!」「だから8時に家を出たんだよ!」「???」という漫才みたいな会話はしょっちゅうです。公的な書類や許認可証が出されるのに数ヶ月は待たねばならず、資格の正式な認定書など2,3年待つ必要があります。これについてスペインの友人に文句を言うと「まあそう言うな。これでもマシになったんだ。何せ昔は5年かかった。」(?!)もっともそれを待っている間は「現在、正式な認定書の発行を待っている」という『証明書』が認定書の代わりで通用するので、この国の中だけなら実質的な不便は少ないのですが、それにしても大変な国です。
 バルセロナ名物のサグラダ・ファミリア教会(正確にはカテドラルつまり大聖堂)は、以前は「完成までにあと200年かかる」といわれていたのですが、最近は強化コンクリートなどの新建材と大型機械を使って急ピッチで工事が進んでおり、このままいくとひょっとしたら10年後には完成するのではないか、と思ってしまうほどのペースです。しかし私としては、これだけはやめてもらいたい、この国の教会はやはり200年かけてゆっくり作られるべきだ、と思っています。

 バルセロナ出身の画家のジュアン・ミロ(日本ではホアン・ミロ)などは、ガウディが直接に指揮・設計した部分だけを永久保存すべきだ、と主張していました。確かに芸術にはド素人の私にとっても、ガウディ自身が手をつけた古い部分は何回でも見たいと思うほど良いのですが、新しく作られている部分は何だかドッチラケ、1回見たらもう十分、といった感じです。ただ、この教会は民間のあるカトリック団体の所有であり、この団体の方針によって運営されるため、部外者が何を言ってもどうにもならないのですが。

 日本ではバルセロナというとガウディ。普通の日本人なら、ガウディさんはさぞバルセロナ市民の誇りになっており尊敬を集めているのではないか、と想像するのは当然でしょう。ところが現実にはさにあらず。
 ガウディの建築物が観光の目玉でバルセロナ市に多大の収入をもたらしているため、表だって悪口を言う人は少ないのですが、はっきりいって多数派の市民はそっぽを向いています。これは、サグラダ・ファミリア教会の建築主がウルトラ保守派のカトリック団体であるほか、ガウディの主たるパトロンであったグエル(カタルーニャ語でグエイュ)公爵家が19世紀に台頭した残虐な新興ブルジョアの一人で、ガウディ自身も狂信的・超保守的カトリック信徒、気違いじみたカタルーニャ・ウルトラナショナリストであったためです。

 ちょっとだけ、歴史をご紹介します。
 18世紀初期のスペイン王室継承戦争でカタルーニャは無理やりにマドリッド中心の中央集権体制に組み込まれたのですが、皮肉なことにこれが、中世の栄光ある地中海帝国以来のカタルーニャ再興のきっかけになったわけです。以前から盛んであった綿織物やワイン生産はスペイン全土という広い市場を手に入れ、何よりもそれまでセビーリャに独占されていたアメリカ大陸との交易権を手に入れて、奴隷貿易やキューバなどでのプランテーション経営でボロ儲けする者たちが続出しました。彼らはそこで手にした資金を地元のカタルーニャに投資し、蒸気機関を導入して紡績・綿織物工場を作り、銀行を開設し、鉄道を敷き、独自の力で(国の政策ではない、という意味で)産業革命を成し遂げました。
 彼らカタルーニャの新興ブルジョアたちは、新大陸での残虐な奴隷使役と同様に、没落農民である労働者たちを1日14時間から16時間もこき使い、やっと生きていけるだけの給料を渡しました。これは資本主義勃興期ではどこの国でもあったことですが、もちろん給料が安くて済む女性・子供はボロぎれのように使い捨てられたわけです。19世紀のバルセロナは、貧困、流行病、暴動と殺人にあふれ、アナーキストに扇動された労働者や下層市民たちは反乱を繰り返して軍隊や国家警察と衝突し、特に怒りの矛先はマドリッドの王権とつながるキリスト教会へ向けられ、主な教会は何度も激しい襲撃・焼き討ちを受けました。
 そして新興ブルジョアたちは、新大陸の植民地とバルセロナの労働者から搾り取ったカネをマドリッドの王宮に持っていき、公爵や伯爵などの爵位を買いあさりました。ガウディのパトロンであったグエル公爵家もその中の一つです。私は「血筋」などを尊ばない人間の一人ですが、それにしても何と「あやしい血筋」の連中でしょうか。
 そんな雰囲気の中で、経済的に自信をつけたカタルーニャの財界とその精神的な庇護者であるカトリック団体が中心になって、19世紀後半に「カタルーニャ・ルネッサンス(カタルーニャ語で『レナシャンサ』)」の運動が形作られていきます。これは栄光ある中世のカタルーニャ(アラゴン王国の名で西地中海を制覇した)を再評価することを通して近代化を進めよう、という独特の文化運動でした。

 モダニズム(近代主義)というと、一般的には中世を否定・批判してそれを乗り越える潮流なのでしょうが、カタルーニャではムダルニズマ(モダニズム)といえば、逆に中世の再評価を通して新たな文化の流れを作った、他に類を見たい運動なのです。

 現在バルセロナ観光の目玉になっているガウディ、ムンタネー、カダファルクなどの建築家の建築物はすべてこの文化運動の中から生まれたものです。またその中からピカソ、ミロ、ダリなどの芸術家、カザルスなどの音楽家も出ました。(ややそれよりも時期が早いですが、タレガ、ソル、グラナドス、アルベニスなどの音楽家も19世紀のカタルーニャ人です。)またこの12月にカタルーニャ自治州の新しい首長となった社会党のパスクァル・マラガイュ(Maragall)はこの時期の詩人ジュアン・マラガイュの孫に当たります。
【注記:マラガィュ氏はカタルーニャ州知事を辞め短期間国会議員を務めたあと、2008年現在はアルツハイマーと闘病中。自らアルツハイマーであることを明らかにし「私の人間としての尊厳を尊重してほしい」と国民に呼びかけている。】
 ガウディはその中でも、偏屈なまでに強固なカタルーニャ民族主義者で僧侶もうんざりするほどの狂信的カトリック信徒(恐らく彼は一生童貞を守った、と思われる)だったわけで、マドリッドの支配を苦々しく思うブルジョアたちや教会の権威を再建しようとする保守派のカトリック僧たちからもてはやされたわけです。当然ですが、スペイン内戦が始まるとスペイン各地のカトリック教会はいっせいにフランコ支持の態度を明らかにしました。民族主義の強いカタルーニャとバスクの司教区はフランコ支持を表明しなかったのですが、共産主義者・社会主義者が主導する共和国政府に強く敵対していたことには変わりありません。スペイン内線の最中にはガウディはすでに死亡していたのですが、遺作であるサグラダ・ファミリア教会が共和派のアナーキストたちに襲われて焼き討ちを食らい、彼の残した設計図などがすべて失われてしまいました。

 そしてご存知のとおり、内戦はフランコの勝利とその後に1976年まで続く独裁政権を残しました。特に独立意識の強いカタルーニャ人やバスク人にとって、この40年近い時期はまさしく屈辱の時代だったでしょう。カタルーニャとバルセロナの一般市民の間には、カトリック教会や最終的に裏切ったブルジョア富裕層に対する抜きがたい不信感が今もなおわだたまっています。
(なお、スペインは確かにカトリック文化の国ですが、実際には毎週欠かさずミサに行くような人は20%もいないでしょう。やはり独裁政権を支えてきたオプス・デイを中心とするカトリック勢力に対する不審をぬぐうことは不可能に近いといえます。)

 確かに建築や芸術という面から見るとガウディは天才だったのでしょう。やはり彼の作品の前に立つと他の建築家には無い面白さを感じます。建物全体やディテールをどの角度から見ても常に新しい面白さが発見できます。また彼の建築は同時に、中世以来カタルーニャの産業を支えた、石工、レンガ積み、タイル貼り、金属加工などの、無名のそして無数の職人たちの「ワザ」の結晶だ、と言えるでしょう。この面は、バルセロナにいらっしゃる機会があれば、ぜひご覧ください。

 それでもなお、バルセロナの、教会関係者や観光で儲けている一部の人を除いて、多数派の市民たちの感情には教会とガウディに対する「許しがたさ」が未だに強く残っています。私などはカトリックとは無縁の人間ですので彼をただ単に芸術家としてしか見ないのですが、やはり歴史の重さを背負う人々にとってはそうではないようです。先日、市内でブティックを営む友人と街を歩いていると、細身の老人が歩いてきてすれ違いました。友人はその後姿を指差して「あれがあのガウディのパトロン、グエルの孫だ」と教えてくれました。「人間を動物みたいにこき使ったやつの子孫だ。まだ生きていやがる。」

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