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シリーズ: 515スペイン大衆反乱

15-M(キンセ・デ・エメ):第3話


広場を取り戻せ! 非暴力で武装警官に向かって前進するバルセロナ市民Europa Pressビデオより)

 「15-M(スペイン語でキンセ・デ・エメ)」は5月15日を指す。日本語的には「515」といった方が分かりやすいかもしれないが、この日付は永遠に世界の歴史に残るだろう。もし我々に未来があるのなら。
 
2011年10月15日、世界82カ国1000もの都市で「世界を変えよう」という大衆運動が行われたが、この「街頭占拠」運動の出発点は同年5月15日のスペインの首都マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場だった。それは燎原の火のようにスペイン中に広まった。バルセロナで、バレンシアで、セビーリャで…。そして世界中で、もはや止めることのできない巨大な流れに成長した。
 正式には「今こそ真の民主主義を!(Democracia Real, Ya!)」と呼ばれる。それは、20世紀後半に中南米を実験台として荒らし尽くし、日本とアジアを食い散らし、2001年の911事件以後、その毒牙を世界に突き立てる泥棒資本主義、ネオリベラル経済の国家支配に対する反乱である。
※ 手のマークが出る写真からはビデオにリンクします


【第3話:広場を取り戻せ!】

 5月15日のマドリッドのデモでは、途中でデモ隊の一部で数十人がいきなり隊列から外れて予定外の道で交通を遮断し、警官隊と衝突して24人が逮捕される場面があった。しかしその大部分は平和裏にプエルタ・デル・ソル(太陽の門)広場に着き、そこで94歳になる経済学者ホセ・ルイス・サンペドロ氏が「金融の暴君とそれに続く破壊者たちに対しては平和的手段で闘いを続けよ」と檄を飛ばした。その後、数百名が広場でそのまま夜を明かしたのだが、次の日になっても人々が続々と広場に詰めかけて、現行の不公平な選挙制度に対する反対と、金融支配者たちへの抗議の意思を示し続けた。


5月16日になっても数千人が駆けつけたプエルタ・デル・ソル広場

 16日の夜にもそこで200人を超える若者たちが雑魚寝の形で夜を明かすことになった。ところが17日の明け方5時ごろに、いきなり国家警察の装甲車とパトカーが広場とその周辺に集まり、眠っていた人々を起こして広場から出て行くように命じた。人々が拒否すると警察官は一人一人を引き剥がすように広場から引きずり出し始めたのだ。抗議の声が響き渡る中、警察の車両が広場を占領し、若者たちの簡易寝具はゴミ収集車の中に消えた。
 それを警察に要請したのはマドリッド市当局だったのだが、単に広場の不法占拠だけではなく統一地方選挙妨害に対する警告もあり、広場に泊り込んだ者たちの一部は長時間拘束され他の者たちは罰金を示されて脅迫された。市当局はこれで騒ぎが収まると思ったのかもしれない。しかしこの強制排除はとんでもない結果をもたらすこととなった。


5月17日午前5時、国家警察による強制排除
エル・ムンド紙

 広場の占拠が警察力によって排除されたという情報は、ツイッターやフェイスブックなどを通してたちまちのうちにスペイン全土に広がり、プエルタ・デル・ソル広場は17日の夕方までに再び数千人の人々によって占拠されてしまったのだ。しかも、雨が降りそうな天模様に、工事用の天幕と木材で簡易テントが次々と建てられ始めたのである。「今こそ真の民主主義を!」を叫ぶ人々は、そのブログの中で、次のように語って広場での無期限の泊り込み(アカンパダ)を宣言した。
 「今日の明け方、5時ごろに彼らは我々を排除した。我々は平和でそれに応えた。彼らの暴力に対して我々は両手を突き立てて叫んだ。『これが我々の武器なのだ』。彼らは我々を排除した。しかし我々を解体することはできない。」


5月17日夕方のプエルタ・デル・ソル広場には簡易テントが建てられ数千人が集まった

 たちまちスペイン中の数十の都市で、その強制排除への抗議と社会改革を求める人々が、街の中央にある広場に押しかけ、同様に広場の占拠を開始したのである。5月15日に始まった運動はもはや誰にも止めることのできない巨大な流れになってしまったのだ。これ以降、この運動に加わる人々は一般的に「インディグナドス(indignados)」つまり「怒れる人々」と呼ばれるようになった。ここでも以後はこの「インディグナドス」というスペイン語で彼らを呼ぶことにしよう。


5月17日のサラゴサ市ピラール広場、寝袋を持って泊り込もうという呼びかけに喝采

5月18日セビーリャ市エル・ムンド紙

 次のビデオには5月19日のプエルタ・デル・ソル広場の様子が外装工事中のビルから映されている。これを見ればそのインディグナドスたちの集まりがどれほどものすごいものなのかお分かりになるだろう。百聞は一見にしかず。
   http://www.youtube.com/watch?v=IOicGg3D74Y&feature=related
 こうして、警察と行政当局者が行った排除と脅しは全く逆目に出てしまった。この人数ではもはや手出しができない。この広場占拠は22日の統一地方選挙を過ぎても、簡易テントを広げながら1ヶ月を超えて延々と続くのである。またスペイン中の中小都市にまでアカンパダ(泊り込み)運動が広がり、テレビや新聞は毎日のように各都市の広場占拠の様子を報道し続けた。

 しかし、警備当局者の大失敗と抵抗の拡大が最も劇的な形で見せ付けられたのは、何と言っても5月27日のバルセロナでの出来事だろう。
 市の中央にあるカタルーニャ広場では、5月17日以来、テントと簡易寝具を持ち込んでのアカンパダが続いていたのだが、27日の早朝、いきなり数十台の警察の車両が取り囲み、大勢の武装警官が彼らに襲いかかったのだ。
 この様子は非常に多くのビデオで記録されているが、たとえば次のビデオをご覧いただきたい。武装警官による激しい暴力と、それに非暴力で対抗する人々の様子である。
http://www.youtube.com/watch?v=92X0SHGbMNw&feature=related
 この事件は欧州の様々な言語で大きく紹介されているが、今のYouTubeの題名はスペイン語ではなくイタリア語で書かれておりイタリア人によるアップであることが分かる。以下の4枚の写真はこのビデオからのもの。

カタルーニャ広場の群集に襲いかかる武装警官隊

一人ずつ引き剥がし激しい暴行を加える

抗議のスクラムを組んで座り込む人々を警棒で殴りつける


血まみれの上半身で警備当局への抗議の意思を表す青年

 警官隊が泊り込んでいた人々を強制排除すると、すぐにゴミ収集車がやってきてテントから寝具、持ち込んだ様々な道具類やコンピューターまでをかき集めてゴミとして棄ててしまった。そのやり方はもう無茶苦茶としか言いようの無いものだった。
 この朝のカタルーニャ広場での出来事は、地元のカタルーニャ公営TV3、スペイン国営TV始め、あらゆる民間テレビ局や通信社によって即刻報道され、同時に一般の人々がこの出来事をビデオに収めた。それらは直ちにYouTubeで世界に発信された。また欧州中のTVと新聞がこの出来事を大きく報道した。次は英国Guardian紙の記事である。 
http://www.guardian.co.uk/world/2011/may/27/spanish-protesters-clash-with-police
また次のビデオはRT(Russia Today)のもの。http://www.youtube.com/watch?v=tI0S-AcqQ1g&feature=related
 もちろんこの武装警官襲撃の情報はすぐさまツイッターなどでもスペイン中に広められたのだが、襲撃開始後1〜2時間ほどで、このことを知った3000人を超える人々がカタルーニャ広場に駆けつけ、見る見るうちに武装警官を追い払って広場は奪回された。このページの冒頭にも写真があるが、人々は素手で一切の暴力を用いずに胸を張って前進した。それは圧倒的な光景だった。もはや警察は何のなすすべも持たなかった


すぐに3000人を越す人々が駆けつけカタルーニャ広場を奪い返す(Europa Pressビデオより)

 カタルーニャ広場には以前の何倍もの人々が集まって居座り、もはやてこでも動かない。カタルーニャではバルセロナだけではなくリェイダ市などの他の都市でも同様に泊り込みの強制撤去が行われたが、もちろんその日中に各都市の広場はインディグナドスたちの手に奪い返されたのである。その一部始終がスペイン国内だけでなく欧州を中心にして世界中にテレビや新聞で紹介されたことによって、警察と行政当局者の意図とはうらはらに、スペインの15M(キンセ・デ・エメ)運動とその意味が最も印象的に広く世界に紹介されることとなった。


警官隊が諦めて去った後、何倍にも膨れ上がった広場占拠エル・ムンド紙

 バルセロナでの武装警官の襲撃はもちろんマドリッドの人々の激憤を誘い、カタルーニャ広場奪回の様子は大きな拍手をもって伝えられた。プエルタ・デル・ソル広場では「バルセロナ!連帯!」の声が響き渡った。民族の違いから何かと対立するバルセロナとマドリッドだが、インディグナドスはまとまっていた。暴力によって非暴力の抵抗を解体することはできないのだ。そしてここに、この15M(キンセ・デ・エメ)の運動とインディグナドスたちの声を予想以上にスペイン国民の間に定着させた重大な出来事が起こることになる。それは次回でご紹介したい。


(2011年10月31日 バルセロナにて 童子丸開)

『第4話:暴力反対!』に続く

『第2話:プエルタ・デル・ソルへ』に戻る
『第1話:バンケーロ、バンケーロ、バンケーロ』に戻る

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