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フランコの棺が置き忘れたもの


 当サイト『生き続けるフランコ(1)(2018年8月24日)』と『生き続けるフランコ(2)(2018年8月28日)』を参照のこと。そこにも書いたことだが、最大限に強調しなければならないことは、フランコ独裁が決して「歴史になった」のではない、という点だ。「過去の遺物」ではない。現実にそれはスペイン・ナショナリズムとして、深く強烈に社会の中に息づいている。

2019年10月30日 バルセロナにて 童子丸開

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●小見出し一覧(クリックすればその欄に飛びます。)
 《フランコ家の国営礼拝堂》
 《VIP待遇で移されたフランコの遺骸》
 《「ミイラの引っ越し」で何が変わる?》
 《「フランコの棺の蓋」を開けるカタルーニャ》



【フランコの遺骸が移されたマドリード市ミンゴルビオ墓地の「国営フランコ家礼拝堂」:プブリコ紙】

《フランコ家の国営礼拝堂》

 マドリード州サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルにある「戦没者の谷」からようやくフランコの棺が運び出されたのは、この10月24日だった。昨年(2018年)6月に正式に発足したペドロ・サンチェス社会労働党政権(《社会労働党“超軽量与党”の誕生》参照)は、その直後の6月19日に「フランコの墓移転」計画を発表した。その後、同年8月24日の政令でその作業を「年内に行う」とされたが、遺族であるフランコ家(公爵家)などの貴族社会と守旧勢力の抵抗が強く、やっとのことで法的な手続きを完了させて、今年11月10日に予定されるやり直し総選挙の前に移転を実行することができたのだ。もしその移転が遅れ、今回の選挙で社会労働党が政権をとれないようなら、移転計画自体が潰される可能性が高かっただろう。

 スペイン最高裁が遺族側の差し止め請求を最終的に退け、担当判事の全員一致でフランコの墓の移転を認めたのは、9月24日のことだった。さらに最高裁はフランコの遺骸を政府の主張通り、フランコ夫人カルメン・ポロの遺体が安置されるマドリード市エル・パルドにあるミンゴルビオ墓地にある「フランコ家の礼拝堂」に移すことを許可し、これで社会労働党政府のフランコの墓移転は本決まりとなった。遺族側はマドリード市のアルムデナ大聖堂内への安置を主張していたのだが、どうやら「聖人扱い」にしてほしかったようだ。また極右政党VOXの党首サンティアゴ・アバスカルは墓に対する冒涜だとして政府を非難した。

 しかし、このフランコの墓移転に怒ったのはフランコ家と極右人士だけではない。正反対の立場、フランコ独裁主義を告発し続ける「歴史記憶回復協会(la Asociación para la Recuperación de la Memoria Histórica)」の会長エミリオ・シルバ氏もまた、犯罪人の独裁者が国有の施設から国有の施設にVIP待遇で移されることなど許されてはならない、と激しい怒りをぶつける。いま「国有の施設に」と書いたのは次のような理由によるものだ。

 このプブリコ紙の情報によれば、この礼拝堂は、フランコ存命中の1969年にフランコ家の墓になるべく、絶対命令の下で大量の「失業対策基金」(つまり公金)を使って建設された。そして1988年にフランコ夫人カルメン・ポロが死亡した際に、フェリペ・ゴンサレス社会労働党政府の国有財産省がこの礼拝堂に遺体の安置を許可した。国有財産相が許可した、ということはつまり、この一般には「フランコ家の所有」とされている礼拝堂が、実際には国有の資産だということになる。フランコ家は彼女を私有の場所に埋葬したことを確証する書類を示したことが無い。フランコの棺の移転作業には5万1千ユーロ(約615万円)の費用がかかるが、これは全部公費(つまり税金)で賄われる。「戦没者の谷」も移転先の「フランコ家の礼拝堂」も国有なら、たしかにそうするしかないだろう。(ミンゴルビオ墓地の敷地自体はマドリード市の公有地。)

 上記の情報を裏打ちする出来事はすぐに起こった。フランコ家は最後の抵抗として、この礼拝堂の床を新たな埋葬のために工事するためには新たな工事認可が必要だと主張していた。そして9月30日に最高裁は、工事認可が無くても埋葬用に礼拝堂の床に穴をあけることができる、という判断を示し、フランコの遺骸移転の最後の障害が取り外された。しかし、もしこの礼拝堂がフランコ家の所有なら、礼拝堂の内部の工事はあくまで私的なものであり、公的な工事認可など全く必要としないはずである。そもそも、許可もへったくれも、私有の建物を勝手に国が工事すること対して所有者が何も言わないこと自体、不自然極まりない。

 ことの真相を突き止めるだけの材料を今は持たないが、これが本当なら現在のスペイン国家は、やはり根本的なところでフランコ政権の自然延長上にあることになる。そして、ゴンサレス政府と同じ社会労働党のサンチェス政権がフランコの棺をここに運んだのもまた極めて自然だろう。またこの礼拝堂への移転を拒否する権利をフランコ家側が主張しなかったのだが、それもまた当然、ということだ。この情報の信ぴょう性は極めて高いと言える。この問題は、この国の現代史が抱え持つ暗黒部分の一つである。


《VIP待遇で移されたフランコの遺骸》

 移転が正式決定されたあとの10月3日に、シウダダノスとVOXの協力でマドリード州の知事となった国民党のイサベル・ディアス・アユソは、州議会でVOXの議員ロシオ・モナステリオと次のような掛け合い漫才を披露した。「戦没者の谷」からフランコの遺骸を移転した後で何が起こるだろうか、というモナステリオの質問に答えて、ディアス・アユソはこう言った。「戦没者の谷の十字架と全部の施設に続いて、全ての地域のカトリック教区が炎に包まれるんじゃないですか、1936年のようにね。」もちろんこれは冗談半分のつもりだろうが、スペイン内戦中の1936年にカトリック教会に対する激しい攻撃が行われ、各地の教区で教会が破壊・焼き打ちされて多数の僧侶や尼僧が殺害された事実に結びつけたものである。冗談になってない。

 カトリック教会について言えば、大本山のバチカンが9月にフランコの墓移転に反対しないことを表明しており、基本的に何も問題は起こらないはずだ。内戦当時に比べれば教会の社会に対する影響力は比較にならないほど落ちており、そもそも敵対する対象にすらなるまい。「戦没者の谷」に付属する教会と一部の保守的な教区は最高裁とバチカンに不満を言ったが、それ以上の行動力も根性も持ち合わせていない。しかし、ディアス・アユソの発言は、熱心なカトリック信徒になにがしかの恐怖心を与えたかもしれない。

 続く10月4日、VOXの総書記でマドリード市役員のハビエル・オルテガ・スミスが、フランコ政権誕生直後に起きた悲惨な事件を否定する発言を、国営放送TVの番組で行った。1939年に、フランコ政権によって拷問され無残に処刑された18歳から29歳までの13人の女性たちのことで、「13のバラ(las Trece Rosas)」として有名である。彼女らの半数が社会主義青年連合(Juventudes Socialistas Unificadas)に属しており、内戦終了後、大勢の共和国支持者の若者たちと共に逮捕された。オルテガ・スミスは「“13のバラ”についての嘘がある。彼女らはひどい犯罪を行ったのだ」と述べ、フランコ支持者に対する暴力や拷問や殺害に加わったと断罪した。しかし彼女らの「犯罪」の証拠は全く出てこず、当のフランコ政権側の資料にすら述べられていないことが知られている。それ以降、各方面からの多くの非難を浴び法的措置すら準備されているオルテガ・スミスだが、「謝罪など絶対にしない」、「誰も我々にその歴史観を押し付けることはできない」と開き直っている。

 こうして10月11日に、政府はフランコの墓移転を10月25日に行うと正式に発表した。VOXは、社会労働党政府が総選挙の公示期間に行う移転を選挙違反に当たると中央選挙管理委員会に訴えたが、選管は門前払いにした。そして「戦没者の谷」はこの発表の翌日12日から閉鎖されることになった。12日はスペインの日の祭日だが、何十人かの市民が「戦没者の谷」を訪れ、「ミサに行くから通せ」と門の前のグアルディアシビル隊員と押し問答をしたくらいで、大きな混乱は無かった。

 2019年10月24日の午前中に、フランコの棺は44年間眠っていた「戦没者の谷」から出された。遺族側の要望で一族の男性が担いで教会の外に出したが、その中にはブルボン家家督相続人のアンジュー公アルフォンソの姿もあった。棺はそこでヘリコプターに載せられ、ミンゴルビオ墓地近くの空き地にまで運ばれ、そこから霊柩車で墓地に向かった。墓地の内部には一般の人は立ち入りが禁止されたが、外では数百人のフランコ主義者たちが「遺体泥棒!」と叫んで政府を非難した。また1981年にクーデター未遂事件を起こしたグアルディアシビルのアントニオ・テヘロ中佐が姿を見せ「フランコ万歳!スペイン万歳!」と叫んだ。さらに極右団体だけではなく遺族の一部もフランコ時代の旗を持ち、フランコへの賛歌「太陽の顔」を歌った。しかし衝突や混乱はほとんど起きず、遺体を入れた棺は無事に墓地の礼拝堂に運び入れられ、夫人の墓の隣に安置されて、昼過ぎに全ての作業が完了した。


《「ミイラの引っ越し」で何が変わる?》

 ところでそのミンゴルビオ墓地なのだが、ここには先ほど述べた「国営フランコ家礼拝堂」のほかに大小の礼拝堂と墓がある。さて、フランシスコ・フランコの引っ越し先には、先に入った夫人以外に、どんな隣人たちが待っているのだろうか。まず、ドミニカ共和国の独裁者で1961年に暗殺された後1970年にこの墓地にやってきたラファエル・トルヒーヨである。次に、フランコの後継者と見做されながら1973年に暗殺されたカレロ・ブランコ。また、独裁政権最後の首相アリアス・ナバロ。その他、独裁政権後のアドルフォ・スアレス政権で財務・法務大臣を務めフェリペ・ゴンサレス政権でも外務大臣となったフランシスコ・オルドニェス、スアレス政権やカルボ-ソテロ政権の高官フアン・ホセ・ロソーなど、そうそうたるメンバーがそろっている。とうてい下々が安眠できる場所ではなさそうだ。

 トルヒーヨやブランコなどの墓が「国営」なのか「私営」なのか分からないが、先に書いたように、フランコ家礼拝堂はおそらく間違いなく「国営」だろう。「戦没者の谷」も国有であり、独裁者フランコは死後もまたスペイン国家をしっかりと掌握し続けていることになる。私は5年前に『終焉を迎えるか?「78年体制」』の中で次のように書いた。
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 上で述べた1975年から82年までの7年間はLa Transición Española(スペインの移行期)と呼ばれている。この「移行」は「法から法へ」と呼ばれることがある。例えば、昨日までフランコ時代の法律に基づいてしょっぴいて拷問にかけて牢獄に放り込んでいた国家警察が、人間が変わることも組織が変わることもなく、新しい法律に沿って働くことで今日からは民主主義の守り手に変身する…、というわけだ。「独裁主義の法規」を「民主主義の法規」に取り替えることで、治安機構だけではなく軍から市町村役所まで、議会の中から小学校の教室の中まで、わずか7年間で「現代西欧への移行」を成し遂げたことになる。
 なるほど、これなら誰も傷つくことはなく立場を失う者もいない。独裁時代に権限を振るい弾圧に精を出した者も、そっくり同じ顔をしたままで、新しい立場と役目を与えられて「民主主義体制」の中で生きることができる。確かにそれが最も平和的で迅速な解決方法だったのだろう。その代わり、独裁時代に反対者の逮捕を命じ拷問にかけて殺した者が裁かれることはないし、罪人として処刑された者が名誉回復されることも烙印を押された犯罪歴が消えることもない。
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 ここにあるように、フランコ独施政権下で犯罪者とされ処刑された人々の名誉回復が為されたことはない。処刑されて地中に埋められた無数の人々の遺体は、いまだに方々で発掘されつつある。独裁政権の犯罪と暴虐を暴露するための「歴史記憶法」はあるのだが、「犯罪者」としてフランコ政権に殺された人々の名誉回復は憲法上の制約があって実現できない。上に引用した文章にもあるのだが、1978年に制定された憲法に基づく「78年体制」は、要するに、フランコ独裁の上っ面を西欧民主主義で覆っただけの、延長された独裁政治の「擬態」と言って良いのかもしれない。

 また『生き続けるフランコ(1)』にも書いたことだが、スペインのファシスト政党ファランヘ党(現在の国民党の前身)を作ったホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ(1903~36)の遺体は未だに国有資産「戦没者の谷」付属教会の豪華な墓に収められている。彼は内戦で死んだので確かに「戦没者」の一人には違いあるまい。しかしそれなら一兵卒と同等に扱われるべきだろう。11月10日の選挙で社会労働党が再び政権を取ったとして、果たしてプリモ・デ・リベラの墓に手を付けることができるだろうか。

 ここでもう一人、注目されている人物がいる。こちらの1970年代前半のものと思われる写真に、当時では珍しい長髪で粋な格好をした男は、本名アントニオ・ゴンサレス・パチェコ、“ビリー・エル・ニーニョ(Billy el Niño:神の子ビリー)”の通称で知られる、フランコ時代の国家警察の拷問担当官なのだ。この、小柄でベビーフェイスの男が、独裁体制に反対する活動家(と目を付けられた人物)に対する凄惨な拷問で人々に恐れられた、とんでもない「神の子」なのである。1946年生まれでもちろん今でも元気に生きている。

 この「神の子」は、独裁体制が終わってもそのまま国家警察の幹部として収まり、1972年、1977年、1980年、1982年に、その「すばらしい業績」が認められて叙勲されている。最初の2回はまだ独裁体制下だったのでしょうがないにせよ、後の2回はすでに78年憲法が制定された後である。まあ、勲章だけならどうせブリキのおもちゃみたいなものだからどうでもよいのだが、この人物はこれらの叙勲によって、年金を規定より50%も多く受け取り続けているのだ。先ほどの引用文中に『昨日までフランコ時代の法律に基づいてしょっぴいて拷問にかけて牢獄に放り込んでいた国家警察が、人間が変わることも組織が変わることもなく、新しい法律に沿って働くことで今日からは民主主義の守り手に変身する…、というわけだ』と書いたが、この「神の子ビリー」はその実例の一つである。

 また《国家権力中枢の闇に潜むネズミども》で書いた国家警察警視(今は退職しているので元~だが)ホセ・ビジャレホのように、国家警察の中に諜報機関として政治謀略を専門に担うグループがあることも知られているが、これも独裁体制からのそのままの延長である。またビジャレホのグループは、銀行や大企業の弱みを探っては脅迫して膨大な額のカネをむしり取り、また一種の産業スパイ的な動きをしたり、国民党の大物と手を組んで政治腐敗の裏側を形作ったりと、国家マフィアの中心になっていたのだ。《最大の遺産:“組織犯罪国家”》で述べたとおり、フランコ独裁体制の最も大きな特徴である組織犯罪国家の構造が、1978年以降の国家体制の中枢部でそのまま続いているのである。

 独裁者の棺が「国有資産から国有資産へ」と運ばれた10月24日に、ポデモス党首のパブロ・イグレシアスは次のように述べた。「ミイラが戦没者の谷から出ていったのは良いことだ。しかしフランコの遺体はあの棺の中には無いのだ」と。もちろんだが、彼の言う「フランコの遺体」は物質的な存在を指すものではない。イグレシアスの言葉は、上に述べた組織犯罪国家としてのフランコ独裁体制が延々と続いていること、スペイン全土がいまだに基本的な部分で「フランコの悪霊」に取り憑かれていることを指す。

 イグレシアス自身の父親と祖父はフランコ体制の下で投獄され大伯父は処刑され、もちろん名誉回復は成されていない。彼だけではなく、「歴史的記憶」が癒されることなく続いている人々は大勢いる。おそらく国民の半数以上はそうだろう。人々は、78年の憲法制定と社会労働党の左翼政権によってスペインが独裁国家から民主国家に変わったという現代神話など、心の底では決して信用していないだろう。独裁者のミイラの移転だけでは何一つ変わらないのだ。そればかりか、悪霊となったフランコの姿が徐々に明らかになっていくのは、実は今からなのかもしれない。


《「フランコの棺の蓋」を開けるカタルーニャ》

 その現代神話の中で「歴史的記憶」に最も苦しんでいるのがカタルーニャではないかと思う。内戦とフランコ時代の苦汁の記憶をとどめる世代はスペイン中にいる。しかし、言葉を奪われたのはカタルーニャ、バスク、ガリシアという少数=被支配民族である。カタルーニャは個人の名前すら奪われた。ジョルディはホルヘに、ジュゼップはホセに書きかえられ、町の中でも学校でも自分たちの言葉が禁止された。確かに、78年体制ができてからは言語を取り戻し名前も民族言語で呼ばれるようになった。しかしカタルーニャ人は、スペイン社会と自分たちを包む空気の中に「フランコの悪霊」を延々と感じ続けてきた。それは、あの独裁者を産み出した土壌、スペイン・ナショナリズムである。

 前回の記事『怒り狂うカタルーニャ』で述べたことだが、この10月14日にスペイン最高裁が下したカタルーニャ独立派・前州政府幹部に対する有罪判決で、カタルーニャとスペインは終わることのない「戦争」に突入したように見える。毎日毎日、カタルーニャとバルセロナのどこかでデモや道路封鎖、鉄道封鎖などの騒動が延々と続いているのだ。今後、テロ事件あるいはそのでっち上げといった「汚い戦争」が展開する可能性もある。そして11月10日の「やり直し総選挙」を前に、スペインの各主要政党が最大の時間を使って最大の声を上げるテーマは、やはり「カタルーニャ」だ。マスコミも、おそらく意図的に、「カタルーニャ問題」を中心にしてニュースとその解説を見せてくれる。下手をするとスペインには「カタルーニャ問題」しか存在しないかのような錯覚すら受ける。

 フランコの棺が移転された前後の日々に、社会労働党以外の全国政党はこぞってそれを「社会労働党の選挙用宣伝だ」と非難した。国民党マドリード州政府知事のアユソとVOX議員モナステリオは「あんな葬式ショーにつける題名などない」と揶揄した。国民党の党首パブロ・カサドは「私が気にするのは子供の未来であって、祖父母を分裂させることではない」と、フランコをあくまで「過去のもの」として問題にしない態度を表明した。政治家たちが意識してそれから目をそむけようとしているのは明らかだ。それよりもカタルーニャだ!ということか。

 ポデモス党首のイグレシアスだけが、かなり本質に近いところを突いているようだ。イグレシアスは「ペドロ・サンチェスは国民党と手を組んで政権を取るためにカタルーニャ問題を口実として利用している」と非難したのである。また彼とは逆の立場からだが、VOXのアバスカル党首もスペイン政治の実態を正確に見据えているように見える。彼はカタルーニャ独立派幹部に下った最高裁判決に関連して、「国民党、社会労働党、シウダダノスは、裁判官たちの後ろに身を隠しているのだ」と、臆病にもスペイン・ナショナリストとしての己の姿を大衆の目から隠し、都合よく裁判を利用する中道政党の姿勢を詰った。

 スペインは、17~18世紀の帝国主義戦争に敗れて大半の植民地を失い、略奪した新世界の富も他の欧州列強に奪い取られ、国内には石造りの建築物だけを残した。その後、国内の相互不信と内乱に明け暮れ、カタルーニャを除く地域での産業革命と近代化に失敗した果てに、19世紀末の米西戦争でなけなしの植民地、フィリピンとキューバをむしり取られた。その近代史の堪え難い屈辱と絶望の中から、何としても国内統一を成し遂げ国家としての権威と誇りを作り上げよう、そしてそれを実現できるのは軍事力だけだ、と信じるミゲル・プリモ・デ・リベラ(ホセ・アントニオの父親)とフランシスコ・フランコが登場した。スペイン・ナショナリズムは、英国のそれのような栄光と誇りではなく、徹底的な屈辱と絶望に裏打ちされているのだ。その強靭さは並大抵ではない。

 一方のカタルーニャ・ナショナリズムもまた、『カタルーニャの911』に書いたように、堪えがたい屈辱と絶望の中から生まれてきた。それは、社会労働党や国民党などが考えるどのような手段(自治権剝奪、逮捕・投獄、警察力による弾圧)を用いようとも、消え去るものでも薄められるものでもありえない。解決策があるとすれば、78年憲法を改正して、スペイン全土で内戦時と独裁政権時に処刑された全ての人々(「カタルーニャ共和国大統領」リュイス・クンパンチを含む)の名誉回復を行ったうえで、少数民族地域に大幅でゆるやかな自治権を保証することだけであろう。それだけが、唯一現実的な解決方法だろうと思う。ポデモスのイグレシアス党首なども同様に考えているようだ。しかしそれは、スペイン・ナショナリズムが絶対に許容しないものである。

 当サイトで書き続けていることだが、近年のカタルーニャ・ナショナリズムの盛り上がり方は異常だ。スペイン国家との「無理心中」を図るつもりではないかと感じることがある。そしてそれに対するスペイン・ナショナリストの反応もまた異常、客観的に見れば滑稽としか言いようがない。ひび割れた器にたがをはめて大真面目に締めあげるような、そんな馬鹿なことしか頭に上らないのである。もしそれでカタルーニャ・ナショナリズムが消えるときが来るならば、それは同時にスペイン国家の崩壊、スペイン・ナショナリズムの自滅のときだろう。(参照:《「調停者」にならなかった国王》

 サンチェス社会労働党は総選挙公示日である11月1日を前に、従来の党是だった「多民族合同(plurinacionalismo)国家」の概念、特にPSC(カタルーニャ社会党)の主張である「連邦制度の樹立」を選挙用のプログラムから消し去り、それを「統合された国家」の概念に置き換えた。(ただし、10月30日にバルセロナに来たサンチェスはPSCの激しい抗議を受けて「連邦制」を再び選挙プログラムの中に入れた。PSCは元々社会労働党とは別組織でありサンチェスが勝手にその方針を削除できないはずだ。)イグレシアスの言うように、サンチェスは国民党、社会労働党、シウダダノスの「中道(??)」3政党による大連立を本気で目指しているのかもしれない。しかしそれは、スペインをよりフランコ独裁体制に近いものに変えてしまうのではないか。だとすれば、国中が悪霊に覆われるべくフランコの棺の蓋を開いたのは「カタルーニャ」だと言える。

 だがEUが域内の国にそのような変化を許すのだろうか? しかし案外と、莫大に膨らむスペインの公的債務を減らす(つまりIMFや欧州中銀などが借金を取り立てる)ためにより厳しい緊縮財政を要求するEUのことだから、貧乏人から巻き上げ年金生活者を飢えさせるのに最も効率の良い「統合された国家」の仕組みを歓迎するのかもしれない。

【「フランコの棺が置き忘れたもの」 ここまで】 inserted by FC2 system