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三重苦のスペイン

 長い間、新しい記事が書けなかった。一つには5月くらいから体調の優れない日が続いたこと、決してコロナウイルス感染ではないのだが、1月ごろに体調を崩した後遺症の他に、3月からの非常事態の中で日々の生活リズムが崩れ神経的なストレスが続いていることが原因だ。そればかりではなく、TVや新聞などの情報が、毎日毎日、来る日も来る日も「コロナの数字」ばかりで、精神的にもかなり疲れ果てている。スペイン国内と欧州域内について何度か新しい原稿を書きかけては、これ以上書く気がしないと、途中で放り投げてしまった。しかし8月に入りコロナとは直接関係の無い重大事件が、私に再び「書こう」という意欲を掻き立ててくれた。

2020年8月15日 バルセロナにて 童子丸開

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●小見出し一覧(クリックすればその項目に飛びます。)
《コロナ(ウイルス)禍、経済のコロナ崩壊、そしてコロナ(王室)禍》
《「ファクターQ」は唾のかけ合い?》
《基幹産業への壊滅的な打撃》
《腐れ落ちる「国家のシンボル」:「恥さらし」では済まない》




【写真:スペイン名誉国王フアン・カルロスと、その(元)愛人で謎の女コリーナ・ラーセン:エル・パイス紙】


《コロナ(ウイルス)禍、経済のコロナ崩壊、そしてコロナ(王室)禍》

 いまスペインは未曽有の三重苦、三重の大災厄の真っただ中にいる。一つは新型コロナウイルスへの恐怖による社会的な大混乱、次に、その病魔がもたらす基幹産業への壊滅的打撃、そして、現代スペイン国家「78年体制」の支柱の一つであった王室の信用崩壊である。(「78年体制」については、『終焉を迎えるか?「78年体制」』を参照のこと。)「コロナ(Corona)」はスペイン語で王冠、王位、王国などの意味を持つが、この2020年にコロナは、一方でウイルスによる疫病として、他方で国家の統合力の喪失として、この国を歴史上最大級の危機の中に放り込もうとしている。

 最初のCOVID-19(新型コロナウイルス)禍については言うまでもないだろう。いまスペインは、日本と同様に、「第2波」と言えるかもしれない急激な感染者の増大に襲われている。累積感染者数が、6月1日から7月1日までの30日間で239638人から249271人と9633人の増加だったが、それから30日後の7月31日までには36159人増加して285430人に、その3分の1の期間後、8月10日にはさらに37550人増えて322980人に上るという凄まじい勢いだ。これも日本と同様に若い人たちへの検査が増えたせいか無症状~軽症者が大部分だが、近頃になって入院患者と重症者も急速に増えつつあり、特に「第1波」で医療が完全崩壊し国民党中心の州政府と市当局の無能ぶりをさらけ出したマドリードに、再び危機が訪れようとしている。はっきり言ってこっちも毎日の数字を見るだけで嫌になり、もうあまり数のことは考えたくない気持ちだ。

 2番目の経済的な落ち込みについても明らかだろう。これもまた日本と同様なのだが、いままでこの国の経済と国民生活を支えてきた観光や自動車などの主要な産業がCOVID-19禍によって大打撃を受け、長期の封鎖で消費意欲も落ち込み、今年の第2四半期にはGDPが18.5%も減少するという、前代未聞の状態に陥っている。7月21日になってようやくEUからの「援助」と借り入れの目途が付いたから当面は何とか乗り切れるかもしれないが、COVID-19禍がどんな展開になるか予想がつかず、将来の展望など立つ状況ではありえない。

 最後のスペイン王室の惨状に関しては知らない人の方が多いだろう。詳しくは後述するが、その一部はすでに日本語記事になっているので予備知識として以下の各情報に(時間が無ければ見出しと日付だけにでも)目を通してほしい。各記事で「スペイン前国王」は2014年に退位したフアン・カルロス1世(《《地に堕ちた王家の権威と求心力》》参照)のことである。

 まず『スペイン前国王にマネーロンダリング疑惑、元愛人が証言(AFP:2018-07-17)』あたりが事の発端だが、今年に入ってそれが『スペイン国王、相続財産を放棄 前国王への年金も差し止めへ(BBC:2020-03-16)』、そして『スペイン前国王、疑惑に揺れる 資産隠し、愛人に手当?―サウジ高速鉄道で収賄か(Jiji:2020-07-10)』と続いた。ここまでなら単なるスキャンダルで終わるところだったろう。ところが8月を迎えて『スペイン前国王、国外へ サウジの鉄道めぐる汚職疑惑受け(BBC:2020-08-04)』、『スペイン前国王、今どこに? 各国で報道が錯綜(BBC:2020-08-05)』という事態になった。要は追求からの逃亡である。

 このスペイン前国王フアン・カルロス1世は、退位後も名誉国王、日本の皇室で言えば上皇に当たる地位を保っている。決して一私人ではなく国家をしょって立つ公人なのだが、それが世界に曝すこのような醜態は、国家という仕組みに人々を結び付けてまとめる国家機関としての王室を危機に陥れる事態に発展しかねまい。立憲王政国家を多く持つ欧州は今後おそらく十数年をかけて巨大な変化を遂げると思われるが、その中でこのスペインの状態が重大な意味を持っていくだろう。

 コロナウイルス禍による社会と人心の混乱、経済への打撃はEU各国に共通のものであり欧州全体で協調しながら解決を図っていくことができるかもしれない。しかし(英国を除く)EU内で4番目の経済規模を持つ構成国が見せる「国家」の仕組みそのものの揺らぎは、今後ありうるだろう米国の覇権弱体化と欧州からの政治的・軍事的撤退と共に、EUの基本的な仕組みそのものに重大な影響を及ぼすファクターの一つになるかもしれない。

 いまからその一つ一つをざっと見ていくことにしたいが、マスコミなどで普通に広められている情報とはやや違う角度からの説明になると思う。主に私の主観的な感想を基に話を進めていくので、当サイトの今までの実証的なあり方からは少々離れてしまうことになるが、以後の記事でその点は補っていきたいと考えている。


《「ファクターQ」は唾のかけ合い?》

 私は以前に《地獄に向かいつつある日本》《日本について、ちょっとだけ》の中で、COVID-19(新型コロナウイルス)による重症者と死者の爆発的増加を予想してきた。しかし現実にはそうなっていない。人口10万人当たりの死亡者数は西欧諸国の20~100分の1に抑えられているのだ。日本の中にはそれを「日本式医療システムの勝利」として大いに愛国心を高める向きもあるようだが、「アベノマスク」たら「10万円」たら「GOTO」たらを見ていると、こんなろくでもない国でよくここまで死亡率を低く抑えられるものだと首をかしげてしまう。

 しかし他の東アジア・太平洋諸国を見ると、決して日本が特別な場所でないことが明らかだ。なぜこの地域で死亡率が低いのかについて、京都大学の山中教授は、まだ解明されていない要因があるのではないかと考えて、それを「ファクターX]と呼んでおられる。それはひょっとするとBCG接種かもしれないし、今までに普通の風邪として対処されてきた類似のウイルスによって免疫が付いていることかもしれない。あるいは遺伝的な要因があるかもしれないし、もっと単純にマスクや手洗いなどの生活習慣の中にあるのかもしれない。

 ただ私はそれらの発想を逆転させてみたいように思う。西欧人を基準にして、日本人を含む東アジア人や太平洋諸国人でどうして死亡率が低いのか、と考えるのではなく、あべこべに、東アジア人や太平洋諸国人を基準にして、なぜ西欧人の死亡率がこんなに高いのか、という発想だ。山中教授に倣ってその原因を「ファクターQ」とでも呼んでおこう。

 もちろん『「戦時体制下」のスペイン:その1』にも書いた通り、「ファクターQ」の中には、2008年以降の経済崩壊によって削られ尽くされた公的医療と公的福祉という社会的・政治的なものがあるだろう。また中国で最初に流行したものとはウイルスの型がやや異なっているのかもしれない。しかし他の面も考えてみたい。このウイルスは症状が出る前に他人に感染するややこしい性質を持っているようだが、感染者の過半数が無症状のままであり、特に若い世代の人々にとっては“格段の脅威”というわけでもなさそうだ。ただし、いったんウイルスが肺や血液や他の臓器の中で暴れ始めると非常に危険なものに早変わりするという、少々面倒な特徴を持っている。したがって大量のウイルスを体の奥深く導き入れてしまえば「重症化率、死亡率が上がる」のではないか。

 PCR検査は鼻や咽頭部にくっついているウイルスの一部分をキャッチできるだけだから、ウイルスがどれほど体の奥に入り込んでいるのかを知ることはできまい。逆に言えば、感染の広がりを防ぎ、重症化や死亡の危険を避けるためには、しゃべったり咳をしたりする際に飛び散る唾液の粒中のウイルスが、手に触れやすいものの表面に付いたり他人の体の中に入ったりする確率をできるかぎり小さくすればよいことになる。問題は「三密」ではなく「唾液の粒」のはずだ。日本の満員電車やパチンコ屋でクラスターが発生していないことからも以上の点は明らかではないか。

 そのためにこそマスク着用が必要なのだ。よく言われている通り、マスクはウイルスを吸い込まないためというよりは、すでに感染している者がウイルスを大量に吐き出さず、それが他者の身体に入る確率を、そして手で触れる物の表面に付く確率を、できる限り小さくすることに意味がある。感染していない自信があっても、「私はウイルスを撒き散らしませんよ」というサインを送って社会の中で協力してお互いの身体を防衛し合おうという、疫病流行時には必須のエチケットの一つだ。またマスクをつけていても咳をしたり大声を出したりすればマスクの端や繊維の間から唾液の粒が噴き出してくる。だからマスクをつけてなおかつ他人と十分な距離をとり、必要以上の声で話をしないように心がけなければなるまい。

 ところが多くのスペイン人にとって「1時間大声でしゃべるな」というのは拷問に等しい。たぶんイタリア人でもそうだろうが、生活習慣というよりは言語そのものの特徴があるのではないか。スペイン人は、まず出すべき言葉と筋道を考えてからしゃべるのではなく、言葉を出しながら考えを組み立てるのだ。しゃべらないと考えることができない。話す相手がいる場合、まっすぐに向き合ってできる限り近い距離でしゃべろうとする。気持ちの抑揚と言葉の抑揚が一致するためアルコールが入らなくても気分が乗ってくるとあらん限りの大声になる。おまけに身体を接触させることで相手に対する親愛や尊敬を表現する。したがって必然的に、彼らとしゃべるときには「唾のかけ合い」になることを覚悟しなければならない。

 日本でもいわゆる「クラスター」が発生するのは、飲み会や「夜の稼業」やカラオケなど「唾のかけ合い」の場らしいが、スペインでは日常の付き合いがすべてそうなのだ。悪いことにこの国の人々はとにかくパーティー好きである。しょっちゅう家族や友人による誕生パーティーが開かれるし、爺さんや婆さんの誕生日ともなると親族一同が、家の狭い部屋やレストランの一室で大規模なパーティーを派手派手しく繰り広げる。さらに若い人々は夜中に街路や広場や公園などに座り込んで「ボテジョン」と呼ばれる野外の宴会を開くことが大好きだ。広場や公園に何グループも集まって数百人規模の「マクロ・ボテジョン」を形作ることも多い。野外といえども「唾の霧」つまり「ウイルスの霧」の中で激しく呼吸をしながらのどんちゃん騒ぎになる。「第2波」も何も、緊急事態が終わった後の国中がこんな様子なのだから、そりゃ感染者が増えるのも当たり前だワ。

 実際に、6月後半に封鎖措置が解除された後にスペイン全国で500以上の「クラスター」が発生しているが、その大多数が、家族・親族内や友人同士によるパーティーか、若い人たちの「ボテジョン」由来のものである。あとは、相変わらずの老人施設のほかに、ドイツなどで起こっているのと同じ食肉解体工場での集団感染、そして農場の果実の収穫現場(どちらも労働者のほとんどがアフリカ人などの移民)での集団感染で、これはこれで別の重大な面を含む問題だ。しかしスペイン人の「コロナ以前の日常」にある「ファクターQ」で最大のものはこの激しい唾のかけ合いになってしまうスペイン人(たぶんイタリア人やフランス人でも)のおしゃべりにあるのではないかと、非常に個人的にだが、そう思ってしまう。
 
 いまスペインの多くの自治体でマスクの着用と「1.5m以上の社会的距離」が義務化(違反には罰金)されている。野外での喫煙すら「ウイルスを運ぶ危険がある」ということで、各自治州ごとに禁止されつつあるのだ。しかし、ディスコなどの深夜の娯楽の場の営業が1時まで(12時以降は新規の客を入れない)に制限されているため、店を追い出された若者グループによる野外での宴会が増えまくっている。間違いなくノーマスクで超密着状態になるため、すでに警察の取り締まりによって膨大な人数に罰金処分が科されているが、いずれは酔っ払った若者グループと警官隊の暴力的な衝突が多発しかねない。

 また南部アンダルシアなどでは伝統的な闘牛が再開されほぼ満席の客席から「オーレッ!」の歓声が上がっており、さらに幾つかの町村で伝統的な祭りが非公式に行われている。マドリードの競馬場でも大勢の客が歓声を上げる。もちろんマスクも社会的距離も全く無視される。しかし国民党などの保守勢力が実権を握る州や市町村がそれを取り締まることはできまい。老いも若きもこんな状態なのだから、ほぼ間違いなくCOVID-19禍は今後も繰り返し「波」を作りながら長期間この国を襲い続けるだろう。

 また我々が街路に座席を置くバル(喫茶店)やレストランの横を通るときには注意が必要だ。飲食の際にマスクを外すのはもちろんだが、人々はほとんどの場合、マスクを外したままで怒鳴り合うような大声で歓談している。その横を歩かねばならない時には、唾の粒が飛んでくるかもしれない風の向きを計算しながら距離を測って通り過ぎるか、それが難しければ遠回りになっても道を変える必要がある。マスクを外したりずらしたりして大声で電話に向かって話しながら歩くオッサンを見たときでも同様である。「それがスペインだ!」と言われれば確かにそうだが、ヤバイと思えばこっちが逃げるしかない。

 もっとも、みんなでマスクを着けて遠く離れボソボソと話をすることが生活習慣として定着してしまったら、これはこれで問題かもしれない。このCOVID-19禍が続く間はしかたがないが、しかし、何年後になるかしれないがCOVID-19禍が終わった後にも、握手もベソ(抱き合って頬にキスを交わす挨拶)も無し、人々が距離を置いて小声でしゃべりあうような味気もそっけもないスペインが残されるなら、もうこれほどにつまらないことはないだろうが…。


《基幹産業への壊滅的な打撃》

 私の住むバルセロナ市の中心アシャンプラ地区には四つ星や五つ星のホテルが数多くあるが、現在、そのほとんどが扉を閉め、中にはベニヤ板などでガラスの扉を覆っているものすらある。この8月、バルセロナ市内にあるホテルは4分の1しか開いていない。開けているホテルでも大幅な宿泊料の値下げを強いられ、しかも客室占有率が20%を超えることが無く、客のほとんどはスペイン国内から来た人々だ。閉じているホテルのほとんどが従業員を一時解雇の状態にしているが、この9月以降にホテル業界の倒産が相次ぐなら自動的に大量の失業者が街頭に放り出されることだろう。

 ホテルばかりではなく、昨年までなら英国やドイツや中国などからの旅行者であふれていた民泊の集合住宅には人影が無く物音ひとつしない。何せ、この6月にスペイン全体で外国人観光客が昨年より97.7%減少し、外人観光客が落とすカネの98.6%が失われたのである。そしてそれは7月になっても8月になっても基本的に変わらない。スペイン全土で盛り上がる「コロナ第2波」のために、最大の「お得意様」である英国が、スペインから帰国する自国民にPCR検査と2週間の自宅待機を義務化しており、それを覚悟してわざわざスペイン観光に来る人は少ないだろう。ベルギーやイタリアも同様の措置を取る。またドイツは自国民に対してスペインの「コロナ第2波」が激しい地域に入らないように要請している。フランスは「第2波」が激しいカタルーニャなどへの出入りを禁止するかもしれないぞと脅しをかけたため、観光客が恐れてスペインに近寄らない。

 観光はスペイン最大の産業であり、2018年には国内総生産の14.6%に当たる1760億ユーロ(約22兆円)と260万人の雇用をこの国にもたらしている。ホテルなどの宿泊施設とそれに関連する多くの職業、飛行機や列車などの運輸関連、バルやレストランなどの飲食業とそれに関連する農業・食品などの産業、有名観光スポットとそこでの土産物の生産に当たる無数の中小企業、…、等々が取り返しのつかない打撃をこうむっている。経済界ではこの6~8月の3か月で昨年比で830億ユーロ(約10兆4千億円)が失われると試算しているが、3~5月は国自体が封鎖状態だったし、9月以降も見通しが立たず、観光に関連する産業は壊滅と言ってもよい。

 私は3年前に『カネ!カネ!カネ!:市民生活を押し潰すネオリベラリズム』の中で、激流のように押し寄せてきた過激なツーリズムと集合住宅への買い占めが我々の生活を脅かしていることを書いたのだが、それが一気に無くなってしまった。静かで安全になってよいかというと、逆に今度は過激な泥棒が増えている。今までなら観光客相手にスリを働いていた連中が、カモがいないために一般の通行人や集合住宅に出入りする住民を暴力的に襲うようになったのだ。

 さらに、民泊として部屋を貸していた家主がカネに困って賃貸住宅に変えつつあるためにバルセロナの家賃が下がりつつある。それはそれでよいのだが、心配されるのは、集合住宅の値段が大幅に下落すると資金をダブつかせた「ハゲタカ」どもが一気に買いあさるかもしれないことだ。この土地に根差した伝統的な家主や不動産屋なら無茶苦茶な売り方や貸し方はしないが、外国資本の連中がこのアシャンプラの街を、歴史も文化も考慮に入れず、今後長きにわたってぶち壊し続ける可能性もある。健全でバランスの取れた観光産業の喪失はこの都市を長期にわたる災難の中に放り込むかもしれない。

 次に、意外かもしれないがスペインの工業の中で自動車生産は2019年に約280万台で世界第9位と大きな地位を占めており、直接的におよそ57万人の雇用を支えてきた。輸出でも自動車・自動車部品は石油化学製品と並んでこの国の最も大きな「売り物」である。純国産はセアト(Seat)だけで、日産、フォード、フォルクスワーゲンなどの外資系企業がほとんどすべてと言ってよい。もちろん自動車産業はその周辺にある膨大な数の関連産業によって支えられており、観光と並んでこの国の基幹産業の一つであり続けてきた。

 これはどの国でも同じだろうが、COVID-19禍による国や国内地域の封鎖措置と消費意欲の落ち込みによって、自動車産業が大打撃を受けており、この国でも関連産業を含めて雇用の7.2%、約53万人に影響を及ぼしている。大企業は「一時解雇」でしのいでいるが中小企業はまともに打撃を受けざるを得ない。そんな中で5月に日産自動車がバルセロナ工場の閉鎖を決めたから大変な騒ぎになった。90日に及ぶ無期限ストと厳しい交渉の末、8月5日になって閉鎖を1年延期することで会社と労組の間で合意が作られ、来年1月から2500人の従業員に対する依願退職の募集や補償金の支給などの対策が行われることとなった。

 しかし仲介役となったカタルーニャ州政府は大きな「宿題」を抱えている。日産の会社側と労組との合意はあくまで日産の組み立て工場でのものであり、その下請けや孫請けの中小企業はまともに仕事を失うことになる。マイナスの波及効果は膨大なものになるだろう。それらへの対策はどうするのか。州政府にも中央政府にも目途の立たせようがない。スペインのもう一つの基幹産業と言ってよいものが土木建設業だが、非常事態によって休止していた期間を除けば、その活動はさほど落ちていないようだ。かつての米国の「ニューディール政策」時期やドイツのナチス政権がやったように、中央と地方の政府が主導して様々な土木建設でスペイン国内を無茶苦茶にしながら余剰労働人口を吸収するしかないのだろうか。

 コロナウイルス禍で人々の移動と消費の意欲は徹底的に落ち込みつつある。一部にはこの疫病騒動を奇貨として躍進する産業分野があるだろうが、バル、レストランなどでの消費の減少一つとっても、付き物のアルコール飲料、チーズや生ハムなどの食品加工業、野菜や魚・肉などの生鮮食品、そしてそれらを運ぶ運送業などなど、多くの分野で利益の減少を生む。中小の工場・会社や店が次々と倒産すれば家主も破産の危機に追い込まれる。産業というとどうしても大規模なものに目が行くが、実際には街頭を歩いて目に映るもののすべてが産業だ。スペインで「最大の産業」はそういった小規模経営の店や企業、個人営業(歌手や演奏家、俳優、芸人、スポーツ関係など文化面を含む)などの「その他諸々」だろう。そういった統計になりにい産業こそ、不況の最大の被害者になるだろう。

 このコロナウイルス禍の影響は欧米諸国で何年も続くだろうから、必然的に政治の体制に変化をもたらすことになるだろう。さらに、社会と産業の在り方自体が、デジタル化(AI化、DX化と言ってもよい)、グリーン化(持続可能化、エネルギー革命など)、そしてある種の「社会主義化」(ベーシック・インカム制度、監視社会化、国家管理化など)に向かって大きくかじを取っていきそうな気がする。これについてはまた別の記事にしたいのだが、その変化は以前から起こっており、コロナウイルス禍がその変化を早める触媒の役割をしているのではないかと思う。


《腐れ落ちる「国家のシンボル」:「恥さらし」では済まない》

 この話はいずれ別の特集を組んで書く必要がある。ここではどんな意味を持つことが起こっているのかを説明してみたい。先ほどの項目で紹介した日本語記事の中で『スペイン前国王にマネーロンダリング疑惑、元愛人が証言』は2年前のものだ。この中で「元愛人」の氏名を「コリーナ・ツー・ザインビトゲンシュタイン(Corinna zu Sayn-Wittgenstein)」と紹介しているが、本名はコリーナ・ラーセン(Corinna Larsen)という。「ツー・ザインビトゲンシュタイン」は彼女が2000年に結婚して2005に離婚した(子供を一人もうける)ドイツの貴族男性の名前だが、なぜか今でもこの名を使い続けている。職業は「企業主」ということになっているが詳しくは分からない。欧州の上流階級の間を体一つで渡り歩く謎の多い女性だ(Wikipedia英語版)。

 しかもコリーナから前国王の資産隠しを聞き出して音声テープに残したのが、現在はスパイと恐喝の容疑で収監・取り調べ中の元国家警察警視ホセ・ビジャレホ(参照:《国家権力中枢の闇に潜むネズミども》)である。何重にもうさん臭い。相当に裏がありそうだ。そしてそれ以来、サウジアラビアの高速鉄道建設に関連してサウジ王家からフアン・カルロスに1億ドルが受け渡された、そしてそのうちの6千5百万ユーロがコリーナが持つパナマなどの幽霊会社の口座に振り込まれた、フアン・カルロスがコリーナに何百万ユーロかのロンドンの住宅を買い与えた、などなどの情報が次々と明るみに出された。

 サウジアラビアの砂漠の真ん中を突っ走ってメッカとメディナを結ぶ高速鉄道の工事を受注したのはスペインの企業であり、その中心はACSグループ(オーナーはレアル・マドリード会長のフロレンティーノ・ペレス)である。67億3600万ユーロ(約8350億円)もの工事費用はサウジアラビアの国費から出ているが、フアン・カルロスがまだ国王だった2008年の入札の時点で、工事費用を安く抑え、フランス、ドイツ、日本、中国の企業と競り勝って受注したものだった。サウジアラビアにすれば、思いのほか安い費用で工事を請け負ったスペイン企業を仲介してくれたスペイン国王に100億円以上のカネをポンと渡すくらい、何ということは無かったのかもしれない。

 しかしそのカネは表には出してはならないものであり、しかも愛人コリーナ・ラーセンがそのカネの処理に登場する。全て、大多数のスペイン国民がリーマンショック後の大不況の中で塗炭の苦しみを味わっている最中のことだった。それは2020年3月、コロナウイルス禍で国家非常事態の宣言の騒ぎに隠れるように 『スペイン国王、相続財産を放棄 前国王への年金も差し止めへ』という事態に発展した。スペイン王室も中央政府も「もう隠しきれない」と観念したわけだろう。そして7月にスイスの検察当局が、サウジ王家からスペイン国王に渡った黒いカネと、資金洗浄にかかわるコリーナの役割について、『スペイン前国王、疑惑に揺れる 資産隠し、愛人に手当?―サウジ高速鉄道で収賄か』にあるとおり、本格的な捜査を開始した。またスペイン最高裁所属の検察もスイスから資料を取り寄せ、国内での追及も開始された。

 そのうえで、8月3日に『スペイン前国王、国外へ サウジの鉄道めぐる汚職疑惑受け』、『スペイン前国王、今どこに? 各国で報道が錯綜』という事態が起きる。現在、名誉国王の居場所について、ドミニカ共和国、アブダビ、ニュージーランドが噂されてるが、本当のことは分からない。しかし「逃亡した」ということは、容疑を認めた、もう隠せないと悟った、という話になるだろう。ここでこの事件がスペイン国家そのものに対して与える打撃の大きさについて、少し掘り下げて述べてみたい。

 1936年から約3年間続いたスペイン内戦は、ソ連が後押しする共和政府側と、英米が黙認しヒトラーやムッソリーニに応援されるクーデター派(フランコ)側による、ある意味で第2次世界大戦のひな型だった。そして、1975年のフランコの死に続く78年の憲法制定による立憲王政国家成立と82年のフェリペ・ゴンサレス社会労働党政権の誕生は、米ソ冷戦における西側勢力が成し遂げた一つの「勝利」とも言えるものだった。私は『旅人に道はない。歩いて道が作られる。』の中で次のように書いた。

 『…確かにフランシスコ・フランコは憎むべき独裁者だった。そのスペインの独裁政治の継続を断ち切ったのがテロ集団ETA(バスク祖国と自由)によるフランコの後継者カレロ・ブランコの暗殺(1973年12月)だったが、しかしそれは実質的には、ETAを操っていた米国CIAによる犯行だったことがほぼ確実である。ブランコがアラブ諸国とイスラエルとの間のヨム・キッパー戦争の際にスペイン内の米軍基地の使用を断ったことが原因とも言われるが、彼は何よりもペロンと同様のナショナリストであり、NATOに対して大きな反感を抱いていたのだ。CIAに直接に暗殺を命じたと言われるのは、その3ヶ月前にチリでピノチェットによるクーデターを成功させたキッシンジャーだったのである。その9年後の1982年に「民主化された」スペインはNATO加入を決め、その後の社会労働党ゴンサレス政権は自らの公約を破りEC(欧州共同体)加盟を餌にして、NATOからの脱退を求める国民多数派を裏切ったのだ。かつて国内の小悪党に統治されていたスペインは国際的な大悪党に操られる国に変わった。…

 また独裁体制から立憲王政の「78年体制」への移り変わりについては、こちらの『スペイン現代史の不整合面』でやや別の角度からその断面を書き留めておいた。カレロ・ブランコに続くフランシスコ・フランコの死から78年憲法の制定、そしてフェリーペ・ゴンサレス社会労働党政権の誕生は、すべて巧みに演出されていた。その中心にいたのがフアン・カルロスだったのだ。彼は軍事クーデターの阻止という役割を通して、現代スペイン国家誕生劇の最大の主人公としてあらゆる尊敬を受ける立場になったのである。

 この新たなスペイン国家誕生劇が世界の現代史の中でどんな意味を持っていたのか? 米国を中心とする西側(NATO)勢力にとって西欧に独裁国家が存在することは、米国内での黒人問題と同様に、ソ連との対抗上で危険きわまりないものだったのだ。何としてでも「存在しない」ことにしておかねばならない。このスペインの「独裁体制から民主体制への変換」は、第2次大戦後の日本の体制変換にも通じるところがある。確かにどちらの国も表向きの姿は変わってしまった。しかし、日本では天皇制官僚システムがその頂点の神輿を米国に置き換えられて新体制の中に無傷のままで残された。スペインでも『生き続けるフランコ(1)』に書いたように、「組織犯罪(マフィア)国家」としての構造が78年体制の中で無傷のままに残された。それらの「残されたもの」は、それぞれの国にとって「国体」と言ってもよいかもしれない、国家の最も基本的なありかたである。

 日本の天皇もスペインの国王も「国民統合の象徴」なのだが、スペインでは『自滅しつつあるスペインの二つのナショナリズム(1)』の《「調停者」にならなかった国王》で書いたように「国家統一の危機」にあって国王が積極的に政治情勢に関与する。より典型的には、社会労働党政権誕生の前に起きたクーデター未遂事件(1981年)の際がそうだった。フアン・カルロス1世はこのクーデター劇の中での働きによって、以前にフランシスコ・フランコが受けていた以上の国民の尊敬と信頼を身にまとうことができた。そしてこの国の行政システムがどれほど非能率であっても政治・経済が腐敗していても、王家への信頼と忠誠が国家の形を守ってきたのである。

 それが崩れ始めたきっかけは、『シリーズ:『スペイン経済危機』の正体』にある『(その2) 支配階級に根を下ろす「たかりの文化」』の《「国家統合の象徴」が見せる破産寸前国家の惨めな姿》で書いたボツワナでの「ゾウ狩り事件」だった。スペインWWF(世界自然保護基金)の名誉会長でありながら、未曽有の不況の中で苦しむ国民をよそに、サウジアラビア王族からもらった費用で絶滅の危機にあるアフリカの大型動物を殺していたことが、何の否定の余地もなく明らかにされたのだ。しかも愛人のコリーナと一緒にである。そのときに国王はまるで先生に叱られた小学生のように「ごめんなさい。私が間違っていました。もう二度としません。」とTVカメラの前で小声でつぶやいたのだが、今回の「逃亡事件」はとうてい「恥さらし」では済まされない。

 若いころからフアン・カルロスの助兵衛ぶりは有名だったから浮気の十や二十は国民にとってどうでも良いことだろうが、サウジ王家との100億円を超える黒いカネの受け渡し、愛人を通しての資金洗浄、名誉国王の称号を背負ったままの腐敗追求からの逃亡劇は、フランコ没後に築き上げた王家に対する国民の信頼と尊敬をすべてぶち壊してしまいかねない。それが分かったからこそ現国王フェリーペ6世は父親からの遺産を放棄し、名誉国王を王室から切り離しにかかったのだ。その知恵を付けたのはおそらくペドロ・サンチェス中央政府の誰かだろう。スペイン王家は、1931年のスペイン革命・第二次共和制の際に当時の国王アルフォンソ13世(フアン・カルロスの祖父)が追い出されるという苦い経験を持っている。フェリーペは国民の支持の喪失を心の底から恐れている。社会労働党は78年体制の崩壊を心の底から恐れている。

 国民の生活がある程度余裕のある時には王家が少々無茶苦茶をやっていても国民はさほど気にしないだろう。一応の満足を得ている人間は今の状態を無理に変えようとはしないものである。しかし、これから後に起こると思われることは、そんな希望的観測を吹き飛ばしてしまう可能性が高い。繰り返し押し寄せるCOVID-19(あるいはより強力な病原体)禍の「波」とそれによる人心と生活の絶望的な混乱、想像を絶する不況と政治的な転換の中で起こるだろう巨大な社会不安は、人々にそんな心の余裕を持たせないはずだ。カタルーニャやバスクの独立派でなくても、いまの立憲王政国家制度に対する不信と反感は手が付けられないほどに膨らんでいくことだろう。

 いま名誉国王がどこにいるのか、今後の展開がどうなるのかは予断を許さないが、どう転んでもそれが決して王家とスペイン国家にとって明るいものになるとは思えない。《「死にいたる病」》および『狂い死にしゾンビ化する国家』で書いたように、スペインはすでにEUやIMFの「人工心臓」と「血液透析」でやっと生きるほとんどゾンビ化した国家なのだ。この件を通してその外形すら崩れ落ちるなら、それは必然的に欧州全体の問題に発展し、EUの在り方そのものを変えていく重大なきっかけになっていくかもしれない。

 スペインでの新型コロナウイルス禍の状態や経済不況の進行については、世界全体の動きの中で誰にでもある程度は推測の付くことだろうしデータも手に入りやすいだろう。しかしこのスペイン国家のシンボルに関する情報とそれが持つ意味、特にカタルーニャやバスクの独立派に与える影響、そして欧州各国の反応などについては、何かの展開があり次第、記事にしてまとめていきたいと思っている。


【『三重苦のスペイン』ここまで】
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