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シリーズ:『カタルーニャ独立』を追う

⑬歯止めを失った二つのナショナリズム


 これは私が10月15日に書いた『最も不名誉な1週間』の続きである。これから間隔を短くしてできる限りの速報性を持たして書いていくようにしたい。

2017年10月18日 バルセロナにて 童子丸開

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小見出し一覧(クリックすればその項目に飛びます)
《ナショナリズムの功罪》
《民族主義団体代表の逮捕・拘禁》
《プッチダモンはラホイを罠にはめつつあるのか?》


【写真は、16日夜に逮捕されたオムニウム・クルチュラル代表のジョルディ・クシャール(左)およびANC(カタルーニャ民族会議)代表のジョルディ・サンチェス(右):エル・パイス紙】


《ナショナリズムの功罪》

 「人はパンのみによりて生きるにあらず」とは新約聖書にあるイエス・キリストの言葉として有名だが、同時に我々は「衣食足りて礼節を知る」という孟子の言葉も知っている。人間の生活を支える物質的な価値と精神的な価値のバランスが崩れれば、どちらの方向に偏ったとしても、人間とその社会は自滅に向かうだろう。私は哲学者ではないからこれらの言葉とその意味自体について深く突っ込むことはできないが、いま私の目の前で起きているものは、「パン」あるいは「衣食」ではない方の側に突っ走って自滅寸前に陥っている一つの社会の姿のように見える。

 生きるエネルギーは、単に個々人の体の中で起こる化学反応や肉体的な満足を得ようという欲望だけではなく、社会的な価値や精神的な価値を持って充足感を得ようという意欲によっても、同時に作られる。その社会的・精神的な価値の中で極めて重要な部分を占めているのがナショナリズムだと思う。ナショナリズムは人間が人間らしく生きるために、人々が連帯感と誇りを持って社会の中で生きるために、必要不可欠なものだろう。私が当サイトに載せているユダヤ系ロシア人イズラエル・シャミールの作品『現在進行中 2005年に予想されていた現在の欧州難民危機』や『日本でのオバマ』にあるナショナリズムへの賛美は決して大げさなものではない。シベリウスの「フィンランディア」やスメタナの「モルダウ」などの名曲は、世界中のどの人にも(「フィンランディア」はスウェーデン人にとっては嫌かもしれないが)深い感動を与えるものだ。

 しかし同時にそれは、当サイトにある『ウクライナのナショナリズムとファシズム:歴史概観』や『シリーズイスラエル:暗黒の源流 ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム』に見るように、極めて破壊的な、また自滅的なものになりかねない要素を持っている。それは理屈以前の盲目的な感情であり、いったん歯止めを失うと巨大な怪物に変化するのだ。私はなんとなく、宮崎駿原作のアニメ映画『千と千尋の神隠し』に登場する愛すべき不思議な妖怪カオナシを思い浮かべてしまうのだが、それが何らかの詐欺的な目的や政治的な目的を持って誘導されるなら一つの大量破壊兵器にすらなるだろう。

 いま私が生きる国で起こっていることは、二つの歯止めを失ったナショナリズム、カタルーニャ・ナショナリズムとスペイン(カスティーリャ)・ナショナリズムの食いちぎり合いのように思える。ちょうど、スペインの生んだ偉大な画家ゴヤの描いたこん棒で殴り合う二人の男の絵のようにも見える。この二人の男は、なぜ自分がこいつを殴らなければならないのかすら分かっておらず、ただ激情に駆られて相手が死ぬまで殴り続けようとしているだけだ。彼らの足は深い砂に埋まりその場から動くことができなくなっている。ゴヤの生きていた時代でもまたその後の時代でも、スペインは数多くの内乱とテロに悩んできた。

 それは多民族国家としての宿命かもしれないが、民族同士の反目以上に、王党派、貴族や地主、軍、近代主義的改革派、アナーキズムに駆られる民衆など、様々な立場と思想を持つ社会的な勢力同士の泥沼の争いでもあった。その結果として、軍事力をもってスペイン全土を一つのナショナリズムで統一しようとするプリモ・デ・リベラやフランシスコ・フランコの独裁主義が登場した。そしてそれがまた、カタルーニャやバスクなどの民族ナショナリズムを育てることともなった。いまこのナショナリズムの非妥協的なぶつかり合いの果てに、いったい何が生まれようとしているのだろうか。
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《民族主義団体代表の逮捕・拘禁》

 前回の『最も不名誉な1週間』を書いた翌日10月16日の午前10時に、カタルーニャ州知事カルラス・プッチダモンは、中央政府首相マリアノ・ラホイに返答をした。いや、しなかったという方が正確だろう。10日にプッチダモンが「独立宣言」であるともないともつかぬ曖昧な発表をしたのだが、それに対してラホイは11日に「5日間待とう。10月10日に独立宣言があったのか、それとも無かったのか、16日(月曜日)までに明確にせよ。」と言った。もし「独立宣言があった」と答えるなら、中央政府は自治体からあらゆる自治権を奪い取る憲法155条を発動するが、その場合、19日(木曜日)までにそれを破棄してスペイン国家の法に服することを誓え、つまり独立宣言と同時に9月以降に決めた住民投票州法と分離独立州法を破棄せよ、さもなければ憲法155条を即時適用する…と。もし憲法155条が適用されれば、カタルーニャ州のなけなしの自治権はすべて廃棄され、カタルーニャは中央政府の直轄地となる。

 しかし16日にプッチダモンは「独立宣言だったのか、そうではなかったのか」を明らかにすることなく、ただ、2か月の期間を定めて「対話」を求める書簡をラホイに送った。もちろんラホイは即座にこのカタルーニャ州知事の呼びかけを拒否した。たまたまその日に彼は、地元のガリシアで起こっていた放火によると思われる大規模な山火事の消火作業の視察のために出かけなければならず、主要な対応は副首相のソラヤ・サエンス・デ・サンタマリアが行ったのだが、彼女は激しい口調でプッチダモンを非難し、対話なら議会の中で法律の範囲内でせねばならないと直接の対話を拒絶し、その姿勢を18日まで続けるなら憲法155条を即時適用すると最後通告した。

 その夜のことである。ちょうどその日にカタルーニャ州警察署長のジュゼップ・リュイス・トラペロ、ANC(カタルーニャ民族会議)代表のジョルディ・サンチェス、そしてオムニウム・クルチュラル代表のジョルディ・クシャールの3人が、9月20日にバルセロナで起きた逮捕劇に対する市民の抗議行動(当サイト記事『《「パンドラの箱」を開けてしまった愚かな中央政府》』を参照)の責任者として取り調べを受けるために、マドリードの全国管区裁判所に出頭していた。裁判所がそれをちょうど16日に指定したのは偶然ではないだろう。

 州警察署長トラペロは裁判所から9月20日の抗議行動を止めようとしなかったことの職務放棄の容疑で取り調べられたのだが、中央検察庁は彼を反逆罪で取り調べ即刻刑務所行きにするように要請を出している。しかしトラペロはこの日に保釈金とパスポートの効力差し止めという条件付きで釈放された。だが裁判所判事は、サンチェスとクシャールの二人をそのまま逮捕してマドリードのソト・デ・レアル刑務所で身柄を拘束するように命令を出した。(このへんは日本と制度が異なるので分かりにくいかもしれないが。)そしてこれが、プッチダモンに対する中央政府の返答だった。もちろんこの逮捕・拘束命令は政府ではなく裁判所が出したものだが、「三権分立」などという浅はかな虚構はこのような「いざ」となったときに仮面を取り外されるのである。
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《プッチダモンはラホイを罠にはめつつあるのか?》

 中央政府はまたしても「パンドラの箱」を開けてしまったようだ。あのプッチダモンの曖昧な「宣言」ですっかり調子を狂わせていた独立派の人々が、この民族主義団体代表者の逮捕で再び巨大なエネルギーを取り戻したのである。翌17日の夜にバルセロナでサンチェスとクシャールの釈放を要求する20万人(市警察発表)の大デモが行われ、タラゴナ、ジロナ、リェイダ、セウデウルジェイュなどの各都市でも大規模なデモで中心街が埋まった。もちろん州議会でも独立派の議員たちが抗議の意思を示したのだが、興味深いことに、中央政府に住民投票の受け入れを求めたが一方的な独立に反対するポデモス系の党派ばかりではなく、住民投票にも独立にも反対してきたカタルーニャ社会党までが抗議の隊列に加わったのである。姉妹党のスペイン社会労働党は憲法155条の導入をやむなしとしており、彼らの間でかなりもめそうだ。

 また独立派各派およびポデモスは拘禁されている二人を「政治犯」と呼び即時釈放を求めたが、この「政治犯」という言葉は16日夜に各地で行われたデモの参加者たちが口をそろえて言っていたことである。さらに州政府は16日の全国管区裁判所の決定にいついて「フランコ政権でも敢えてやらなかったようなことをこの21世紀にやった」と非難した。もちろん中央政府は、彼らは思想的なことで逮捕されたのではなく違法な行動のために逮捕されたのだと主張しているが、これらのことは後々に非常に重大な意味を持つことになるだろう。私が『《一皮むけばフランコ独裁時代》』で少し触れたことだが、《21世紀の欧州でフランコ独裁が復活している》という認識が西側世界で広められるなら、ひょっとするとカタルーニャ問題で「大逆転」が起こる可能性すらあるだろう。

 17日からブリュッセルでも再びカタルーニャ問題に対する議論が開始されたが、憲法155条がカタルーニャに適応され、そこで起こる出来事について、カタルーニャ独立派側とそれに同調する勢力が事あるごとに「フランコ独裁復活」を持ちだせば、これは収拾のつかない大騒動をスペインだけでなく欧州全体に広めかねない。つまりカタルーニャ側の違法性よりもスペイン政府側の対応の方が「悪者」にされてしまうかもしれない。そうなるとEUや米国もラホイ政権をかばいきれなくなるだろう。10月1日の住民投票でもそうだったが(参照:当サイト記事『《武装警官隊による暴力は何のためだったのか?》』)、マドリードの中央政府は次々と「落とし穴」あるいは「罠」にはまっていくように思える。前回『最も不名誉な1週間』の中で私はプッチダモンの曖昧な「独立宣言」についてクソミソにけなしたのだが、案外と彼はラホイ政権をじっくりと罠の中に追い込んでいるのかもしれない。

 18日にラホイは、もしカタルーニャ州政府がすぐに州議会を解散して選挙を行うというのなら155条の適用はしないと誘いかけた。これはおそらく社会労働党のペドロ・サンチェス党首が強く推したものだろう。しかしプッチダモン州知事は選挙を行うつもりはないと突っぱねた。これで155条適用は避けられないものとなったと思われる。中央政府はすでにカタルーニャに政府直属の係官を派遣して直接に統治する準備をしているはずである。
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※ 次回はこの週末(21日か22日)を予定しています。その時には中央政府の対応が明らかにされてどんな行動が起こされるのか見えてくるでしょうから。

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