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生き続けるフランコ(1)


 当サイトの『自滅しつつあるスペインの二つのナショナリズム(8)』にある《高まるスペイン・ナショナリズム》でも触れたことだが、スペインでは「ナショナリスト」というとカタルーニャやバスクなどの分離独立主義者を指す。我々外国人の目から見ると明らかにスペイン人の思考を支配しているスペイン・ナショナリズムは、スペイン人にとって存在しないものだ。この国の大部分の政治家や評論家、ジャーナリストたちはそれを「センティード・コムーン(sentido común)」つまりコモンセンス(常識)と呼ぶ。

 この国の政治的右派である国民党やシウダダノス、左派を代表する社会労働党は、この「センティード・コムーン」が西欧型民主主義と全く一致するものと固く信じている。何よりも、世論形成で最も重要な役を果たすジャーナリズムと現代史の解説者の間で、この「センティード・コムーン=西欧型民主主義」の公式が疑いをはさむことの許されぬ真実とされてきた。

 しかしこの公式に対する信念はカタルーニャ独立運動が激化するこの2~3年、特にそれが国際化してきた今年に入って、ようやく崩れ始めているようだ。それに加えて、表現の自由への抑圧や政治・経済的な腐敗構造の暴露などが、外部の眼から辛辣に眺められていることを自覚せざるを得なくなったのだ。いまからの文章で、「スペイン」を「ドイツ」に、「フランコ」を「ヒトラー」に置き換えて考えてみるときに、スペインの「センティード・コムーン(コモンセンス)」がイコール西欧型民主主義と言えるかどうかの答が、おのずと出てくるだろう。

2018年8月24日 バルセロナにて 童子丸開

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●小見出し一覧(クリックすればその項目に飛びます)
 《「戦没者の谷」に葬られる独裁者》
 《フランコの遺産》
 《最大の遺産:“組織犯罪国家”》


【写真1:戦没者の谷:二人のファシスト、プリモ・デ・リベラとフランシスコ・フランコの墓がここにある】

【写真2:墓地の中に複数の戦死者の遺骨がバラバラに混ぜられた状態で放りこまれている】



《「戦没者の谷」に葬られる独裁者》

 サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル(San Lorenzo de El Escorial)はマドリード州の北西部グアダマラ山脈にある町だが、ここにある「戦没者の谷(El Valle de los Caídos)(参照:Wikipedia日本語版)」は、1936年からおよそ3年間続いたスペイン内戦の死者を葬る共同墓地である。スペイン内戦についてはWikipedia日本語版およびこちらの当サイト記事『「スペイン内戦」の幻想と傷と癒し』を参照のこと。この「戦没者の谷」には、【写真1】に見るように、谷の崖を掘り抜いて作られた34000に近い数の遺体を収める墓地と付属の教会、そして丘の上には世界最大と言われる巨大な十字架がある。この施設は、スペイン内戦の勝利者フランシスコ・フランコの肝入りで、1940年から約18年かけて建設されたものだ。(こちらの写真は1940年にこの共同墓地建設を視察するフランコ。)

 今年4月24日付のエル・コンフィデンシアル紙は、この墓地に埋葬されている死者たちの遺体についての興味深い記事を載せている。この墓地には、公式の数字では33815の遺体が眠っているとされるが、そのうちの約3分の2の遺体に関しては氏名と出身地が記録されている。しかし残りの12410の遺体については、どこの誰とも全く分からない。フランコ没後、この共同墓地に収納された遺体に関する様々な驚くべき記録や証言が現れてきた。その中で重要なものをいくつか紹介しよう。

 この共同墓地建設の当初からフランコは、フランコ軍の兵士、つまり自分のために死んだ者たちだけを埋葬しようとしていたのである。しかし国際的な圧力によって、敵軍であるスペイン共和国軍兵士の遺体も一緒に埋葬せざるを得なくなった。冷戦中の1953年に結ばれた米西防衛協定以来、西側諸国の経済的な関係が断たれればスペインは国家として成り立っていけなかったのである。ただでさえこの「戦没者の谷」の建設に、反フランコ活動で投獄された多くの政治犯たちを労働力として使ったことで、反ファシズム意識の強い西側諸国民から非難を受けていたのだ。

 それにしても、どのようにして34000ほどもの遺体をここに集めたのか。フランコ政権は共同墓地の完成が近付いたときに、スペイン中の市町村の長に命令を出して遺体を集めさせた。独裁者の命を受けた市長村長たちは、内戦で死亡した兵士たちの墓地から遺族の許可を得ることなく遺体を掘り出し、この共同墓地まで運んだのだ。自分の親族の墓が空っぽになっていることをその後20年間以上も知らずに墓参りを続けていた遺族たちも多くいたのである。エブロ川と共に激戦地となったブルネテ市(マドリード州)からは2500~3000の遺体が集められたという。ただしフランコは、自分の出身地であるガリシア州のア・コルーニャと近隣のオウレンセの墓を掘ることはさせなかった。

 それでも、フランコ軍兵士の場合には遺体の扱いはまだ丁寧だった。共和国軍兵士の遺体はごちゃ混ぜにされて適当に放りこまれただけだったのだ。記録されている数よりもずっと多くの人たちの遺骨が共和国軍兵士の遺体置き場で確認されている。【写真2】を参照してもらいたい。この墓地を長年研究してきた専門家によると、それらの遺体はスペイン中にある墓地の地中からつるはしとスコップで掘り出されたもので、実際には公表の数字よりももっと数が多いはずだ。比較的丁寧に扱われたはずのフランコ軍兵士の遺体置き場でさえ、石組が崩れてボロボロになっていることが確認されている。これらの点は、ようやくこの数年の間で徐々に明らかにされてきたことである。

 フランコとその独裁政権支持者にとって死者の尊厳など何の意味も持っていなかった。彼らには彼ら自身の尊厳だけが重要であり、そのために遺体が必要だっただけだ。フランコ自身は生前、この「戦没者の谷」に葬られることを望んでいなかったと言われる。しかし先輩の軍事独裁者ミゲル・プリモ・デ・リベラの息子でファシスト政党ファランヘの創設者であるホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ(1903~36)の遺体は、すでに1959年にこの「戦没者の谷」に移されていた。独裁政権を支えてきたファランヘ党(このときは「国民運動」と改名されており現在の国民党につながる)の者たちは、フランコの遺体もまたこのプリモ・デ・リベラの側に安置したのである。

 この「戦没者の谷」がスペイン内戦の戦没者の眠るべき場所であろうはずもない。その初めからここはスペイン型ファシズムの聖地として作られ、そしてフランコの死後も同じ意味合いを持って維持されてきた。ファシスト政党創始者と軍事独裁者が、「官軍」と「賊軍」の差別構造の上に立って、スペイン全土を睥睨(へいげい)する構図であろう。この「戦没者の谷」が持つ意味は、1978年に憲法が制定された後も、現在に至るまで変化を受けていない。独裁時代に「反逆者」として処刑された人々の名誉回復は未だなされていない。内戦中にフランコ軍によって処刑された詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカは、未だに遺体の埋葬場所すら分かっていない。それらは決してスペインの「古傷」ではあるまい。常に生々しく口を開け続けてきた致命的な傷を、絆創膏で誤魔化し続けて数十年の歳月が過ぎてきただけなのだ。

 しかし、現在(2018年8月)、社会労働党政権(ペドロ・サンチェス首相)は、フランコの墓をこの「戦没者の谷」から取り除くために「歴史記憶法」の改正を行おうとしている。これについては稿を改めて書くことにするが、この問題はおそらく、カタルーニャ問題と並んで、スペイン国家と国民にとって、致命的となる傷口を広げる事態を引き起こしかねないだろう。


《フランコの遺産》

 昨年(2017年)12月29日、独裁者フランシスコ・フランコの娘カルメン・フランコが91歳で死去した。彼女は、フランシスコ・フランコと妻のマリア・デル・カルメン・ポロとの間に生まれた唯一の子供であり、1975年のフランコ死去の直後に国王フアン・カルロス1世によって「フランコ公爵」の家柄が授けられた。カルメン「フランコ公爵(女公)」は同時にメイラス領主という貴族の称号も授けられた。欧州では、英国でもフランスでもドイツでも、貴族階級は「雲の上」の存在で一般の人間がうかつに触れることはできない。独自の社交界と利権のネットワークを形作り、その中でも「公爵」は最上の位である。

 カルメンの夫は第10代ビジャベルデ侯爵クリストバル・マルティネス‐ボルディウーであり、その間に7人の子供(つまりフランコの孫)が生まれた。長女のマリア・カルメン・マルティネス‐ボルディウー・イ・フランコが現在フランコ公爵の第2代となっているが、マリア・カルメンの最初の夫はブルボン家の相続者であるアンジュー公アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・ダンピエールである。この間に生まれて存命中の2名の子供のうちの一人が第3代フランコ公爵となるのだろう。またカルメンの長男フランシスコは第11代ビジャベルデ侯爵・メイラス領主である。このように、独裁者の家系は伝統的な欧州の貴族階級のネットワークの中にしっかりと組み込まれている。フランコ家とブルボン家の血統は、アルバ家やコミージャス家と並んで、スペインの支配階級の中で巨大な存在となっている。なおスペイン王家はブルボン家に属するが相続者ではない。

 カルメンとその子供たちはすべて貴族階級の資産家であり、あるいは資産家の企業主に嫁いでいる。当然だが、カルメンが死亡した直後に、多くの新聞紙面やTV画面は、フランコ家がもつ資産についての話題でもちきりとなった。フランコ女公カルメンの遺産総額については、試算する人によって不動産などの評価額が多少異なるのだが、6億ユーロ(約780億円)という推定が最も多い。フランコ家は、ガリシアやマドリードを中心にスペイン全土に膨大な数の不動産、多くの企業の経営権と株を所有しているのだ。しかし実際には推定額の何倍もの財産を国外のタックスヘイブンに所有しているはずで、これは調べることが難しい。

 ここで、カルメンが死亡する1ヶ月前の2017年11月27日付のプブリコ紙の記事『これが、フランコの資産を増やし富豪にさせた腐敗人脈だった』から、フランコ公爵家の資産の起源について内容の一部を簡単に書いてみたい。(2009年のプブリコ紙記事も参照した。)

 フランコが1939年にスペインの独裁者となってスペイン各地で行ったことは他人の資産の略奪だった。故郷ア・コルーニャにある夏を過ごす別荘「パソ・デ・メイラス(Pazo de Meirás)【写真】」と呼ばれる豪邸は、フランコが「民間からの寄付」によって手に入れたとされる。しかしながら19世紀末に建設されたこのロマネスク風の豪邸は、地元の貴族パルド‐バサン(Pardo-Bazán)伯爵家の所有だったものを、1938年、フランコがすでにガリシア州を支配下に置いていた時期に、ア・コルーニャ市のフランコ主義の当局者たちが「公的資産」として強制的に買い取り、その後にフランコに「寄贈」されたものだった。その買い取りの資金を作るため、当局者たちは多くの市民を脅し上げてその資産を「寄付」として徴収し、また公的な仕事をしていた者たちから給料の一部を強制的に巻き上げた。

 フランコ夫人のマリア・デル・カルメン・ポロの強欲さも有名で、たとえば、パソ・デ・メイラスの庭を飾るために、カトリックの巡礼地として名高いサンチアゴ・デ・コンポステーラの市長に命令して、大聖堂から中世の彫刻を施した多くの石材を運び込ませたのである。この夫婦はパソ・デ・メイラスだけではなくア・コルーニャにある18世紀の豪華な建物カサ・コルニーデをいったん市の所有にしたうえで自分のものにした。このようにフランコとその取り巻きたちは、公的な機関を使って自分たちの利益を確保していったのだ。

 同様に、エル・ディアリオ紙が2018年1月に出した分析特集記事『フランコは腐敗の集合体のおかげで4億ユーロの資産をかき集めた』によると、内戦がフランコ側の勝利で終了したときにブラジルの独裁者ジェトゥリオ・ヴァルガスから大量のコーヒーを送られたが、そこから現在の8560万ユーロ(約111億円)に相当する利益を自分のものにした。さらに内戦の開始から終了後の1940年までの間に、略奪によって得られた資産は現在のカネにして3億3800万ユーロ(約439億円)にまで膨れ上がった。また独裁政権が続く間、「認可を与えてくれたことに感謝する」企業がフランコに「無料でその株を譲渡した」。要するに、会社設立の認可や公的な受注を受ける企業に対する賄賂の強要である。

 2017年12月30日のボス・ポプリ紙の記事『カルメン・フランコの6億ユーロ以上の遺産にある問題』には、フランコが死んだ1975年時点で、フランコ家は150ほどの企業の経営に関与し、カルメンは父親から不動産、株式、銀行預金など、現在の金額にして10億~20億ユーロの資産を引き継いだことが書かれている。カルメンは次のように語った。「私は全く働かずに生きてきた。カネを使うことは知っているが、カネを稼ぐことは知らない」。まあ…、そりゃ、そうだろう。


《最大の遺産:“組織犯罪国家”》

 フランコといえばその厳しい独裁政治と反対者への過酷な弾圧で知られているが、しかしフランコ時代で最も問題となるのは、フランコ体制を支持する中産階級の間に育った「略奪の文化」だろう。それは、公共(あるいは共同)の資産と私的な資産の意図的な混同に特徴付けられる。「公私混同」などという生易しいものではない。「他人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの」であり、公共の(あるいは共同の)資産とされるものは自由に食いちぎって私的な資産に変えてよい、という文化である。

 大袈裟でも何でもない。当サイト記事『支配階級に根を下ろす「たかりの文化」』、『バブルの狂宴:スペイン中に広がる「新築」ゴーストタウン』、『崩れ落ちる腐肉:(A)あらわにされる「略奪の文化」』、『崩れ落ちる腐肉:(B)国の隅々にまで広がる腐敗構造』の中で、いくらでも実例を見ることができる。その文化はフランコ没後40年間、何一つ変わることなく受け継がれてきた。

 上記の記事には書いていないが、別の好例を一つ挙げてみたい。国民党のエスペランサ・アギレがマドリード州知事をしていた2003年から2012年の間に、マドリードに公金を用いて建設された複数の公立病院が、アギレと親密な投資家に安値で売り払われ、カネ持ち相手の私立病院に変えられた。いまマドリードの公立病院はベッド数も医師も看護婦も足らず、人々はちょっとした検査や入院に数カ月から1年以上も待たねばならない。公金は私的な用途に流用するのが当たり前なのだ。さらに、そのうち7つの病院の建設に携わっていた建設企業が、入札時の見積もりをはるかに超える請求書を州に提出して、30億ユーロ(約3900億円)の超過分を州の公金からむしり捕っていたのである。公金略奪はこの国の社会を最も特徴付けるものだ。

 こういった「公金(あるいは共同の金)は私的な略奪の対象である」という文化は、前の項目で述べたとおり、フランシスコ・フランコの独裁政権の中で培われた。冷戦中の米国などからの援助や借款も分捕り合いの対象となり、1960年代からスペインに強欲な中産階級の層がしっかりと作られた。資金の動きはオプス・デイに所属する経済テクノクラートによって管理・運営され、「スペインの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を形作った。そしてこの中産階級の層がフランコ主義と独裁政治を支え、フランコ亡き後もまた、自分たちの本性を変えずにそのままスペイン社会で生き続けたのである。1978年に新しい憲法が作られ、社会労働党政権と国民党政権が交互に繰り返されて表向きの「顔」は変わっていったが、その下部にある構造は全く変化を受けなかった。

 この国の公的機関は組織犯罪の温床として機能してきた。それは経済面だけではなく、当サイト記事《マドリード州知事の醜態:表面化したマフィア的構造》《脅かされる表現の自由》に書かれているように、学術文化の面にも及んでいる。言ってみれば国家自体が組織犯罪のために存在してきたのだ。フランコはマフィアを嫌っており、そのおかげでスペインにマフィアが生まれなかったと言われるが、フランコの独裁政治自体が国家マフィアだった。国家マフィアが競争相手の民間マフィアの台頭を許さないのは当たり前だろう。

 しかしその腐れ切った政治と経済の仕組みは、2007年まで続いたバブル経済で大爆発を起こして自滅した。ネオリベラル経済の罠にはまったとしか言いようがないのだが、それも自業自得なのだろう。フランコの最大の遺産と言うべき“組織犯罪国家”はすでにその存在基盤を失っている。そして2008年以降の10年間に、腐敗構造の暴露とカタルーニャ独立運動を通してスペインという国家自体が解体に向かって進んできたように思える。

 同時に、スペイン国民を一つにまとめてきた(あるいは縛り付けてきた)思考パターンもまた明らかにされつつある。その中心に存在するのがフランコなのだ。カタルーニャ問題の国際化と並行して、多数派のスペイン国民が無意識のうちに受け入れてきた「センティード・コムーン」としてのスペイン・ナショナリズムが、いま乱暴に「まな板の上」に載せられつつある。スペイン人たちは否が応でも鏡に映された自分の姿を見つめざるを得なくなるだろう。

 現在、サンチェス社会労働党政権は「戦没者の谷」からフランコとプリモ・デ・リベラの遺体を移すだけではなく、独裁政権時代に下された判決を無効にしようと試みている。つまり、フランコ時代に「政治犯」として処刑された多くの人々に被せられた「罪名」を拭い去る作業だ。これはERC(カタルーニャ左翼共和党)がフランコの墓を移す法制度作りに協力するための条件としていたもので、特に、フランコ政権によって銃殺された「カタルーニャ共和国大統領」リュイス・クンパンチ(当サイト『「スペイン内戦」の幻想と傷と癒し』の中では「クンパニィス」と書いたが、「クンパンチ」の方がより原音に近い)の名誉回復につながるものだ。さらにこれは、現在、スペイン国内で投獄されている、或いは国外に逃れているカタルーニャ独立派政治家たちにかけられた「国家反逆罪」の無効化にもつながる可能性がある。

 このサンチェス政権の歴史的な試みについては、現在進行中のことであり稿を改めたいと思うが、サンチェスはいま、ある意味で非常に危険な方向に歩みつつあるように思える。フランコとカタルーニャを巡って、加えていまアフリカからスペインに押し寄せている「不法移民」の扱いを巡って、今年中にこの国に様々な不穏な事態が起こってくるのではないかと、気が気ではないのだ。


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