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パラダイス・ナウ あるいは ある秘密諜報員の告白


(訳者より)
 これはイスラエル人反体制活動家イズラエル・シャミールの2006年6月の作品だが、この作者には珍しくフィクションの形をとっており、設定されている「今年」は2035年である。しかし書かれてある内容はあくまでも事実を元にしたものであり、フィクションの形を借りていわゆる「パレスチナ人のテロ」の正体を明らかにしようとする作者の意図である。
 彼の原稿には《ハニィ・アブ-アッサド(Hany Abu-Assad)と彼のフィルムに敬意を捧げる》という但し書きが添えられてある。
このハニィ・アブ-アッサドはエルサレム生まれのパレスチナ人であり、2005年にオランダで製作された映画「パラダイス・ナウ(Pradise Now)」の監督である。これは2005年のベルリン国際映画祭で最優秀映画賞を受賞し、ゴールデン・グローブ外国語映画賞を受賞した作品である。自殺テロ攻撃に向かう二人の平凡なパレスチナ青年の、最後の2日間の心理的葛藤を描いた作品で、欧米各国で賛否両論の評価が渦巻いた。この映画に関しては次のサイト(日本語)をご参照いただきたい。

http://www.uplink.co.jp/news/log/001124.php

 なお[1][2]等は作者による注釈番号である。


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http://www.israelshamir.net/English/ParadiseNow.htm


パラダイス・ナウ   あるいは、ある秘密諜報員の告白


(ハニィ・アブ-アッサドと彼のフィルムに敬意を捧げる)
                   イズラエル・シャミール著


[この和解委員会(議長:ムスタファ・ナシャシビ、副議長:ヨッシ・アツモン、書記:スヴェトゥラナ・クズネツォヴァ)によるダン・アヤロン将軍の供述調書は、2015年6月15日、つまりイスラエルとパレスチナが一つの国家カナン王国に統一された数年後に、記録されたものである。しかしながら、このユダヤ人国家諜報機関最後の長官による告白はあまりにも微妙な事柄であるために、その公表は今年、すなわち2035年まで引き伸ばされていたのである。]


 議長:1990年代と2000年代の自殺爆弾攻撃についてお話ください。どうしてあなた方はこういった行為を食い止めることができなかったのですか。

アヤロン:私の言う事が決して私に不利になるように使われない、という和解法の規定をご確認願いたいのですが。私はこの建物を自由の身で出て行きたいのです。

書記:それは私ども全員が承知しております。自由にお話しください。

アヤロン:自殺攻撃は、我々がそれを無視したり軽視したりしたために起こった、というものではありません。逆に、それらは我々の最大の成果だったのです。

副議長:成果とはどういう意味なのでしょうか。何百人というイスラエル人が死んだのですよ。

アヤロン:1990年代の初期のことを思い出していただけますか。ラビンが選挙で勝利した後、ヨルダン川西岸地区とガザ地区はイスラエルから切り離されました。チェック・ポイントが設けられそしてパレスチナ人の労働者たちがイスラエルの都市に来て働くことを禁じられました。彼らの職場は、我々がタイや中国から招いた何万人という外国人労働者たちに奪われたのです。パレスチナ人の労働者は自分の国で職場を見つけることもできませんでした。彼らの土地は入植者と軍によって奪われてしまっていたのです。彼らの土地を追い出され、自分の村や町から締め出されて、パレスチナ人は抵抗活動をせざるを得ませんでした。我々はパレスチナ人の抵抗を完全に止めることはできませんでした。このことが我々の第一に前提とすべき事実でした。我々は彼らの抵抗をどこかに、何かお似合いの形になるように、導いていかなければなりませんでした。これが前提とすべき第二の事実です。第三は、我々の主要な優位さ、つまり彼らの軍事的経験の相対的な欠如を維持したいと望んだ、ということです。

 兵士を育てるには時間がかかります。初心者にとっては少なくとも半年は必要です。いくつかの戦闘で生き残った一人の兵士は十人の兵士の価値があります。経験によって兵士はより意欲的になりそして用心深くなります。我々はそれを恐れました。抵抗の過程で十分に訓練を施されたゲリラ戦士が作られ我々のパレスチナに対する覇権を脅かすかもしれない、ということをです。

議長:何ととんでもない! 1993年にアラファトは何千人もの優れた兵士を連れてラマラとガザに戻ってきたのですよ。彼らはレバノンとヨルダンで戦ったのです。

アヤロン:アラファトの戦士たちは給料をもらっており、戦いたいとは思っていなかったのです。彼らは支配を許されるものであれば何でも支配したいと望んでいました。彼らはパレスチナを取り囲む彼らの縄張りを知っていました。その国は1967年以来ずいぶん変わってしまったからです。そして彼らはそれ以来その国にはほとんどタッチしていなかったのです。ですから我々はアラファトの軍には全く関心がありませんでした。我々が気がかりだったのは第一次インティファーダの若者たちでした。彼らは無謀で勇敢で、国中で自分たちの生きる道を知っており、そして我々を恐れていませんでした。我々はラビンが命じたように彼らの腕を砕くことができました。しかし彼らの魂を砕くことはできなかったのです。

 以前に、私のオフィスでブレーンストーミングを行っている際に1993年のことでしたが心理作戦部会のモッティが次のように言いました。

−我々は彼らの攻撃を止めることはできないが襲撃者すべてを殺すことが出来る。

−それをどのように達成できるのか?

−我々は自己破壊的なウイルスを作り出しそれを若者たちに感染させることができる。

−ウイルスとは、どういう意味なのか?

−ある種のシステム・ウイルス、コンピュータを襲うのと同様のものだ。我々は世界最大の権力を持っている。メディアに対するコントロールである。それを通して我々は、戦い続ける者達ではなく、死ぬ者達を賛美すべきである。申し上げたいことはこうだ。我々に彼らの自殺攻撃を助長させてもらいたい。

 私は、この提案が理解できないと言いました。当時我々が認識していた「自殺攻撃」というのは、レバノンでいつも爆薬を積んだ自動車を使って実行されるものでした。それは自殺ではないことも多く、運転手は自分が何を運転しているのか知りませんでした。そうでないと彼は普通なら恐れて逃げ出すことになるからです。1948年の我々の英雄2名はトラックに爆薬を積みジャッファの町役場まで運転しました。彼らはそこで適と一緒に死ぬ覚悟をしていたのです。しかし時計が狂って装置が正常に働くのを遅らせてしまい、30名のアラブ人が死んで、その間に英雄たちは逃げてしまいました。適切な自殺攻撃というのは、通常、非常に厳しい目標物を狙って行うものでした。1983年の米国海兵隊基地のように命を賭けるに値するものです。このケースでは特攻運転手は死にましたが、彼はおよそ250名の海兵隊員を道連れにしました。そしてそれが米軍のレバノンからの撤退の原因となったのです。

 モッティは言いました。

−いや、私は車のことを言っているのではない。車ではテロリストは逃げるかもしれない。我々は彼らに自分の体に爆薬を巻きつけるようにさせるべきだ。

私は全く納得できませんでした。

−君はどこでそんな馬鹿げた自殺を見たのか? アラブ人がイスラエルの中でその値打ちのある目標に近づくことなどできない。彼が軍基地や政府の官庁や重要人物の家に入るチャンスなど全く無い。だからそれは価値の低い目標にせざるを得ないし、質の高い戦士がそんなことのために死ぬことになる。抵抗者にとってはとんでもない大安売りだ。

しかしモッティにはある計画がありました。

−彼らを罠にかけるには、我々は彼らにある程度の成功を、ある程度の高得点を許すべきである。その後で、彼らが引っかかってきたときに、彼らの成功は徐々に減っていくだろう。しかし我々は目標を達成することになる。最良の、最も潔癖で、そして最も勇敢なパレスチナ人が死ぬだろうからだ。

彼は手帳を取り出し、計画の概要を書き始めました。彼のアイデアは次の通りです。「抵抗者の側にもぐりこませた我々のスパイを通して、バスを爆破するために戦士たちが送り出される。我々はその計画を知っており、彼らが検問所を通り抜けることを手伝う。同時にメディアにいる我々に通じる者が、この脅威に対処する我々の無能を大げさに書きたてる。その記事にはこのように書かれる。『アラブの秘密兵器』と。テル・アヴィヴの一流ファッション・デザイナーがセクシーなシャヘードのベルトを作るだろう。あらゆる新聞とテレビが殉教者たちについて書く。彼らは目一杯飾り立てられ若者たちを魅了する。その間、我々にとって本当に危険な爆破は隠蔽され漏れないようにされる。」

議長:どうしてあなたはこのテクニックを、それ以前ではなく、まさに1993年になって使ったのですか?

アヤロン:二つの理由がありますが、そのうちの一つだけが公に議論されました。その当時、イスラム地下運動は大規模な武装抵抗の第一歩を踏んでいました。その活動には経験豊富な中核グループが欠けていましたが、その手腕を見せたいと切に望んでいました。彼らはより激しいことを行おうとしていましたし、長い訓練無しで戦果を上げようとする考えに取り付かれていました。同時にまた彼らは、自らの命を犠牲にする覚悟のできているより精神的に凝り固まった男女を引きつけていました。

副議長:で、もう一つの、その隠された理由というのは?

アヤロン:実はその…、我々のうちでイツァーク・ラビンを好んでいた者はいませんでした。彼は左翼の労働党で、オスロ合意をもたらしたのです。我々は同時に、この計画がイスラエルの左翼をつまずかせてリクード党に権力をもたらすならば、これは悪くないことだ、と感じました。そして実際にそうなったのです!

書記:あなたには心が無いのですか? どうやってあなたは敵に罪の無いバスの乗客を殺させることができたのですか?

アヤロン:みなさん、お聞きください。我々は砂の中にパレスチナ人の怒りを吸い込ませることはできなかったのです。誰かが殺されなければならなかったのですが、我々は、贅沢なことなのですが、どのような殺人に青信号がともされるかを決定したのです。もし我々がバスに乗っている質の悪いガラクタに爆弾を仕掛けることを彼らに許さないとしたら、彼らは特別なそして手痛い標的を狙ったでしょう。レハヴェム・ゼエヴィ長官[2]のことをお考えください。彼はエルサレムのホテルで狙撃され、暗殺者は逃走しました。彼の死は痛かったのです。彼らは、今日はガンディー[ゼエヴィのあだ名]を、明日は首相を殺すことになる。

副議長:あるいはあなたでも。

アヤロン:私も当然! 彼らは特別の標的をつけねらい我々の生活を困難にする。外国でその報道に触れる者達はこれらの標的が狙われて当然であると思うかもしれません。イスラエルの中でさえもそうです。我々は分離壁を作る契約業者を殺す計画を覆い隠しました。その契約業者の名前はよく知られていました。そして我々は彼ら全員を守ることなどはできなかったのです。2、3人の殺害が成功すれば分離壁を作ろうとする業者がいなくなるでしょう。また彼らは残酷さで有名な人々を狙うことができたかもしれません。例えばあるイスラエルの新聞が、レバノン人の捕虜であるディラニをレイプしたシャバック(シン・ベト)の隊員「キャプテン・ジョージ」[3]とのインタビューを掲載しました。その新聞は彼を発見するための十分なヒントを提供したのです。そして、その新聞が彼を「獣」と呼んだのですが、その居所を突き止めようとするパレスチナ人のグループがありました。別のグループは、ヤノウンのパレスチナ人に対するテロを行った入植者アヴリ・ラン[4]を襲撃する計画をしていました。彼らは我々の本からページを取り去り、米国と欧州の編集者やジャーナリストや政治家といった著名なイスラエル支持者を殺すことができるかも知れなかったのです。このことは我々への支持基盤を急速に冷めさせるでしょう。ちょうど1944年にモイン卿を我々が殺害したときのように。タルムードにはこう書いています。adam karov etzel atzmo、人は何よりもまず自分自身の皮膚に注意を払え、と。これが、我々がバスへの爆破にゴー・サインを出した理由です。このパターンが確立されたときにようやく、そしてすべてのパレスチナ人の子供が神聖な自爆攻撃を夢見るようになったときにやっと、我々はバスを彼らから防御したのです。それ以降、自爆攻撃はほとんど成功しなくなり、市場やドロップアウトの溜まり場、ジャンクフードの店などで行われました。自爆犯たちは平均して1.4人のイスラエル人を殺しましたが、しかしこの1.4人でさえも、たいがい貧乏な、あるいは退職した、あるいはその他のさして大切でもない者達でした。

副議長:あなたは同胞であるユダヤ人をどうしてそんなふうに言うことができるというのでしょうか。

アアロン:若いころ私は、1948年の英雄でハガナーの司令官だったイツァーク・サデに会いました。そして彼にM/Sパトリア号について尋ねました。彼とその部下たちがその船をハイファ港で沈め250名のユダヤ人を殺したのです。あなたは心の痛みを感じていないのですか、と。彼は私にこう言いました。「ユダヤ民族が永遠に生きるためならば、時として君たちはユダヤ人を犠牲にしなければならない」と。例えば、我々が十分に練った作戦の一つはロシア人たちを狙ったものでした。そしてそれは非常にうまくいったのです。犠牲者は主として海岸のディスコにサバト(安息日)を冒涜するために集まった非ユダヤ人のロシア人移民でした。しかしその爆発はロシア人の共同体を我々に対してより親密にさせるのに役立ちました。この出来事の以前には彼らはイスラエルにほとんど連帯感を持っていなかったのです。さらに我々は、ドイツの外相ヨシュカ・フィッシャーがそのディスコを見下ろすホテルの部屋に滞在するように仕組みました。これは簡単ではありませんでした。政府の高官は今まで誰一人、テル・アヴィヴの中心街から遠いこのホテルに泊まったことが無かったからです。しかし我々の仲間たちが、新しくてより快適だと言って彼を説得しました。こうして彼はそこに泊まり、自らその爆破の目撃者となりました。そしてユダヤ人の問題に専念するようになったのです。

議長:そんな特殊な場所にどのようにしてあなた方は自爆犯を導いたのですか?

アアロン:このケースですと、自爆犯は我々が金で雇った者です。そして彼はスーツケースに爆弾が入っているなど考えもしませんでした。彼は我々のエージェントの一人によってそこに連れて行かれ、そのディスコのマネージャーにスーツケースを渡すように言われたのです。他の場合ですと、抵抗勢力に混じっている我々のエージェントが自爆犯を誘導したこともあります。いずれにせよ、自爆犯たちはイスラエル人の社会を理解していませんでした。だからナブルス出身の若い将来ある学生がテル・アヴィヴのカルメル市場で自らの命を絶ったのです。彼は、ナブルスと同じようにテル・アヴィヴではみんなが市場の店に買い物に行くと思っていたのです。実際には、彼は二人の退職者と中国人の移動労働者を殺しただけでした。自分を犠牲にして、です。これは誰にでも間違いなくできるというようなことではありません。一部の自爆犯は我々が望んでいなかった場所で自爆しました。しかし彼らは二度と攻撃をすることもできないのです。彼らは常に必ず死にますから。そしてそのことが我々の計画の最も優れたところでした。

 彼らに他の何かできたのかちょっとお考えください! あなた方はワディ・ハラミイェーの単独狙撃主[5]を覚えておいででしょうか? 彼は我々の兵士のうち10名を撃ち殺したのです。彼の主な強みは一人で行動したことです。だから我々のエージェントの誰も事前に情報を伝えることができなかったのです。彼は死のうとはせず、殺そうとしました。もしそのような戦士がもっといたならば、我々の支配は崩れたかもしれません。

書記:しかし自殺攻撃は、パレスチナだけではなくイラクや他のどこででもあったことです! あなたはこれもまたあなた方の成果だと主張されるのですか?

アヤロン:いいえ。しかしそれはこの作戦の最も素晴らしい面でした。我々がこのパターンを確立させた後、人々がそれを真似し始めたのです。実際に、人間というものはいつでも上手に宣伝された行動を何でも真似するものです。あの年代には我々は世界のメディアに強い影響力を持っていました(同時にその大半を所有していました)ので、我々は何に対しても望むとおりにPRすることができました。もし我々がワディ・ハラミイェーの単独狙撃主の話を十分に広めたとしたら、次の日には何百人もの若者が彼の行動を真似したことでしょう。それが我々が彼の名前を消し去った理由なのです。しかし自殺攻撃作戦には常に存分な報道が行われました。面白いことにこの我々の発明はムスリムたちのトレードマークになったのです。1993年の以前にはムスリムたちは一つとしてそのようなことに加わったことがなかったにも関わらず、です。この事実を隠すために、メディアにいる我々の部下たちと学会にいる我々のベテランたちが、異教徒の暗殺隊やレバノンの自動車爆弾を引き合いに出すことによって、この件をごちゃ混ぜにしてしまいました。ただしそれらのテロリストたちは逃げて生き延びるチャンスを持っていましたし、同時に大きな重要な標的を攻撃することもできました。我々は、メディアの発明による自己破壊というウイルスを彼らに感染させることによって、小さな犠牲で最良のパレスチナとムスリムの若者を殺す確実な方法を発明したのみです。

議長:協議したいのでここでこの委員会を中断いたします。この場でお待ちください。(数分後)将軍、あなたの率直さに感謝いたします。あなたは、実に多くの若い男や女たちが、パレスチナの最良の若者たちが、その恐ろしいそして無益な方法で死んだことを認めてくれました。もしそれがあなた方のトリックだったということが明らかになれば、彼らを誇りに思っている両親たちの人生を破滅させるかもしれません。さらにあなたは、それらの出来事に対する話に対して何の証拠も提示しませんでした。それはあなたの想像の世界での出来事だったのかもしれません。死んだ英雄たちの眠りを妨げない方が誰にとっても良いことです。和解法第12条bの規定に従って、私はこの件を50年間非公開とし封印することを宣言いたします。


《脚注:著者のイズラエル・シャミールが挙げた参考資料のUrl》

[1] http://www.zmag.org/content/showarticle.cfm?ItemID=10079

The Poor Man's Air ForceA History of the Car Bomb (Part 1)

[2] http://fromoccupiedpalestine.org/node.php?id=495

Obituary: Rehavam Zeevi

[3] http://arabnews.com/?page=4&section=0&article=38715&d=28&m=1&y=2004

Israelis Sexually Tortured Me: Dirani

[4] http://israelreporter.com/2005/09/22/interview-avri-ran-king-of-the-hilltops/

Avri Ran - King of the Hilltops

[5] http://www.israelshamir.net/English/Battle.htm

Battle for Palestine


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