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ラザーリ・カガノビッチと《史上最大のジェノサイド》
(2006年12月)
私は「イスラエル:暗黒の源流(4)
」の中でスターリン政権下のソ連でユダヤ系の人物達が実権を握っていたことを書いた。しかし紙面の都合上その実体について詳しく述べることができず、やや舌足らずに終わってしまったことに残念さを感じていた。そこでここで、補足的な形でだが、その時代のソ連のユダヤ人に関する記事を掲載させていただくことにした。なお、いわゆるボルシェヴィキ革命自体については割愛させていただき、ここではスターリン時代に起こった出来事に関する事柄を中心に採り上げたい。
1917年の11月革命直後にレーニンは「反革命・妨害活動取締り全ロシア非常委員会」と呼ばれる秘密警察組織、いわゆるチェカを発足させた。直接にこれを組織したのはポーランド貴族出身のフェリックス・ジェルジンスキーだったが、それは1922年には国家政治局(GPU)に、スターリンが実権を握る24年には合同国家政治局(OGPU)に改名し、そして34年に内務人民委員部(NKVD)の直轄機関となった。この秘密警察は、というよりも「国家テロ実行部隊」と呼んだほうが正確だろうが、スターリン失脚後の1954年にKGBへと改組されることになる。
レーニンからスターリンの時代にかけてこの秘密警察機構によって殺害された人数を正確に知ることは極めて困難である。直接に処刑された人々以外にグーラグと呼ばれる強制収容所に送られた者たちの多くは帰らぬ人となったがその全容は未だに明らかではない。こういった犠牲者は30年代後半の「大粛清」を含めて数百万人に上ると言われるが、それらに不作による餓死者などを加えると、1917年から1930年代にかけてのソ連人の死者は2千万人を軽く超えるとみなされている。1997年に公開された情報で少なくとも1260万人の死者が数えられるが、これはその一部に過ぎないであろう。
いわゆる「大粛清」は当時スターリンをしのぐ人気を得ていたキーロフの暗殺(1934年)に端を発したものだが、その中心は36年から38年にかけてである。この間に「反革命罪」で逮捕された者は135万人ほどで、その半数が処刑されたと見られるが、残りの者の相当な部分が取り調べの途中や刑務所、流刑地などで死んだであろう。
この「大粛清」の実行者として悪名高いNKVDだが、その初代長官は、GPUの副長官でチェカの時代から秘密警察の最高幹部として大量の逮捕・拷問・殺害を指揮し続けたゲンリク・ヤゴーダという悪名高いユダヤ人である。彼は1934年に就任したのだが36年9月に降格させられ、小男のロシア人ニコライ・イェジョフに取って代わられた。ヤゴーダはその翌年に逮捕されて38年には自ら粛清の犠牲者となった。
実際にはあの凄まじい「大粛清」の実行者はイェジョフだったのだが、そのイェジョフもまた38年の末にラヴレンティ・ベリヤに追いやられ、40年に反革命分子として銃殺刑に処せられる。ベリヤはNKVDの長官として大粛清の仕上げをした後、クリニヤ・タタール人などの強制移住、カチンの森でのポーランド軍人大虐殺、そして強制収用所の充実などを手掛けた。
ところでこの間のNKVDに関して興味深い資料がある。2001年にニキータ・ペトロフが、公開されている資料を基にしてNKDV幹部の民族構成を調べたのだが、特筆すべきことはそこに含まれるユダヤ人の割合である。以下にNKVD幹部の中に占めるロシア人[ロ]、ユダヤ人[ユ]、ウクライナ人[ウ]の人数と割合を示す。それぞれ数字は人数、( )の中は%を現している。
34年 7月 |
ロ 30 (31.3) |
ユ 37 (38.5) |
ウ 5 ( 5.2) |
36年10月 |
ロ 33 (30.0) |
ユ 43 (39.1) |
ウ 6 ( 5.5) |
37年 3月 |
ロ 35 (31.5) |
ユ 42 (37.8) |
ウ 6 ( 5.4) |
37年 7月 |
ロ 38 (33.6) |
ユ 36 (31.9) |
ウ 5 ( 4.4) |
38年 1月 |
ロ 58 (45.3) |
ユ 35 (27.3) |
ウ 4 ( 3.1) |
38年 9月 |
ロ 85 (56.7) |
ユ 32 (21.3) |
ウ 10 ( 6.7) |
39年 7月 |
ロ102 (56.7) |
ユ 6 ( 3.9) |
ウ 19 (12.4) |
40年 1月 |
ロ111 (64.5) |
ユ 6 ( 3.5) |
ウ 29 (16.9) |
41年 2月 |
ロ118 (64.8) |
ユ 10 ( 5.5) |
ウ 28
(15.4) |
こうしてみると、1938年より以前にユダヤ人の割合が異常に高いことが分かる。37年3月まではロシア人の数をしのいでいたのだ。ソ連の秘密警察活動がユダヤ人によって中心的に支えられていたことは誰もが否定できない事実であろう。
ちなみにソ連の全人口に締める割合を見ると、1937年3月の統計ではロシア人65%、ユダヤ人7%、ウクライナ人11%であり、1941年1月ではロシア人66%、ユダヤ人4%、ウクライナ人16%となっている。この人口統計がどこまであてになるものかは分からないが、少なくともいわゆる「大粛清」の時期まで、秘密警察機構の幹部として極めて不相応に多くのユダヤ人がいたことが、十分に窺える。
それにしても奇妙な数字だ。これが正確なデータであるとしての話なのだが、1939年になってあまりにも劇的にユダヤ人の人数が下がっている。もちろんヤゴーダの処刑に伴って彼の人脈が一掃されたという解釈も可能だが、しかしそれならば36年の彼の失脚時から減っていなければ筋が通るまい。逆にヤゴーダ失脚後の36年10月から少なくとも次の年の7月までは発足当初よりも多くのユダヤ人がNKVDの要職にいるのである。さらに38年まで続くロシア人イェジョフの時代にはさほどの減少が見られずに、彼が失脚してユダヤの血を受け継ぐベリヤが登場してからいきなりそれが激減するのはなぜか? 単なる粛清以外の、何らかの尋常ならざる理由があったのかもしれない。ひょっとすると、当時ユダヤ人国家建設の準備が進められつつあったパレスチナに向かったのだろうか? しかしこの点については、今の私には何とも分からない。
いずれにせよ、1938年以前にユダヤ人を中核とする秘密警察機構がソ連内で殺害した人間の数は計り知れない。またGPU(OGPU)による直接の弾圧とテロによるものではないにしても、例えば1932年に始まった死者2百万人とも4百万人とも言われる(中には7百万と言う人もいるが)ウクライナの大飢饉を代表例とする、11月革命以来のソ連全体での大量の餓死者は、彼らをその実行の手先とした強引な社会改造の必然的な結果だったといえよう。
ここに、スターリン第一の側近としてその大虐殺・大災厄の中心的な実行者でありながらそれを涼しい顔で見送り、スターリン失脚後も何事もなかったかのように悠々と生き延びた一人のユダヤ人がいる。ラザーリ・カガノヴィッチである。
彼の妹ローザはスターリンの3番目の妻であった。スターリンの2番目の妻であるやはりユダヤ女性のナデジダ・アリルジェーワは1932年に「病死した」とされているが疑いが持たれる。その以前からスターリンはローザと秘密裏に結婚していたと言う人もいる。いずれにせよカガノヴィッチは1930年代初期にこの「赤いツァー」と義兄弟になっていた。
彼は現在、同僚のヴャチェスラフ・モロトフらとともに、ウクライナ大飢饉の責任者として糾弾されている。1925年から28年にかけてカガノヴィッチはウクライナの党第一書記となるのだが、当時スターリンに次ぐ実力者であったニコライ・ブハーリンの反対を押し切って、上中層農民(クーラク)への過酷な弾圧・農村解体に全力をあげる。そしてこの強引な農業集団化がウクライナ大飢饉の原因となったことは言うまでも無い。さらにその間、数多くのウクライナ人共産党員を「ウクライナ民族主義者」として粛清したのであった。
ただし、2006年現在で起こっている、これらのウクライナの悲劇に関する「カガノヴィッチ批判」は、今日の政治状況から出てきているものだろう。彼はその強引な政策実行について「ウクライナのロシア化」という罪状で非難されているのである。さらにウクライナの飢饉に対してのみホロコーストを連想させる「ホロドモール(Holodomor)」という名前が付けられて反ロシア感情が煽られているのだ。その裏に潜む勢力の正体がこれで明らかになるだろう。2004年の「オレンジ革命」の背後にいた者達である。
それはともかく、そのあまりの残虐さと強引さに対する反発のために、スターリンはやむなく彼をモスクワに呼び戻し党中央委員会書記の座に据えるが、ここでもカガノヴィッチは強大な実行力を発揮して共産党内部の「左右の反対派」に対する粛清を精力的に展開したのである。なぜか誰も彼を止めることはできなかったのだ。彼の手は秘密警察を超える権力であった。
カガノヴィッチは1935年以来、鉄道、重工業、石油工業、資源開発などの「人民委員」つまり各省の長官を歴任したが、その間にそれぞれの産業分野での「破壊活動家」を逮捕しながら5カ年計画によるソ連の工業化を強引に推し進め、「総スターリン化」の急先鋒として恐れられた。その犠牲者の中には41年に自殺に追いやられた彼自身の弟ミハイルさえ含まれる。人は彼を「鉄のラザーリ」と呼んだ。
また先ほどから申し上げているようにソ連秘密警察による幅広い階層に及ぶ逮捕、拷問、流刑、処刑は1941年の独ソ開戦までとどまるところを知らなかったのだが、ヤゴーダやイェジョフといったその責任者達が強大な権力を十分に握る以前に見計らったように次々と左遷させされ難癖を付けられては処分されていった背景には、スターリンに影のように寄り添っていたカガノヴィッチの姿があったことが疑われる。
彼は、スターリンとベリヤが1952年に失脚し翌年に非業の最後を遂げた後も、生き延びたばかりか引き続いてソ連の要職を務めるのだ。最も過激で最も残忍で最も徹底した「スターリニスト」、スターリンの政策に対する最も忠実な実行者と誰もが認めていたにも関わらずこの独裁者に連座することはなかった。
カガノヴィッチは1952年から57年まで国家第一副首相を務めると同時に最高会議幹部会と党中央委員の席を暖め続けた。しかし1957年の「反党グループによるクーデター未遂」の後に、ウクライナ時代からの「愛弟子」であったニキータ・フルシチョフによって同僚のモロトフやマレンコフと共に党中央から追われ、地方の閑職に左遷された。そして1961年に党から完全に追放されると同時にモスクワで年金生活に入り、ソ連が解体した後の1991年に97歳で天寿を全うした。つまりソ連の誕生からその死までのすべてを見届けたわけである。
おそらくこの男こそが、2千万人をはるかに超えると言われるこの史上最大のジェノサイドの最も重要な首謀者なのであろう。スターリンもベリヤも、しょせんはこの男が配置した俳優に過ぎなかったのかもしれない。彼は同胞であるユダヤ人たちの命さえ虫ケラを潰すように消し去り、スターリンとベリヤ、ヤゴーダとイェジョフに全ての悪を押し付けてその死を平然と見やったのだ。
そしてもはや自分の時代ではないことを悟ったとき、スターリン時代の名残、つまり自らの悪事の痕跡を一掃すべく、失敗が運命付けられた「クーデター」を演出することで己の身柄を「愛弟子」に預けたのだろう。フルシチョフは豪腕のスターリニストだった自らの過去も顧みず全ての責任をスターリン個人に押し付けたのだった。そしてカガノヴィッチはそのフルシチョフが1964年に失脚し71年に不可解な死をとげて以後の20年間、何事も無く悠々自適の生活を送ったのである。
この「鉄のラザーリ」は、一体全体、何に動かされてこの巨大な悲劇の『舞台監督』を務めたというのだろうか。何がそれを可能にしたのだろうか。ソヴィエト連邦とは、ロシア革命とは、いやそもそも共産主義とは、一体何だったのだろうか。
(以上)
【参考資料Url】
http://en.wikipedia.org/wiki/Genrikh_Yagoda
http://en.wikipedia.org/wiki/Nikolai_Yezhov
http://en.wikipedia.org/wiki/Lazar_Kaganovich
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Stalin
http://en.wikipedia.org/wiki/Lavrenty_Beria
http://www.vho.org/tr/2004/3/Rudolf325-327.html#ftnref3
http://www.jewwatch.com/jew-leaders-kaganovich.html
http://wsi.matriots.com/first_holocaust.html
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