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元シオニスト活動家の慟哭:イラクのユダヤ人


(訳者より)
 この「イラクのユダヤ人(The Jews of Iraq)」は、反シオニスト・ユダヤ人団体True Torah Jewsのウエッブ・サイト「シオニストと対決するユダヤ人(Jews Against Zionism)」に掲載された論文である。作成の日付は書かれていないが、内容から第1次ネタニヤフ政権(1996〜99年)の時代と思われる。
True Torah :Jews Against Zionism
http://www.jewsagainstzionism.com/index.cfm
Article by Naeim Giladi
http://www.jewsagainstzionism.com/zionism/impact/iraqijews.cfm

 作者のナエイム・ギラディは1929年にイラクで生まれ、イスラエルを経て現在は米国在住である。1955年に『ハガナーとモサドはいかにユダヤ人を殺したのか』という副題を持つ「ベン・グリオンの悪業(Ben Gurion's Scandals)」という本を出版した。ハガナーとは「防衛隊」の意味を持つシオニストの軍事組織で、現在のイスラエル軍の中核となった。残念ながらこの本は未だ日本語訳されていない。
 ギラディは若い頃にイラク系ユダヤ人の中でシオニスト活動家となり、あこがれて到着したイスラエルで、シオニストによるアラブ人に対する言われもない残虐行為に接し、またアラブ系ユダヤ人に対する厳しい差別(彼はカーストと呼んでいる)に直面した。さらに彼は衝撃の事実を知ることになる。シオニストが英国や一部のイスラム支配者と手を組んで、イラクなどのイスラム諸国でユダヤ人を言葉巧みに騙し、爆弾テロで大勢のユダヤ人を殺してその罪をアラブ人に擦り付けて恐怖を煽り、強制的にイスラエルに移住させた、という事実である。
 この「イラクのユダヤ人」は、イスラエル初代首相のベン・グリオンを代表とするシオニストたちに対する激しい怒りと共に、このシオニストの謀略に乗せられて自ら活動家となり、イラクに住む多くのユダヤ人たちをシオニスト国家に連れてきてしまった自分自身に対する言うに言われぬ自責の念に貫かれている。

 日本だけでなく、アラブ世界を除く世界中で、このような「栄光への脱出(イスラエル建国)」の本当の姿を知る人は少ない。知らせようとする努力が「シオニストとその友人たち」によってことごとく妨害されているためである。
 この私の翻訳が少しでも多くの人々にイスラエルとシオニストの真実を知っていただけるきっかけになれば、これ以上の幸いは無い。
 なお、本文中の【 】は訳者による簡単な注釈である。
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http://www.jewsagainstzionism.com/zionism/impact/iraqijews.cfm

イラクのユダヤ人       

                                                ナエイム・ギラディ

 私はこの記事を、私の本【訳注:「ベン・グリオンの悪業(Ben Gurion's Scandals)」】を書いたのと同じ動機で書く。米国の人々に、そして特に米国のユダヤ人たちに、イスラム諸国から来たユダヤ人たちが決して喜んでイスラエルに移住したのではないことを語るためである。強制的に立ち退かせるためにユダヤ人がユダヤ人を殺した。そしてより多くのアラブの土地を没収する時間を稼ぐために、数多くの機会にアラブの隣人たちが与えた平和を作る本当の手段を、ユダヤ人がはねつけた。私は初代のイスラエル首相が『残酷なシオニズム』と呼んだことについて書く。私がその一部だったからこそ、私はそれについて書く。


私の歴史

 もちろん私はそのとき、自分がそれをすべて知っていると思っていた。私は若い理想主義的な、そして信念のために喜んで命を危険にさらすことも平気な人間だった。イラク当局者が私を捕らえたのは1947年のこと、私はわずか18才にもなっていなかった。私は、私同様の若いユダヤ人をイラクからイランに「密輸」した容疑で逮捕された。彼らはイランから、じきにイスラエルとして確立される約束の土地に運ばれるのである。

 私はシオニストの地下活動に携わるイラク系ユダヤ人だった。イラクの刑務官たちは、私の同志の名前を聞き出すためならどのようなことでもした。50年後になってもその痛みは私の右のつま先を走る。これがこの拘束者がプライヤーを使って私の足の爪を剥がした日を思い出させる。別の場合には彼らは私を監獄の床に引きずり出し、凍える1月の日に私を裸にしてそしてバケツの冷たい水を私にかけた。私は鎖につながれて何時間もそこに放っておかれた。しかし私は一度も彼らのほしがる情報を彼らに与えなかった。私は本物の信念の持ち主だった。

 自分で「2年間の地獄」と呼ぶ期間に私が関心を持ったことは、生き延びることと逃亡することだった。私はそのときにはイラクでのユダヤ人の歴史を、たとえ私の家族が最初からその一部であったにしても、一掃してしまうことを何とも思っていなかった。我々は元々はハロオンズ、「バビロンの離散」の重要な大支族だった。私の先祖は2600年以上も前、キリスト紀元の600年前、イスラム紀元の1200年前にイラクに定住した。私は、聖書以前の時代のユダヤ預言者ィエヘズケルの墓を建てたユダヤ人の子孫である。私が1929年に生まれた町はヒラーであり、古代のバビロンがあった場所からさほど離れていなかった。

 元々のユダヤ人たちは、豊かなチグリスとユーフラテスを持つバビロンを、本当にミルクと蜂蜜とそしてチャンスにあふれた土地だと分かった。ユダヤ人たちが、イラクにやってきた他の少数民族と同様に、時の権力者次第で抑圧と差別の時代を経験したにも関わらず、彼らの2500年間の軌跡は概して上向きであった。例えば後期オスマンの支配下で、ユダヤ人社会と宗教施設、学校と医療施設は何の妨害も無しに栄えた。そしてユダヤ人たちは政治と経済で重要な位置にいた。

 死刑の宣告がじきに下されるとも気付かずに独房に座っていたとき、私の家族が政府やイスラムの有力者に対して釈放のための請願を申し立てたことなど、私はいちいち考えもしなかった。私の家族は良い待遇を受け繁栄していた。まず5万エーカーほどの土地で米とナツメヤシとアラブ馬を育てていた。次に、オスマンの元で我々は金を買って精錬し、それはイスタンブールに運ばれて貨幣となった。そのためトルコ人たちによって我々の職業から我々の姓が変えられることとなった。我々の名は「純金作り」という意味のKhalaschiになった。

 私はシオニスト地下運動に加わったことを父には話したくなかった。私が逮捕される何ヶ月も前に、私がヘブライ語を書き彼にとって見慣れない言葉と表現を使っているのを見たとき、父はそれを悟った。彼はそれを、そう、私が自らイスラエルに向かう決意をしたことを知って非常に驚いた。彼は私をさげすむようにこう予言した。「お前はすぐに尻尾を巻いて戻ってくるだろう。」

 1940年代の後半から1952年にかけて、およそ12万5千人のユダヤ人がイラクを去ってイスラエルに向かった。その大部分が騙されて、また、これは私が後に知ることになるのだが、シオニストの爆弾によるパニックに引きずられて、であった。しかし決してイスラエルに行こうとしなかった者が6千人おり、私の父とは母その中にいた。肉体的には私は二度とイラクには戻らなかったし、私とイラクを結ぶ橋はことあるごとに焼き払われたが、私の心は何度も何度もそこに旅をしている。父は正しかった。

 私はバグダッドから7マイルほど離れたアブ・グライブ【訳注:原文ではAbu-Greibとなっている】の軍基地に囚われていた。軍法会議が私に絞首刑の判決を下したとき、私にとっては脱獄することによって失うものは何も無かった。私はもう何ヶ月も計画を練っていたのだ。

 それは脱獄のための奇妙なレシピだった。バターの一塗り、オレンジの皮、そして私が友人に蚤の市で買ってくれるように頼んだ軍服だった。私が18才になる日の前までは、脂肪をつけるために私はわざとできる限り多くのパンを食べた。18才になれば彼らは正式に私を罪人として、通常の囚人と同様に50ポンドの鉄球と鎖で拘束できたのである。

 そして私の足に鉄枠がはめられた後、しばしばくじけそうになったが、私は食事をとらずに飢えてやせていった。一塗りのバターは鉄枠から私の足を抜けさせるための潤滑剤となった。オレンジの皮は脱獄計画の夜に私がこっそりと鍵にはさんでおいた。どのようにそれを入れればこのように鍵を閉じないようにできるかを研究していたのである。

 看守が鍵を閉めて戻って行ったとき、私は古い軍服を着た。それは彼らが着ているものと見分けがつかないもので、長い緑色のコートと編み上げ帽でありそれを顔を覆うように引き下げた(そのときは冬だった)。そして私は静かにドアを開け交代の兵士が広間を降りて外に出るときにその中に紛れ込み、立ち去るときに衛兵に「おやすみ」と声をかけた。そして車で待っていた一人の友人が私を大急ぎで連れ去ったのだ。

 その後に私は新しい国イスラエルに向かい1950年5月に到着した。私のパスポートにはアラビア語と英語で私の名前が書かれてあった。しかし英語では"kh"の発音が表せないため単純にKlaskiと訳されていた。国境線で移民たちは英語版を用いたのだが、その名前には東ヨーロッパのアシュケナジであるかような響きがあった。ある意味でこの「ミステイク」が、イスラエルのカースト制度がどのように機能しているのかを、じきに私が発見する鍵となった。

 彼らは私に、どこへ行きたいのか、そして何をしたいのかを尋ねた。私は農民の息子であった。私は農業についてのあらゆる問題に通じていた。そこで私はガリラヤの奥にある農業キブツであるダフニャーに行くことを志願した。私は2、3ヵ月しか耐えられなかった。新たな移民たちはすべての面で最悪のものを与えられた。食べ物もそうだが、それは唯一誰にでも共通な普通のことだった。しかし移民たちには悪質なタバコ、よりひどい歯磨き粉が与えられた。私はそこを去った。

 次に、ユダヤ機関によって、私はガザから9マイルほどにある地中海に近いアラブ人の町アル・マジュダル(後にアシケロンと改名されるが)に行くように勧められた。イスラエル政府はそこを農業都市に変えようと計画していたのだ。そこで私の農民としてのバックグラウンドが値打ちを持つと思われた。

 私がアル・マジュダルの労働局に書類を提出したとき、彼らは私がアラビア語とヘブライ語を読み書きできると知り、私に軍事長官の役所で給料の良い仕事が見つかるだろうと言った。アラブ人たちはイスラエルの軍事長官たちによって支配されていたのだ。一人の事務員が私にアラビア語とヘブライ語で書かれた書類の束を手渡した。そして私には事の意味が分かり始めた。イスラエルがその農業都市を作り上げる前に、元から住んでいたパレスチナ人たちをアル・マジュダルから追い出さなければならなかった。これらの書類は、国連の査察官に対してイスラエルからガザへの移住を求めるパレスチナ人の請願書だった。ガザはエジプトの支配下にあった。

 私はその請願に目を通した。パレスチナ人は、彼は心身ともに健康であり圧迫と苦しみから逃れて移住できるように要求している様子であった。もちろん彼らは出て行くように圧力をかけられない限りそこを離れることなどありえない。これらの家族は何百年間も、農民として、昔風の職人として、紡ぎ手として、ここに住んでいたのだ。軍事長官は彼らの生活の手段を求めることを禁止し、彼らが普通の生活を過ごせる希望を失うまで封じ込めておいた。こうして彼らは立ち去ることに同意のサインをしたのである。

 私はそこで彼らの嘆きを聞いた。『私たち自身の手で植えたオレンジの木を見るたびに私たちの心は痛みます。どうか私たちを畑に行かせてこれらの木に水を与えさせてください。神はもし我々が立ち去ったらお喜びにならないでしょう。彼の木が世話をされないからです。』私は軍事長官に彼らを自由にするように頼んだが、彼は「だめだ。我々は彼らをここから立ち去らせたいのだ。」と答えた。

 私はもはやこのような抑圧の一部となっていることができなかった。私は立ち去った。移住を拒むパレスチナ人たちは軍によって捕らえられ、トラックに詰まれゴミのようにガザに放り込まれた。4000人もの人々がアル・マジュダルからあちこちに追い払われた。イスラエル当局者に協力するものがわずかに残っただけである。

 その次に、私はどこかで政府の仕事を手に入れるために手紙を書いた。そしてすぐに面接に来るように求める多くの返事が戻ってきた。そして彼らは常に、私の顔がポーランド・アシュケナジ的な名前【訳注:Klaskiという英語つづり】と一致しないことを発見した。彼らは私にイーディッシュ語かポーランド語をしゃべるかと尋ねた。そして私ができないと答えると、彼らは私のポーランド的な名前がどこから来たのか聞いた。良い仕事が絶望的になると感じながら、私はいつも私のひいじいさんがポーランドから来たと思うと答えたものだった。私は常に「また後で電話する」と言われただけだった。

 結局、イスラエルに来てから3年か4年たって、私は名前をギラディに変えた。この名前は私がシオニスト地下活動をやっていたときに持っていたコード・ネームであるギラッドに近いものである。Klaskiの名前は私にとって何も良いことは無く、そして私の東欧出身の友人たちは、この名前が私のイラク出身のユダヤ人である出自と合わないことを、いつもなじっていた。

 私はこの約束の地で発見したことに失望した。一人の人間として失望し、制度として確立された人種主義に失望し、そして私が知り始めたシオニズムの残虐さに関して失望した。イスラム諸国からやってきたユダヤ人に対してイスラエルが持っている第一の関心事は、安い労働力の供給であった。特に、都会化された東ヨーロッパ出身のユダヤ人の下に位置する農業の労働力であった。ベン・グリオンは、1948年にイスラエル軍によって追い払われたパレスチナ人が残した何千エーカーもの土地を耕すために、"オリエンタル"のユダヤ人【訳注:アラブ諸国出身のユダヤ人を指す】を必要としたのだ。

 そして私は、この生まれたばかりの国からできる限り多くのパレスチナ人を取り除くのに使われた野蛮なやり口を知り始めた。世界は現在、細菌戦争のことを考えてしり込みしているが、しかしイスラエルこそがおそらく中東で最初にこの方法を使っただろう。1948年の戦争で、ユダヤの軍はアラブの村々の人口を空白にしていった。しばしば脅迫によって、時には見せしめとして数名の丸腰のアラブ人たちを銃で殺すことによって。そしてアラブ人たちがこれらの村で新たな生活のために戻ることを確実にできなくするために、イスラエル人たちは井戸の中にチフスと赤痢の細菌を放り込んだのである。

 イスラエル防衛軍の公式歴史記録者の一人であるユーリ・ミレシュティンは、バクテリア性の武器を使用したことについて書き、また話している。ミレシュティンによると、当時の師団長モシェ・ダヤン【訳注:後のメイア政権の国防相】は1948年にアラブ人を彼らの村から取り除くために彼らの家をブルドーザーで押しつぶし、そしてチフスと赤痢の細菌を使って井戸の水を使えなくした。

 アクレ【訳注:Acre:現在はAccoあるいはAkkoとつづる地中海岸の町】は実際に一つの大砲で守ることができる絶好の位置にあった。そこでハガナー【訳注:シオニストの防衛隊】はその町を潤す水源の中にバクテリアを放り込んだ。その水源の川はカプリと呼ばれ、あるキブツに近い北の方から流れてきていた。ハガナーはチフス菌をアクレに向かう水の中にまき、人々は病気にかかりそしてユダヤ軍がアクレを占領した。この作業が非常にうまくいったので、彼らはハガナーの一部隊にアラブ人の服を着せてガザに送り込んだ。そこにはエジプトの軍隊がいたのだが、エジプト人たちは、彼らが一般住民のことを不当にも無視して、二つの缶に入ったチフスと赤痢のバクテリア水源に放り込んでいるところを逮捕した。「戦争では感傷は無用だ」これが逮捕されたハガナーの一人が言った言葉である。

 私のイスラエルでの政治行動は、私が社会主義・シオニスト政党からアラブ語の新聞読解を手伝ってくれるようにという手紙を受け取ったすぐ後から始まった。私がテル・アヴィヴにある中央本部のオフィスを訪れたときに、私はどの部屋に行くべきなのかを尋ねて回った。私が二名の人にその手紙を見せると、彼らはそれを見ることもせずに「8号室だ」と言って私に出て行くように合図するだけだった。彼らが手紙を読もうともしないのを見て他の多くのことを質問した。しかし返事は同じだった。「8号室だ」。彼らは私が目の前に置いた書類に一瞥すらくれなかった。

 そこで私が8号室に行ってみると、そこはイスラム諸国出身ユダヤ人用の係であった。私は嫌悪し怒った。私がその党のメンバーであるかないかは関係ない。私がアラブ系のユダヤ人だから異なった思想や政策を持っている、とでもいうのか? これは、米国の黒人用課と同様の人種隔離だ、と私は考えた。私はそこに背を向けて歩いて出て行った。それが私のおおっぴらな抵抗の始まりだった。同じ年に私はアシケロンでベン・グリオンの人種主義政策に反対するデモを組織した。そして1万人が街頭に出た。

 イスラエルが外の敵との戦争を続ける間は、二級国民である我々にはこれ以上のことをする機会は多くなかった。1967年の戦争の後、私は陸軍に志願しスエズ運河近辺で戦闘が続いているときにシナイ半島で軍務に着いた。しかし1970年にエジプトとの戦争が終了すると我々は活動を開始した。我々は街頭に繰り出し同等の権利を要求して政治的にまとまった。もしここが本当に我々の祖国なら、もし我々が国境での戦争で命をかけることを求められるのなら、我々は同等の処遇を求める、と。

 我々が非常に粘り強く闘い多くの人気を得たため、イスラエル政府は我々を『イスラエルのブラック・パンサー』と呼んで、我々の運動の信用を落とそうと試みた。彼らは、イスラエルの世論が米国の黒人過激主義者と同種の思想を持つ組織を拒否するであろうと計算しながら、実際に人種主義の言葉で考えていたのだ。しかし我々は、我々のやっていることが、米国で黒人たちが人種隔離と差別と不平等な扱いに対抗して戦っていることと、何の違いも無いことを知っていた。そのレッテルを拒否するかわりに我々はそれを誇り高く採用した。私はマーティン・ルーサー・キング、マルコムX、ネルソン・マンデラとその他の公民権活動家のポスターを、私の事務所中に貼った。

 イスラエルのレバノン侵略とイスラエルによって起こされたサブラとシャティラの大虐殺【訳注:1982年にシャロンの命令で行われたパレスチナ難民に対する襲撃で3000人が虐殺された事件】を見て、私はイスラエルはもう御免だ、と思った。私は米国市民となりイスラエル国籍を放棄した。私はイスラエルで本を書いて出版したことは無かった。彼らが課した検閲のためにできなかったのだ。

 米国内でさえ出版社を見つけることが非常に難しかった。多くの出版社にはイスラエルとその友人たちから様々な種類の圧力がかけられているためである。私は「ベン・グリオンの悪業(Ben Gurion's Scandals)」を出版するのに自分のポケットから6万ドルを出すはめになった。それは、ハガナーとモサドがどのようにユダヤ人を殺したのか、という本だが、イスラエルで私の家を売り払った収入のすべてに当たる金額をつぎ込んだ。

 私はずっと、印刷会社が戻してくるのではないか、または法的な手続きが出版を差し止めるために行われるのではないか、と恐れていた。ちょうどイスラエル政府が、元モサド情報員のヴィクトル・オストゥロフスキーがその最初の本を出す際にそれを食い止めようと試みて行ったように、である。「ベン・グリオンの悪業」は二つの言語から英語に翻訳しなければならなかった。私がこの本をイスラエルで出版したいと願ったときヘブライ語で書いた。そして私がこの本を米国に来てから完成させる際にはアラビア語で書いた。しかし私は何かがその出版を止めさせるのではないかと非常に心配だったので、印刷会社には翻訳が完全にチェックされ校正されるのを待たないようにと言った。今になって私は、訴訟の公示がこの本に対する興味をかきたてるだけだったのかもしれない、と気付いている。

 私は書いたものを裏付ける大切な文書を保管するために銀行の金庫を使っている。これらの文書にはヤッド・ヴァシェム【訳注:エルサレムにある国立ホロコースト記念館】の資料から非合法にコピーしたものもいくつかあるが、私自身が見たこと、私が他の証人から聞いたこと、そして著名な歴史家や他の人たちが書いたことを裏付けるものである。それは、イスラエルをつくるという目的で行われた、イラクにおけるシオニストの爆弾攻撃、アラブの平和復活に対する拒絶、そしてユダヤ人によって起こされたユダヤ人に対する暴力と殺人事件に関する事柄なのである。


  1941年の暴動

 前に言ったように、私のイラクの家族が個人的に迫害を受けているわけでもなく私が少数民族ユダヤ人メンバーとしての損失を受けてもいないのに、何が私をシオニスト地下活動のメンバーとして絞首台への階段に導いたのだろうか。その疑問に答えるために、1941年の6月にバグダッドで起きた大量殺人の文脈を確認しておく必要がある。そのときに何百人ものイラク・ユダヤ人が、イラク軍の下士官たちも参加した暴動の中で殺されたのだ。私は12才だった。そして私の友達が数多く殺された。私は怒り狂った。

 私がその当時知らなかった点は、この暴動が英国によって画策された可能性が非常に高い、ということである。結果として親英国的なイラク指導部が生まれた。

 第一次世界大戦が起こりオスマン帝国が参加したことによって、イラクは英国の「保護」の元に入った。オスマンのスルタンに対するアラブ反乱を率いたシャリフ・フセインの息子であるアミル・ファイサルは、英国人によってメッカからつれて来られ、1921年にイラクの国王になった。多くのユダヤ人たちが経済大臣を含め多くの重要な閣僚に指名された。英国は内外の政策に関して決定的な権威を保持した。しかしながら、パレスチナにおける英国の親シオニスト政策はイラクでの反シオニスト的な反動が広がる引き金となった。これは他のアラブ諸国でも同様である。1934年の終りにバグダッドの英国大使フランシス・ハンフェリーズ卿が次のことを書き残した。第一次大戦前にはユダヤ人たちは他のどの少数民族に比べても良い地位を手に入れていた。そのとき以来「シオニズムがユダヤ人とアラブ人の間の不和を植えつけてきた。そしてこの二つの民族の間にはかつては存在しなかった苦々しさが育ってきている。」と。

 ファイサル王は1933年に死んだ。彼の跡は息子のガーズィが引き継いだが、1939年に自動車事故で死亡した。王位はガーズィの4才の息子ファイサル二世に継承され、叔父のアブド・アル・イラーが摂政に指名された。彼は首相としてノウリ・エル・サイードを選んだ。エル・サイードは英国を支持し、反英感情が盛り上がると英国からのイラクの独立を求める軍の4人の士官たちによってその地位を追われた。彼らは自らを「黄金の四角形」と呼んだが、摂政に対して国民兄弟党の党首であるラシド・アリ・アル・キラニを首相にするように迫った。

 時は1940年であり、英国は強力なドイツの攻撃に苦しめられていた。アル・キラニと「黄金の四角形」は、英国を追い出してしまうチャンスだと思った。彼らは慎重にドイツの援助を求めて交渉し始めた。そこで親英派の摂政アブド・アル・イラーは1941年1月にアル・キラニを解任した。しかし四月までに「黄金の四角形」の士官たちはこの首相を復権させていたのだ。

 これが英国を刺激し、1941年4月12日に、英国はバスラに軍隊を送った。バスラはイラク第二の都市であり、ユダヤ人人口は3万人であった。大部分のユダヤ人たちは輸出入、換金業、小売業、空港や鉄道、港の職員、あるいは上級の国家公務員として生計を立てていた。

 その4月12日に、親英派の摂政支持者たちはユダヤ人の指導者たちに、摂政が合いたがっていると伝えた。ユダヤ指導者たちは彼らの習慣に従って摂政に贈る花を持って行った。ところがその習慣とは裏腹に、彼らを会合の場所に運ぶはずだった自動車は、英国軍が集合している場所に彼らを降ろした。

 次の日の新聞には、そのユダヤ人たちの写真が『バスラのユダヤ人たちは英国軍に花を贈る』という見出しと共に、掲載されることとなった。その4月13日に、怒ったアラブ人の若者たちはユダヤ人に対する報復攻撃を始めようとした。バスラの多くのイスラム指導者たちがその計画を聞き事態の沈静化に務めた。後になって、この摂政がバスラにいなかったこと、そしてこの事件が親英の摂政支持者たちによって英国軍に介入の口実を与える民族間戦争を引き起こすための挑発であったことが、明らかにされた。

 英国はバスラの周辺により多くの軍隊を集め続けた。1941年5月7日に、インド人兵士から成るグルカ部隊が、バスラのエル・オシャール地区を占拠した。そこはユダヤ人たちが多く住んでいる地域のそばだったのである。英国人士官に率いられた兵士たちは強奪を開始した。商業地域の多くの商店が略奪を受け、個人の住宅は押し入られた。レイプの報告もあった。地域の住民たちはユダヤ人もイスラム教徒もピストルと古いライフルで応えたが、その弾丸は兵士たちのトミー銃の敵ではなかった。

 後になって、その兵士たちは、喜んでというより嫌々ながら英国の司令官の命令で動いたことが分かった。(インド兵、特にグルカ部隊は規律の厳しいことで有名であり、命令無しで暴動のように振舞うことなどほとんどありえなかった。)英国の目的は明らかにカオス状態を作り出してバグダッドの親ナショナリスト政権のイメージを貶めることにあった。それによって英国軍が首都に進軍しアル・キラニ政府を打ち倒す理由を得ることであった。

 バグダッドは5月30日に陥落した。アル・キラニは「黄金の四角形」の士官たちと共にイランに逃げた。英国によって経営されるラジオ局は、摂政アブド・アル・イラーがこの都市に戻ってくること、そして何千人ものユダヤ人たちなどが彼を歓迎する計画をしていることを知らせた。しかしながら、ユダヤ人に対して若いイラク人たちをもっと怒らせたのは、ドイツのラジオ局ベルリンのアナウンサーであるユナス・バアリであった。彼はアラビア語で、パレスチナのユダヤ人たちが英国人に伴われてファルージャ市の近くでイラクに対して戦っている、と告げたのであった。この報告は嘘だった。

 6月1日の日曜日にバグダッドで、シャボウツを祝っていたユダヤ人たちと、それを親英派の摂政が戻ってくるのを祝っていると考えたイラクの若者たちとの間で、火器を持たない喧嘩が始まった。その夕方にイラク人たちのグループがバスを止め、ユダヤ人の乗客を放り出して、一人を殺しもう一人に瀕死の傷を負わせた。

 次の日の8時半に、30人ほどの軍人と制服警察官がエル・アメン街で銃を放った。そこは狭い下町の通りで宝石屋や仕立て屋、野菜屋などはユダヤ人が経営していた。午前11時までにはイラク人の暴徒が刀やナイフやこん棒を持ってその地域のユダヤ人の家を襲っていた。

 暴動は6月2日の月曜日も続いた。この間に多くのイスラム教徒たちがユダヤ人の隣人を守るために立ち上がった。一方で一部のユダヤ人たちは何とか守りきった。党にイラクにいたユダヤ人委員会の報告者によって書かれた記録によると124名が死亡し400名が負傷した。他の推測では、やや信憑性に欠けるが、死者の数を500名、負傷者を600から2000名にまで増やしている。500ないし1300の店と1000以上の家やアパートが略奪された。

 誰がこのユダヤ人地区での暴動の背後にいたのか

 シオニスト地下運動の最も輝かしい活動家の一人でありィエホシャファットとして知られていたヨセフ・メイアは、それは英国人だった、と主張している。メイアは現在イスラエル防衛軍で働いているが、あの摂政が法と秩序を確立する救済者として戻ってくることを明確にさせるために、英国人がこの街で最も無防備で目に付きやすい部分であるユダヤ人を対象にして、暴動を煽り立てたのである。そして、別に驚くようなことではないが、その暴動は正規軍が首都に入ってくると同時に終了した。

 私自身のジャーナリストとしての経験ではメイアが正しいと思う。さらに言えば、彼の主張は彼の本を出版したイスラエル防衛軍の資料にある記録に基づいているはずである。しかし彼の本が現れる以前に、私は40年代後半にイラクで会った一人のイラン人から独自に確信を得ていたのだ。

 彼の名前はミッシェル・ティモシアン、イラク系の米国人である。私が彼に会ったとき彼はイラン南部のアバダンにある英国とイラクの合弁石油会社で看護人として働いていた。しかし1941年6月2日に彼は、多くの暴動被害者が運ばれたバグダッドの病院で働いていた。被害者の大部分がユダヤ人だった。

 ティモシアンは、振る舞いが地元の者とは異なる2人の患者に特に興味を引かれた、と語った。一人は肩に、一人は右ひざに銃弾を受けていた。医者が弾丸を取り出した後で、看護人たちは彼らの血に染まった服を脱がそうとした。しかし二人は聾唖者のふりをして抵抗した。彼らの耳が聞こえることは確かめられていたのだが。彼らを静めるために医者は鎮静剤の注射をし、彼らが眠ったときにティモシアンはその服を着替えさせた。そして彼は、その一人が首に英国軍が使う形の識別票をつけており、もう一方が右腕にグルカの剣といっしょにインドの文字の刺青をしているのを発見した。

 次の日にティモシアンが仕事に着いたときに、一人の英国軍の士官と外科医、二人のインド人グルカ兵が朝早く病院にやってきたことを聞いた。看護人たちはグルカ兵が負傷者と話をしているのを聞いた。彼らはそのふりをしていたが聾唖者ではなかった。怪我人たちは訪問者たちに挨拶をし、シーツで身をくるみ退院許可も取らずに訪問者と一緒に病院を去った。

 現在私の心の中では、1941年の反ユダヤ暴動は英国の地政学的な目的によって演出されていたということに疑いは無い。ダヴィッド・キムチェは間違いなく真実を知りうる立場にいた人間である。彼はおおっぴらに英国の責任について語っている。キムチェは第二次世界大戦中には英国の情報機関と共におり、戦後はモサドにいた。後にイスラエルの外務省の総責任者となった。彼はその地位に就いた1982年に、ロンドンにある英国国際問題研究所の討論会で話をした。

 キムチェは、イスラエルのレバノン侵略とベイルートの難民キャンプでの殺戮に関する敵意に満ちた質問に答えて、英国のグルカ部隊が1941年にバグダッドの街で起きた500名のユダヤ人殺害に参加したとき英国の外務省はほとんど無関心であった、ということに聴衆の注意を向けさせて反撃を続けたのだった。


1950〜1951年の爆弾攻撃

 1941年の反ユダヤ暴動は、親英派摂政と彼の親英派首相ノウリ・エル・サイードが復権のためバグダッドに入城する都合の良い言い訳となったばかりではない。それは同時に、パレスチナのシオニストたちにとってもイラクにシオニスト地下運動を作り上げる格好の口実をもたらした。最初はバグダッドに、続いてバスラ、アマラ、ヒラー、ディワニーア、アブリル、カルコウクといった都市に、であった。

 第二次世界大戦に続いて、イラクでは短期間しか権力が続かない一連の政権交代があった。シオニストのパレスチナ征服、特にデイル・ヤシン村でのパレスチナ人虐殺は、イラクでの反英運動を激化させた。1948年1月にイラク政府がロンドンで新たな友好条約を結んだとき、暴動が国中で起こった。条約はすぐに廃棄されバグダッドは27年間イラク軍を指揮していた英国の軍事使節の引き揚げを要求した。

 1948年のもっと後になって、バグダッドはシオニストと戦うためにパレスチナに分遣隊を送った。そして5月にイスラエルが独立宣言を行ったとき、イラクはハイファの製油所に石油を送っていたパイプラインを閉じた。しかしアブド・アル・イラーは相変わらず親英の売国奴であり、ノウリ・エル・サイードは首相に戻っていた。私は1948年にアブ・グライブ刑務所にいた。1949年にイランに向けて脱出するまでそこにいたのだ。

 6ヶ月後、詳しい日付は1950年3月19日だが、バグダッドのアメリカ文化センター図書館で一つの爆弾が爆発し、施設の被害と多くのけが人を出した。その施設はユダヤ人の若者が好んで使っていた所だった。

 ユダヤ人に対する直接の爆弾が最初に投げられたのは1950年4月8日、午後9時15分のことだった。3人の若者を乗せた一台の自動車が、バグダッドのエル・ダール・エル・ビダ【訳注:次の一語は文字化けのため判読できない】に手榴弾を投げつけたのである。そこではユダヤ人たちが過ぎ越しの祭りを祝っていたのだ。四名が重傷を負った。その夜、ユダヤ人はすぐにイラクから出て行け、と書かれたチラシがまかれた。

 次の日に多くのユダヤ人たちが、その大部分は貧しく失うものは無かったが、市民権を捨ててイスラエルに向けて出国する許可を求めて移民局に殺到した。実際にそれがあまりにも多かったために警察はユダヤ人学校やシナゴーグに登録用の事務所を作らなければならなかった。

 5月10日午前3時、ユダヤ人が経営するベイト・ラウィ自動車会社のショーウインドーめがけて手榴弾が投げられ、建物の一部が破損した。死傷者は報告されなかった。

 1950年6月3日、イラクの大部分の上流・中流のユダヤ人が住むバグダッドのエル・バタウィン地区で別の手榴弾が走る車の中から投げられた。誰も怪我はしなかったが、この爆破のすぐ後でシオニスト活動家はエルサレムに向けて、イラクからの移民の割り当てを増やすように要請する電報を送った。

 6月5日の午前2時30分、エル・ラシド街にあるユダヤ人所有のスタンリー・シャシュアビルの隣で爆弾が爆発したが、死傷者は出なかった。

 1951年1月14日午後7時、マソウダ・シェム・トフのシナゴーグの外で手榴弾が投げられた。爆発は高圧電線を直撃し、幼い少年のイツァーク・エルマチェルを含む3名のユダヤ人が感電死し、他の30名以上が負傷した。この攻撃の後でユダヤ人の脱出者数が一日に600人から700人に跳ね上がった。

 シオニストのプロパガンダ要員たちはいまだに、イラクでのこれらの爆弾がユダヤ人を追い出そうとした反ユダヤ・イラク人によって仕掛けられたものであると言い続けている。本当は恐ろしいことに、イラクのユダヤ人を殺し不具にし彼らの資産に被害を与えた手榴弾はシオニスト・ユダヤの手によって投げられたものだったのである。

 私の本で使用した資料の中で最も重要だと思えるもの、ユダヤ人にイラクを去るように呼びかけるシオニスト地下活動者によって作られた2枚のビラである。一つは1950年3月16日、他は1950年4月8日の日付がある。

 これら二つの間に見られる相違は決定的である。どちらも出版の日付を書いているが、4月8日のものだけに「午後4時」と時刻が記されているのだ。なぜ時刻が書かれているのか? ここまでの詳細さは前例が無かった。捜査判事のサラマン・エル・ベイトもこの疑問を見出した。「午後4時」を書いた者はその5時間後に起こるであろう爆破を知っていてそのアリバイがほしかったのか? もしそうなら、どのようにして爆破について知ったのか。判事は、シオニスト地下活動者と爆弾を投げた者との間に関係があったからこそ彼らがそれを知っていた、と結論付けた。

 これはまた、中央情報局(CIA)の元上級局員であるウィルバー・クレイン・イーヴランドの結論でもあった。私は彼にニューヨークで1988年に合う機会があった。CIAがその出版に反対した本「砂のロープ」の中で彼は書いている。

『イラクを反米として演出しユダヤ人を恐怖に陥れる試みの中で、シオニストたちは米国情報サービス図書館とシナゴーグに爆弾を仕掛けた。すぐにユダヤ人にイスラエルに逃げるようにせきたてるビラが現れ始めた・・・。後でイラク警察が米国大使館に、シナゴーグと図書館の爆弾、同様に反ユダヤと反米のビラ作戦が、地下活動中のシオニスト組織の手によるものであることを示す証拠を提供したにも関わらず、世界の大部分は、アラブ・テロリズムがイラクのユダヤ人に逃げ出す動機を与えそれをシオニストが「救った」、という報道を信じた。それは実際にはイスラエルのユダヤ人人口を増やすだけの目的だったのだが。』

 イーヴランドはシオニストと爆弾攻撃を結びつける具体的な証拠を詳しくは挙げていない。しかし私の本の中では挙げた。例えば、1955年に私はイスラエルでイラク出身の弁護人による調査団を組織した。当時まだイラク国内に財産を持っていたイラク系ユダヤ人の要求を取り扱うためである。ある有名な弁護士が、彼は私に名前を出さないように求めたのだが、米国文化センターで見つかった反米ビラが、4月8日の爆弾攻撃の直前にシオニストによって配られたビラと同じ型のタイプライターで打たれ同じ謄写版輪転機で印刷されたものであることを、イラクの研究室でのテストが明らかにしていた、ということを私に打ち明けたのだ。

 研究は同時にベイト・ラウィの攻撃で私用された爆発物のタイプが、弁護士のヨセフ・バスリと靴屋であるシャロム・サリイというユダヤ人のスーツケースの中で発見された爆薬の名残と一致したことを明らかにした。彼らは1951年12月の爆弾攻撃の犯人として裁判にかけられ、次の月に処刑された。この二人の男はシオニスト地下軍事組織であるハシュラのメンバーだった。サリイは結局、彼とバスリともう一人ヨセフ・ハバザが攻撃を実行したことを白状した。

 彼らの処刑が行われた1952年1月までには、6000名を除いて、12万5千人と推測されるイラクのユダヤ人がイスラエルに逃げていた。その上に、親英、親シオニストの操り人形エル・サイードが、ユダヤ人たちの現金を含むすべての資産を凍結するように取り計らった。(イラクのディナールを持って出る方法もあったのだが、移住者たちがイスラエルで換金するときにイスラエル政府がその値打ちの半分を差し押さえてしまうのだ。)移住出国の登録をしたのではなくたまたま外国に行かなければならなかったイラク系ユダヤ人でさえも、もし彼らが所定の日時までに戻らなかった場合には国籍を失うハメになった。古い、文化の高い、豊かな共同体は根こそぎになっていた。そしてその人々は東ヨーロッパのユダヤ人たちによって支配される土地に植え替えられた。東ヨーロッパ・ユダヤ人の文化はイラク系ユダヤ人にとって、異質なものであるばかりではなく全面的に有害なものであったのだ。


究極の犯罪者ども

[シオニストの指導者たち]

 彼らは、ユダヤ人の国を確立させるためには、パレスチナの住民を周辺のイスラム諸国に追い出し、そしてそれらの諸国からユダヤ人を移入させなければならないことを、最初から分かっていた。

●テオドル・ヘルツルはシオニズムの建設者であり、それを社会工学によって成し遂げることができる、と考えていた。彼の1885年6月12日の日記に彼は次のように書いている。シオニストの移住者は「一文無しの人間達をかきたてて国境を越えて連れて来なければならないだろう。中継する国々の中では彼らのために雇用を斡旋し、我々自身の国では雇用を拒否することによって。」

●ネタニヤフ首相の思想的な先達者であるウラジミール・ジャボチンスキーは、このような移送が実力によってのみ実行できたことを率直に認めた。

●イスラエルの初代首相であるダヴィッド・ベン・グリオンは、1937年のシオニスト会議で次のように語った。提案されるどのユダヤ人国家であっても『アラブ人口を区域外に移さなければならない。もし可能なら自発的な意思で、だめなら強制的に、である。』と。1948〜49年に75万人のパレスチナ人が根こそぎにされその土地が没収されたあと、ベン・グリオンは安価な労働力市場を充たすべきイスラム諸国のユダヤ人に目をつけなければならなかった。トリックと恐怖のどちらかを使ってユダヤ人たちに立ち去るよう「説得する」ために、「密使たち」がこれらの国々にもぐりこまされた。

 イラクのケースではその両方が使用された。教養の無いユダヤ人たちは、盲が見えるようになりびっこが歩けるようになりたまねぎがメロンのように大きく育つメシア的イスラエルの話を吹き込まれた。教養のあるユダヤ人たちは爆弾を投げつけられた。

 爆弾事件の2、3年後、1950年代の初期にイラクで一冊の本が出版された。アラビア語で「シオニストの蝮の毒」と題された。著者は1950〜51年の爆弾事件の捜査を担当した一人の人物であり、その中で彼は、イスラエル人たち、特にイスラエルから派遣された特使の一人であるモルデカイ・ベン・ポラットがそれらの事件に関与すると見ている。これが世に出るや否やその本は本屋からも姿を消した。米国大使館を通して働くイスラエル・モサドの局員がこの本をすべて買い上げ焼却した、と噂された。私は3度にわたってイスラエルで手に入れたものを私まで送ってもらおうとしたが、そのたびにイスラエル検閲当局は郵便局でそれを妨害したのだ。

[英国の指導者たち]

 英国はいつでもその最大の植民地的利権に添って行動した。この理由でアーサー・バルフォア外相は1917年に、第一次世界大戦でのシオニストの協力に対する見返りとして、ロスチャイルド卿にかの有名な手紙を送ったのである。第二次世界大戦の間、英国人たちは西側陣営にある顧客となる国々を維持することに第一の関心を抱いていた。一方でシオニストたちの最大の関心はヨーロッパのユダヤ人をパレスチナに移住させることであった。それがナチスとの協力を意味するとしても、である。(私の本の中で、私はベン・グリオンとシオニスト指導者たちによるこの種の交渉の例を数多く取り上げている。)

 第二次大戦後、国際社会のチェス盤では共産主義者が資本主義者に対して戦った。米国とイラクを含む数多くの国々で、ユダヤ人たちは共産党の大きな部分を代表した。イラクでは労働者階級インテリゲンチャである何百人ものユダヤ人が共産党と社会党のヒエラルキーの最重要ポストを占領した。資本主義陣営でその顧客となる国々を維持するために、英国はそれらの政府に親英の指導者を確保しなければならなかった。そしてもし、イラクの中でのように、そういった指導者が追い出された場合には、一つか二つの反ユダヤ暴動が、首都に進駐して「正当な」指導者を復権させるための格好の口実となりえたのである。

 その上、もしすべてのユダヤ人社会をイスラエルに移植することによってイラクから共産主義の影響を取り除く可能性があるのなら、そのときにはそうしない手は無いのだ。特にイスラエルとイラクの指導者が共謀している場合には。

[イラクの指導者たち]

 摂政アブド・アル・イラーとその首相であるノウリ・エル・サイードのどちらも、ロンドンから直接の指示を受けていた。1948年の終りまでに、すでにイスラエルの首相ベン・グリオンにウイーンで会っていたエル・サイードは、イラクと英国の仲間たちといっしょに人間の入れ替えの必要性について協議を始めていたのである。イラクがユダヤ人たちを軍用トラックに乗せてイスラエルまでヨルダン経由で輸送し、そしてイスラエルから追い出されたパレスチナ人の一部を受け取る、ということである。彼の提案には相互の財産の没収も含まれていた。ロンドンは、このアイデアは余りにも過激だ、ということで拒否した。

 エル・サイードは代案を出し、イラクのユダヤ人の生活をイスラエルへ立ち去ってしまうほど惨めなものにさせる状況を作り始めた。ユダヤ人の国家公務員たちは解雇された。ユダヤ人商人たちは輸出入の許可を拒否された。警察はユダヤ人たちを些細な理由で逮捕し始めた。それでもなおユダヤ人たちの大部分は立ち去ろうとしなかったのである。

 1949年9月にイスラエルはスパイであるモルデカイ・ベン・ポラットをイラクに派遣した。いわゆる「シオニストの蝮の毒」の一人である。ベン・ポラットが最初にやった事の一つは、エル・サイードに近づき、彼に、イラクのユダヤ人から市民権を取りあげる法律を制定させるために、金銭的な報酬を約束することだった。

 そのすぐ後に、シオニストとイラクの代表者たちは、バグダッド在住の諜報員を介して伝えられたイスラエル作成のモデルに従って、その法律の素案を作り始めた。その法案は1950年3月にイラク議会を通過した。それによって政府は、この国を立ち去ることを望むユダヤ人に対して一回だけの出国ビザを発行することができるようになった。そしてその3月に爆弾攻撃が始まった。

 60年の後、当時クネセット【訳注:イスラエル国会】のメンバーであったユーリ・アヴネリが発行するイスラエルの雑誌ハオラム・ハゼーは、バグダッドでの爆弾攻撃についてベン・ポラットを非難した。自身がクネセットのメンバーであったベン・ポラットはこの告発を否定したが、この雑誌を名誉毀損で訴えることは決してしなかった。そしてイスラエルにいるイラク系ユダヤ人たちは今もなお彼のことを「爆弾のモルデカイ」と呼び続ける。

 私が述べたように、このことはすべて10代の人間の理解をはるかに超えたものだった。私はユダヤ人が殺され始めたと思った。そして我々を約束の地に連れて行ってくれる組織が存在した。だから私はイスラエルへの脱出(エクソダス)を手伝った。後にイスラエルで、偶然にだが、私はこれらのイラク系ユダヤ人の一部と出くわすことになった。彼らが、私がかつて彼らに行ったことのために私を殺してしまいたいという感情を示すことは、決してまれではなかったのだ。


和平のチャンス

 1953年10月にイスラエルがヨルダンのキビア村を襲撃したとき、ベン・グリオンはネゲブにあるセデー・ボケル・キブツでの出張ボランティアに出かけていた。そのような時には労働党は彼を訪ねていく人々のバス・ツアーを組織するのが常であった。そこで彼らは羊を追って働く元首相の姿を見た。しかしそれは単なる見せかけでしかなかった。実際に彼は日記を書き見掛けの裏で活動し続けた。私はそんなツアーの一つに出かけた。

 我々はベン・グリオンに話しかけてはならないと言われていたが、私が彼に会ったとき私は、イスラエルが議会を持つ民主国家であるのにどうして憲法を持っていないのか、と尋ねた。ベン・グリオンは言った。「少年よ、(私はそのとき24歳になっていたのだが)聞きなさい。もし我々が憲法を持っているのなら我々は国の境界についてそこに書かなければならなくなる。そして今のそれはわが国の国境線ではないんだよ。」「ではどこが国境線なのでしょうか。」私は聞いた。「サハルの行くところならどこでも、そこが国境なのだ。」サハルとはイスラエル陸軍である。

 ベン・グリオンは、イスラエルは分割案を受け入れると世界に語り、アラブはそれを拒否した。次にイスラエルはアラブの国家であると約束された土地の半分を占領した。そして彼はまだ十分ではないと言い続けた。イスラエルはもっと土地を求めた。一つの国が隣国の土地を取り上げることを望んだら、どうやって彼らとの平和を作ることができるだろうか。一つの国がその国境線に満足すると言おうとしないなら、どのようにして安全保障を求めることができるだろうか。そのような国にとって平和とは不便なものであろう。

 私は今、多くのアラブ諸国の指導者たちが最初からイスラエルと和平を結ぶことを望んでいたことを知っている。しかしイスラエルは常にそれを拒否した。ベン・グリオンはプロパガンダでそれを覆い隠した。彼は、アラブ諸国はイスラエルを海の中に突き落としたいのだ、と言い、ガマール・アブデル・ナセルを、イスラエルを破壊することが最高の目標である「中東のヒトラー」と呼んだ。彼は米国と英国がナセルをパーリア【訳注:インドの不可触選民】のように扱うよう求めた。

 1954年に米国はナセルに対する非難を弱めつつあるように見えた。すると6月の3週間で多くの爆弾テロが起こった。カイロとアレクサンドリアの米国情報センターで、英国が所有する劇場で、そしてカイロの中央郵便局で。アレクサンドリアの映画館への焼夷弾攻撃の試みは、爆弾が犯人たちの一人のポケットから転げ落ちたために失敗した。これによって、テロリストたちが反西側エジプト人ではなく、エジプトと米国の温かい関係に水をさそうとするイスラエルのスパイであることが明らかになった。このことはラヴォン事件として知られるようになった。

 ベン・グリオンは彼のキブツに住み続けていた。首相のモシェ・シャレットは、英国のモーリス・オーバック卿のオフィスを通してアブデル・ナセルに接触中であった。シャレットはナセルに捕らえられたスパイに対する寛大な処置を求めた。そしてナセルは両国間の状況の悪化を避けるために彼の力でできる限りのことをやった。

 それからベン・グリオンは1955年2月に国防相として復帰した。この月の後半にイスラエル軍はガザにあるエジプト軍キャンプとパレスチナ難民を襲撃し、54名を殺害して多くの負傷者を出した。その襲撃の当夜、オーバック卿はナセルに対するメッセージを送っているところだった。しかしその軍事行動のために続けることが不可能になった。オーバックが電話をかけたときに、ナセルの秘書が彼に、この攻撃はイスラエルが平和を望んでいないことを証明している、そして彼は仲介者として時間を浪費している、と語ったのだ。

 11月になってベン・グリオンはクネセットで、平和と理解を求めるためにどこででもいつでもアブデル・ナセルと喜んで会うだろう、という声明を出した。次の朝イスラエル軍はサバハ地区にあるエジプト軍キャンプを攻撃した。

 ナセルがイスラエルとの和平達成を悲観的に感じていたにも関わらず、彼は他の仲介を通してその試みを送り続けた。一つは米国フレンド奉仕委員会を通して、他にマルタの首相ドム・ミントフの線、そしてユーゴスラビアのマーシャル・チトーを通す道もあった。

 特に期待が持てそうだったのは、ロンドンタイムズの編集長デニス・ハミルトンを通してのものだった。ナセルはハミルトンに、ベン・グリオンと2時間か3時間座って話をしさえすれば、紛争を収めて二つの国の戦争状態を終わらせることができるだろう、と語った。この言葉がベン・グリオンの耳に届いたとき、彼はハミルトンと会うように手はずを整えた。彼らはロンドンのイスラエル大使アーサー・ルリアを連絡役として話を進めることを決めた。ハミルトンが3度目にエジプトに行った際、ナセルは彼に会って、ベン・グリオンが、1インチたりとも土地を譲らないし一人の難民をも戻らせないだろう、と述べた演説のテキストを見せた。ハミルトンはベン・グリオンが自分の口で和平の使命を突き崩しイスラエル・アラブ紛争を収めるチャンスをつぶしてしまったことを知った。

 ナセルは、彼の友人で週刊誌ルズ・エル・ユスフのイブラヒム・イザットを派遣し、政治的空気を探るために、またもしイスラエルが平和を望むのであればどうして攻撃が起きるのかを知るために、イスラエルの指導者たちと会談させた。イザットが会った中の一人が軍の前参謀長イイガル・ヤディンであった。1988年、彼は私に次のような手紙を書いた。

『親愛なるギラディ氏へ。
 あなたの手紙は、ほとんど忘れかけていてほんのいくつかの詳細しか覚えていないあることを、私に思い出させてくれました。
 イブラヒム・イザットは、もし記憶に間違いなければ、外務省かその支局かの要請の元で私のところにやって来ました。彼は私の家に来てそして我々は何時間も話しました。私は彼がナセルの使いで来たと言っていた記憶はありません。しかし彼がその意識で来ていたと理解できたことに間違いはありません。
 ナセルが英国とフランスの反対にも関わらずスエズ運河の国有化を決定したとき、ラジオ・カイロはヘブライ語でそれを伝えました。
 もしイスラエル政府が英国とフランスの帝国主義者に影響を受けていないのなら、両国の間には大きな理解が次第に生まれてくるでしょうし、エジプトはイスラエルのスエズ運河への通路を持ちたいという要求を認めることでしょう。
 イスラエルはエジプトに対しては何の意図も無いと答えました。しかしちょうどそのときに、イスラエルの代表者たちはフランスにいて、1956年に起こるべき3方向の攻撃を計画中でした。
 その間中ベン・グリオンは「中東のヒトラー」と言い続けました。これは1970年9月、ガマール・アブデル・ナセルが亡くなるまで続きました。そのとき、ダヴィッド・ベン・グリオンは記者団に、奇跡中の奇跡だ、と言ったのです。
 彼が死ぬ一週間前に私はアブデル・ナセルからの使者を迎えました。彼はイスラエルとアラブ世界の問題解決のために緊急に私に会いたいと求めました。
一般の人は驚きました。彼らはアブデル・ナセルが和平を今まで望み続けたことを知らなかったのです。しかしイスラエルはそれを妨害しました。
 イスラエルとの平和を望んでいたアラブの指導者はナセルだけではなかったのです。他にも大勢いました。アブデル・カリム・カセム准将は1958年7月にイラクの実権を握る前に、秘密合意を結ぶためにイスラエルに代表団を送る地下組織を率いていました。ベン・グリオンは彼に会うことすら拒否しました。私はイスラエルでジャーナリストをしていたときにこのことを知りました。しかし私がこのことのほんの一部でも公表しようとすると、いつでも検閲が「不許可」の印を押したのです。
 現在、ネタニヤフの時代で、我々は再び、平和を作る利益を欺く新たなイスラエル首相の目撃者となりつつあります。ネタニヤフとリクードはアラファトを盛り立てて、イスラエルの「安全保障」のためにもっともっと抑圧的な方法を確立するように要求しています。遅かれ早かれ、パレスチナ人はアラファトの、イスラエルの買弁としての強権的手法にうんざりしてしまうだろう、そして彼は殺されるのではないか、と疑っています。そうなればイスラエル政府は言うでしょう。「見なさい。我々は彼にすべてを与える準備があったのだ。あなた方はアラブ人たちを信用してはならない。彼らは互いに殺しあう。いまや平和について語るべき者は誰もいない。」と。』


結論

 アレクシス・デ・トケビレはかつて、複雑な真実よりも単純な嘘の方が世界にとって受け入れやすい、という観察をした。近頃では、ユダヤ人は反ユダヤ主義のためにアラブの土地から立ち退かされた、あるいは、決してアラブではなくイスラエルこそが平和を追求した、といったシオニストの嘘の方が世界に受け入れやすくなっている。真実はずっと容易に識別できるものである。世界の舞台でより大きなプレーヤーがあやつりの糸を引いているのだ。

 これらのプレーヤーたちは自分たちの犯罪に責任を負わされるべきである、と私は信じる。特に彼らがある種の思想的使命を聖壇に祭って、それによって、無実の人々に対して意欲的にテロを行い、略奪し、殺害する場合である。

 私は同時に、これらの指導者の子孫が犠牲者とその子孫たちに償いをする、それも単なる賠償ではなく、歴史的な記録を真っ直ぐに正すことによってそのようにする、道義的責任がある、と信じる。

 このことが、私がイスラエルで、イラクでの財産と地位を残して立ち去ることを強いられたイラク系ユダヤ人の補償を求めて調査組織を作った理由だった。これが、私がイスラムの地からやってきたイスラエルのユダヤ人の嘆きをもってイスラエル政府と闘う「ブラックパンサー」に参加した理由だった。そしてこれが、私がこの問題についての私の本を書いた理由だった。それは、歴史的な記録を真っ直ぐに正すことなのである。

 我々イスラムの地出身のユダヤ人は、自然発生的なユダヤ人とイスラム教徒の敵対のために祖先の地を離れることはしなかった。そして我々アラブ人は――私は私の妻の言語ゆえに、また私が自宅で未だにその言葉を話しているがゆえに、自分をアラブ人と言うが――われわれアラブ人は、数多くの機会にあのユダヤ人国家との平和を探ってきたのである。そして最終的に、米国市民・米国納税者として、私は次のように言わせてもらおう。我々米国人はイスラエルにおける人種差別をやめさせ、ヨルダン川西岸、ガザ、レバノン南部、そしてゴラン高原での残虐な土地・財産の剥奪をやめさせる必要があるのだ。

[脚注]

ミレシュティンの言葉がイスラエルの新聞ハダショットの、1993年8月13日に発行された記事の中で引用された。著者であるサラー・ライボビス・ダールは一九四八年の細菌兵器の使用について知っている多くのイスラエル人にインタビューした。ミレシュティンは、バクテリアが、空っぽになったアラブ人住民の村のすべてに使用された、と語った。

【以下、資料の紹介に関するいくつかの脚注があるのだが、何に対する注釈であるのか明らかでないためこの訳文からは割愛し、ここで翻訳を終了させていただく。】

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