イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム 目次に戻る    (アーカイブ目次に戻る)

第9部 近代十字軍  (2008年4月)

小見出し   
[吊るし上げられたADLフォックスマン]  [「近代十字軍」とオスマン帝国]  [「青年トルコ」とパルヴスとジャボチンスキー]
[トルコとイスラエル]  [欧州へ]

     

[吊るし上げられたADLフォックスマン]  【小見出しに戻る】

 2007年7月、米国のユダヤ人社会は大揺れに揺れた。ユダヤ・メーソン機関ブナイ・ブリスの幹部で反名誉毀損同盟(ADL)会長として米国社会で比類なき政治力を発揮するエイブラハム・フォックスマンが、米国議会に対して「アルメニア人虐殺問題を取り扱うな」と圧力をかけたからである。

 この「アルメニア人虐殺問題」とは、19世紀末ごろから第1次世界大戦にかけてオスマン帝国(トルコ)で数百万人のアルメニア人が殺害されたとされる歴史問題であり、米国を中心として世界に散らばって住むアルメニア人たちはこれを第2次世界大戦中のユダヤ人ホロコーストと並ぶ『組織的・計画的なジェノサイド』として非難・告発し、一方でトルコ政府は『戦時の強制移動中に起こった悲劇』であるとしてその組織性・計画性を否定する。そして米国などのユダヤ人団体の多くは従来から一貫してアルメニア人の側に立って様々な角度から「虐殺問題」を取り扱ってきた。

 米国議会はというと、日本に対する「従軍慰安婦問題非難決議」でも分かるように、歴史問題を穿り返しては政治的圧力の道具とすることにことのほか熱心である。もちろんのことだが、自国のベトナム戦争時の虐殺はもとより、イスラエルによるパレスチナ住民虐殺や英国によるインド支配の残虐さに対する非難決議を行ったことは一度も無い。

 そして米国議会は一昨年来この「アルメニア人虐殺問題」に対する非難決議を準備してきたわけだが、トルコ政府はこの問題を取り扱わないように米国政府に強く要求し、トルコ中で国民の米国に対する猛烈な抗議と過激なデモが続いた。そして2007年の2月には外相のアブダラー・グルが議会代表者に会い正式にその抗議の意思を伝え、同時にフォックスマンを含む米国ユダヤ人組織に対しても圧力をかけ始めた。

 そしてついにフォックスマンはこう語った。「議会の動議がこの件を調停することはできまい。その解決は一つの方向となる。それは判定になってしまう。トルコ人とアルメニア人は彼らの過去の見直しをする必要があるかもしれない。ユダヤ共同体はその歴史の判定者であるべきではなく、米国議会も同様である。」こうしてADLと他の3つの強力なユダヤ組織、米国ユダヤ人委員会、メーソンの国際ブナイ・ブリス、そして国家安全保障問題ユダヤ委員会(JINSA)は、議会にこの問題から遠ざかるように求めたのである。

 米国議会がこの一言で「アルメニア人虐殺問題」を取り下げたわけだから、誰が米国の政治を支配しているのか一目でわかろうというものである。しかしそれはさておき、このフォックスマンの発言と米国ユダヤ人組織の態度に対して、米国在住のアルメニア人はもとより、長年彼らと同盟を組んでいたユダヤ人たちが激怒したことは言うまでもない。青年を中心とする大勢のユダヤ人たちがフォックスマンに対して一斉に激しい抗議の声をあげた。しかしこの問題に対して「歴史の判定者」であることを放棄した米国の主要ユダヤ人組織の姿勢は変化しなかった。

 どうして彼らは一般のユダヤ人たちが大いに関心を持つこの問題を相手にしなくなったのだろうか? もちろん中東地域でイスラエルとの最も重要な同盟を結ぶトルコを刺激するような愚をおかしたくなかった事情はある。特にその少し前にトルコ議会の総選挙で穏健派とはいえイスラム教政党が政権を取ったことは、イスラエルとシオニストに大きなショックを与えただろう。いまここでトルコがイスラエルにそっぽを向くようなことが起これば、イラン攻撃の機会をうかがうシオニスト政権にとって大打撃となる。ただでさえイスラエルが軍とモサドの要員を送り込んで地歩を固める北部イラクのクルド人地区を巡って軋轢が続いているのだ。

 こんなときに歴史問題を穿ってトルコ国民を刺激すればイスラエルにとって致命的な打撃を導くことにもなりかねまい。シオニスト機関として何としてもこのような事態は回避しなければならない事情があったことに間違いは無い。

 しかし、この「アルメニア人虐殺問題」の背後には、おそらくイスラエル誕生を巡る、はるかに根深い「歴史問題」が横たわっている。ひょっとするとフォックスマンは表面的・現実的な案件に対してだけではなく、近代史の深奥にひそむ問題が表ざたになるようなことを恐れたのかもしれない。

【以上、参照資料】
http://www.jewcy.com/feature/2007-07-09/fire_foxman


[「近代十字軍」とオスマン帝国]  【小見出しに戻る】

 2001年9月11日の「同時多発テロ」後に、米国大統領ジョージ・W.ブッシュは「十字軍」を口にした。しかし19世紀後半以後の世界史を教科書的な視点から離れて眺めなおしてみるならば、この「十字軍」は大英帝国によるオスマン帝国転覆・解体謀略から本格的にスタートしたように思える。「アルメニア人虐殺問題」は単なる民族紛争ではない。それはまさしくこの「近代の十字軍」による中東制圧支配計画の中で起こった出来事であるに違いない。

 現在のトルコ東部にあるアナトリア地方では何百年もの間イスラム教徒であるトルコ人とキリスト教徒であるアルメニア人が平和共存してきた。イスラム教徒たちはどこでも他の宗教を禁圧する道を選ばなかったのだ。たとえばイベリア半島では彼らは数百年間にわたってキリスト教徒やユダヤ教徒と共存してきた。イスラム教徒はその「姉妹宗教」を攻撃せず支配地域を「一色に塗りつぶす」ことをしなかった。それを行ったのはイスラム帝国滅亡後のキリスト教徒たちであった。

 大英帝国のみならず支配者たらんとする者にとって「支配するためには分割せよ」は鉄則である。英国や米国が地政学的にも資源確保にとっても世界の最重要地域である中東地域を支配するために用いた手段も例外ではない。彼らはオスマン帝国支配地域に住むキリスト教徒たちに手を差し伸べ援助し、彼らに帝国内での経済的・社会的高位を確保させた。アルメニア人がその最大のターゲットになったことは言うまでもない。次第に長年平和裏に共存してきたイスラム教徒のトルコ人たちと彼らとの間に亀裂が生じ多くの反感が生まれたことは当然に帰結である。しかしそれでもトルコ人たちはアルメニア人との共存の意思を捨てなかったし、アルメニア人たちもオスマン帝国から自分達を切り離そうとはしなかった。

 オスマン帝国の解体を目論んだのは大英帝国ばかりでなく北方の巨人ロシアも同様であった。ロシアは積極的にロシア在住のアルメニア人をオスマン帝国に送り込み、民衆を扇動し暴動を組織するようになった。それはロシア帝国内のイスラム教徒たちに対する弾圧と軌を一にしたものだった。彼らは1890年代からオスマン帝国内に武器を密輸し過激なアルメニア民族主義を焚き付け武力による「革命」を叫んでオスマン帝国を内部から崩しにかかった。この時点でアルメニア人の存在はオスマン帝国にとって非常に危険なものになり始めたのである。

 特に大活躍したのはマルクス主義者たちである。主要なグループが二つあり、一つは1887年にスイスのジュネーブで結成されたフンチャック(Hunchak)と呼ばれるフンチャキアン(Hunchakian)革命党、他はダシュナック(Dashnak)と呼ばれるアルメニア革命会議である。後者は1890年に結成されロシアに資金援助を受けていた。彼らはイスラム教徒との共存を維持しようとする教会の神父たちや商人達を次々と殺害し、アルメニア人を反イスラム、反オスマンに囲い込んでいった。経済破綻と政治腐敗に苦しむオスマン帝国と一般のトルコ民衆にとってアルメニア人の存在がどのようなものであったのか、容易に想像がつくだろう。

 しかし、アルメニア人たちの弱点は、その最も密集した居住地域においてさえも人口の20%を超えないという分散した状態であった。扇動家たちの動きが活発になればなるほど一般のアルメニア人民衆におよぶ危険が飛躍的に大きくなったのは当然のことである。悲劇は始めから予想されたことだった。

 繰り返すが、これらの全ては欧米国家を支配する者たちがこのイスラム帝国解体のために仕組んだ策略だったのだ。彼らにとってアルメニア人は一つの「コマ」に過ぎなかったのである。この点は第1次大戦中に大英帝国のスパイであるロレンスに扇動されたアラブ人たちも同様であった。そしてついにオスマン帝国では内患外憂のなかで劇的な体制変革が行われることとなる。

【以上、参照資料】
http://homepages.cae.wisc.edu/~dwilson/Armenia/justin.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Armenian_Genocide


[「青年トルコ」とパルヴスとジャボチンスキー]  【小見出しに戻る】

 1908年に起こった「青年トルコ人革命」は「統一と進歩委員会」に主導される政治運動であり、1878年にわずか2年足らずで効力を停止させられた憲法とそれに基づく政治の復活を叫んで、スルタン・アブデュルハミト2世を追放した政治変革であった。この「統一と進歩委員会」は「青年トルコ党」と訳されることもある。しかしこの政変を起こした「青年トルコ運動」は多くの集団の動きから成り立っており「統一と進歩委員会」がその最大党派であった。オスマン帝国を掌握した「青年トルコ運動」は次第に過激な民族主義の色彩を帯びるようになり、第1次世界大戦中に「アルメニア人大虐殺」を実行したのも彼らの政府であった。

 不思議なことにこの「青年トルコ運動」は決して人種的な意味のトルコ人だけで成り立っていたものではなく、オスマン帝国内のさまざまな民族の出身者が参加していた。彼らの多くは英国などに留学して近代の西欧から多くの近代化に関する手法を十分に学んだ者達であった。しかしそれだけではなかったようである。

 ここに不思議な人物がいる。名はアレクサンダー・パルヴス。本名はイスラエル・ゲルファンドで、英語読みでは普通ヘルファンドと呼ばれる。ロシア生まれのユダヤ人で、日本ではあまり知られていないようだが、レオン・トロツキーらとともにマルクス主義者としてロシア革命を推進した中心的な人物の一人である。そしてそのパルヴスはこの「青年トルコ人革命」の期間に5年間イスタンブールに滞在し、この間にそこを拠点としてバルカン半島の紛争に対する武器商人として暗躍し相当な収益を手にした。そして彼は「青年トルコ運動」のパトロンの一人となり同時に政治アドバイザーともなった。

 しかし奇妙な話である。彼は武器の製造と販売でドイツのクルップ財団と手を組み、さらに英国から「サー」の称号を受け取った悪名高いギリシャ系武器商人ベイシル・ザハロフが経営するヴィッカーズ株式会社(英国)のビジネス・パートナーでもあった。そしてその一方で彼は共産主義者としてロシア革命を導き、同時に「青年トルコ運動」を支えていたのである。このパルヴスを英国諜報機関のエージェントと見なす人もいるがそのように思われても無理からぬ面を持っているのだ。

 そして同じイスタンブールにもう一人の奇妙なユダヤ人の姿を認めることができる。ウラジミール・ジャボチンスキー。彼は一般的にパルヴスとは逆に反共主義者だったとみなされるが、トルコでの動きは一致している。ジャボチンスキーは「青年トルコ革命」直後にイスタンブールに到着し、すぐに新聞「青年トルコ」の編集長となった。

 リンドン・ラルーシュとその運動の歴史家によれば、この新聞は当時のトルコ政府の閣僚にいた人物によって所有されていたが、立ち上げたのはロシアのシオニスト団体、そしてブナイ・ブリスによって運営され、その編集はシオニストでオランダ王家の銀行家であるジャコブ・カーンによって監督されていたという。イスラエル「建国の祖」の一人であるジャボチンスキーはまずトルコの政治改革に関わっていたのである。

 共産主義者であるパルヴスと反共主義のシオニストであるジャボチンスキーの両方がこのときにトルコにいた。そしてその一方で同じ共産主義者たちがアルメニア人を自殺行為にも等しい過激民族主義運動に駆り立てていたのだ。その背後には西欧支配者とそれに連なるシオニストの姿が見え隠れする。そしてアルメニア人たちは「青年トルコ」政府による強制移住と弾圧の後に米国など世界各地に散らばり、現在アナトリア地方にはほとんど住んでいない。文字通り「国無き民」となってしまった。

 その後オスマン帝国にとってまさに《自殺》としか言いようのない第1次世界大戦参加を経て、小アジアに限定された国家のすべてを西欧化した「トルコ建国の父」ムスタファ・ケマル・アタテュルクを初代大統領とする「欧州の一部」トルコ共和国が誕生する。このアタテュルクは当然のごとくこの「青年トルコ運動」に参加してきた人物だった。この運動が、西欧勢力がオスマン・イスラム帝国に放った《最後の刺客》であったことに疑いの余地はない。

 そしてその帝国から「解放すべき」パレスチナの土地を巡って、ロスチャイルド卿と英国外相バルフォアとの間で密約が結ばれたことが「イスラエル建国」の直接の開始を告げるものであった。そこにシオニストおよびユダヤ人組織と縁の深い共産主義運動が絡んでいたことに何の不思議もあるまい。現代のシオニスト・イスラエルとトルコ共和国との関係はすでにこの当時から根を植えつけられていたわけである。イスラム帝国を解体して生まれたトルコ「欧州」共和国と、そしてその同じプロセスで源流が作られ、ソ連、ドイツ、英国、米国の総力を挙げての中東イスラム国家破壊工作の結果として誕生したシオニスト・イスラエルは、元々からの「シャム双生児国家」だったといえるだろう。

【以上、参照資料】
http://en.wikipedia.org/wiki/Israel_Helphand
http://www.schillerinstitute.org/conf-iclc/1990s/conf_feb_1994_brewda.html


[トルコとイスラエル]  【小見出しに戻る】

 ロシアのシオニストといえば、ジャボチンスキーのほかに、「シオン労働者(Poalei Zion)」党を率いたベル・ボロチョフやその党員で「ボルシェヴィキ」であったダヴィッド・ベン-グリオンなどが有名だが、同じ共産主義者のパルヴスがシオニストであったのかどうかは分からない。トロツキーとともに「永久革命論」を唱えて欧米のユダヤ組織から革命資金を集めていたパルヴスは、シオニズムの外側でそれを動かすもっと大きな勢力につながっていたのかもしれない。彼が英国ヴィッカーズのみならず後にナチスのパトロンとなるクルップ財団とのつながりを持ち、英国のエージェントとして動いていた可能性は十分にあるだろう。いずれにせよ西欧支配者念願のオスマン帝国つぶしと属領化に一役買ったことに間違いは無い。

 なおそのパルヴスだが、同じユダヤ人であるローザ・ルクセンブルグの率いたドイツ革命を支持し、革命失敗後にはワイマール共和国を拒否した。にもかかわらず彼は特に処罰されるわけでもなく、逆にベルリンに程近いところに豪勢な住宅を与えられて隠棲生活を送り、1924年に57歳で死亡した。

 そして一方のジャボチンスキーはパレスチナに渡って後のイスラエル国防軍となるハガナーを創設した。その後1923年に「鉄の壁」を著してシオニスト主流派と分かれ、東欧を中心にベタールを組織し、ムッソリーニの協力を得てそれをイタリアに広げ、そして1940年に米国でベタールを創設する最中に死亡した。これは今までの回で申し上げたとおりである。

 この二人の共通点といえば、どちらもオデッサ生まれのユダヤ人であり、若いころにスイスで学んだことである。しかし彼らが接触を持った形跡は無い。パルヴスはジュネーブでマルクス主義を学び、ジャボチンスキーはすぐにイタリアに渡ってマッツィーニ風の過激な民族主義を学んで後にそれをシオニズムに導入した。しかしスイスといえば、例の過激なアルメニア民族主義運動を率いたフンチャックもジュネーブで結成されたし、第1回シオニスト会議が開かれたのは1897年のバーゼル、第1インターナショナルも1866年にジュネーブで最初の集まりを持った。そのほかにもナチス幹部の米大陸への救出など、この国は様々な国際的な秘密活動や謀略的活動の本拠地となってきた。

 さらにラルーシュによれば、ジャボチンスキーもパルヴスも、ともにロシア帝国末期の悪名高い秘密警察オカラナの幹部であるセルゲイ・ツバトフに見出され抜擢されたということだ。そしてそのツバトフこそ大英帝国とシオニストの密偵であったそうだ。しかしその点の詮索は止めておこう。我々はもう一度、トルコとイスラエルの関係に戻らなければならない。

 地理的な位置から見て、明らかにトルコは欧州と中東を結ぶ最重要拠点である。「聖なるマフィア:オプス・デイの素顔を暴く 」シリーズにも書かれたことだが、いまだに「ヒトラーの教皇」と呼ばれ続けるピオ12世の下で、バチカンのギリシャ・トルコ大使として派遣されたアンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ(後のヨハネス23世)は、ユダヤ人たちの一部を東欧からパレスチナに移送するために獅子奮迅の活躍をした。ヒトラーとピオ12世は悪役、このロンカッリは善玉を演じてはいるが、要は一方が「追い立て役」であり他方が「運び役」であっただけだ。そして当のパレスチナにはヒトラーとのハーヴァラ協定以来受け入れ態勢を整備しつつあったスターリニストたちが「選ばれたユダヤ人」たちの到着を待っていたのである。

 イスラエル建国にとって、欧州と中東の橋渡しの位置にあるトルコ共和国が持つ重要性は測り知れない。トルコが、いまだに国民の大多数を占めるイスラム教徒の反対を押さえつけて、イスラエル成立後に一貫してその存在を支持し軍事同盟すら締結していることは言うまでもあるまい。この2国は始めから「姉妹」として作られた。当然のことながら軍事的には「欧州の一員」としてNATOに組み込まれ、スポーツなどの文化面ではイスラエルとともにすでに「欧州」である。両国は欧州が「近代十字軍第一次攻撃」の結果として中東に打ち込んだ「クサビ」なのだ。

 現在、軍事的な同盟だけではなく、イスラエルにとってトルコは国家の存亡を左右するものとなっている。カスピ海沿岸の石油と天然ガスを運ぶパイプラインはもとよりトルコからイスラエルへの水輸送パイプが計画されている以上、もしトルコが反米反イスラエルの姿勢を明確にするなら、このシオニスト国家の命脈もそれで断ち切られてしまうだろう。イスラエルとしては他のあらゆる問題を棚上げにしてでもトルコ(穏健イスラム)政権を刺激してはならない。フォックスマンが米国の多くのユダヤ人の反発と指弾を覚悟してでも「アルメニア人虐殺問題」に蓋をせざるを得ないわけである。

 またトルコの動向は米国とイスラエルの支配層が画策するイラン攻撃の成否を左右するものになるだろう。さらにはクルド人地域に対する攻撃によってイラク分割計画にも重大な影響を及ぼしかねない。さらに言えば、一応は19世紀後半以来の計略が成功し西欧型の世俗主義政権が確立しているとはいえ、やはりこの国の基盤はイスラム教徒なのだ。同様に世俗主義であったイラクのフセイン政権がイスラエルと米国のシオニストによって打ち倒され事実上の国土分割が行われていることを、トルコ国民がどんな複雑な思いで見ているだろうか。この100年以上にわたって「近代の十字軍」を押し進めている者達が、パレスチナやイラクのみならず、将来において再びトルコ国内に「線引き」を行わないという保証はどこにもないのだ。何百年間にもわたって中東の大帝国を築き上げてきたこの国の国民は決して馬鹿ではない。何が彼らを翻弄してきたのか十分に知っている。

 そのようなときにこの「アルメニア人虐殺問題」はあらゆるレベルで最もデリケートなテーマとなる。それは西欧支配層による世界各地の分割・転覆・支配策謀の歴史の中で最も際立った残虐性を帯びるものの一つだからである。19世紀後半に、国際共産主義運動とほぼ同時期に現れ出たシオニズム運動もまた、単にユダヤ人の内部から自発的に生まれ出たものとは考えにくい。オスマン・イスラム帝国は「近代十字軍」の最初の餌食となった。その解体と再編成に共産主義とシオニズムの両方が関与している。そして文字通りの「国無き民」アルメニア人こそがその最大の犠牲者なのだろう。彼らは告発すべき者を誤っていたのかもしれないのだが、今回のシオニストたちの態度をきっかけに「虐殺」の真相に気付くことを期待したいものである。

【以上、参照資料】
http://larouchein2004.net/pages/interviews/2002/020605yarin.htm 


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 トルコの情勢は将来EUにこの国を迎える可能性を持つ欧州にとってもまた重大な関心事とならざるを得ないのだが、現在のところ米国同様にどの国も「触らぬ神に祟りなし」を貫いているようだ。それどころか、ひところ盛んだった「反イラン・キャンペーン」も鳴りを潜めている。そのかわり現在各国国民の関心は中国に向けさせられており「中国のアルメニア」たるチベットを巡っての反北京キャンペーンが繰り広げられている。これがオリンピック絡みの汚染問題や食品衛生問題などに対する北京政府の無策ぶりと重なって、大きな「反中国ブーム」が作られつつある。

 そして現在その流れと並行しその陰に隠れるように、特に英国、フランス、オランダ、北欧諸国、イタリアで、シオニスト勢力が着々とその支配の輪を固めつつある。英国ではネオコン子飼いのブレアーが去ってもやはり事情は一向に変わらないばかりか、国内のイスラム教徒に対する締め付けは厳しくなりつつある。フランスではサルコジ政権の登場以来、政治的にも文化的(マスコミ報道や出版など)にも親イスラエルの流れが強化されつつある。欧州各国国民は欧州の「米国化」に対して非常に強い抵抗感を抱いている。しかしそれを突き崩し、極少数派のシオニスト組織が全面支配する米国型システムとイスラモフォビア(イスラム嫌悪)が、一般の欧州人と欧州に多く在住するイスラム教徒との亀裂を徐々に生み出し一般社会を様々に揺り動かしながら、一歩一歩着実に侵入してきているのだ。

 しかしその点の話は次回に回すことにしたい。欧州で始まったシオニズムは将来の何かの「巨大なショック」をきっかけにして新たなファシズムとして欧州を席巻することになるのだろうか。2001年以降の米国のように。 

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