イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム 目次に戻る    (アーカイブ目次に戻る)

第6部 イスラエルの母胎:ナチス・ドイツ  (2007年3月)
     

小見出し 
[国家社会主義とは?]  [ユダヤ国家社会主義]  [ナチス・ドイツと酷似するイスラエル]
[ヒトラーが「育てた」シオニズム]  [ドイツこそイスラエルの母胎!]


[国家社会主義とは?]   【小見出しに戻る】

 Naziのドイツ語正式名称はNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、英語訳ではNational Socialist German Workers' Party、そしてこれが日本語になると「国家社会主義ドイツ労働者党」である。

 この名称の中にあるnationalというのは厄介な言葉である。ナチス以外にnationalを「国家の」と和訳している例はあるのだろうか。「国家主義」に対応する英単語はstatism(あるいはestatism)であり、本来なら「国家社会主義」はstate socialismの訳語のはずだ。実際にマルクスと同時代の社会主義者で同様にユダヤ系であるラッサールは国家の権力を用いて再分配の平等を目指す社会としてこのStaatssozialismusつまりState Socialismという言葉を用いている。これをマルクス主義者に言わせれば共産主義に至る過渡的な社会のあり方とでもなるのだろう。

 私は言語学者や社会学者ではないので厳密な定義は分からないのだが、nation, nationalというヨーロッパ言語は実際の使用の中で極めて幅広い現れ方をする。そしてその思想的な面であるnationalismは使用される場面や使用する主体などに応じて「民族主義」「国民主義」「国家主義」「国粋主義」などと振り分けて翻訳されるのだが、無理な和訳はやめて「ナショナリズム」をそのまま用いる場合もある。

 日本語で言う国家主義とは、国家というシステムとその権威を政治、社会、経済の単位として、そして道徳的な目標として、価値の最上位に置く思想と言うことができるだろう。確かにnationalismがそのような意味で使用されることがある。以後、「国家主義」の意味で使用される場合には「国家主義=nationalism」と表記する。

 多民族国家の内部には少数民族のnationalismがあり同時に支配民族にもnationalismがあるのだが、その様々に異なる文化的・社会的な要素を超越した強力な「国家主義=nationalism」で全体を束ねていく必要があるだろう。さらには旧ソ連やかつての中国など共産主義を掲げた多民族の国々でも、現実的な共同体の最も強力なあり方が国家である以上、そのinternationalismの主張とは裏腹に強力な「国家主義=nationalism」が貫かれざるを得ない。

 米国のような多種の民族(ethnic groups)が集っている上に多くの州(state)で構成される国ではfederalism(「連邦主義」と訳される)で全体をまとめるのだが、しかしいざとなったときに「God Save America」の一言でまとまってしまう姿を見ると、それはやはり「国家主義=nationalism」の面を強く持っているようだ。

 このnationalismでは、単に制度・権力構造としての国家(state)よりも、構成員のmoralityつまり道徳性やある種の神話めいた精神的一体感がより強調されるように思われる。だから日本やドイツのような単一民族国家に近い国では容易に神秘的な「血の思想」と一体化して「民族=国家主義」となるだろうし、それが極端に排外的になれば国粋主義と言われるものになるのではないか。

 現在の日本国家にはやはり「天皇教」が堅固に存在している。古代の天皇陵の発掘がなぜ未だにタブーであるのか、あるいは天皇家の結婚や出産がどうして巨大な反応を引き起こすのかを考えてみれば、この国家の根本に普段は意識されることの無い神話体系が存在していることが明らかだろう。当然だが中国には強力な中華思想が厳然として存在する。旧ソ連ではこの「国家主義=nationalism」が共産主義イデオロギーで支えられていたが、イデオロギーである以上それがある種の世俗化された神学としての一面を持っているに違いあるまい。

 米国の場合はどうか。英語でFederal Theology(あるいはCovenant Theology)という言葉がある。「契約神学」と訳されるが、これは「神の前での誓約共同体」をその信仰の基盤とするカルヴァン派の考えである。これがメイフラワーの誓約につながり米国の「連邦主義」の重要な基盤の一つとなったと言われる。つまり米国のfederalismは最初から神学的な様相を帯びていることになる。ユダヤ=キリスト教の神を前面に出せばfederalismは容易にnationalismと重なってしまうだろう。

 「民族主義」にせよ「国家主義」にせよこのnationalismという定義困難な用語の背後にはこういったある種の神学の世俗的な解釈という面が常に潜んでいるように思える。だからこそ時としてnationalismは狂信としての非常に危険な顔を表面化させることがありうるのだ。

 おそらく客観的な社会システムとしての国家(state)と、主観的な共同体としての面を強く持つもの(nation)との間にあるものは、実際には『紙一枚分の相違』ではないか。日本語の国家主義はやはりnationalismでありstatismの訳語は未だに存在しないようだ。したがってナチの「国家社会主義」という訳は当を得ているのだろう。

 ドイツにすでにstate socialismの用語が存在した以上、stateとnationの間にある『紙一枚分の相違』を取り外した上で、『世界に冠たるゲルマン民族』の神話(その裏にはオカルト主義が存在したようだが)を前面に押し出して「民族=国家主義」となったnationalismをsocialismと結び付けることは容易であろう。しかしこのnational socialism的なあり方がドイツだけにあてはまるものとは到底思えない。

【以上、参照資料】
http://en.wikipedia.org/wiki/State_socialism
http://www.pressiechurch.org/Theol_1/Covenant-john_owen_and_federal_theology.htm


[ユダヤ国家社会主義]   【小見出しに戻る】

 スウェーデン籍のユダヤ人作家ラッセ・ウィルヘルムソンは『ユダヤ国家社会主義としてのシオニズム 』という文章の中で、共産主義につながるべき社会主義社会の建設を標榜した者達が、statismと「民族=国家主義nationalism」との間にあった『紙一枚』を取り外して国家社会主義者の群れとなっていく姿を描いている。彼はその国家社会主義こそがシオニズムの本当の顔であると主張する。

 ウィルヘルムソンは、シオニズムの根幹にある精神の一つとして、1897年の第1回シオニスト会議で行ったテオドル・ヘルツルの演説の要旨を次のようにまとめる。

 反ユダヤ主義はユダヤ人が他と同化することによって除去できるものではない。
 ユダヤ人は自分自身の国家を持つ権利を有する種族である。
 パレスチナ(すなわちシオン)がユダヤ国家のあるべき場所である。
 その目標は社会主義的理想郷、一つのモデル国家なのだ。

 ここで私が「国家」と訳した単語はstateであり、「ユダヤ国家」はJewish State、「社会主義的理想郷」はa socialist Utopiaなのだが、果たして『紙一枚』は残されているのだろうか。「種族」と訳したのはraceであり、これは「民族」と訳されることが多いようだが血の流れを共有する集団という面が強い。「民族」はethnic groupと対応するのだがこちらはむしろ文化的な共有性という面が意識されるだろう。(以後も「種族」と書いてあればこのraceの意味とお考えいただきたい。)

 次にウィルヘルムソンは19世紀の半ばにカール・マルクスと共に共産主義運動を推進したモーゼス・ヘス(Moses Hess)について言及する。

 モーゼス・ヘスはドイツの社会主義者でありカール・マルクスの親友だった。彼は「共産党宣言」の中にある宗教批判―大衆にとっての阿片―をまとめることに貢献した。ここで我々は、伝統的なユダヤ教が《神から遣わされたメシアを待たずに人間の意志でパレスチナの地に戻ること》を固く禁じている点に注目しなければならない。現在でもこの伝統的な宗教者の立場からシオニズムに反対するユダヤ人達が少なからずいるのだ。彼が「共産党宣言」に盛り込ませた宗教に関するメッセージがユダヤ教徒にとってどのような意味を持っていたのか明らかであろう。

 その後に彼がマルクスと仲たがいをしてユダヤ民族主義者に転身したとき、マルクスはその排他主義を忌み嫌った。当時「共産主義ラビ」と呼ばれ現在では最も初期のシオニストとして認識されているヘスは、1862年にシオニズムの大著である「ローマとエルサレム」を書き著した。そしてこれがヘルツルに決定的な影響を及ぼしたのである。ヘスはユダヤ国家(the Jewish Nation)を次のような要素を持つものと表現した。

 ユダヤ種族−優越的であり選ばれたものである。
 パレスチナ−ユダヤ人民の故国である。
 ユダヤの宗教−ユダヤの国民性を最も保証するものである。

 ここで「国民性」はnationalityである。この当時のヨーロッパで盛んに強調された血の思想がヘスの考えを貫いていた。同時に彼はその選民主義とパレスチナへの執着を支えるものとして宗教を取り上げている。ヘスが「阿片」と罵ったのは《神の許しがあるまではパレスチナに戻ってはならない》という教えのみであり、それ以外の部分は世俗化された形で現在のイスラエル国家とシオニズムに貫かれている。パレスチナは、イスラエル国民と指導者達の大多数が信じてもいない『神』によって「約束された」地であり、ユダヤ人は「反ユダヤ主義」のレッテルによって非ユダヤ人を社会的に抹殺できるほどに神聖不可侵な『選ばれた種族』なのだ。

 続いてベル・ボロチョフ(Ber Borochov)だが、彼は第1回シオニスト会議の後に強力にシオニスト計画を推し進め、マルクス主義シオニスト政党である「シオン労働者(Poalei Zion)」党を創設した。これは1901年にブンドがシオニズムを拒否した後にロシアの各都市に広がったサークルである。彼らはロシア革命を熱心に支持したのだが、その党員の中に「イスラエル建国の祖」ダヴィッド・ベン-グリオンがいた。ベン-グリオンはボルシェビキを自認し全ての国での労働者階級による独裁を叫んだが、パレスチナだけは別だった。そこはシオニズム独裁でなければならず、ユダヤの国家的な利益が階級の利益に優先すべきものであった。もはやstate socialism とnational socialismを隔てていた『紙一枚』は完全に消えている。

 シオン労働者党が分裂した後にベン-グリオンは社会民主党の指導者としてシオニズムの中心的存在となりパレスチナの植民地化を推進していく。ユダヤ国家建設にとって最大の要件はいずれパレスチナの現地人を追放するであろう軍の存在である。後のイスラエル国防軍につながるハガナーは1920年に創設された。

 ここでウィルヘルムソンは我がゼエヴ・ジャボチンスキーを登場させる。もちろん彼は社会主義者ではない。ウクライナの中で反ボルシェビキ活動を行うために、かつて大規模なポグロムを指揮したシモン・ペティルラと手を組もうとしたほどの人物である。彼は1922年にシオニズム運動の大黒柱とも言うべき『鉄の壁(The Iron Wall) 』を書き、翌年にハイム・ワイツマンを筆頭とするシオニスト主流派と袂を別ってrevisionist運動を起こしベタールを創設した。また彼はハガナー創設に最も力を尽した一人でもある。

 しかしこのrevisionistという用語は極めて興味深いものの一つである。日本語では一般的に「修正主義者、修正主義の」と翻訳されるが、元々はレーニンやスターリンが党内の反対派を封じ込めるために使用した言葉の英訳である。共産主義の内部では革命の徹底化に反対する勢力というほどの意味だろうが、要は左翼の国家社会主義者たちが反対者を悪魔化するために使用する呪文か護符以上のものではあるまい。もちろんジャボチンスキーの後輩達が自らをrevisionistと名乗ることはない。

 また当然のごとくだが、このrevisionistという用語はもっと一般的に、ニュルンベルク・トーキョー裁判判決によって正当化される歴史観(=ニュルンベルグ‐トーキョー史観 )に疑問を呈する研究者達、とりわけホロコーストに対する懐疑論者を悪魔化するためのレッテルとしても使用される。他人にこのような呪文を唱えお札を貼り付ける者達は始めから自分の正体を暴露しているのだ。

 それはともかく、ウィルヘルムソンはジャボチンスキーがその『鉄の壁』の中で述べた次の言葉に注目する。

 『我々は、シオニズムが道徳であり正義であると主張する。そしてそれが道徳であり正義であるがゆえに、正義は果されなければならないのだ。・・・。それ以外の道徳性など存在しない。』

 シオニズムはすなわち道徳であり正義である。前回までに述べたようにジャボチンスキーはファシズムに傾倒した。ファシズムは「民族=国家主義」を個々の国家構成員の道徳性と正義、内部から個人を突き動かす本能と言って良いものにまで深化させる。これが国家社会主義の中枢に座れば、もうそれは立派なナチズムであろう。表面上の反目はともかく、あの社会主義者達(ベン-グリオン、メイア、シャレットなど)とジャボチンスキー系統のファシスト達(ベギン、シャミール、シャロンなど)がガッチリと手を組んでいたことに疑いの余地は無い。この二つが共同して始めて「仏」に「魂」が入ったのである。シオニストは押しも押されもせぬ「国家社会主義ユダヤ党」、つまり「ナチス・ユダヤ」以外の何ものでもあるまい

【以上、参照資料】
http://www.israelshamir.net/Contributors/wilhelmson.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Poalei_Zion


[ナチス・ドイツと酷似するイスラエル]    【小見出しに戻る】

 イスラエルのあり方を見れば見るほどナチス時代のドイツにそっくりであることに驚かされる。ドイツ人をイスラエル人に、ユダヤ人をパレスチナ人(イスラム教徒)に置き換えてみるとよい。例えば、イスラエル国内で次のような政策がとられる。

−非イスラエル人がイスラエル国籍の非ユダヤ人と結婚した場合、市民権を得ることはおろかイスラエルへの入国すら禁止される。(ユダヤ系イスラエル人との結婚であればイスラエルの市民権を得ることができる。)
−治安問題容疑の非イスラエル人(要はパレスチナ人)に対しては判事による取り調べなしで警察が96時間拘束することができる(イスラエル人なら48時間まで)。非イスラエル人を1回につき20日間拘束を延長できる(イスラエル人は最大15日)。非イスラエル人に対しては50日間弁護士との面会を拒否できる(イスラエル人は最大21日間)。
−非愛国的なイスラエル人(敵対国を訪問した、テロ行為を補助した、等とされる者:具体的にはアラブ系)から国籍を剥奪する。
−ネゲヴ砂漠に住むベドウィンの村に水を与えないこと、およびその強制移住は合法的である。

 以上はごく近年に人権団体から問題とされた事例のほんの一部だが、本気で書き出せばそれだけで何冊もの本ができるだろう。イスラエルは人種差別撤廃条約の適用を拒否しているのだ。イスラエル国内で人口の20%を占めるアラブ系住民は2%の土地に押し込められ、民法上・刑法上・教育上の様々な差別が合法とされる。国政世論への言い訳程度に彼らの選挙権と被選挙権を認めているが、イスラエルが「ユダヤ人の国家」である以上、ユダヤ人を最優先し、非ユダヤ人、特にアラブ人の人口増加と権利拡大を押さえ込むことがこの国にとっての絶対的命題である。

 さらに、東エルサレムを含む西岸地区の不法占領地ではパレスチナ人に対するユダヤ人の日常的な暴力(殴打、投石、糞尿による虐待、家への侵入と破壊、農地の破壊、など)と水資源の強奪、移動の制限と生活・教育・文化破壊が延々と続く。エルサレムの民族浄化は露骨に進められている。ガザ地区への気まぐれな攻撃と侮辱、殺人、破壊は日常化されており、占領地ではグアンタナモと同様の状態で延べ十数万人が長期間(最長の者で25年間)正式な裁判を受けることも無く拘留され虐待と拷問を受け続け、家族の面会も妨害されほとんど飢餓状態に置かれている。

 イスラエルは現代の世界の中で、ある種族だけが優先的な権利を授けられる政策を固守する唯一の国である。

 ほんの十数年前まで南アフリカが同様であった。米国でも40年程前まで悪名高いジム・クロウ法によるアパルトヘイトがあったし、ドーズ法以来アメリカ先住民に対する法的・制度的差別が続いた。しかしこれに関しては日本人も偉そうには言えない。アイヌ人に対する明らかな差別法である「北海道旧土人保護法」が撤廃されたのは実に1997年のことなのだ。

 一方で悪の代名詞のように晒し者にされ続けているのは、それら「イスラエルの友人達」ではなく、ドイツで1935年からわずか10年間ほど続いただけのニュルンベルク法なのだ。確かにこの法はかつての南アフリカに迫るくらいの状態を作り出しただろう(南アフリカで「劣等種族」とされた黒人の方が多数派だった違いはあるが)。しかしこのヒトラーの政策とシオニスト国家の政策との類似性は覆い隠すべくもあるまい。より悪いことに、イスラエルのアパルトヘイト政策と「水晶の夜」は現在もなお60年間にわたって続いているのである。

 しかしながら事の本質は、イスラエルのあり方が国家社会主義であること、つまりナチス・ドイツ国家と雌型−雄型の関係にある同じ構造を持つ基本精神が引き継がれた国である点だろう。どのようにそれが引き継がれたのだろうか。その答はやはりナチス時代のドイツの中に求めなければなるまい。

【以上、参照資料】
http://commentisfree.guardian.co.uk/daphna_baram/2006/05/apartheid_thats_what_it_is_cal.html
http://electronicintifada.net/cgi-bin/artman/exec/view.cgi/11/4258
http://hrw.org/english/docs/2006/03/15/israb13002.htm
http://www.imemc.org/article/46504
http://electronicintifada.net/v2/article5788.shtml
http://www.asyura2.com/07/war90/msg/151.html
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200609280309.htm
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200602100231.htm


[ヒトラーが「育てた」シオニズム]    【小見出しに戻る】
(内容)  (1)パレスチナへのユダヤ人移民に対するナチの全面協力      (2)経済と産業に対するナチの全面協力
             (3)ナチとシオニストの人間的関係                                    (4)ニュルンベルク法に対するシオニストの反応
             (5)シオニストによるナチスとの軍事同盟提案

 先ほどのモーゼス・ヘスは「選ばれた種族」とそのための国家という概念を強く押し出し「ユダヤ種族の純粋性」を擁護した。その60年後、ヒトラーがそっくりそのままをマイン・カンプの中で主張することとなる。ただしユダヤ種族とゲルマン種族を取り替えてではあるが。

 イスラエルの高名な詩人であるハイム・ナフマン・ビアリク(Chaim Nachman Bialik)は1934年に次のように書いた。『ヒトラーと同様にだが、私は血の思想の力を信じている』。もちろんゲルマンとユダヤでは血が異なるため味方同士とはなりえないにせよ、両者の『純血性』にこだわる発想は雌型と雄型のように同一のものであろう。先ほど述べたイスラエルの状態は単なる差別政策と言うよりも、ナチ同様に民族浄化、つまり「国家の純血化」に違いあるまい。

 シオニストとナチスとの間にあった相互の親近感と信頼関係については驚くほど多くの資料が残されている。ただそれを知らせる努力が為されていないだけだ。

(1)パレスチナへのユダヤ人移民に対するナチの全面協力 

 1930年代を通してシオニスト団体はドイツ国内に40ものユダヤ人開拓者訓練キャンプのネットワークを作りパレスチナへの移住に備えさせたのだが、これはドイツ当局の全面協力を仰いだものだった。これが後のキブツの原形となったのだが、それらのキャンプには白地にブルーの六芒星の旗がひらめいていた。

 ヒトラー政権が誕生したのは1933年1月30日だったが、すぐさま世界ユダヤ人経済会議は「ドイツ商品ボイコット」という宣戦布告を行った。しかしその直後に世界シオニスト機構(WZO)はヒトラーへの反対運動を240対43の圧倒的大差で否決したのだ。ヒトラー政権は同年8月にシオニストとハアヴァラ(Ha'avara)と呼ばれる移送協定を結んでユダヤ人のパレスチナ移住に対する全面協力を開始した。これによってシオニストはドイツ在住の「ユダヤ人の祖国」建設の意欲に溢れそのための訓練を受けたユダヤ人たちを大量にパレスチナに移住させることに成功した。

 ここでパレスチナのユダヤ人人口の変遷を見てみよう。第1次大戦後の1922年では、委任統治を開始した英国の調査によると、パレスチナ人67万人、ベドウィン7万人に対してユダヤ人は6万人であった。そしてヒトラー政権の誕生以降に移民のラッシュが始まる。1933年に3万人、34年に4万2千人、35年には6万1千人の入植者が新たにやって来たのである。そして第2次世界大戦が開始する1939年にはパレスチナのユダヤ人人口は44万5千に膨らんだ。イスラエル建国の1948年のユダヤ人人口がほぼ65万人であるので、この時期の移民がいかに重要なものだったのか容易に察しがつく。

 次のような話がある。1935年の初期に一隻の客船がドイツの港からハイファに向けて出航した。その船尾にはヘブライ語で「テルアビブ」と書かれマストに鍵十字の旗がひらめいていた。船はシオニストの所有になるものだったが船長はナチス党員であった。これはその当時のナチスとシオニストの関係を象徴的に示すエピソードだろう。

 1930年代のパレスチナへのユダヤ移民を「ヒトラーによる弾圧を恐れたため」であるとする大嘘が世界中でいまだにまかり通っているのだが、実際にはヒトラーの全面協力の下で起こった人口増加なのだ。

 ドイツからパレスチナへの大規模な移住は1939年9月の第2次世界大戦勃発によって終わったが、ドイツ当局は1940〜41年の間、間接的な形でユダヤ人の移住を促進し続けた。1942年の3月になってすらパレスチナ移住のためのユダヤ人訓練キャンプがドイツの中に存在していたのである。

(2)経済と産業に対するナチの全面協力 

 移送協定の実行と共に、1933年8月から1939年末までにドイツからパレスチナに移送された資金は合計で1億4千万マルク(当時:4千万ドル超に相当)にのぼる。その中にはこの協定発効に伴ってドイツ帝国銀行から提供された3千4百万マルク(およそ1千4百万ドル)が含まれる。パレスチナにはユダヤ人のための主要産業を支える数多くの企業がドイツからの資本で作られインフラが整備されていった。これが後のイスラエル国家創設にとって必要不可欠な要素になったことは言うまでも無い。1930年代でヒトラーのドイツほどユダヤ人国家建設に貢献した国は存在しない。

 もっともドイツはドイツでシオニストを十分に利用したともいえるだろう。ユダヤ人に支援金として与えた金で農機具や建設機械、武器などの多くの工業製品を買わせ、行き詰った経済の建て直しの重要な契機としたのである。いずれにしてもヒトラー政権の間にパレスチナはドイツ製品で溢れることになる。しかしそのような活動のための資金をナチス・ドイツに与えたのは誰だろうか? これについては稿を改めたい。

  このヒトラーの政策に反対したドイツ人もいる。エルサレムのドイツ総領事だったハンス・デーレ(Hans Döhle)は、ドイツ製品がユダヤ機関の手によって独占的に取り扱われることがドイツのアラブ市場を失わせドイツの中東政策にとって大きな損失になることを懸念したのである。しかしヒトラーはハーヴァラ協定に固執し続けた。

(3)ナチとシオニストの人間的関係 

 またヒトラー政権誕生の6ヵ月後、つまりハーヴァラ協定が取り決められる直前に、ドイツ・シオニスト同盟はある長文のメモをヒトラー政権に渡した。そこには次のように書かれてある。

 『我々は、ユダヤ人問題の処理に関する大胆な解決方法を通して、大部分の欧州の人々が実際に関わらなければならないだろう困難の克服に向けての決定的な一歩を踏むことができるのは、まさに新生ドイツであると確信いたしております。』『多くの方法でドイツに対して現在行われておりますようなボイコットのプロパガンダは、基本的に非シオニストのものであります。なぜならシオニズムはボイコットを望んでおらず・・・』

 実はナチス党員の重要なポジションに複数のユダヤ人がいたのである。その最も有名な者はレオポルド・フォン・ミルデンシュタイン(Leopold von Mildenstein)男爵で、SSのユダヤ人局の長官を勤めていた。配下のユダヤ人のラインハート・ハイドリッヒ(Reinhardt Heydrich)はヒトラーに可愛がられた。ハイドリッヒはユダヤ人をシオニストと非シオニストに分類し前者をパレスチナに行く権利を持つ者だと主張したのである。なお、ミルデンシュタインの後任としてユダヤ人局の長官になったのがアドルフ・アイヒマンである。

 ミルデンシュタインは1933年のヒトラー政権誕生と同時に、ドイツ・シオニスト連盟の幹部クルト・トゥッヒュラー(Kurt Tuchler)と共にパレスチナに招待されそこで6ヶ月を過ごした。パレスチナに招待されたSS幹部は彼ばかりではない。1937年にハガナーは彼の後任のアイヒマンをパレスチナにゲストとして招待した。ニュルンベルグ法が制定されて2年後のことである。

 SSだけではなく、シオニスト組織はゲシュタポとも良好な関係を保った。ドイツ・シオニスト連盟の責任者だったハンス・フリーデントハル(Hans Friedenthal)は第2次大戦後に次のように語った。『当時ゲシュタポは特にパレスチナへの移民を推進するためにあらゆることをやってくれました。我々が移民の準備に関して他の当局者からいろいろ言われたときによく彼らの助けを借りたものでした。』

(4)ニュルンベルク法に対するシオニストの反応 

 1935年9月にニュルンベルク法が制定された数日後、シオニストのジューディッシェ・ルンドショー(Jüdische Rundschau)は次のように書いた。

 『ユダヤ人たちが少数派民族の刻印を押されたからには、ドイツ国家とユダヤ人との間の正常な関係を打ち立てることが再び可能となる。この新しい法律はドイツでの少数派であるユダヤ人に自身の文化的な生活、それ自身の民族としての生活を与えるものである。将来においてユダヤ人自身の学校、劇場、そしてスポーツ組織を作ることが可能となるだろう。つまり、それは我々自身の未来を、民族的な生活のあらゆる見地から、形作ることを可能にするものである。』

 またジャボチンスキー系列組織の指導者であったゲオルグ・カレスキ(Georg Kareski)は1935年の暮にこう述べた。

 『長年の間、私は、紛争無しに我々が共存する前提として、文化的な事柄について両民族の完全な分離を唱えてきた。・・・。このニュルンベルク法は・・・相互の尊敬に基づく分離した生活への熱望を完全に満たすものである。・・・したがって、ユダヤ人の見地から言って全面的に望ましいものなのだ。』

 そしてドイツの内務省ユダヤ問題専門家のバーンハルト・レーセナー(Bernhard Lösener)は語る。

 『シオニストはニュルンベルク法で強調される精神に対する反対をほとんど示さなかった。なぜなら彼らは、この法がユダヤ人にとっても同様に唯一の正しい解決方法であることをすぐに気付くからである。』

 ニュルンベルク法ではユダヤ人がドイツの国旗を飾ることが禁止された。そしてその代わりに白地にブルーの線とダビデの星をあしらった旗を飾る権利を保証された。それがドイツ国内にあるシオニストの訓練キャンプと施設にひらめいていたのである。

(5)シオニストによるナチスとの軍事同盟提案 

 1941年1月、英国をユダヤ人国家建設の最大の障害物と見なすテロ集団レヒの代表者であったアヴラハム・スターン(Avraham Stern)は、その配下で後にイスラエル首相となるイツァーク・シャミールがリーダーを務める民族軍事機構(National Military Organization=NMO)とナチ第3帝国との間の公式な軍事協定締結を提唱したのだった。この提唱は戦後になってトルコのドイツ大使館でファイルの中から発見されアンカラ文書として知られるようになった。

 この軍事同盟は結局実現しなかったが、シャミールの集団によるイスラエル創設に障害となる勢力への攻撃はとどまらなかった。彼は2度英国に逮捕されたがすぐに脱獄し、大戦後に英国モイン卿やスウェーデンのベルナドッテ伯の殺害、デイル・ヤシン虐殺などを主導した。シャミールはメナヘム・ベギンやダグラス・ファイスの父親ダルック・ファイスと共に、ジャボチンスキー系列であるポーランド・ベタールに所属していたのだ。

【以上、参照資料】
http://www.jewsagainstzionism.com/antisemitism/nazisupport.cfm#_ftn3 
http://www.marxists.de/middleast/schoenman/ch06.htm 
http://www.rense.com/general34/ZAND.HTM
http://www.mail-archive.com/forum.zagraniczne@3w3.net/msg00545.html 
http://groups.google.gp/group/aus.culture.true-blue/browse_thread/thread/a45f263a7b8e2401/29d4365f12991698?lnk=raot 


[ドイツこそイスラエルの母胎!]   【小見出しに戻る】

 テオドル・ヘルツルは、シオニズムが『ユダヤ人問題の最終解決(final solution)』を世界に与える喜ばしいものである、と書き残している。そして米国ユダヤ人会議を率いるラビ・ジョアヒム・プリンツ(Joachim Prinz)は1934年の著書「我々ユダヤ人(Wir Juden)」の中で、ドイツでの国家社会主義革命は『ユダヤ人のためのユダヤ(Jewry)』を意味していると書き、次のように説明した。『今やどのような逃げ口上も我々を救うことはできない。同化の代りに我々は新たなコンセプトを熱望する。ユダヤ国家(nation)とユダヤ種族(race)の認識である。』『ユダヤ人の同化を助けてきた唯一の政治的形態(リベラリズム)は叩き落されたのだ。』

 シオニストにとっての最大の敵はさまざまな国で同化して生きるユダヤ人たちであった。ここでプリンツの言う『ユダヤ(Jewry)』は非ユダヤ人にとっては極めて理解の困難な概念で、ユダヤ人内部にある特殊な権力構造であり、国家でも民族でもないが明らかに存在するものである。これについてはイズラエル・シャミールの文章「米国:あるユダヤ国家」IV章 をご参照いただきたい。大多数のユダヤ人たちにそっぽをむかれるシオニストにとって、ナチス・ドイツの誕生がこの最大の敵を撲滅し国家社会主義ユダヤを実現させる絶好のチャンス・・・このようなシオニストの本音が手に取るように解るプリンツの言葉であろう。

 レニ・ブレンナーは興味深い事柄を我々に教えてくれている。ジャボチンスキー系統のシオニストは裕福なユダヤ人だけを移民のために選び、一方で社会主義シオニスト主流派は若く健康なユダヤ人を好んだ。アイヒマンがこれらの選別と移送の実行を助け、見返りにナチスは大量の献金を受け取った。要するにナチとシオニストがやったことはユダヤ国家設立に必要な人材を選別して送り込むことであった。

 ここに、イスラエル初代大統領となるハイム・ワイツマンの驚くべき言葉がある。これは1937年にロンドンで語ったものだ。

 『欧州600万人のユダヤ人の希望は移住に集中されています。私は、「あなたは600万人のユダヤ人をパレスチナに送りたいのですか?」と質問されました。私は答えました。「いいえ」。・・・。私はその悲劇の奥底から[パレスチナに向かうべき]若い人々を救い出したいと思います・・・。年寄りたちは消え去るでしょう。彼らはそれがどのようなものであれ自分自身の運命を背負わねばなりません。彼らは塵です。残酷な世界の中では経済的にも精神的にも塵です。・・・。若い枝だけが生き延びると決まっているのです。彼らはそれを受け入れなければなりません。』

 『600万人』という摩訶不思議な数字が登場するのだがここでは詳しく触れない。いずれにせよ『悲劇』を通してユダヤ人国家が作られるという神話的解釈がワイツマンの言葉に貫かれている。彼の言う『塵』とは旧約聖書の記述に基づくものだがその「塵の処理」をヒトラーがやってくれることが期待されていたのである。

 しかしどうやら第2次世界大戦が始まるとドイツの中にはパレスチナ以外の場所にユダヤ人を移すことで民族浄化を果そうとする動きが出ていたらしい。これはゲシュタポとパレスチナのイスラム教指導者との合意に基づくものと言われる。1941年と42年にゲシュタポはヨーロッパのユダヤ人に、ドイツと占領フランスにあるすべての資産を放棄するならば1家族につき千ドルの代償金の支給を受けた上でスペインへの移動を許すという提案をした。ただし、スペインからパレスチナに向かわずに米国または英国領に行くことが条件である。

 当然のことながらスイスにあるシオニスト組織は次のような回答をした。『(a)ただパレスチナだけが被追放者の行き先として考えられる。(b)ヨーロッパのユダヤ人たちは他の国に行くくらいなら苦しみと死を受け入れなければならない。・・・。それはこの戦争が終わるときに勝利国が「ユダヤ人の国」に同意するようにである』。語るに落ちた。いわゆる「ホロコースト」が何であるのか、もう明らかだろう。

 パレスチナに向かわないユダヤ人および選別に漏れたユダヤ人に対する人間業とは思えない彼らの冷酷な仕打ちは徹底していた。テル・アヴィヴにあったユダヤ機関救出委員会の委員長イツァーク・グリーンバウム(Yitzhak Greenbaum)は「パレスチナにいる1頭の牛はヨーロッパ中のユダヤ人よりも値打ちがある」とすら発言したのである。

 これに関して書き出せば限りが無い。あともう少しだけご紹介しよう。ドイツからユダヤ人難民を乗せて米国の港に向かった船のうちの5隻が米国シオニストの圧力によって入港を禁止されて欧州に追い返された。1940年の2月にユダヤ要求連合(the United Jewish Appeal)の副会長であるヘンリー・モントー(Henry Montor)は、ドナウ川で立ち往生していた船に乗っているユダヤ難民を救おうともせずこう言った。『パレスチナは・・・年寄りどもや望まれない者たちで満たされてはならない。』

 1935年から1943年までの間に250万人のユダヤ人がナチスの魔手から逃れたと言われているが、その大多数である75%がソ連に向かい、9%未満がパレスチナに向かっただけであった。しかしその9%はイスラエル建国のために選び抜かれた精鋭部隊だったのだ。次の事実がそれをよく物語っているだろう。

 ハンガリーのシオニスト機構副委員長であったルドルフ・カストナーは1944年にアイヒマンと共謀してパレスチナに送り込むために1684名の(「600名」という説もある)『役に立つ』ユダヤ人を選別したのである。残りの46万人にのぼる(80万人と言う人もいる)「役に立たない」ハンガリーのユダヤ人たちにはナチスによるアウシュビッツへの連行が待ち構えていた・・・というのは当のシオニストが後になって主張していることだが、しかし真相は闇の中に放り出された。1957年3月、この件に関するイスラエルでの裁判の最中にカストナーが暗殺されたのである。

 このカストナーがニュルンベルク裁判の際に、この『選別』に協力したSSのクルト・ベッヒャー(Kurt Becher)中佐を戦争犯罪から救うために尽力したことは有名である。彼はまたポーランドでのSS高官の一人でありそこで数知れない多数のユダヤ人を殺したと言われている。その後ベッヒャーはケルン・ハンデル・ゲセルシャフト(the Cologne-Handel Gesellschaft)社を始めとするイスラエル政府との多額の取引を行ういくつかの企業の代表者となった。

 面白い後日談がある。カストナーのアイヒマンとの取引が表ざたになった際に、新聞ハアレツの中でモシェ・ケレン(Moshe Keren)が『カストナーはナチスとの協力の罪で裁判にかけられなければならない』と書いた。1955年7月14日のことである。すると夕刊紙イェディオット・アハロノット(Yediot Aharonot)紙は同年7月22日の紙面で、それが不可能なことを次のように説明したのである。『もしカストナーが裁判にかけられるなら、その裁判が明らかにすることによって、政府全体が国民の目の前で崩壊するかもしれない。』

 どうやらこの取引はシオニストとナチスの関係を全面開示する要素を含んでいたようである。彼が殺されるのは無理もない。もちろんだが、この件の交渉相手であると同時に当時のシオニストとナチとの関係に誰よりも通じており、さらにアウシュビッツを最もよく知っていたアイヒマンも、ほとんど何の発言も許されないままカストナーに遅れること5年でこの世から消されることとなった。ただしカストナーは死後にイスラエル最高裁によって「この件に関しては無罪」とされたのだが。

 しかしいずれにせよナチス・ドイツのユダヤ人国家創設に果した役割は明らかである。ユダヤ人国家創設のためには国家社会主義ドイツがどうしても必要だったのだ。ドイツはシオニストに国家社会主義の社会と民族浄化・アパルトヘイトのあり方の手本を示し、人間を選別し訓練して送り込み、経済基盤を作りインフラを整えた。そして最後に、シオニスト最大の敵である同化ユダヤ人の駆逐と「役立たず」の処分を兼ねてだろうが、国家の誕生を保障する神話的な生贄の儀式である「ホロコースト」の舞台を作った。ユダヤ人国家創設のためにはそれがどうしても必要だったのだ。

 結論を言おう。 

 ナチス・ドイツこそ、イスラエル、つまり国家社会主義ユダヤの誕生を準備した母胎である。「シオニストとナチスがたまたま共通の利害を抱えていたためである」とか「あの状況でイスラエル建国を果すためにはナチスと交渉しそれを巧みに利用するしか無かった」などというもっともらしい言い訳は、このシオニスト国家とナチス・ドイツが、ちょうど雌型と雄型がそっくり同じであるような関係である事実によって打ち破られるであろう。まして一部の「反シオニスト」ユダヤ人が盛んに繰り返す道徳的非難など何の意味も無いばかりか事の本質を覆い隠す犯罪的な行為なのだ。

 いや、雌型と雄型というよりも砂型と鋳物の関係といった方がより正確かもしれない。鋳物の鋳鉄が固まった後にそれを包んでいた砂型が取り崩されるようにしてナチス・ドイツは取り崩された。しかしその主要な人材は大半がバチカンと米国諜報部の手によってアメリカ大陸に渡り、欧州に残った者達と共に米国の世界戦略にとって重要な働きを続けて今日に至っている。

 そしてドイツには、下級兵士と一般の民衆に対する「報復」としての大量虐殺と、苦痛と悲惨さと屈辱だけが残された。彼らこそ、非シオニストのユダヤ人、ロマ人(ジプシー)、ロシア人などと、そして何よりもパレスチナ・アラブ人と並ぶ、国家社会主義による最大の被害者なのだ。

 ナチスは滅んだのではない。それは米国とイスラエルに引き継がれた。 現在、ナチを育てた大資本(ブッシュ家を含む)によって運営される米国や英国がナチ(国家社会主義)の本性をむき出しにしつつあるのは当然である。事実によって次の事実が作られるのである。何一つ陰謀も不思議も皮肉も存在しないのだ。

  国家社会主義による世界革命は現在も進行中である。

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【以上、参照資料】
http://www.barossa-region.org/Australia/October-2000-Januray-2005-Coming-to-you-soon-in-the-USA.html 
http://www.ihr.org/jhr/v13/v13n4p29_Weber.html 
http://abbc.net/islam/english/books/garaudy/zionmythgar2.htm 
http://www.marxists.de/middleast/schoenman/ch06.htm 
http://www.jewsagainstzionism.com/antisemitism/holocaust/gedalyaliebermann.cfm
http://www.jewsagainstzionism.com/news/Newsletters/pressrelease070904.htm 
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd300.html#01
 

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