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第10部:オプス・デイの思想とその方向(上)    (2006年6月)

[『ダ・ヴィンチ・コード』とオプス・デイ] 

 2006年5月に映画化された『ダ・ヴンチ・コード』によって、それまで日本でほとんど知る人のいなかったオプス・デイがいっぺんに有名になってしまったようだ。この作品の中で教団の実名が使用され、血みどろの修行を信者に課す薄気味の悪い超保守的な秘密教団、キリストの秘密を守るために暗殺をも平然とやってのける陰謀組織、というイメージが強く打ち出された。中にはこの教団が猛烈な抗議と反論はもとより訴訟すら辞さないのではないか、と考えた人もいただろう。しかし実際にはオプス・デイによる積極的な動きは全くといって良いほど無かった。

 彼らは「大人の対応」に終始した。ソニー映画に対する「フィクションを明確にするテロップ」の申し入れと機関紙の「反対声明」で不快感の表明は行ったが、他のキリスト教団のようなボイコット運動や街頭活動による激しい抗議や批判は一切行わなかった。奇妙なほどに冷静な対応ぶりである。

 それどころか教団の広報担当者はローマ教会の雑誌Zenitを通して「我々はイエス・キリストについて話す絶好の機会を与えられている」と語り、逆にこの映画を大いに活用すべし、という考えを明らかにした。そして「時の寵児」となっている教団の立場を次のように語った。(オプス・デイ日本語HP『聖性の誉れ』より引用。)

 《ここ数ヶ月というもの、アメリカ合衆国だけで、100万人以上の人が私たちのホームページ(http://www.opusdei.org )にアクセスしましたが、その多くは「ダ・ヴィンチ・コード」のおかげでしょう。つまり、間接的に私たちの宣伝をする結果になっているのです。》

 もちろんカトリック世界に君臨する実力をすでに身に付けているという余裕があるだろう。オプス・デイは何よりも中〜上流の支配的な階層に所属する者達から成り立っており、下々の一部があの物語の通りのイメージを持ったとしても痛くも痒くもなかろう。そう思う人間には勝手に誤解させておけばよいのである。

 例えばスパイ映画でCIAの活動が脚色されて描かれているからといってCIAが抗議したなどということはない。「どうせフィクションだから」と涼しい顔をしておいた方が本当に秘密にしたい部分に触れられずに済む。実際にあの作品では、確かに教団の名前だけは「Opus Dei」だが他のことにほとんど事実はない。あの小説と映画で、オプス・デイを「米国で生まれてニューヨークに本部がある教団」「復古主義的で原理主義的な超保守教団」などと思い込んだ人も多いだろうが、ほんの少しでも調べてみるとこれらが単なる作り話であることが明白となる。

 今後は、誰かがスペインや中南米でのオプス・デイの悪業を聞いたとしても、「あの映画と同じくフィクションだ」と言えば済む。その意味でもあの作品はむしろオプス・デイにとっては実にありがたかったのではないか。

 それでは、キリストは十字架では死なずにマグダラのマリアと結婚して子供までもうけたというこの小説(映画)の内容についてはどうなのだろうか。

 本来のキリスト教の教義にとって「キリストの十字架上の死」は譲ることの出来ない中心点である。その意味を理解するには、その前提として、人間の救い難さ、つまり「原罪」についての認識が必要となる。例えば新約聖書「ローマ人への手紙」で聖パウロは絶望的なまでに高められた罪の意識を告白する。

 《わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪の下にあることを私たちはすでに指摘した。(ローマ人への手紙、3-9〜12)》

 《わたしの内に、すなわち、わたしの肉の中には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意思は、自分にはあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。(同書、7-18,19) 》

 「原罪」というと旧約聖書のアダムとイブの話が思い浮かぶが、しかしこの聖パウロの言葉はそのような伝説上の話ではなく、いま現在生きている自分の身に染み込んで拭い去ることのできない「原罪」についてである。そこには自分自身に対する仮借の無い凝視がある。『欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている』という「罪人としての自分」に対する絶望にまで行き着いた者が求めうる唯一の救いが、イエス・キリストの「十字架上の死による罪のあがない」であった。

 本来のキリスト教は決して「愛の宗教」ではない。自らを絶望の淵に追い込みその絶望にすら見放された末にたどり着いた仏陀の悟りにも通じるところがあるかもしれない。聖パウロの「イエスの十字架上の死」に対する絶対的な信頼は、この「自らの内なる罪」への徹底したこだわり無しには到達し得ないものなのだろう。本来のキリスト教とは「罪の宗教」なのだ。

 したがってキリストの「十字架上の死による罪のあがない」はキリスト教諸派にとっては絶対的ドグマ、これを否定されたなら「救済そのもの」が否定されるという、一歩たりとも譲ることのできない大原則であるはずだ。「十字架上の死」の否定を描いた「ダ・ヴンチ・コード」に対するキリスト教各宗派による激しい抗議活動やボイコット運動は当然といえる。この小説と映画が、2006年1月から2月にかけて世界を震撼させた「モハメッド冒涜マンガ」に続く、シオニスト・ハリウッドによる「文明間の戦争」の仕掛け、キリスト教への冒涜であったことは明白である。

 それにしても、キリスト教の「本山」を自認するローマ教会の中核を担うオプス・デイが、この冒涜に対して、どうしてあそこまで「冷静な対応」ができたのだろうか。

[「人は仕事のために生まれた」]

 同じ系統の一神教でも、たとえばイスラム教であれば「救世主」を想定しない。イエス・キリストはイスラム教にとっては「大預言者」の一人である。しかし「預言者」が結婚して子供をもうけることは、イスラム教では当たり前だ。ユダヤ教にしても「メシヤ」は想定するがイエスがそれではない。またユダヤ教の「預言者」が家庭を作ることに何の不自然さも無い。しかしながらもちろん、敬虔なイスラム教徒やユダヤ教徒がこの「ダ・ヴィンチ・コード」のような宗教冒涜に接するならば、キリスト教徒の激しい怒りまではいかなくても、やはり相応の不快感を表明することだろう。

 私の目から見るとオプス・デイの姿勢はイスラム教徒やユダヤ教徒のそれ以上とは感じられない。この教団の「キリスト教」が他のキリスト教諸宗派とは異なった基盤を持っているのだろうか。そうであればあの対応の仕方にも納得がいく。

 もちろんオプス・デイでも一応キリスト教である以上「原罪」「イエスの十字架上の死」について語ってはいる。しかし圧倒的に強いイントネーションが置かれているものは「労働(仕事)の聖化」「良心と信教の自由」である。第2バチカン公会議以前のカトリックで偏執狂的なまでに強調された「原罪」「十字架」は、ほとんど意識されないほど遠くに追いやられているようだ。オプス・デイ会員の活動は等しく「使徒職」と呼ばれ、教団のHPによるとその目的は『教会の福音宣教の使命に貢献するため、生活の日々の状況、特に仕事の聖化を通じて、信仰に百パーセント合致する生き方をするよう、あらゆるキリスト者を励ますこと』とされる。

 創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーは旧約聖書の一節を「人間は仕事のため創造された」と解釈した。前回(第9部 )でも申し上げたように、彼がユダヤ系スペイン人であったことに間違いはあるまい。マラノとしての蔑視を受けざるを得なかったうえに家族の生活苦を身に染みて感じていた彼が、伝統的なキリスト教の持つ、病的なまでに「罪」を追及しその唯一の救済として「十字架」を掲げるという絶対的ドグマに対して、強い違和感と不信感を覚えていたとしても何の不思議も無い。この世での人間の活動に最大の意義を見出すことは彼にとっては決して不自然なことではなかったはずである。彼は次のように語る。

 《われわれの超自然的生活は、労働に背を向けることによって確立できると考えている人は、真の召し出しを理解していないものである。われわれにとっては、労働は聖性追求の特別の手段であり、われわれの内的生活―――社会の中における観想生活―――は、われわれ各人の外的な労働の生活のなかに、その源泉と推進力がある。》

 2代目の教団代表者アルバロ・デ・ポルティーリョも次のように語る。

 《エスクリバー・デ・バラゲル師は、人間の仕事とは聖化される現実、聖化すべき現実、聖化する力をもった現実であると、常に繰り返してきました。「オプス・デイ創立当初から絶えず教えてきたことですが、キリスト者は知的労働であれ肉体労働であれ、すべてのまっとうな仕事をできるだけ完全にやり遂げなければなりません。・・・・。こうして仕事は恩寵のレベルに高められ、聖化され、神のみわざ、神の御働きとなるのです」。》

 カトリック教会の中でもドミニコ会のように聖性追及の中で働くことを重視した教団もあったし、他の教団が「働くこと」を無視しているわけではなかろう。しかしオプス・デイはこれを『聖性追求の特別の手段』『聖化される現実、聖化すべき現実、聖化する力をもった現実』とまで断じる。まるで十字架上のイエスの代りに「仕事」がやって来たような雰囲気である。

 もちろんこのような労働観を軽々しくマックス・ウェーバー流に解釈してはなるまいが、必然的に次のような事態となろう。米国マイアミで発行されるヌエボ・ヘラルド紙の2002年11月11日の記事で、ヘラルド・レイェスは次のように報告する。

 《コロンビアのオプス・デイ会員であるセサル・マウリシオ・ベラスケスは、世界中にオプス・デイが急速に広まったことに関して「実を言うとオプス・デイは今の時代にあっているのです」と説明した。「なぜかというと現代の人間は実際に大きな虚しさを感じており、[オプス・デイを通して]自分の存在感を与えられることによりそれが癒されるのです。」ボゴタにあるサバナ大学新聞学部長であるベラスケスはこう主張した。エスクリバーの哲学によると、人間は日常生活のすべての活動に聖化の道を求めなければならない。 「ある人はウォール・ストリートでの仕事を聖なるものにすることができます。」ベラスケスはこのように付け加えた。》

 オプス・デイの会員の多くが欧州と南北米大陸の中〜上流階級の有能な人士に集中している理由もうなずける。彼らは神による祝福を身いっぱいに浴びながら、ウォール・ストリートでラテン・アメリカやアフリカの経済を破壊する仕事でも、大規模国際企業の重役室で中南米の貧乏人からなけなしの富を絞り上げて大富豪をますます肥え太らす画策をしていても、テレビ局でプロパガンダを撒き散らしてクーデターを後押ししても、それを完璧に行うことによって、『自らを聖なるものとして完成させている』のだ!

 「自分は神聖なことを行っている」という確信は人間のエネルギーを数倍にさせるものだろう。この「宗産複合体」は、南北アメリカでネオ・リベラル経済を推し進め中南米経済を次々と破綻に追いやった勢力の重要な一端を担っている。この教団が「聖なるマフィア」と呼ばれるゆえんである。

[「良心と信教の自由」]

 「仕事の聖化」の他に、オプス・デイの非常に大きな特徴として「多様性の受容」、特に「他宗派、他宗教の受容」が挙げられるであろう。第2バチカン公会議よりもはるかに以前から、エスクリバー・デ・バラゲーは他の宗派や宗教との融合を目指していたのである。彼は次のように語った。

 《私はヨハネ23世聖下のまことに優しく父のような魅力に触れてこのように申し上げました。「教皇様、オプス・デイではカトリックであろうがなかろうが、常にすべての人のために場所があります。私は教皇様からエキュメニズムを学んだのではありません」。教皇様は感動して微笑んでおいででした。すでに1950年に聖座はオプス・デイがカトリックでない人やキリスト者でない人々を協力者として受け入れることを認めたのをご存じだったからです。》

 ヨハネス23世は、カトリックにフランス革命の理想を移植するシヨン運動に心酔し、同時にシオニズムとイスラエル建国を積極的に支援した人物である。この二人にとって、「十字架のドグマ」に固執し他の宗派や宗教を頑として受け入れようとしない「伝統的カトリック」こそが『共通の敵』だったのである。

 教団のHPによると、2006年現在、オプス・デイには世界80カ国におよそ8万4千人の会員がおり男女はおよそ同数である。会員の中に階級は存在しないがいくつかの集団に分かれている。会員の70%が「スーパー・ヌメラリー」と呼ばれる信徒で、仕事と家庭を持ち通常の社会生活を送る。また仕事を持ってはいるが独身生活を守る「アソシエイト」、そして教団維持と運営の専門の作業を行う「ヌメラリー」という人々がいる。その「アソシエイト」と「ヌメラリー」の一部が僧職(司祭)を務め、現在およそ1800名と言われている。この教団は基本的に世俗集団である。

 そしてこの教団の大きな特徴として「協力者」と呼ばれる人々がいる。『オプス・デイには属していないけれどもその活動に賛同し、属人区の信者と共に教育や福祉、文化的社会的事業を実現するために援助の手を差し伸べる人々』とされ、カトリック以外の宗派、非キリスト教徒、中には無宗教の人もいる、ということである。このようにこの教団は非常に柔軟な広がりを持っているのだが、こういった性格上、「協力者」の人数や構成員は厳密には突き止めようがない。

 たとえばスペイン前首相のアスナール夫妻は「正式な会員ではないが熱心なシンパ」つまりこの「協力者」に属している。フランスのベルナデット・シラク大統領夫人も同様であるとされ、イタリアのベルルスコーニ前首相も「極めて親しい筋」と言われる。シェリー・ブレアー英国首相夫人にもこの教団に「近い筋」という評判が高い。ただどこまでが「協力者」なのかは、外部からは判断が非常に困難である。教団の思想や方針に対して実際にとる言動、会員と判明している人々との人的・経済的・政治的なつながりなどによって見分けるしかない。

 それはともかく、オプス・デイの活動が他の宗派から他宗教の信者、無宗教者、無神論者までをも柔軟な形で巻き込むものである点は非常に重要だ。それは、「原罪と十字架のドグマ」をほとんど感じないほどに水で薄め「仕事を通しての聖性追及」という特に仕事に生きがいを感じる現代の中産階級に幅広く受け入れられやすい指針を打ち出したことのほかに、もう一つの大きな教義上の柱によって可能となる。それが「良心と信教の自由」である。

 これが第2バチカン公会議における最大のテーマの一つであったことは言うまでもないが、単に「社会の実情にあわせたカトリックの修正」という以上に、「宗教そのものの新たな枠組み」を目指すものであったはずだ。

 伝統的なカトリックでは「神の前の平等」は要するに「等しく原罪を背負っている」ということであり、「十字架上のキリスト」の意味を認めない「良心」などは存在しなかったのである。ここから離れた「良心」を認めるとすれば、必然的に「原罪と十字架のドグマ」を目に見えない場所に追いやる以外に無い。そしてこの点は、唯物論的感覚と現世主義、自由と平等を自明の理として受け入れている現代の西側世界の人間にとっては、非常に受け入れやすいことであるに違いない。

 ここに第2バチカン公会議とオプス・デイの「革命性」があるのだろう。私が映画「ダ・ヴィンチ・コード」を『基本的にこの教団の思想を傷つけるものではなかった』と考えるのは以上に述べたことからである。今さら「十字架上の死」を否定されても、この教団にとってほとんど何の意味も無いのだ。

 逆に、オプス・デイ自身が言うように、今までこの教団に関心を持たなかった人々が彼らのHPを訪れて「カトリックにこんな斬新な教団があったのか」と驚く人が増えるならば、彼らとしてはまさに笑いが止まるまい。

[この道はどこにたどり着くのか?:第10部のまとめと次回予告]

 オプス・デイを、その政治的な人脈や性道徳などでの「保守性」をもとにして『保守的カトリック』と呼ぶとすれば、それは根本的な誤りである。彼らは保守的どころか本質的な意味で「革命的」なのだ。それ以前のカトリックから見るともはやキリスト教と呼べるものですらあるまい。事実、伝統固執派のカトリック信徒はこの教団をそのように見ているようである。

 だとすれば、オプス・デイは何に向かって進んでいるのだろうか。その会員にとって聖書と並び、あるいはそれ以上に読まれているのがエスクリバーの「道(スペイン語原題El Camino)」である。この道はどこにたどり着くというのか。

 このシリーズでは、今までずっとこの教団の過去から現在までの姿を追ってきた。次回はその未来の姿を予想してみたい。それが世界全体の未来と危機的に深く関わっていると考えるからである。
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