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第9部:十字架とダビデの星(下)    (2006年3月)
《注記:以下で単に「ユダヤ」と書いているものは英語でいえばJewryであり、ユダヤ人一般を指すものではない。これについてはイズラエル・シャミールによるこちらの文章を参照のこと。》

[ユダヤ人教皇ヨハネ・パウロ2世]

 2005年4月、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が死去したすぐあとのことだが、英国の新聞メトロ紙が次のような内容の記事を掲載した。

 《英国マンチェスター在住の正統派ユダヤ歴史・哲学研究家ヤアコヴ・ワイズの研究によると、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(カロル・ヴォイティーワ)の母親、祖母、曾祖母がすべてユダヤ系であった。》

 ヴォイティーワがユダヤ系であることは以前から一部で指摘されていたことだが、生前にこれを語ることはタブーだった。しかし彼の極めて強い親ユダヤ性はいやでも人目を引かざるを得なかったのである。

 カロル・ジョゼフ・ヴォイティーワは1920年5月18日に南部ポーランドのヴァドヴィツェで生まれた。この町は第2次世界大戦の前には多くのユダヤ人が住んでおり、彼はそこでユダヤ人社会との極めて強い接触を持っていたようである。ネット百科辞典ウイキペディアはカロル少年がヴァドヴィツェのユダヤ人の子供たちと共にサッカーを楽しんでいた、という逸話を紹介している。

 バチカンの情報誌Znet.orgは彼が死亡するやや前の2005年1月に次のような話を掲載した。あるポーランド人の夫婦がユダヤ人の幼い男の子を預かった。彼の両親はナチによって連行され二度と戻ってこなかった。夫婦はナチを恐れその子供にカトリックの洗礼を受けさせようとしてクラコウの教会に行ったが、若い神父は洗礼を拒否した。子供の『ユダヤ人としてのアイデンティティを尊重するがゆえに』である。その子供は無事に成人となり後に米国に渡った。そしてヨハネ・パウロ2世が就任した年に、育ての親からその神父がカロル・ヴォイティーワであることを聞かされたのだ。

 欧州のユダヤ人社会の中でこの教皇に対する信頼は圧倒的だった。彼は幼友達のユダヤ人であるジャーズィ・クルガーの多大の影響を受けながらイスラエルとユダヤ教に関するバチカンの政策を決めていた、といわれる。

 この教皇は倫理や政治姿勢の面では極めて保守的であったが、宗教面では次々とカトリックの伝統を打ち破った。ユダヤ教とイスラム教に対して「同一の神をあがめる宗教」でありイエス・キリストに対する忠誠無しでも「救済される」としたのだ。先ほどのユダヤ人少年に関する逸話がヴォイティーワの死の前にバチカンの雑誌に載ったことは意味深長である。一方で彼のバチカンは、カトリックの教義をヒンズー教徒や仏教徒にも理解出来るように再構築しようとしたスリランカのベラスリヤ神父を、キリストによる救いなどの根本的な教義を否定するとして破門に処した。これに直接に手を下したのが教理省長官ジョセフ・ラツィンガー(現教皇ベネディクト16世)である。

 ユダヤ教に関しては前任者のパウロ6世も同様の姿勢を打ち出してはいたが、ヨハネ・パウロ2世のユダヤに対する偏向は際立った。2000年3月に彼はカトリックの「過去の過ち」を認め神に許しを乞うミサを行ったが、これが主要にユダヤ人に対する偏見とその結果起こったとされる「ホロコースト」に対してであるのは言うまでも無い。ユダヤ人である彼が「カトリックを代表してユダヤに謝罪した」のだ。

 1978年にこの全く無名だった男が「ミスター冷戦」となるべく教皇位に就いた裏に、極めて親ユダヤ的なオーストリアの枢機卿フランツ・ケーニッヒがいたことは前回(第8部 )でも触れた。そしてそこに米国支配層の意思と同時にユダヤ組織の介入があった可能性は否めない。偶然かもしれないがその前年にイスラエルで、リクード党首で元イルグン・テロリストのメナヘム・ベギンが首相となっている。

[オプス・デイ創始者のユダヤ起源]

 カロル・ヴォイティーワがオプス・デイの創始者ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲーに心酔していたことは有名である。彼は教皇に選出される直前、その3年前に死亡したエスクリバーの墓の前に跪いて懸命に祈っていた。ヨハネ・パウロ2世は教皇就任後に、オプス・デイを「属人区」という特別な地位でバチカンの正式な機関とし、1992年にはその死後わずか17年でエスクリバーを福者に、その10年後の2002年には聖人へと、異常なスピードで「出世」させた。サン・ピエトロ寺院の脇には彼の巨大な彫像 すら飾られている。あの第2バチカン公会議最大の功労者であるアンジェロ・ロンカッリ(ヨハネス23世)は未だに聖人ではないのだ。

 そして、当然のごとくというべきか、このエスクリバーには「ユダヤ人説」がある

 彼のフル・ネームはJosemaría Escrivá de Balaguer y Albásなのだが、しかし彼が生まれたときの名前はJosé María Escriba y Albásであった。最後のAlbásは母親方の姓であるが真ん中のEscriba(エスクリーバ)は父親の姓だ。これを後にEscrivá(エスクリバー)と改名したわけなのだが、実はこのescribaというスペイン語はユダヤ教の『律法学士』を指すものである。

 スペイン人の姓の中には明らかにユダヤ起源を伝えるものがいくつかある。その代表的なものがフランコであり、あの独裁者フランシス・フランコはユダヤ系と見なされているのだ。フランコは生真面目な堅物だったのだが、結婚後に熱心なカトリック信徒である夫人の影響を受けるまでは決してミサに行かなかったといわれる。同様にキューバの首相カストロの姓もユダヤ系に多いようである。

 エスクリバーは1902年にスペイン北部のバルバストロという田舎町で生まれたが、そこには改宗ユダヤ人、スペイン語でマラノあるいはコンベルソと呼ばれる人々の子孫が多く住んでいた。スペインには1492年のカトリックによる統一の以前には数多くのセファラディ・ユダヤ人がいた。その過半数はカトリック教徒によって追放されたが一部は改宗してそのままスペインに残った。そして彼らの中には「隠れユダヤ教徒」として秘密裏にその信仰を守り続けた者もいた。

 彼が父方の姓を変えてまでその出自を隠そうとしたのはなぜか。「マラノの子孫」であることにひけ目を感じていたのか、あるいは修道院に入るのにキリストから嫌われた「律法学士」の名では不都合だと考えたのか、そのへんはわからない。ただ当時はユダヤ人に対する「キリスト殺し」の汚名と偏見がカトリック社会の中で強く根付いており、それが彼に有形無形の圧力をかけていたことは想像に難くない。

 1928年にオプス・デイを作りカトリック僧として左翼思想を敵視していたエスクリバーはスペイン内戦中にフランコと出会うのだが、フランコとオプス・デイの関係は単にお互いの利用以上のものがあったであろう。

 そして、内戦終結のわずか4年後の1943年に、オプス・デイの幹部であったラファエル・カルボ・セレルが、おそらくスペイン王政復古の画策を開始するために、スイスに亡命中のスペイン王家・ブルボン家の後継者ドン・フアンと会見している。このようなコンタクトは、欧州の「雲の上」を通して物事を動かすことの出来る巨大な力が介在しない限り、実現できるようなものではありえない。

 さらには1942年からローマへの本部移転の下準備を始め4年後の46年にエスクリバーはローマに移ったのだが、その後わずかの間に、フランスのロベール・シューマンやエドゥモン・ジスカールデスタン、イタリアのアルチデ・デ・ガスペリといった政界の大物を取り込んでいるのだ。この集団は単なる新興教団ではない。

 20世紀の前半にシオニズムとバチカンの両方に深く関わりどちらをも支えてきた要素として英仏のロスチャイルド家がある。そして後半では米国の姿が大きく浮び上がるが、彼らは同時にナチス・ドイツをも誕生させ育てた。当然だが、そのどちらにも世界の支配階層となったユダヤのマモン崇拝者たちの姿を見ることができる。
《米国とナチス・ドイツとの関係については、「イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム」の「第7部 ナチス・ドイツを育てた米国人たち」を参照のこと。

 十字架と六芒星が重なってくる。ニューヨークにあるオプス・デイ米国本部にはカトリックに付き物の聖人像や聖画は無く十字架すらほとんど目に付かない。ここに七支の燭台があればそのままシナゴーグに代ってしまうのかもしれない。『律法学士』たるエスクリバーの背後にユダヤ支配者の影が濃く映る。ヴォイティーワとエスクリバーは最初から共通の基盤の上に立っていたのだ。

[世俗的メシア主義]

 オプス・デイの教義内容に関しては次号で詳しくご説明したいが、この教団が第2バチカン公会議の「申し子」として勢力を伸ばしてきたことは今までにも申し上げた。そしてその公会議に多大な影響を与えたものが三つあることもお話してきた。一つは米合衆国憲法、二つ目はシヨン運動(フランス革命の思想)、そしてユダヤ(シオニズム)である。この三つに思想上の共通点があるとすれば、おそらく「現世主義」「世俗的メシア主義」とでもいうべきものだろう。

 以前のカトリックの特徴であった現世否定的な姿勢はこの公会議を境にほとんど消えて無くなった。旧来なら、キリストの再臨を待たない理想世界の建設は「地上の王国」の理想化であり反キリスト的な発想として糾弾されるべきものであったのが、この公会議を境に180度の変化を受けた。

 オプス・デイは、イエズス会やフランシスコ会などのような僧侶中心の組織ではなく、基本的に世俗組織である。社会のピラミッドで中〜上層部を構成する実業家、知識人、法律家や政治家、エリート軍人などがその能力を最大限に発揮できるように、その教義が組まれている、と考えたらよい。

 それは一見すると、「貧民救済」の発想をイデオロギー化させたイエズス会系の「解放の神学」とは逆のように見えるが、「世俗的メシア主義」という点では全く一致している。この二つは第2公会議で生まれた『双子の兄弟』、鏡像の関係にあるものと言って構わないであろう。

 面白いことに、カトリックの変化よりも先にユダヤ教の内部で類似の大変化が起きていたのである。神が遣わすメシアの登場を待たずにパレスチナの地に戻ろうとするシオニズムの台頭である。現在でも少数派ではあるがシオニズムに頑強に反対する旧来のユダヤ教徒たちがいる。そしてそのシオニズム運動とマルク・サンニエのシヨン運動はともに19世紀後半のほぼ同時期に誕生した。
《注記:トーラーを聖典を仰ぐ正統派のユダヤ教徒たちは、神から遣わされたメシアによらずにパレスチナの地に戻ることをユダヤ教に対する冒とくであるとして、シオニズムとイスラエルを厳しく批判している。》

 さらにオプス・デイが一貫して敵視してきたマルクス主義にしても、ある種の「世俗的メシア主義」と言って差し支えないだろう。これもまた19世紀後半から主に左翼ユダヤ人たちによって急激に広められたものなのだ。もっと言えばヒトラーやムッソリーニのファシズム思想すら同様に考えることもできよう。

 そして今までに述べたどの側からも希求されるものは、それぞれにニュアンスや使用する論理は異なっていても、人間の手と意思による「理想社会」「地上の楽園」の実現であり、これらの動きの全てがそれを理論化し合理化しようとしている。そしてその果てにあるものは何であろうか。

[エルサレムへ]

 2003年7月に、イスラエルの元首相で労働党首シモン・ペレスは、エルサレムを国連の主導の元に象徴的な「世界の首都」とし国連事務総長に「市長」となるように提案した。ユダヤ人とイスラム教徒の係争地であるエルサレムを「国際化」することによってパレスチナ問題を解決しよう、というのである。ただイスラエルは従来から、バチカン主導によるエルサレムの「国際化」には一貫して反対している。

 しかし2006年になってイスラエルのアシュケナージ・チーフ・ラビであるヨナ・メツガーはチベット仏教のダライ・ラマに対して、世界の宗教家の代表による「宗教の国連」をエルサレムに設立することを提案した。ダライ・ラマは即座に歓迎の意を表したのだが、この場にはイスラム聖職者、およびローマ教会と非常に親しい米国ユダヤ人協会のラビ・デイヴィッド・ロウゼンも同席していたのである。

 ヨハネ・パウロ2世の死を受けた2005年4月のコンクラーベでベネディクト16世(ジョセフ・ラツィンガー)が選出された際に、世界各国の反応の中で米国ブッシュ政権とイスラエルの手放しの喜びようが印象的だった。ラツィンガーは長年ヴォイティーワの元で教理省長官を務め、実質的なバチカンのナンバー2であった。当然オプス・デイとは強い関係で結ばれている。彼の選出を決めたのはオプス・デイの全面協力であった。彼らはアルゼンチンのホルヘ・ベルゴリョなどの有力なライバルから支持者を引き離すべく、中南米の枢機卿を中心に猛烈な根回しを行ったのだ。
《注記:ラツィンガーが生きたまま教皇を辞めた後に教皇フランシスコとなったのがこのホルヘ・ベルゴリョである。しかしラツィンガーは「名誉教皇」としてバチカンに居座っている。これはバチカン内の激しい権力闘争を現しているのだろう。》

 ベネディクト16世も極めて親ユダヤであり、イスラエルに反感を表明するイスラム教徒たちに対しては厳しい姿勢をとり続けている。そして彼の懐刀でカトリック・シオニストのクリストフ・シェンボーンは、このコンクラーベの直前に、欧州のキリスト教徒のイスラエル支持はホロコーストへの罪悪感に基づくものではなく、シオニズムが「ユダヤ人に対する聖書の命令」だからである、と語った。

 ここでシヨン運動と対立したシャルル・モラスが20世紀初頭にマルク・サンニエに宛てた手紙の一部を引用しよう。(聖ピオ10世司祭兄弟会の翻訳による)

 《あなたはフランス語でのミサや晩課と、ローマの権威から完全に離れた聖職者を、希望していますね。そうなったら必ず残念に思うでしょう。『ローマ』が廃止されるならば、このローマとともに聖伝の一致と力が失われるでしょう。カトリック信仰に関する書き物の記念碑(聖書を指す)は、ローマから外れた宗教的影響を受けることになるでしょう。直接にテキストを、特に書簡を読むでしょうが、もしローマが説明しなければ、ユダヤ的であるこの書簡はユダヤのようにふるまうでしょう。(・・・・)ローマから離れることによって、私たちの聖職者はますますイギリス、ドイツ、スイス、ロシア、ギリシアの聖職者たちのように変わっていくでしょう。彼らは司祭から「牧師」「福音の僕」になり、ますますラビニスムに近づき、少しずつエルサレムへとあなたを導いてしまうでしょう。》

 文中の『ユダヤ的であるこの書簡』はおそらく新約聖書中の預言書ヨハネの黙示録を指すと思われる。これが『ユダヤのようにふるまう』というのは「世俗的(現世的)メシア主義で解釈する」という意味に他ならない。モラスはこの運動が持つ方向性を実に正確に見抜いていた。そしてこの流れがシオニズムと共同で第2バチカン公会議を生み、オプス・デイの台頭を導くと同時に現在のシオニスト主導のバチカンにつながる。

 すでに『ローマ』は廃止されつつありカトリックは着実にエルサレムへと導かれてきている。そして今、世界中の宗教、思想、道徳がこの都市に招かれようとしている。

[世界統一宗教?:第9部のまとめと次回予告]

 教皇ピオ10世(1903〜14)は、シヨン運動を禁止するために1910年に書いた回勅の中で、この運動が「世界統一宗教」に進む方向性を敏感に感じ取り、次のような見事な予言的警告を発している。(聖ピオ10世司祭兄弟会の翻訳による)

 《そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が成り立っていけるならば)合法化された狡知と力の支配ならびに弱者および労苦するものらへの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。》

 ピオ10世はシヨン運動に隠された「反キリスト」的性格を見抜いた。『自由と人間の尊厳の名のもとに合法化された狡知と力の支配』はネオコン主義そのままであろう。そのような世界が『世界統一宗教』とともにやってくる、というのである。そしてそれは現在、半ば達成されているように思える。その中心にあるのがエルサレムなのだ。

 次回はオプス・デイの教義内容に迫り、現代世界においてそれがいかなる方向性の持つものかを分析してみたい。
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