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【9・11事件の際立った特徴】

 虚構は事実を破壊し事実を隠したうえで始めて成立しうる。しかし真実は自ら成り立つものである。

 それは決して感情や言葉や思想によってではなく、脅迫や勧誘によってでもなく、あくまで事実のうえに事実そのものが持つ必然性によって自ら成り立つものだ。したがって、我々がある物事について真実を追究しようとする場合、個性に溢れたアイデアや信念を披露しながら議論する以前に、我々がどれほどの量の事実を知りうるのかが、最も根本的な問題だろう。我々に必要なものは、「優れた論」の以前に間違いのない事実である。いかなる優れた「論」も、それとは相容れない事実の前には全ての力を失うことだろう。この点で、2001年9月11日に米国東部で起きた9・11事件は並外れた特徴を持つ。

 だが「事実」とはなにか。何をもって「事実」であると認められるのか。様々な人が様々な「事実」を語る。しかし立場の異なる人々からたちまち「それは事実ではない」という反論が現れて、「事実であるのか否か」それ自体に大きな疑問符がつくことになる。

 しかし物理的な事実、つまり、具体的に観察できる物体や運動について、個数、大きさ、距離、時間などの測定が有意義な範囲の正確さで可能なもの、そしてそれを科学的な方法で分析して知りえた物理的・化学的な特性など、全く立場の異なる複数の人々が測定と分析を行っても同じ結果の出るものがあるなら、それは誰にとっても事実として認めることができるだろう。もちろんそれは実験や観察を通して、正確な科学的知識と技術さえあれば、いつでも誰にでも、検証と再検証が可能でなければならない。もしそのようなものがあるのなら、たとえその原因やそれが持つ意味などについて異なる見方ができるにせよ、我々はまず他の何よりも優先してそれを事実として受け入れるべきだろう。

 したがって、我々がある事件の事実を知る上で重要なものは、第1に事件現場に残された物的証拠とその分析結果である。次に、事件を正確に記録するビデオや写真などの客観的記録とその分析結果である。そのような物理的事実がその事件についてのあらゆる判断のベースとなるべきである。その他の「目撃者証言」や「文書記録」「報告」などのデータは、いかに権威付けられたものであっても、いったん人間の感覚や思考や解釈を経たものであり、常に誤りや誇張や偏りを含みうる。したがってそれらの中で物理的事実によって明らかに裏付けられるものにみが事実として認められるだろう。他の事柄はあくまで「参考」としておき、新たな事実が発見できた際に検討すべきものであろう。

 ところで、1898年の米西戦争のきっかけとなったメイン号事件、1963年のケネディ暗殺事件など、歴史上のいくつかの事件と戦争理由にされてきたことが、いまだに疑惑の対象となっている。21世紀に入っても、2004年のマドリッド列車爆破テロ事件(3・11事件)や2005年のロンドン地下鉄・バス爆破テロ事件(7・7事件)など、多くの疑問に包まれる事件が起こっている。しかしそれらのほとんどで物的証拠が残されず、意図的に破壊されすらした。また写真やビデオなどの客観的資料も極めて限られる。したがってそれらの事件を知ろうとすれば、その多くの部分で、物理的事実抜きの「目撃者証言」「文書記録」「報告」などのデータに頼らざるを得ない。

 それは明らかな特徴を描くピースがほとんど失われたジグソーパズルのようなものである。それぞれの事件の公式な説明にしても俗に言う陰謀説にしても、それぞれの説の「結論」にとって都合の良い「ピース」を都合よく配置し、残りの部分を想像や理屈で補って全体像を語るような、「始めに結論ありき」の作業しかできないのだ。しかもその「ピース」自体の信憑性が一つ一つ問題にされ、永久に終わることの無い「千日手」の議論だけが残される。そして結局は政治的な権力を持つ側の「結論」が主要なメディアによって宣伝され、その信奉者が社会の多数派を形作ることになっている。

 残念なことに9・11事件でも歴史上かつて無かったほどの規模で物的証拠が破壊・隠匿された。しかし同時に、9・11事件ほど大量のビデオや写真という客観的な記録が世界中の人々に自由に共有されうる形で残されているものは、過去に存在せず、おそらく未来にもありえないだろう。具体的には、ニューヨークWTC(世界貿易センター)にあった第2ビル(南タワー)、第1ビル(北タワー)そして第7ビルの、3つの高層ビルの「崩壊」である。それぞれ「崩壊」の開始直前から終了後までの数分間、多くの角度から異なる人の手によって様々な映像資料が作られており、そこに記録される現象は誰にとっても見間違えることの無い物理的事実である。それらのビデオや写真だけで事件の全体像を語ることはできないにせよ、その最も中心的な部分に極めて信頼性の高い「ピース」が固まって大量に存在し、明確な実像を作り出しているのだ。そしてその実像は、公式に語られるこの事件の全体像とは全く食い違う姿を見せる。これがこの9・11事件の最も際立った特徴である。

 したがって同時にその特徴は、この事件の公式な「論」を語る人々の態度をも際立たせている。その人々がWTCビル群の「崩壊」に触れる際には、常にそれらの物理的事実から目を背け、それらの崩壊開始から終了にいたる十数秒間で起こったことについて、いくつかの当て推量の仮説を立てるのみであり、それを科学的な実験や客観的な記録を用いて検証し裏付けるという作業は、ついに誰一人、いっさい行ってこなかった。そのうえでその人たちは単なる憶測に過ぎないものを「疑いを許さぬ結論」として断定するのである。そして世界の主要なメディアと言論界と学会の者たちがその「結論」を、物理的事実があるにもかかわらず、その裏づけを抜きにして「正しい論」として宣伝してきた。この点もまた9・11事件の際立った特徴であろう。

 物理的・客観的な事実があり、「論」がそれらの事実と食い違い「論」が通用しなくなる場合に、それでも「論」を押し通そうというのなら、それは必ず、事実の破壊と隠ぺいと捏造、事実を伝えようとする者へのフレームアップによるパージを伴うものとなるだろう。そして、9・11事件以外のものでは残念な事にその「論」をひっくり返すことが可能なほどの客観的事実をそろえることができない。しかしこの事件、特にWTCツインタワーと第7ビルの崩壊では、もはやいかなる権力を用いても覆い隠すことの不可能なほどの大量の客観的事実の記録が残されている。したがって、この事件では「論」に対して新しい「論」などぶつける必要は無い。ひたすら溢れかえるほどにある事実を前面に出せばよい。そしてその作業だけが、いままで歴史上に起こった様々な「疑惑」の中で唯一、その正体を暴くことの出きる可能性を引き出すことができるのである。


『9・11事件12周年を前に 2000人を突破!: 再調査を求める建築・工学の専門家』へリンク

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